子猫とワルツ



『なーに泣いてんだァ? チビスケ』
「! ひ…っ!?」
突然、座り込んでいた木の上から声が降ってきて、ジンはびくりと肩を揺らした。
涙に濡れていた大粒の碧眼を見開き、声の主を探すように木の枝を見上げる。思わず驚いてしまったが、もしかすると気のせいかもしれないと期待を抱きながら目を向けた。
しかし残念ながら、そこにははっきりと声の主が存在していた。普通では考えられないことだが、黒い服を纏った痩身の少年が高い枝の上に乗っかり、器用にしゃがみこんでこちらを見下ろしていたのだ。
『よォー』
「ッ!!」
街中で友人に会ったような気安い呼び掛けに、ジンはその場で凍り付いた。今日は麗らかな晴天のはずなのに、枝に乗るその少年の周りだけ少し暗く見える。
空気が澱んでいるような、そんなまがまがしさを纏った異様な少年は、枝葉の陰の中で金色に光る眼をこちらに向けていた。
『どーしたァー? 俺様が怖いかぁ?』
ニィッと薄い唇を吊り上げ、少年はわざとらしく首を傾げて見せる。動きといい、表情といい、とても普通の子供には見えないそれを、ジンは魔物か悪魔だと思った。
兄にもシスターにも構って貰えない自分を、とうとう地獄へ落としに来たのではないかと。
『ヒャハ! そんな怖がんないでくれよ~、悲しいじゃねぇか~』
涙も止めて凍り付くジンの様子に、言葉とは裏腹に満足げな笑みを浮かべた少年が、ひょいと枝から飛び降りた。猿が地面に降りるような身軽さで、ジンの前に降り立った少年だったが――、予想外にも足を滑らせてひっくり返ってしまった。
「…ぇ…っ!?」
『ぁ痛ててッ! やーっぱ、まだ早かったか』
青々とした草に足を取られたのだろう。着地に失敗した少年は何やらよく判らない文句をブツブツと言いながら、打ち付けたお尻をさすった。
怖い、と思ったその少年の意外な姿に、ジンは呆気に取られる。しかし、少年の手から血が滲んでいることに気付いて目を見開いた。非現実的な雰囲気に惑わされて夢か幻のように感じていたが、少年は見たままの、ただの少年に過ぎなかったのだ。
色の白い手に映える、赤い血が痛々しい。
「ケガ、してる……!」
『あァ?』
反射的に、ジンはハンカチを取り出して少年に近寄っていた。転んだりして血が出るのは良くないと、体の弱いサヤに構う兄がいつも言っていたのを思い出したのだ。
気の弱いジンが見知らぬ相手に近付いたのは、その頼れる兄の姿が目に焼き付いていたからだろう。少年の手を取ったジンの碧眼に、もう涙の気配はなかった。
泥を払い、草で切ったらしい赤い直線の傷を、ハンカチで柔らかく抑える。自分がする前に兄が殆ど応急処置をしていたので、ジンがやった経験はほぼ皆無に等しかったが、見る機会は多かったので間違った処置ではないだろう。
しかしそう思った矢先に、忘れていたことを思い出した。
「……あ!」
『ハ?』
「ちゃんと水で洗わないと、菌が入っちゃうんだ。あっちの川でハンカチ濡らしてくるから、ちょっと待ってて!」
『え…、おいッ』
急に沸き上がった使命感につき動かされ、ジンはハンカチを握り締めて駆け出した。弱い者、傷付いた者を放って置けない兄を見ているので、今は自分がしっかりせねばと、条件反射的にそう思ったのだ。
少年の制止の声も耳に入らず、いつも水汲みをする川へとジンは急いだ。



『……あーあ、行っちまった』
遠くへ走って行ってしまった小さい背をぼんやり見ながら、少年は呟いた。正直こんな展開は予想していなかっただけに、不思議な心地だ。
忌ま忌ましい封印が弱まり、表に出られるようになって、手頃な憑依先が決まったまでは良かった。まだ意思の弱かったハザマという少年を体ごと乗っ取るのは容易だったが、自分自身が久し振りの現実世界で体の動かし方に慣れていなかったのは迂闊だった。
しかしなんだ、あの少年のお人よし振りは。
魔女ナインの妹であるシスターがついていながら、この教会に住む子供は随分と平和ボケしているらしい。しかも、術式適性が高い少女からは片時も離れないくせに、それには劣るものの充分逸材である先程の少年は野放しだというのだから間抜けている。
このままさらって行ってもいいのか? クソババア。
緑の逆立った髪を揺らし、少年は子供らしからぬ顔でクックッと笑った。絶望に歪む女の顔が容易に想像できて、胸が踊る。
……いや、待て。どうせなら、もっと徹底的に地獄へ落としてやろう。
更に楽しいことを思い付いた少年は、先程の少年が川から戻ってくるまでの間、ひとしきり不気味な笑い声をあげていた。













そういえば、あれ以来なのか。ハザマはふと昔を思い出しながら、目の前の青年の顔を見ていた。
「わざわざ書類を届けてもらって申し訳ない。僕は第四魔道師団団長、ジン=キサラギという。貴殿は諜報部の……えっと」
「ハザマと申します。階級は大尉です。こちらこそ宜しくお願いしますね、キサラギ少佐」
言い澱んだ先を受け取って、帽子を取ったハザマは軽く頭を下げた。それを見たジン・キサラギは意外にも自ら椅子から立ち上がり、同じように軽く頭を下げてくる。
ああ、本当に久し振りな気がする。この青年の、こんな穏やかな表情を見たのは。
まだ幼かったジンが、自分と笑って話していたのはあの頃だけだった。傀儡にする為だけに足しげく通っていたのだが、ジンはそんなことに気付く様子もなく、楽しそうに話し掛けてきた。
誰にも構われない孤独に、陰で泣いていたことを隠しながら。
どうせ妹共々さらう予定だ、それならジンの無念や悲しみを復讐という形で晴らしてやろうと考え、ハザマは負の感情を増幅させて操り、あの日の惨劇を作り上げた。自分の目的もついでに果たせて、結果は満足だった。
しかしそれから、ジンはすっかり変わってしまった。拉致されたサヤが泣き叫んで暴れるのとは対照的に、ジンは無表情のままただ言われた通りに動くだけ。微笑みを浮かべることは、それ以後一切なくなってしまった。
用済みになってハザマに関する記憶を消してからキサラギ家に出したとはいえ、あのジンが無事に成長して今はここに立っている。その光景に――何故か、安堵してしまった。
彼の記憶の中に、あの日の出来事は鮮明に残っているはずだ。イカルガ内戦時も、あの日と同じようにハザマはジンの精神に触れて加担した。当時は不利だった統制機構を有利にする為、奇襲に出たジンに遠隔操作で力を与えたのだが、悉く彼の記憶は血塗られた記憶ばかりになってしまった。
それでも若くして出世を果たし、師団長として立っている。それが、ほんの少し感じていた息苦しさを取り除ぞいてくれたように思う。
……罪悪感? この俺が?
嘘も裏切りも当たり前、目的の為に手段も選ばないこのユウキ・テルミが?
しかし、畏怖も疑いも向けずに自分と話してくれた数少ない相手だったのは確かだ。ハザマとして振る舞う時の慇懃な態度ではなく、テルミとして勝手気ままなあの頃にちゃんと人として認めてくれた。そして裏切った後にも、責めようとしなかった少年。
元の人格であるハザマを取り込んでから、自分は人間臭さが出てしまったのかもしれない。奥底に湧くヌルい感情に、ハザマは内心で苦笑した。
事態によっては、ジンを再び駒にすることも十分に有り得るというのに。
「こちらが、過去に起こった統制機構支部連続襲撃事件の報告書です」
「有り難う。……ああ、そちらのソファに掛けて待っていてくれ、ハザマ大尉」
ハザマが封筒に入った報告書を差し出して言うと、ジンはさらりと金色の髪を揺らして、応接用のソファへ視線を向けた。てっきり帰れと言われるかと思っていたので少し驚くが、持ってきた報告書の特性を思い出す。この報告書は基本的に、持ち出し禁止の極秘文書なのだ。情報管理に携わる人間の監視下でのみ、閲覧可能となっている。
文書の内容は、随分前から定期的に起こっている統制機構支部の襲撃事件についての詳細だった。目撃者の情報によると襲撃者は一人の男で、白髪に赤い服、緑と赤のオッドアイということで現在捜索中である。その報告をまとめたものを、直接ジンから見せてほしいと諜報部に依頼があったので、ハザマが持って来たというわけだ。
しかし生憎、この書類に書かれていることは世間で知られている情報に毛が生えた程度のもの。ジンが求めるような事は書かれていない。真相は一部の人間しか知らないのだ。
あんな間抜けに出し抜かれて、研究材料が台無しにされたのは非常に業腹だが……と、すべてを知るハザマは胸中で思う。六英雄やアルカード家がいる限り、邪魔されるであろうことは想定内だったが、まさかあの時に切り捨てた術式適性の低い餓鬼が生きて現れるとは。
そして何か思うところあってか、ジンはその襲撃事件を気にしているようだった。だが生憎、犯人の名は記されていないので、それが生き別れの兄だとジンは気付くことが出来ない。容姿の特徴が、レイチェルの与えた蒼の魔道書により昔とは変わってしまっている為にジンの記憶とは符合しないだろう。
「どうぞ座ってくれ、と言ったはずだが……ハザマ大尉」
「! ああ、すみません。では遠慮なく、失礼致します」
物思いに耽って、反応が鈍くなってしまっていたようだ。怪訝そうにそう言われて、ハザマは謝りながらソファに腰掛けた。沈み込むような皮張りの感触に身を任せながらジンの方をちらりと見ると、ジンもまた椅子に座り直して封筒を開いていた。
中から取り出した書類を広げ、落とされた鋭い碧眼が左から右へと動く。
「……これだけなのか、報告書は」
「はい。何分、犯人がまだ捕まっていませんからねぇ」
ひらりと両手を広げて、肩を竦める。薄い報告書に一目で不審を抱いたのだろうが、真相を明かす訳にはいかないので、へらへらとした笑いを向けて誤魔化した。
事実、隠蔽はハザマ一人の仕業ではなく、統制機構の上層部が関わっている。過去いかんに関わらず、ジンの立場では知ってはいけない情報なのだ。
分かっていながら、あまりお役に立てませんでしたかぁー?と、ハザマは間延びした声で聞いてみたが、ジンは集中して報告書に目を走らせており聞いていない様子だった。
「……ふん。まあ大体分かった。報告書は返す」
「あれ? もういいんですか?」
「『綻び』は見つけた。あとは、自力で調べる」
サラリとそう言うと、ジンは書類を揃えて封筒に入れ直した。綻び……成る程、最初から歪められた報告書だとあたりをつけていたのだなと、ハザマは少しジンを嘗めていたことに気付く。どの辺りがぼやかされて書かれているか、ジンは瞬時に読み取ったようだった。
その鋭さに、ハザマは帽子の影でニタリと口角を上げた。自分の掌で踊る駒に過ぎないが、ただ馬鹿みたいに踊る奴よりは多少噛み付くくらいの活きの良さがなくては、やはり愉しめない。
報告書を返そうと封筒を持って近付いたジンに、ハザマも立ち上がった。
「すみませんねぇ、この事件に関しては報告書がそれしかないもんで」
「ああ、構わない。最初から期待はしていなかったからな」
「あらら、酷い」
にべもない言葉と共に、封筒を渡される。薄っぺらいそれを受け取り、小脇に抱えながらハザマは苦笑した。
わざわざこちらまで来てもらったのに申し訳なかったな、と謝りの言葉を入れて背を向けたジンを見つめ――ハザマは微かに糸のような眼を開き、釣り上がった金色の瞳を覗かせた。
「ねぇ、それなら私個人で調べてあげましょうか? キサラギ少佐」
「……!」
青いコートの背に近付き、ハザマは後ろからその細腰に手を回して囁いた。
行動が予想外だったらしく、腕に抱き込んだ痩身がぴくりと強張る。
「…っ、何をするッ!」
「私が調べた情報を、貴方に提供する。それを貴方が役立つ情報だと判断したら、報酬を支払う……なーんて、如何です?」
「何を、馬鹿な……!」
驚いて振り返ったジンに、息がかかる距離で囁いた。抱き寄せた体に覆いかぶさるように密着し、ハザマは肩越しにこちらを見上げる端正な顔に笑いかける。
「悪くない取引だと思いませんか? 聞いてから役に立つ情報だと判断するのは、貴方なんですから」
「だからこそ、怪しいんだろうッ。というか、なんで抱き着く……!? 顔が近い!」
ニコニコ営業スマイルのつもりだが、ジンは嫌で仕方がないらしい。先程までの冷静さを彼方へやって、ジンはこちらの腕から逃れようと身をよじった。
そんなに嫌がらなくてもいいだろう、ウロボロスで縛り上げるぞ、などと内心で悪態をつきながらハザマは渋々手を離した。報告書で片腕が塞がっていることもあるので、今日は強引に絡むのは止しておこう。
氷剣ユキアネサを出されて流血沙汰になる前に、ハザマは距離を取って軽く頭を下げた。
「では、ご検討のほど宜しくお願いしますねー」
「! 待て貴様ッ。検討も何も、僕は貴様なんかに一銭も払わないからな!」
執務室のドアノブに手を掛けるこちらを睨み、ジンは声を荒げる。しかし飛び掛かろうとはせず、距離を置いて警戒する様はまるで毛を逆立てた猫のようだ。
頬をうっすら染めて叫ぶジンが、思いの外可愛らしいなどと感想を抱き、ハザマはくすくすと笑った。
「お金なんていりませんよ。貴方の体、少し私の自由にさせていただければ…ね?」
「!! 帰れッッ」
わざと見せ付けるように、長い舌で下唇を舐めてみせると、ジンが珍しく激昂して、傍にあった万年筆を投げ付けてきた。半分以上冗談のつもりだったが、そう過剰反応されては面白いと思わざるを得ない。
飛んできた万年筆を難無く掴み取り、ハザマは笑いながら柔らかく投げ返した。
「そんなに怒らないでくださいよォ。じゃあ、また来ますねー」
「二度と来るなっ」
万年筆を受け取り、不機嫌をべったり貼り付けて叫ぶジンに、ハザマは笑いながら手を振って退出した。あんまりからかうと刀を持ち出しかねない。
戦闘が苦手なんですよ、などと周りには言っているハザマだが、気に入った相手はつい本気で殺しにかかる癖がある。虐めて嬲って辱めて、絶望に歪むその顔が好きなのだ。
ジンが剣を取って斬り掛かれば、自分もまた鎖で雁字絡めにして容赦なく縛り上げてしまうだろう。それくらいには、気になる存在だった。
扉を閉めても尚、壁一枚越しに憤慨が伝わって来る強烈な視線に、ハザマは思わず笑いが込み上げる。
「あー面白い。しばらく、退屈せずに済みそうですねぇ」
元々細い眼を更に細め、ハザマはこれからの愉しみに想いを馳せた。
劇のキャストが出揃う運命の日まで、時間潰しに子猫とワルツでも踊ろうか――。


END



土台固めをしてみました。一応ハザジン。
ノエル配属前にハザマが接触している、という設定にしました。というか、テルミはイカルガ内戦の時点でジンに接触してる気がするんですけど……。確定じゃないのに入れました、信じないでください。
とりあえず、今後はハザマが事あるごとに執務室に乱入するようになります(笑)