3mの距離





「しょーさ♪」
「!」
廊下を歩いていたら、いきなり背後からベッタリと抱き付かれた。
気配もない、予告もない、承諾もない。突然の襲撃にジンの心臓が跳ね上がる。危うく抱えていたものを投げ出しそうになった。
顔をしかめ、ジンは肩越しにギロリと後ろを睨んだ。勝手に人の肩口に顎を載せて、予想通りの顔がへらりと笑っている。
今は特に笑っているせいだろうか、こんなに間近で見ても、ハザマの瞳は微かに覗く程度だった。ちゃんと見えているのだろうかと不思議に思うくらい、細い眼だ。
「何か用か、大尉」
遠慮もなく腰に回されている腕に口を歪ませながら、ジンは不機嫌もあらわに冷めた口調で聞いた。だがこちらの意思などまるで介さず、ハザマは縫いぐるみでも抱くようにジンを抱きしめたまま、いつもの誘い文句を言ってきた。
「お昼、一緒に食べに行きましょうよ」
「悪いが他を当たれ。用事がある」
「えー、そんなの後でもいいじゃないですかぁ。美味しい飲茶が食べれる店、見つけてきたんですよ。行きましょ~?」
「貴様の紹介なら、尚更行かん。持ち場へ戻れ、ハザマ大尉」
しな垂れ掛かるようにして言うハザマに、ジンはきっぱりと断りを入れる。ここで流されると、後々面倒なことになるのは既に学習済みだ。
先日の屈辱的な仕打ちから、ハザマは更にジンへと図々しく迫り始め、お茶をいれてあげたとか書類を持ってきたとか、小さいことでも見返りを求めてくるようになった。流石にふざけるようなボディタッチばかりだが、昨日は無理矢理キスされていたところを部下に見られそうになり、かなり焦った。
とにかく、この男に貸しを作るのは危険だとジンは判断した。故に、断固として誘いには拒否する。
置いていったスーツ、ポケット全部縫い付けて返してやれば良かった……。そんなことを思いながら、ジンはにこにこ笑うハザマに冷めた眼を向けた。
「とにかく、今は手が離せない。諦めて帰れ」
「嫌ですよォ~。またしばらく仕事で駆り出されそうですし、今のうちに行っておかないと……、っくしゅ!」
「?」
話している最中で、いきなりくしゃみをしたハザマに、ジンは怪訝な表情を浮かべる。咄嗟に顔を背けたようで直接こちらにかけられずに済んだが、ハザマがくしゃみをしているという構図が何故だか不思議に思えた。
「……どうした?」
「いえ……すみません、失礼しました。おかしいですね、鼻がムズムズして――」
にゃー。
ハザマが首を傾げてそう言った瞬間、ジンの手元から小さい鳴き声があがる。そう言えば、腕の中の存在をすっかり忘れていた。
只今ジンの両手を占拠しているのは、小さい白猫と餌缶。
力づくでハザマを振り払えなかったのはこれのせいだったのだが、存在を主張するように声をあげるそれを覗き見たハザマが、ピタリと動きを止めた。
「……猫……?」
抑揚もなく呟かれた言葉に違和感を覚えて、ジンはハザマを見る。すると、いつも笑顔でしか構成されていないハザマの顔が無表情になっていて、かなり驚いた。
相変わらずの糸目なのだが、まるで表情が抜け落ちようなそれ。口元が真一文字なせいだろうか。目元だけが笑っていて、他のパーツが何一つ笑ってない。
ある意味、器用とも言えるそんな顔をしたハザマに、ジンは首を傾げた。
「今朝方、本舎の敷地内に迷いこんだ猫だ。何か心当たりでもあるのか、大尉」
「……いえ、ありませんけれど」
飼い主を知っているのだろうかと思って尋ねるが、ハザマは眉間に皺を寄せて否定した。
そして妙なことに、腰に回っていたハザマの腕がするすると離れていく。ジンとしては有り難いが、いつも実力行使に出なければ引き剥がせないそれが、自ずと離れていく理由がよく分からなかった。
不審な眼差しを向けるジンに、ハザマは微かに強張った笑みを浮かべる。
「何故、少佐がそんな迷い猫を……?」
「日直の僕が、第一発見者だった。それだけだ。……引き取り手が出てくればいいんだが」
「あ、じゃあずっとそれがいるってわけじゃぁないんですね。それなら良かっ……くしゅッ!」
また、ハザマがくしゃみをした。
さっきのくしゃみが偶然だとしても、流石に二度目は不自然だ。ジンは首を傾げながら逡巡し、記憶の端に引っ掛かっていた単語を引っ張り出した。
「……猫アレルギー、か?」
「! い、いえ…そんなことありませんよ? ハハ……」
何となく思いついたことを聞いたのだが、随分と歯切れの悪い笑いが返ってくる。どうやら図星のようだ。
体質だというなら気の毒としか言いようがないが、まるでそこに結界でもあるかのように3m程離れているハザマを見ると――どうしたって口元がにやける。
「そうか、猫がダメなんだな。良いことを知った」
「ぅ……な、何か良からぬことを考えてません!?」
「別に。この猫、執務室で飼おうかと思っただけだ」
「思いっ切り、良からぬこと考えてるじゃないですか~ッ」
ニヤニヤ笑いながらジンが言うと、ハザマは非難がましく叫んだ。どうやら本当に嫌で仕方ないらしい。
どうしよう。これは面白すぎる。
この狐面に猫を押し付けてやれば、くしゃみが止まらなくなったりするのだろうか? そんなことになったら、自分は大声で笑い出すだろう。いつもいいようにされっぱなしなだけに、ジンの嗜虐心は高まるばかりだった。
白い子猫を満足げに撫で、ジンはつぶらな瞳に笑いかける。
「よし。今日から僕が飼ってやろう。しっかり魔除けになれよ」
「……私、悪霊ですか? 少佐ぁ~」
顎の下を撫でられて気持ち良さそうな子猫と笑うジンを見ながら、ハザマが情けない声をあげて肩を落とした。
これくらいの仕返しをしてやっても、罰は当たるまい。ジンは猫の愛らしい顔を見ながら、ほくそ笑みんだ。









動物を飼うのは初めてだったが、意外に何とかなるものだなと思いながら、ジンは猫の背を撫でていた。
職場であからさまに猫を放し飼いにするのは体裁が悪いので、執務室の片隅にケージを作って中に入れているのだが、休憩がてらに猫を構ってやるのが癖になりつつある。子猫自身も大人しい性格のようで、ケージの中にいる時もジンに撫でられている時も暴れることがなかった。今のところ餌とトイレの始末だけで世話は済んでいるので、扱いやすい猫で正直助かったと思う。
仕事と立場上、生活が不規則でいつ呼び出されるか分からない身だ。不在の間に何かあっても気付いてやれないかもしれない。
そんな一抹の不安はあるものの、膝の上でころころ身をよじる子猫と指で遊んでやるジンの表情は穏やかだった。
別に猫など、好きでも嫌いでもない。今まで興味もなかったし、これからも特別好きだとは思わないだろう。
けれど自分の手にじゃれてくるこの子猫は、確かに可愛いと思う。
「に~っ」
「……痛いぞ。少しは加減しろ」
前足をばたつかせる猫に、ジンは苦笑しながら文句を言った。まだ引っ込められないらしい爪がグローブに引っ掛かるので素手で触っているのだが、肌には細かい傷が幾つか付いてしまっている。とはいえ、血が出るほどでもないので好きにさせていた。
つぶらな瞳を向ける子猫は、親猫とはぐれたのか少しやせ細っているが、餌もちゃんと食べて今のところ元気なようだ。
そんな平和な休憩時間を壊すように、またもやあの男が顔を出す。
「……少佐~」
「なんだ、疫病神」
「ヒ、ヒドイですよそんな言い方~!」
扉を僅かに開け、顔を覗かせたハザマに、ジンはにべもない言葉を放つ。情けない声をあげるハザマは、やはり猫に近付けないらしく中に入ろうとはしなかった。
いい気味だ。ジンは優越感に浸りながら、ハザマを流し見た。
「で、諜報部のハザマ大尉がこんなところまで何の用だろうか?」
「報告書をお持ちしたんですよ。第七機関からの」
嫌味を気にした風もなく、ハザマは懐からぴらりと封筒を取り出す。なるほど、第七機関へ送り込んだスパイからの定期報告なら、確かに諜報部の活動範囲だ。
ふむ…とジンは頷き、立ち上がって入口へと向かった。ハザマが扉の向こうから出てこようとしないので、仕方なくこちらから近付く。
しかし慌てたようにハザマは口元を引き攣らせた。
「それっ、その猫は置いて来て下さいよ!」
「僕の勝手だ。嫌なら報告書を置いて貴様が立ち去ればいい」
猫を片手に抱いたまま近付くジンに、ハザマが非難の声をあげた。予想通りの反応に、内心愉快で堪らない。
しかしあくまで表面上は興味なさそうに、ジンは空いている方の手を差し出す。
「早くそれを貸せ」
「少佐ってホント、サディストですね……。分かりましたよ、ちゃんと渡しま……っくし!」
ぶつぶつ文句を言いながら封筒を差し出してきたハザマがまたくしゃみをする。余程だな、と思いながらも、ジンはしがみつく子猫を抱いたまま封筒を受け取った。
「ご苦労様。帰っていいぞ」
「えー、わざわざ来たんですから、何かご褒美くださ……」
「この猫とキスさせてやろうか?」
「いや、いいです。帰ります!」
ジンがずいっと猫を差し出すと、ハザマが後ずさって首を横に振った。眉が八の字になっており、情けない顔に拍車が掛かっている。
面白いくらいテキメンな猫の魔除け効果にジンは胸がすく思いで、爽やかな笑みを浮かべた。
「これからは、僕にあまり関わらないことだな」
「そんなァ~、待ってくださいよ少佐……」
縋るように呼ぶハザマの声を締め出すように、ジンは執務室の扉を閉めた。
こんな奴、本来は係わり合いにさえならなかった相手だ。これで静かに過ごせる。
ジンが口角を上げるのを見て、手元の猫がニャーと寂しげに鳴いた。






猫が来てから、一週間が経った。細く弱々しかった体も少ししっかりし始め、隙を見つけては部屋を駆け回ったりと、活発さも見せるようになっていた。
そして天敵であるハザマが執務室に訪れなくなるのと入れ代わるように、別の人間が執務室に多数やって来るようになった。
「キサラギ少佐」
「……なんだ」
廊下で女性の衛士に呼び止められ、ジンはまたかと思いつつも振り返る。予想通り、女性は眼を輝かせながらこちらを見ていた。
「あ、あの……猫ちゃん、見に行ってもいいですか!?」
勢い込んで尋ねるその言葉に、内心うんざりしつつも、ジンは頷いて了承を示した。その返答に女性は黄色い歓声をあげ、では昼休みにお邪魔します!と告げて去って行った。
スキップしそうなその後ろ姿を見送りながら、ジンは盛大に溜息をつく。少し前から『キサラギ少佐の執務室には可愛い猫がいる』という噂が広まり、今ではこんな風に訪問の予約が絶えないのだ。
正直鬱陶しくてくて仕方がないのだが、一応保護という名目で執務室に置いているので、断ることは出来ない。あわよくば里親が決まって引き取り手が出来ればとも思っている。
最初は本気で飼おうかとも思っていたが、やはり自分では四六時中ついていてやることは出来ず、また独り身同然では猫の方も寂しいだろうと思った。家族で可愛がってもらえるようなところの方が、幸せに違いない。
ペットなんて、と今まで軽く見ていたが、いざ自分の手の中に命が委ねられていると思うと意外に難しいものだ。傷付け、命を刈り取る側である自分では責任が持ちきれないと思った。
そして、執務室に戻ると顔を見せる猫に和むのと同時に、物足りなさを感じていることにジンは気付いてしまった。
可愛いですねと声をあげるのは、よく知らない女性衛士ばかり。以前より他人の気配が色濃い執務室は、何だか自分の仕事場ではないようだった。人が集まる休憩時間は、自分が入ることすら気を遣う。
どうせならば……アイツが来て、馬鹿な冗談を言い合っている方が楽だ。そんなことをちらりと思った自分に愕然とする。
あの胡散臭い奴を遠ざけたくて、猫を飼ったのではないのか。纏わり付かれて嫌だったから、こんな仕返しをしてみたのではなかったか。
執務室に戻ったジンは、苛立ちを抑えるようにサプリメントに手を伸ばした。しつこく昼食に誘う存在がなくなり、いつの間にかすっかり元の生活に戻っていたのだ。
前の状態に戻っただけ、今まで通り。そう頭では認識するのだが、ジンの気分は何故か晴れないままだった。
顔見知りになってからは、ほぼ毎日のように現れていたアイツの顔を全然見ていない。猫を連れていない時ですら、姿を見ることがなくなった。まるでそんな存在などなかったかのように、消えていた。
「にゃ~」
サプリメントを紅茶で流し込むジンを見上げて、子猫が控え目に鳴く。愛らしい姿に吸い寄せられるように、手を伸ばして喉を撫でると、気持ち良さそうに眼を細めて擦り寄ってきた。
じゃれる猫を見つめながら、ジンは微かに溜め息を吐いた。









あーもー、メンドくせェなぁー。
内心苛々としながら笑顔を保つハザマは、書類を持って警備の厳重な区域に入って行った。これでやっと一連の手続きは終了するのだが、思ったよりも随分と手間取ってしまった。
ここ一週間、ノエル=ヴァーミリオンもとい第十二素体の、衛士採用についての根回しをさせられていた。なんで俺様がわざわざ?と言いたいところだが、まだ正体を明かすにはいかないので渋々引き受けたのだ。
しかし手続きがとにかくまだるっこしい、分かりにくい、ついでにたらい回しと、ハザマの忍耐は早々に切れかけていた。特例なんだからもっとスムーズに進めろや、と素で内心悪態をつきながらも最後の手続きを終え、ハザマはやっと自由の身になった。
さて、やっと少佐に……とその前に、クソ猫を放り出さなきゃなんねェな。
久し振りにジンにちょっかいをかけに行こうと思ったハザマは、忌ま忌ましい存在を思い出して舌打ちした。
元々、獣兵衛との関わりから猫は好かないのだが、ハザマの体に憑依してからは特に近付きたくない存在になった。いくら術式に詳しかろうと、人間の体を借りている以上はアレルギー体質はどうしようもない。スサノオユニット、捨てなきゃ良かった…などと身勝手な感想を抱く。
とにかく、ジンがいないうちに執務室に侵入して、猫を放り出してしまおう。息を止めればなんとかなるかもしれない。それでダメならばウロボロスを使ってやる、と大人気ないことを考えながらハザマは師団長の執務室に赴いた。
耳を澄ませて人の気配がないことを確かめてから、ハザマは重厚な扉をそろりと押し開いた。
「………?」
息を止めながら覗き込んだハザマは、無人の部屋を見渡して怪訝な表情を浮かべる。
確か猫を飼うと言ってから、部屋の片隅にケージが設置してあったはずだが、それが見当たらなかった。餌皿もまた消えており、猫自体も見当たらない。
まるで以前の、猫が住み着く前のように戻ったようだった。
本当にいないのだろうか?と訝しみながら、ハザマは室内へと入ってみる。デスクの前まで来て、猫の気配も痕跡も残っていないことを改めて確認し、思わず頬を掻いた。
一体どういうことだろうか。あれ程ジンは嬉々として猫を構っていたのに。
「……猫なら、もういないぞ」
「!」
唐突に背後から掛けられた声に、ハザマは驚く。自分が気配を察知出来なかったことに内心焦りを覚えるが、振り返った先の表情を見て納得した。
部屋に戻ってきたらしいジンは、苦笑を浮かべてこちらを見ていたのだ。警戒心や敵愾心が感じられないそれは、悪意を感知しやすいハザマの感覚に引っ掛かりにくい。つまりそれ程、ジンは友好的な雰囲気を醸し出していた。
最後に見たのは、見下したような冷笑だったはずだが……と記憶を手繰り寄せてハザマは怪訝に思うが、それを指摘して機嫌を損ねさせても仕方がないので、猫はどうしたんですかと至って普通に問い掛けた。
「里親が無事に見つかって、ちょうど昨日引き渡したところだ」
「……そうですか」
あっさりとそう答えたジンは、特にからかっているわけでも、蔑んでいるわけでもない。あれだけ嫌がるハザマに猫を突き付けて面白がっていたのに、どうしたことだろうと内心首を傾げた。
しかも、今まで聞いたことのない言葉がジンから発せられて、ハザマは驚愕する。
「もう仕事が終わったのなら、食事にでも行かないか。ハザマ大尉」
「……え」
一瞬、聞き間違えたかと思った。食事に連れ出すハザマをいつも渋い顔で見ていたジンから、まさか誘われるなど。
思わずまじまじと見返すと、慣れないことで気まずくなったのか、ジンは顔を背けて廊下へと歩き出してしまった。
「都合が悪いなら、いい。忘れてくれ」
「! いえ、そんなことありませんよっ。是非、ご一緒させてください」
青い背中を追うように、ハザマは慌てて部屋を出る。あまりに意外な誘いで思わず反応が鈍くなったが、こんなチャンスはそうそうあるものではない。
しかし不在だった間に一体どういう心境の変化があったのだろうと、不思議に思っていたハザマの方をちらりと振り返り、ジンは歯切れ悪く付け足した。
「お前が来ないと……昼の時間が分からなくてな。今日は食べ損ねた」
だから、美味しい飲茶の店を教えろ。
そう横柄に言ったジンは、恥ずかしいのか目元がほのかに紅い。
それを見て、ハザマはやっと理解した。本当はジンが、自分の存在を嫌がっていなかったのだということを。
正直、鬱陶しそうにしているジンを面白がって纏わりついていたハザマとしては、好かれる事は前提になかった。抵抗してなびかない獲物の方が楽しい、そんな加虐心に溢れたハザマの捩じれた嗜好からすれば、そんなジンの態度は面白くない……はずだったが。
「……ええ、喜んで案内させていただきますよ」
何故か、悪くないと思った。
その感情の動きを、猛獣を手なずけた時の様な快感だろうと、解釈しながらもハザマはにこりと笑って了承する。
それを聞いたジンが、目を逸らせて小さく「そうか」と呟くのを見て、素直じゃねぇーなと感想を抱いたが、そういう態度が妙に幼く見えて可愛いとハザマは思った。



END




今回は少佐がデレました(笑)

ハザマが猫嫌いなのが、猫アレルギーかは分かりませんので、信じないでください;
ただ、猫アレルギーな管理人は、ハザマがレイチェルのナゴをそれ以上近付けるなと言った時に、もしや?とか思ってしまっただけです;

**CS家庭用で猫アレルギーと判明**