海と砂漠と嫌いなもの




容赦なく照り付ける太陽に、熱を吸収した灼熱の砂漠。一千年前は豊かな緑に満ち溢れた土地だったが、今やその面影はかけらも残っていない。
ギルド遺跡の門の発掘現場になっているここは、ヨームゲン。兵士も暑さで倒れる過酷な環境で、何故か意地のように居座りつづける貴族の一家から、一同が水着を譲り受けたのはつい先程のことだった。
世界的に稀少な魔導器の部品と交換という展開にリタは大いにへそを曲げていたのだが、海で泳いでみたいと主張するエステリーゼにほだされて、結局みんなでしばしのバカンスを楽しむことになった。世界が危機的状況であることは承知の上だが、たまの休息も必要だ。
普通の海水浴と違い、人影もなく海の家もない砂浜は、殺風景なうえに照り付ける太陽で焼けるように熱い。早く涼みたいと嫌でも思わされる環境に背中を押され、試着だけのはずがそのまま青い海に飛び込んでしまった凛々の明星の面々だった。
「あ〜、生き返る〜!」
「それ、温泉のセリフだぞカロル。まあ気持ちは分かるけどよ」
シュノーケルに海パンという準備万端な格好のカロルが波を立てて飛び込むのを見て、ユーリが苦笑する。はしゃぐ子供を温かく見守る保護者の態だが、彼も普段のイメージから掛け離れたアロハシャツにサングラスという出で立ちだった。
その為に、口端を歪ませて笑う姿はどちらかというと、誘拐を企てている自由業のお兄さんに見えかねない。知らない人が見れば、危ないと思うに違いないだろう。
しかし幸か不幸か、我が道を行く主義の多いこのメンツでは、誰もそれを指摘する者がいなかった。主にツッコミ担当のリタはカロル同様、暑さに耐えられず自ら海へ入り、エステリーゼと共に海の神秘と涼しさに夢中だ。
いつもならちゃちゃを入れるレイヴンも今は、眼を限界まで開いてジュディスの際どい黒ビキニに釘付けになっており、一言も喋らない。まさに穴が空くほどの熱視線で凝視されているのだが、当人は全く気にすることなく海へと足を運び、水と戯れるリタとエステリーゼへ声を掛けに行った。
女の子同士でかたまるのを見て、パティもさっそく捕まえたヒトデを片手に、慌ただしく駆け寄っていく。元海賊首領であり実は中身は結構歳を喰っているはずの彼女だが、男だらけの環境が多かったせいか、反動で女の子の輪に参加したがるところがある。無邪気な笑みでヒトデを背中に押し付け、エステリーゼに悲鳴をあげさせていた。
「……」
「……」
まあ、そういうわけで。必然的に誰も構ってくれなくなって取り残されたのが、一人と一匹。
賑やかな周りに驚いて停止していたフレンは、眼を瞬いてから苦笑を浮かべた。
楽しそうなみんなの様子に、自然と自身も嬉しくなり、笑みがこぼれる。ユーリもエステリーゼ様も楽しそうでなによりだと、心から思った。
しかし自分の足元では、どんよりと暗い雰囲気を醸し出す気配が。
フレンとお揃いの、本格的な水着に身を包むラピードが、珍しく尾をだらりと下げていた。首には浮輪、四本の足にはヒレを付けて万全な出で立ちなのだが、実は水が大の苦手なのである。人間顔負けの、怖いものなんてなさそうな勇ましい彼の、唯一の弱点だった。
それを知っているだけに、フレンはテンションだだ下がりのラピードに顔を向け、無理しなくていいよと囁く。
「一応貰ったけれど邪魔ならその水着、脱ぐかい?」
「クゥーン……」
フレンが声を掛けると、ラピードは迷うように前足をばたつかせた。楽しそうにはしゃぐみんなに交ざりたい気持ちはあるが、やっぱり水が嫌で足が進まないようだ。
葛藤が手に取るように分かるラピードの様子に、フレンは少し笑って海の方へと視線を投げた。太陽光を受けてきらきら光る水面に影がよぎるのに気付いて、フレンは目を瞬く。
「……あ。流石、海だね。魚がいっぱいいるよ」
「ワゥ〜ッ」
輝く海面の下に見える魚群の影を指差して言うと、ラピードが低く構え、尻尾をふりふりと揺らして臨戦態勢を作る。しかし勇ましい唸り声とは裏腹に、ラピードの足はそこから動かなかった。狩りたい気持ちは山々なのだろうが、やはり水が行く手を阻んでいるようだ。
勿体ないなと思いながら、フレンは海へと入り、膝まで浸かった辺りでラピードを振り返った。
「ほら、冷たくて気持ちいいよ? ラピード」
「ガゥーッ、ワウワウ!」
そっちに行けねェんだ、水が邪魔なんだ!と言わんばかりに吠え立てる様子に、フレンは思わず吹き出す。必死の威嚇も、ぶるぶる強張る前足を見れば形無しだ。
アハハごめんごめんと笑い、フレンはからかったことを謝り、海中にある貝を拾い上げた。遠目に見ても輝いていたそれを手の中に納めて見ると、乳白色に虹が掛かったとても綺麗なものだった。魚は無理だが、貝くらいなら渡せるなと思ったフレンは、拗ねたように唸っているラピードの元へと戻る。
「はい、貝殻だよ」
「……ワフゥ?」
しゃがんで貝を差し出すと、ラピードが鼻を寄せて磯の香を漂わす貝殻を匂ぐ。海は嫌だが、魚介類には興味津々のようだ。
その様子に和むフレンの足元で、小さな蟹がカサカサと横切った。するとラピードは尖った耳をぴくりと震わせ、急に獲物を狩る目で構える。野性の血が騒ぐのか、動くものの方が興味を引くようだ。
「ウー、バゥッ」
「あ」
しかしラピードが飛び掛かろうとした瞬間、小さな蟹は狙われているのに気付いたのか、更にスピードをあげて走り、海中の岩場へと逃げ込んでしまった。
またしても水に阻まれて手が出せなくなってしまったラピードは、鼻に皺を寄せて唸り声をあげている。獲物を逃したことに悔しそうな気配が、なんだか笑みを誘った。
「……蟹か。他にも何かいるかな」
海に近付けないラピードの代わりにと、フレンは浅瀬へと入って周りを見渡す。
捕まえられるものなら、砂浜にいるラピードに持っていけるかもしれないと思ったからだ。
ヒトデやわかめ、小さなエビ……は素早くて逃したが、色々と手に取ったフレンは腰まで浸かりながら、波打際でウロウロするラピードに声を掛けた。
「ほら、なんかいっぱい取れたよ。待っててくれ、そっちに持って行くから――」
水の苦手なラピードにも楽しんでもらいたくて、フレンが集めたそれらを掲げて叫んだ瞬間だった。
陸へ戻ろうと踏み出した足に、ぬるりとした何かが絡み付き、つんのめる。片足を引っ張られるような形になって、フレンは慌てて態勢を立て直そうともう片方の足に力を入れたが、そちらも同じように何が絡み付いて思うように動かなかった。
突然の事態に驚くと同時に、フレンが不穏な気配にハッと後ろを振り返ると、海面から不気味な塊が顔を出した。
「……!」
大きな波を立ててせり上がってきたそれは、巨大なイカの形をした魔物だった。伝説でよく描かれる航海中の船を襲う大蛸のような、人間の何倍も上回るその図体は見慣れたはずの形状でも思わず圧倒される。
波立つ海に半ば呑まれかけながら、フレンは姿を現した魔物に顔を険しくした。
確かこの近辺には棲息していなかったはずだと記憶していたが、海は繋がってあるので流れてきた可能性は否定できない。
「うわあああっ!? なにこれー!」
「あーあ、こんなバカンス中にはた迷惑な」
「本当ね。なんてKYなのかしら」
突然現れた魔物に悲鳴をあげるカロルや驚くエステリーゼなどを尻目に、ユーリとジュディスは冷めた眼差しを向ける。腕に自信のある二人ならではの反応だ。
いつもならば、フレンもすぐに剣を携えて冷静に対処していただろう。しかし今は両足を捕らえているものが、魔物の長い足だと察して内心焦った。本格的な水着を着用しているので身動くのに問題はないが、如何せん武器が手元にない。
拘束を振り解こうと足を上げた瞬間、逆に強い力で引っ張られた。片足ならまだしも両足を捕らえられていた為、なす術がない。
必然、海の中に倒れ込むこととなり、尖った岩場に胸部を打ち付けた。思わず口に含んだ空気がゴボリと漏れ、集めて持っていた海産物が手から離れる。いくら浅瀬とはいえ、足を取られれば体全部が沈むに足りる深さはあった。
「ガウッ! ワォーン!」
「! フレン!?」
水しぶきを上げて倒れたフレンに気付き、ラピードとユーリが叫ぶ。
だが海中のフレンには聞こえるわけもなく、また返事をする余裕もない。辛うじて腕を突っぱね、岩に胸部をえぐられるのを避けたのも束の間、勢いよく引き寄せられて激流に呑まれた。
これは、分が悪い。油断していた自分の失態に内心舌打ちしながら、フレンは海の中を引きずり回されて無数の岩に当たる痛みに耐えるしかなかった。
「このイカ野郎ッ、フレンを放せ!」
一本釣りの如く引き倒されるフレンを助けようと、ユーリが咄嗟に掴んだ手近の石を投げ付ける。剛速球で飛んだそれは狙い違わず、魔物の目に直撃した。
急所への痛みに、魔物が苦悶の声を上げて十本の足をばたつかせる。しかし運が悪いことに、魔物はフレンの体を搦め捕ったまま足を海面に打ち付けて暴れた。
咄嗟に頭だけは両腕で庇ったが、二度三度と、滝に呑まれたような水圧と岩に容赦なく打ち付けられる激痛に見舞われ、さしものフレンも意識が途切れそうになる。
巻き起こる津波に海が荒れ狂うなか、ユーリ達の間に緊迫した空気が走った。切り替えの早いジュディスが驚き固まるエステリーゼとリタを下がらせ、槍を取りに砂浜へと跳躍する。
「ックソ。おっさん、弓で撃て! ラピード、俺の剣こっちに投げろ!」
石で追い払える相手ではないと判断し、ユーリが振り返って指示を飛ばした。しかし当のレイヴンは、浜へ飛び込んできたジュディスのダイナミックに揺れる胸に視線が釘付けで聞いちゃいない。いい年して、ウブにも程がある。
一方、すぐに動いたラピードが荷物からユーリとジュディスの武器をくわえて引っ張り出し、放り投げた。正確なコントロールで手元に来た剣を受け取り、ユーリは握り直して鞘を弾き飛ばす。ジュディスもまた空中で槍を受け取り、浅瀬に一度着地して向き直った。
「犬っころ! 私の鎖取って、鎖!」
「うちの剣も投げるのじゃ!」
水に足を取られながらも魔物に飛び掛かっていくユーリとジュディスを見て、リタとパティも戦わなければと動き出す。
砂浜に残っていたのはラピードとレイヴンだけなので、必然的に動いてくれるラピードに要求が殺到した。即座に二人へ武器を投げたところで、慌てふためきつつカロルとエステリーゼからも武器を投げてほしいと頼まれる。
全員に武器が渡った後で、正気に返ったレイヴンが鼻血を一筋垂らしながら、真剣な顔で弓を番えた。
「これはマズイわね、未来ある若人が海の藻屑になっちゃったら洒落にならな……」
「グルルル……ガウガウッ!!」
「どわッ!? わ、悪かったってば! あんまり眼福だったもんで、ついッ!」
何やってんだ、この役立たず!と言わんばかりのラピードの剣幕に、レイヴンがびくっと怯える。悲しい男の性かもしれないが、幾らなんでもTPOは弁えてもらいたい。
一方、魔物へ直接斬り掛かっていたユーリとジュディスは苦戦していた。相手は大して強くはないが、如何せん着地すれば腰まで海に浸かる浅瀬だ。足を取られて、動きが著しく制限される。
しかも魔物はこちらの反応に気付いているらしく、人質同然のフレンを盾にしていた。猛攻が激しくなると、フレンの首や腰を締め上げて、ユーリやジュディスの動揺を誘うのだ。
吸い付くように巻き付く粘着質な魔物の足に、フレンは内心歯噛みした。皆を助けたくてついてきたというのに、こんなところで足手まといとは情けな過ぎる。
何度も海面に打ち付けられつつも、フレンは視界の端にリタが鎖を掲げて躊躇っている姿を捉えた。
「リタ! 構わないから僕ごとフレアで吹き飛ばしてくれ……!」
「……な……!? で、でも」
「耐性があるから大丈……グ、ガボッ」
叫んだ瞬間にうねうねと自在に動く足に再び海へと沈められ、海底の岩に背中を打ち付けられた。背骨が折れたかと思うほど身体が軋み、激痛に顔が歪んだ。
「埒が明かねぇ……! リタ、頼む!」
「えぇ!? ……あーもう、どうなっても知らないから!」
ユーリからも魔術の使用を急かされ、リタが顔を強張らせながらも鎖を閃かせた。幾ら狙いを定めても、魔物と接触している状態のフレンには魔術が直撃する。しかし海に潜られて魔物に逃げられれば、エラ呼吸でも出来ない限りフレンは帰らぬ人となるだろう。
どちらに可能性があるかを考えれば、こちらに賭ける他ない。フレン自身も魔術を使うことから、他より耐性があるのも事実だ。
「詠唱に入るから、アイツ足止めして!」
浜へと走り出てリタが叫ぶと、ユーリが頷いて再び魔物に斬りかかった。鋭い斬撃でのた打つ足を押し返しつつも、追い詰めすぎて逃げられないように巧みに動きを阻む。図体の大きさで刃物の攻撃は当たるものの、水圧に阻まれて力が載り切らなかったり、表面の粘膜で軌道が逸れたりと、致命傷が剣で与えられない以上、魔術でのトドメを待つしかない。
弱点である炎属性の魔法陣を浮かび上がらせ、呪文を唱え始めたリタに倣い、レイヴンも浜から矢を番えて援護する。荒れ狂う波から逃れたエステルは、捕まったまま叩き付けられるフレンに居ても立ってもいられない様子で、回復魔法を唱え始めた。この距離では治癒術の効果が及ぶか否か分からないが、何もしないわけにはいかなかったのだろう。
カロルとパティも前線に参加しようと意気込んだが、空中を舞うジュディスに、波に呑まれるわよ!と注意を受けて遠距離からの攻撃に切り替えた。子供の身長では、着水した際に頭まで沈みかねないからだ。
「ワォ……クゥーン」
前線で戦うユーリとジュディスを見ながら、ラピードは波打際を右往左往していた。魔物の白く長い足に縛られ、海に沈められるフレンを助けたい気持ちでいっぱいなのだが、体が水を怖がって足が進まない。いくら水着やヒレを付けたところで、海に飛び込めなければ何の意味も為さなかった。
「――無慈悲なる却火は汝らの心をも燃やし尽くす……クリムゾンフレア!」
詠唱を終えたリタが、金朱の光を纏って舞いながら叫んだ。呪文によって息を吹き込まれ、魔導器が輝き出すと同時に周囲の温度が上昇する。ただでさえ暑い気温が一気に跳ね上がり、魔術が収束する気配に、ジュディスとユーリが魔物から距離を取った。
しかし異変を察した大イカの魔物もまた、熱を孕み始めた海から逃れようと巨体をよじって暴れ始める。魔術はある程度標的を追い掛けるが、確実に中心に当てて仕留めなければフレンも危険に晒されかねない。
横へと逃げかけた白い巨体を元の位置に押し戻そうと、レイヴンが風を纏った矢を連続で打ち込んだ。だが青い海を叩くように暴れる複数の足が、矢をほとんど弾き飛ばしてしまった。
まずい、直撃を逃してしまう。蒸発した海水で潮の香りが鼻孔をつくなかでそう皆が思った瞬間、白くぬめる魔物の足に体を縛られたフレンが不意に顔を上げた。
蒼白な顔でしとどに濡れた蜂蜜色の髪を張り付かせながら、童顔に似合わない勇ましい眼光を閃かせる。拘束が緩んだ瞬間を見計らい、フレンは巻き付く足から半身を逃して、長い素足を振り上げた。
「こッの……!」
上も下もなく振り回されて溺死させられかけていた人間とは思えない身のこなしで、フレンは渾身の回し蹴りを魔物の巨体に叩き込んだ。反動で細い体が海へと投げ出される程の蹴りは、魔物を魔術の中心地へと押し戻すに足りた。
しかし魔術による爆発が耳をつんざくのと同時に、拘束から解放されたフレンの体が爆風で吹き飛ばされる。現れた業火の炎は滝の奔流のように魔物を叩き潰し、海であることを忘れさせるほどの熱気を纏って魔物に断末魔をあげさせた。
リタの強力無比な魔術は、晴天の空をも真っ赤に染め上げる。爆発の凄まじさに、皆が一瞬顔を背けた。
閃光に思わず眼を閉じるその状況下で、吹き飛んだフレンが遠くの沖合へ落ちて沈む様を見たのは、恐らくラピードだけだったろう。犬の眼は色彩を感知出来ずに景色を白黒に映す。それに加えてラピードの閉じた片目は傷の名残で明度が落ちており、無事な右目を閉じるような眩しさでも普通に開けていられた。秘奥義でもなければ開眼しない左目だが、フレンを眼で追うのに必死だった為に自然と開いていたのだろう。
それ故に、香ばしい匂いと共に魔物が絶命して海に横たわると同時に、仲間達がフレンの捜索に乗り出したのを見てラピードは焦れた。魔物の傍だろうと考えて呼び掛けて海中を探すユーリに、ラピードは違う、そこじゃないと吠えるが、違うらしいということが伝わるだけで、沖合までは足を伸ばさない。
言葉が伝わらない。自分では海に飛び込めない。ひどいジレンマに、ラピードは奥歯を噛み締めた。
フレンは向こうに沈んでる。しかも浮かんで来ねぇんだよ!と吠え立てるが、仲間達は見当違いの捜索に気を取られており、聞いていない。
かなりの高さと距離で海に沈んだ為に、海中で岩場に挟まっているのかもしれない。あの運動神経の卓越したフレンがすぐに顔を出さないということは、気を失っている可能性もあるだろう。
波打際で行ったり来たりを繰り返していたラピードは、意を決したように海に向かって構えた。子犬の頃、ユーリと共に帝都へ来た時に井戸に落ちて丸一日近く過ごしたことがあり、それ以来水と極端に狭い場所が苦手になってしまったが、フレンの命がかかっている今、躊躇っている場合ではない。
例え溺れても、とにかくフレンの近くまで辿り着ければユーリ達が気付いてくれるはずだと思いながら、ラピードはぶるりと体を震わせて海に前足を踏み入れた。
四本の足に付いたヒレでばしゃばしゃと荒々しく水音を立てて海を掻き分け、一気に飛び込む。茹だるような暑さから、水のひやりとした感触に包まれて総毛立つが、ラピードは振り切るように足を動かした。
久し振りの水に一瞬どう泳いでいいのか分からなかったが、首の下に付けた浮きの安心感もあり、とにかく前へ進もうと水を掻く。
水泳用装備もあって意外にもなんとか泳げているものの、スマートさのカケラもなく派手な水飛沫を上げながら遠い沖合へと進むラピードの姿に、ユーリが海面に落としていた視線を上げた。あの、海がそこにあるだけで唸り声をあげるようなラピードが自ら飛び込んで泳いでいる姿に、思わず目を点にする。
しかしラピードが遠くまで泳ぎ、ある地点でぶるぶると首を振って浮きを外し、水中に顔を突っ込んだのを見て、ユーリは我に返って駆け出した。その下にフレンが沈んでいるのだと分かったからだ。
ユーリの長身でも足が底に付かないそこへ平泳ぎで近付くと、空気がごぽごぽと漏れ出て、ラピードがざばりと波を立てて顔を出した。その口に緩くくわえられた白い手首に、ユーリの心臓が跳ねる。
慌てて手を伸ばして引き上げると、海水に濡れてぐったりとしたフレンが顔を出した。腕や胸には無数の裂傷が刻まれており、折角貰ったウエットスーツも所々破けている。しかも投げ出された時にぶつけたのか、額からは海水に混じって赤い血が滴っていた。
思っていた以上の有様に表情を固くしたユーリは、器用に立ち泳ぎのまま気を失っているフレンを背中に担ぎ、すぐさま砂浜を目指して泳ぎ出す。しかし水を掻き分けようと腕を伸ばしたところで背中の重みが増し、ユーリはうろんげな眼差しで背後を見遣った。
「ラピード」
「クーン……」
「重い。定員オーバー、自力で泳げ」
「ワゥッ!?」
ユーリの泳ぎに便乗しようと、背負われたフレンの上へ乗っかったラピードは、冷たくユーリに払われて再び海へと投じられた。オイそりゃねぇだろう!と、ガウガウ吠え立てながら溺れかけるラピードに、ユーリは近くに漂っていた浮きの紐を掴むと、空いている口にくわえた。
これに掴まってりゃ引っ張ってやると顎をしゃくるユーリに気付き、ラピードは慌てて浮きにしがみつく。決死の覚悟でここまで来たはいいが、帰りもまた泳がなければいけないのだと改めて思うと身震いが止まらないラピードだっただけに、一応置いていかれずに済むと分かって安堵した。
折角カッコ良かったのに、締まらねぇなぁ…と思わず苦笑したユーリは、それでも苦手な水に挑む勇気を見せたラピードを胸中で讃えつつ泳ぎ出した。





浜へ引き上げたフレンが目を覚ましたのは、ちょうど人工呼吸を誰がするかでもめていた時だった。
僅かに飲み込んでいた海水を吐き出し、フレンがげほげほと噎せるのを見て、治癒術を掛けていたエステリーゼが心配そうに撫でさする。砂浜に敷いていたシートの上で身を折ってしばらく苦しげに噎せていたフレンは、漸く意識がはっきりしてきたのか、僅かに涙目になりながら口元を拭い、見下ろすエステリーゼとユーリに顔を向けた。
「……良かった、無事だった…みたいだね」
「あのなー、お前がそれを言うな」
自分の方が海の藻屑になりかけていたくせに皆が無事だと見て、安堵したように微笑むフレンに、ユーリが呆れて額を軽く小突く。傷は塞がったものの、ユーリの雑な扱いにエステリーゼが駄目ですよと厳しい表情を作るが、当のフレンは特に気にしていないようだった。
「僕が油断したばかりに……迷惑掛けてしまって、申し訳ない。助けてくれて有難うございました」
体はまだ辛いのか、半身だけ起こしてフレンは頭を下げる。その様子に一歩離れて見ていたリタが、水着にパーカーという姿でいつものように組んでいた腕を解き、呆れたとばかりに肩を竦めた。
「どこまで堅ッ苦しいの、アンタ。大体、今回のことは別にアンタに落ち度はないでしょ。運が悪かっただけじゃない」
「だな。お前、昔の時もそうだったけど、水難の相でもあるんじゃないか?」
重い空気を脇に退けようと、ユーリもからかって幼少の頃の話をまぜっ返す。七歳のフレンが川に落ちた時、魚人に掴まって一命を取り留めたという、超人と天然がコラボするとこういうミラクルが起きるのだと思わせるエピソードを指して揶揄ると、フレンが少し顔を赤らめて、うるさいなとユーリに噛み付いてきた。
「ま、ま。とりあえず無事で良かったじゃないのよ」
「おっさんは人工呼吸しなくて済んで、ホッとしてるだけでしょ」
良かった良かったと額面通りな態度を取るレイヴンに、リタがじと目で図星をさした。気を失っているフレンに人工呼吸するなら男の子同士じゃないとね、とにっこり笑って言ったジュディスの言葉が発端で、ユーリかレイヴンかカロルかということで軽くバトルになっていたのだ。決してフレンが嫌いなわけではないのだが、女がやるには色々と問題ありだし、だからといって男同士というのもなんだか抵抗が強いと、微妙な空気で押し付け合いをつい先程までしていた。
何となく対処に困っていたのだろうなと察したフレンが、苦笑して「手間を掛けてすみませんでした」とレイヴンに頭を下げる。薄情な男達の行動を咎めるでもないフレンに、ジュディスは豊満な胸を組んだ腕で押し上げながら、少し柔らかな笑みを向けた。
「ひどい人達よね。それに比べて、ナイト様はとっても頑張ったのに」
「……ナイト、様?」
ジュディスの言葉に、フレンは首を傾げる。しかし妖艶な青い瞳が向く先を視線で辿り、ちょうど半身を起こした自分の背後にくったりと横たわる存在に気付いた。
「わ、ラピード!? ……まさか、海に入ったのかい!?」
シートの上で日干しのように痩身を横たえて伸びているラピードに、無事かと手を伸ばすと濡れていることに気付く。豊かな青い毛並みをしんなりさせ、覇気のないラピードの様子にフレンは具合が悪いのではと撫でさすると、ユーリが疲れてるだけだと口添えた。
「ラピードが気ィ失ってるお前を見つけたんだ。遠くまで飛ばされてたからな、発見が遅かったら結構危なかったと思うぜ」
「そうか……。命の恩人だね、有り難うラピード」
大嫌いな水に飛び込んでまで助けてくれたんだと知って、フレンは顔を綻ばせる。伏せの姿勢から顔を上げたラピードを優しく撫で、騎士団の一部を魅了してやまない無防備な笑みで、眉間の辺りに唇を触れさせた。可愛がるように、自然にそうして触れるフレンは実年齢より幼く見え、騎士であり団長であることを忘れそうだ。
撫でられてまんざらでもなさそうなラピードがぱたりぱたりと尻尾を振る様に、横にいるエステリーゼが羨ましげに見ている。
そんな和み空間を叩き割るように、不意にパティがフライパンとオタマを打ち鳴らした。
「渾身の力作、できたのじゃ! さあ、皆で食すがよいぞ!」
仁王立ちで声高に叫ぶパティに皆の視線が集まる。そしてその隣にでーんと置かれた鍋からグツグツと湯気が立ち込めていた。
姿を見ないと思ったら、料理をしていたのか。ユーリは思わず頷きかけて、動きを止めた。
「パティ。もしかしてそれ、さっきのでかいイカの魔物か?」
「そうじゃ。あんな大物はそうそういないからの! 味も悪くなかったし、鍋で煮込んだのじゃ」
食ったんかい。
自信満々に胸を張るパティに一同、胸中でツッコミを入れる。さっきまで暴れまくっていたあれを食べようなどと、すぐに思い至った根性には感心するが。
だが料理人としても引っ張り凧のパティの舌が合格を出したということは、あのイカは確かに美味かったのだろう。食べて大丈夫なものなのかが気掛かりだが、パティの様子を見るに毒でもなさそうだ。
おいおいと思いつつも、興味をそそられて近付く一同の中で動きを止めた約一名に目敏く気付き、パティがオタマを剣のように振り回した。
「ほら、フレンもこっちに来て食べぬか! 体力を消耗した後なんじゃから、栄養を付けねばいかんぞ!」
「あ……あの、僕は、ちょっと……」
パティに名指しされ、フレンがビクリと肩を跳ねさせる。なんとか逃れられないかと言い訳を考えているようだが、普段から真面目な優等生はそういう方向で頭が働かないようだった。
その後込みする様子に、エステリーゼが仕方がないですよと助け舟を出す。
「魔物にひどい目に遭わされたフレンが、それを食べるなんて出来ませんよ」
可哀相です!と主張するエステリーゼに、パティは何が怒られているのか分からない様子で少し首を傾げた。どうやらそんな繊細な神経は、海賊時代に遠い海へ捨ててきたらしい。
エステリーゼの言葉に一瞬驚くも、フレンは同調するようにコクコクと首を立てに振った。しかしその態度が、単なる便乗であることをユーリは知っている。厳しい下町で育っていて、本当はフレンがそんなことを気にするような軟弱でないことはよく分かっていた。
どうしよっかなーと、元来のいじめっ子気質でニヤニヤしていると、目敏く気付いたリタがこちらを見て半眼になった。
「何、なんか他に理由がありそうね。すっごい悪人面してるわよ……って、いつものことね、顔が悪役なのは」
「ひでーな、こんな色男捕まえて。まあ、フレンがイカ大っ嫌いだってことをバラそうかバラすまいか考えてたけどな」
「え……フレンってイカが嫌いなの!?」
しれっと隠し事を晒すと、ユーリの予想通りカロルが意外そうな顔で食いついてきた。フレンがサッと顔を青ざめさせる。
生真面目で模範的な人間を地で行くうえ、本人は無自覚の味覚オンチなフレンだ。はっきりと嫌いなものがあることにも驚きだが(味の判別が出来たという意味で)、それを避けるように逃げ腰な態度も珍しい。
カロルはへー意外、と驚いたように言いつつ少し嬉しそうだ。少年にとっては、遠い理想像のようなフレンが身近に思えて親近感が湧いたのだろう。幼い頃から知っているユーリとしては、今更なことではあったが。
「あんれま。俺様はてっきり、和食とか魚が嫌いだと思ってたんだけど、違ったのね?」
意外によく見てるな、このおっさん…と思いつつユーリはレイヴンの方を振り返る。
「アイツの味覚だと和食は物足りないみたいだけど、嫌いまでいかないみたいだぜ。それより食感で嫌なのが……」
「イカってわけね。へー、ふーん…?」
ユーリの言葉を次いで、リタがふふふふ…と不気味な笑いをあげながら再確認した。視線の先のフレンが、ビクリと体を震わせる。鈍い男でも、流石に身の危険を感じ取ったらしい。
特に恨みがなくても虐められそうなのがいると虐めたくなるのが、このメンツには三人いる。探究心旺盛でツンver.のリタ。常に笑顔で相手を煙に巻く真性サド(本人は否定)のジュディス。そして口の悪さと根性の悪さは折り紙つきなユーリ。この三大Sは、動き出すと他の誰にも止められない。


薄ら寒い完璧な笑顔を向け、茹で上がったイカの断片を持ってにじり寄る三人に、希代の団長も流石に情けない断末魔をあげたとかあげなかったとか。
今日は苦手なものがオンパレードだな、と騒動を横目で見ながらラピードは欠伸を噛み殺していた。




END






水着イベント+料理ネタでやってみました。
一応ラピフレを意識しつつ普通にオールキャラになってました。むむ?

フレンの好物は肉系だというのは分かりやすいんですが、嫌いなものがなんか矛盾があるな〜とぼんやり材料に眼を向けていると
どうもイカが入っているものに渋い顔してるみたいだなと気付いたので、ネタにしました。推測があってる保証はないんですけどね;