真夜中、ラピードは誰かに呼ばれたような気がして、耳をぴんと立てた。
隣に眠る、シーツに半分埋もれた金髪を反射的に見やるが、規則正しい寝息が聞こえるだけで、呼んだのが彼ではないと分かる。ラピードは首を巡らせ、暗闇に包まれた部屋を見渡した。
『…す……け…て…』
「!」
微かな声が、ラピードの聴覚に届いた。やはり誰かが、呼んでいる。
抱き寄せるように自分の体に添えられていた腕から抜け出し、ラピードはベッドから降りた。そして冷たい外気にぶるりと身を震わせると、ラピードは扉まで近寄り、器用に前足と口を使って部屋から抜け出した。
二階の廊下を渡り、階段でエントランスまで走り抜ける。宿屋の出入り口で一度足を止め、ラピードは耳を澄ませた。
『た…す……て…!』
再び聞こえた声は、さっきより切羽詰まっていた。耳を動かながら、ラピードは空中に鼻を突き出して匂いを嗅ぐ。しかし匂いでその声の主を突き止めることは出来なかった。
頭に直接響くような声は、恐らく肉声ではない。真夜中とはいえ、気配に聡い仲間達が気付いた様子もないのは、初めから聞こえていないからだろう。
宿の外へと踏み出したラピードは、桃色の花びらの混じる夜風に煽られ、隻眼を細めた。
今晩泊まっていたのは、ハルルの街だ。古代塔市タルカロンのすぐ近くということもあり、最近はもっぱらこの街と空中都市とをバウルで往復する日々だった。
結界の力を宿して神々しく咲き誇るハルルの木を遠目に見やり、ラピードは鼻をひくつかせる。
呼ぶ声の正体は断定できないが、何となくラピードには気配が分かるような気がした。辺りに眼を配らせながら、ハルルの樹へと近付いていく。
暗闇で発光するかの如く、華やかな桃色を咲き誇るそれを見上げ、ラピードは尻尾をぱたりと振りながら周囲を見渡した。
『た、す…け……て』
「!」
今度ははっきりと聞こえたその言葉に、ラピードは眼を瞠る。
そして直ぐ様、探るようにラピードが樹の周囲を巡ると、程なくしてその原因に気付いた。
樹の後ろの方で、蠢く緑の影が三つ。よく見ると、それは小さめながらも植物系の魔物――プリニコゲだった。
タンポポを頭に載せたような球根の魔物が、樹をしきりに叩き、張っている根を引き剥がそうとしている。タンポポに似た形態なため、風にのった種が結界をすり抜けて、育ってしまったのかもしれない。樹を攻撃しているのは、結界の役割を持つことを知ってなのか、あるいは単に同じ植物形態故なのかは分からないが、とにかく放っておける事態ではなさそうだ。
「グルル……ッ」
眉間に皺を寄せて唸り、ラピードは愛刀を抜いた。身構えると、魔物はこちらの殺気に気付いて、何やら奇声をあげる。
「バウッ!」
攻撃の矛先を変えて向き直る魔物へと、ラピードは一足跳びに近付いた。反応する余地も与えず、一気に斬り込む。
一瞬で一匹を斬り飛ばした鋭い先制攻撃に、残りの二匹が驚いたように跳ねた。
見た目はまだ通常より小さめで、どちらかというと愛嬌の勝る外見だが、下手な手加減をすると手数で苦戦を強いられる可能性もある。
「ワォォンッ」
ラピードは容赦なく連続で、もう一匹を攻撃した。防ぐ暇を与えずに吹き飛ばし、距離を持たせる。
最後の一匹が、頭の長い葉を風車のように振り回し、背後から襲ってきたが、それは予想済みだった。無理にかわさずに、ラピードは身を固めてそれを凌ぐ。攻撃が途切れた瞬間を見計らい、ラピードは魔物へと反撃した。
素早い斬撃に、魔物が苦悶の声をあげる。だが更なる追撃を加える前に、体勢を建て直した他の魔物が襲いかかってきた。
だが、順番に一対一で相手をする状態に持っていったラピードが、戦いを制したのはいうまでもない。一人ということで多少の時間は要したものの、難なく魔物達を撃退したラピードは、再び静寂が戻ったのを確認して小刀を鞘に戻した。
『……ありが、とう……』
「……!」
脳に直接響くその声に顔を上げると、ハルルの樹が目に入った。この人あらざる声は、恐らく樹の声なのだろう。
見た目には特に変化がない様子だが、ラピードが体ごとそちらを振り向くと、再び声が響いた。
『お礼に……1日だけ、あなたの願いを…叶えます…』
『……願い?』
桃色の花びらを散らし、咲き誇る樹にラピードは怪訝な眼差しを向ける。願いを叶える、などいう言い回しに疑問が湧いた。
『……そんなことが容易く可能なら、あんな程度の魔物に遅れを取るとは思えんが?』
『……』
ラピードの指摘に、樹は黙り込む。さしたる力がないのは、自身も分かっていたのだろう。
いや……力を失ってしまっているというのが、本当のところかもしれない。
『咲いたことで、力が弱まってるんだろう? 無駄な力は使うな』
『でも……お礼を……』
『気持ちだけ貰っておく』
消え入りそうな、か細い声で食い下がる樹に、ラピードは背を向けた。もとより、何か礼を期待して助けたわけではない。何より、この街は樹の結界があるからこそ安全が守られているのだ。魔物からの襲撃を防ぐのは、その加護にあやかる者として当然と言えた。
しかし何か納得しかねた様子で、樹は考えを巡らせているようだった。
『……1日だけ、あなたを人間の姿に変える……というのは、どうでしょうか』
「……!」
樹の言葉に、ラピードは思わず足を止めかける。その提案は、想いの奥底に押しやったラピードの淡い望みそのものだったからだ。
もし自分が人間ならば、フレンの隣にいられただろうか。
もし同じ言葉が話せたなら、想いを簡単に伝えられただろうか。
……それは、なんて幻想じみた願いだろう。
思わずラピードの立ち去る足が鈍ったのを見て取り、樹はか細い声で言い募った。
『この街の…中なら、私の力は発揮でき…ます。一日だけ……ですが、あなたを人間の姿に……。』
「……」
か弱い少女が懇願するような、そんな印象を受ける樹の声に、ラピードは足を止めた。
樹の力を他のことで消耗させるのは、決して良いことではない。それが分かっていながらも、樹の提案はラピードにとって魅力的すぎた。
『あなたから…感じ取れる、願いは……これで合って…います、か…? あなたは、これなら……喜んで、くれますか……?』
途切れ途切れの抑揚のない声は、何か報いようと必死のようだ。守り守られ、人との長い交流を持ってきた樹は、奇妙なところで人間臭さを帯びてしまったらしい。
ラピードはしばし逡巡し、樹に向き直った。
『有り難い申し出だが、それでお前が弱るようなら意味がない』
『……しかし』
『だから、半日。……この辺りが妥協点だろう』
ラピードが鼻で息をしてそう言うと、樹はしばらく沈黙して、意味を呑み込んだように微かに枝葉を揺らした。
『はい……。では…、半日』
『ああ。本当は断る方が、いいんだろうがな』
『いいえ…。半日、あなたを…人の姿にします。……喜んで、くれますか?』
『……ああ』
律儀に語りかける樹に、微かに苦笑を滲ませながら、ラピードは頷く。この樹は、役に立ちたいという思いが強いようだ。
純粋で献身的な姿は、同じ桃色の髪の少女を思い起こさせた。
『良い時間を……過ごして、ください』
慈しむような言葉と共に、ハルルの樹はその携えた花びらを震わせ、神々しい光を纏った。




白昼の奇跡




日の光が窓から差し込むと同時に、フレンはいつもの習慣で目が覚めた。
朝日が覗いたばかりのこの時刻は些か早いと部下によく言われるが、騎士団長代理に就任するずっと前から――それこそユーリと騎士団に入る前から続けていることで、特別に苦なことではなかった。騎士団に入ったばかりの頃は、夜明けとともにラピードと散歩に出掛けるのが日課だったほどだ。
世界の状況を説明するため、中立地帯や孤立状態の都市に騎士団代表として説明する日々が続いていたフレンは、たまたま立ち寄ったハルルの街でユーリ達と出会ったのを期に、その日は部下から半ば無理矢理、休日を言い渡されていた。なかなか休もうとしない上司を心配しての計らいだが、何か問題が起これば関係なく出向かなければならないだろうことは、想像に難くない。それが上に立つ者としての役割なのだから、致し方ないことだった。
しかし何よりも。フレンは自分の隣の不自然な空白に、眉を寄せて顔を上げた。寝る前は確かに居たはずの、温もりがいつの間にかそこにはなかった。
「ラピード……?」
体を起こし、フレンは青い姿を求めて部屋を見渡す。ベッドが1つだけのシングルルームに置かれてあるのは小さいテーブルくらいのものだった。見渡しのいい中で、探す姿がないのは明白だ。
偶然ユーリ達と同じ街で泊まることになった昨夜、ユーリと談笑した後、寝ようと明かりを消したところでカリカリと前足で戸を引っ掻く音でラピードの来訪に気付き、部屋へ招いたのだ。隣の部屋で凛々の明星のメンバーが寝ていることもあって別に何をするわけでもなく、色々と話したあと(もっぱらフレンが一方的にだが)、寄り添って眠った。
フレンはいつも通りの早起きのはずだったが、ラピードはもっと早かったのかもしれない。そう思い、フレンは私服に着替えてからラピードを探しに行こうと考えた。
しかし、貴重品と護身用の剣を持ったのを再確認して、フレンがドアノブを掴もうとした瞬間、思いがけず向こうから扉が開いた。
「!」
「……えっ?」
鉢合わせした相手を見上げ、フレンは思わず驚きの声をあげる。相手もフレンが立っていたことに驚いたようで、切れ長の眼を瞠っていた。
部屋の扉を開けたのは、見知らぬ男だった。長身のフレンを更に上回る背丈は、まるで壁があるかのようだ。だが、肩に付くか付かないかの伸びっぱなしな青い髪や纏う紺色の服が、なめし革のような強靭な痩身を強調していて、迫力はあっても威圧感はなかった。体のラインが分かるその服装は、どことなく雰囲気がリタやレイヴンに似ている。
少し目線が上の、男の顔へと目を向けると、はっきりとした特徴に気付いた。
男の左眼は固く閉ざされ、縦に走った傷痕で封をされていた。残った右目は髪や服と同じ青色で、目尻が切れ上がっていて鋭い。そして、薄い唇の間には見覚えのある煙管がくわえられていた。
その特徴の数々に、思わずフレンは息を呑む。
「ラ……っ!? …い、いや……まさか」
叫びそうになって、咄嗟に口許を押さえる。いくら彼を連想する特徴があるとはいえ、同一であるはずがない。
だが、混乱して固まるフレンを見て、男は見開いていた眼を細めて口許に笑みを浮かべた。
「フレン……」
「……えっ?」
低い、体の芯に響くような声で呼ばれ、思わずフレンの鼓動が跳ね上がる。見知らぬはずの男が自分の名前を知っていることに、フレンはさらに混乱した。
疑問の言葉がまとまらず、口をぱくぱくさせていると、男は可笑しそうに笑った。
「フレン、俺だ。……ラピードだ」
「ぇ……ぇえっ!?」
「信じられないと思うが、今は一時的に人間の姿になってる」
男の告白に、流石のフレンも絶句する。
この人が、ラピード……? いや、確かに自分も見た瞬間にそう思ったが、そんな都合のいい奇跡が起こるものだろうか?
どんなに愛しい相手でも、ラピードが犬であることは、自分が一番分かっている。
益々理解できずに、視線を泳がすフレンに、男が手を伸ばし――髪を分けいって、こめかみの辺りに触れた。
普段は長く伸びた髪に隠れて見えない傷痕に、大きな手が触れる。
「ここ、やっぱり一生傷になってたか……」
「! なんで知って……」
「俺のせいで負った傷だ、忘れられるはずもないだろ。……あの時はすまなかったな」
「――!!」
男の言葉に、フレンは息を呑んだ。触れられているその古傷は、自分とユーリと……ラピードしか知り得ないことだった。
昔、ラピードがまだ小さかった頃に街の外へ出てしまい、魔物に襲われたことがあった。その時にラピードは左目を傷つけられ、助けに入ったフレンもまた、傷を負ったのだ。ラピードは大怪我だったために下町の人々も知っているが、フレンのこめかみの傷は応急措置を施しただけで、髪の下に隠れていたため気付かれることがなかったのだ。
「まさか……本当に?」
そんなこと、あるはずない。そう理性は冷静に訴えるが、そんな奇跡があると仮定しなければ、男の言動は説明がつかない。
それに……この凛とした気配は、やはりラピードと同じだった。
「俺自身もまだ信じられないくらいだしな。今すぐ信じろとは言わんさ……」
「ううん、君だと信じるよ。ラピード」
苦笑を浮かべた男に、フレンは真っ直ぐ視線を向けた。その迷いのない眼差しに、男が驚いたように動きを止める。
そうだ。自分がラピードを間違えるはずがない。どんな姿であったとしても。
フレンは男を見つめたまま、にこりと柔らかい笑みを浮かべた。
「だって君は、僕の大好きなヒトだからね」
「……!」
純粋無垢な笑顔でそう言ったフレンに、男は目を見開き――野性味の強い精悍な顔を、ほのかに赤く染めた。
浅く焼けた肌が色付くのは一見分かりにくいが、視線を逸らして悔しそうに歯を噛み、鋭い犬歯を覗かせる様は、照れを隠そうとしているのが分かる。その様子に、フレンは笑みを深めた。
「あはは、可愛いなぁ」
「……それは俺のセリフだぜ」
思わずからかうでもない、純粋に愛しくてそう言ったフレンに、男は半眼になって獰猛な眼差しを向けた。それに驚く間もなく、フレンは男の手に顎を取られる。
そして一瞬で引き寄せられ、唇が触れ合った。上唇をぺろりと舐めてすぐに離れたその温もりを、フレンは呆然と見送る。
「フレンの方が、可愛いだろうが」
「っ! な、何……言ってるんだい!? 男にそれは、誉め言葉じゃないよッ」
鋭い眼を細め、楽しそうにそう言われてしまい、フレンは顔に熱をのぼらせて抗議した。しかし男は薄く笑って流すだけだ。
恥ずかしげもなくそういうことをしてしまうのは、やはり犬だからだろうか。そんなことを思いながら、フレンが視線を泳がしたとき――こちらを凝視する老人が、廊下に立っていることに気付いた。
「!」
思わずビクリと肩を跳ねさせたフレンに、男は怪訝な顔をする。眼を瞠って後方を見やるフレンに、男も視線を辿って振り返ろうとしたが――強く引っ張られて叶わなかった。
後ろを見させないフレンに、男は腕を取られたまま不可解な表情をする。
「どうした」
「いいからっ、とりあえず中に入ろう! 話はそれからだよ……!」
焦りながらも、フレンはそう言って男を部屋の中へと引っ張り込む。あまりの衝撃的な展開に忘れていたが、ここは街の宿屋で、立っていたのは部屋の入り口だ。誰に見咎められたっておかしくない。
幸い、こちらを見ていた見知らぬ老人は男がフレンにキスしていたことを、いまいち理解していない様だった。一瞬だったことと、それなりに距離があったために確信を持たれなかったようだが、いつこちらの正体に気付かれるか分からない。
自分の顔がそれなりに知られていることを、フレンは承知していた。犬の姿のラピードにじゃれつかれるならまだしも、流石に今の姿のラピードでは、いらぬ噂がたつのは目に見えている。
人間になって感覚や嗅覚が鈍ったのか、老人の存在に気付いていないらしい男の手を取って部屋に引き入れ、フレンは慌てて扉を閉めたのだった。







自分より目線が上になってしまったラピードから事のあらましを聞き、フレンは納得したと同時に、嬉しいような寂しいような複雑な気分を味わった。
「そっか……。昼頃には、元に戻ってしまうんだね」
「ああ。正確には3時頃だろう。……すまんな、ずっとこの姿でいてやれなくて」
「! そんなことないよ、僕は犬のラピードも大好きだよ?」
謝るラピードに、フレンは慌てる。聡い彼には、フレンの小さな落胆が感じ取れてしまったのだろう。
確かに、人間の姿であれば便利なことは多いとフレンも思う。言葉が交わせるし、同じ目線で物事が見れる。パートナーとして周囲に認めてもらうのも、まだ容易い。
だが、それはもはや今更だとも感じた。言葉で会話が出来なくとも、フレンとラピードは今までの長い付き合いから、態度で意味は汲み取れる。それに、下手な大人より冷静なラピードの行動は、人間に引けを取らない。犬だからこそ、人前で気兼ねなく抱き締められるというのもある。
だから、必ずしも自分と同じである必要はないのだとフレンは思う。違うからこそ出会い、今まで一緒にやってこれた。
隻眼でこちらを窺うように見るラピードに、フレンは笑いかけた。
「……大丈夫。君が何であろうと、君が君である限り、僕はずっと好きだから」
「フレン……」
そう言うと、ラピードは少し眼を見張ってから、薄く笑って応える。
「……ずっと、言葉で伝えたいことがあった」
「? なに?」
青い髪を揺らし、ラピードが改まってこちらを向き直った。狭い部屋にあるベッドに二人で腰掛けた状態で、フレンは隣のラピードの緊張した気配を感じて首を傾げる。
彫りが深く、野性味の強い整った顔に至近距離でじっと見つめられ、フレンの鼓動が跳ねた。
「俺は、フレンが好きだ」
「!」
「こればっかりは、言葉にしなければ伝わらない……。俺はお前をただ、主人として好きなわけじゃない。一生そばに居て守り抜きたいし……どうしても、欲しいんだ」
「え……ぁッ」
予想外に直球なラピードの告白に驚いている間に、フレンは腕を取られて肩を押された。勢い、ベッドへ仰向けに倒れ込んだフレンの上に、ラピードの大きな体がのし掛かる。
絡み合う足や重なる体温に、フレンは状況を理解して、一気に顔を赤らめた。
「ちょっと…、ラピードっ?」
「この姿なら、まだやり易いはずだよな?」
「! そ、そういう問題じゃ……んッ」
急に雄の表情を覗かせたラピードはフレンの首筋に顔を埋め、軽く吸い上げきた。ぴりっと走った痛みに思わず呻いたフレンが、押し退けようとした手を一瞬止めると、その隙にラピードの大きな手がシャツの下へ潜り込んでくる。
私服に身を包んだフレンは、普段の重装備とは違い軽装だった。その為あっさりと侵入を果たしたラピードの手は素肌を這い、フレンの腰骨を撫でて、臀部を鷲掴みにする。一瞬で暴かれて手中に収まってしまったことに、自分のことながら唖然としてしまったフレンは、次いでラピードの性急な口付けを受けて眉を寄せた。
「んん…ッ!」
それはまさに、喰らいつくようなキスだった。技巧がどうとか、そういうことは考えていないようなラピードのキスは、純粋に想いを表そうとぶつけてくる。苦しいほどの口腔への愛撫は乱暴だとも取れるが、もともと犬に『舐める』という概念はあっても『キス』という行為自体がないのだろう。
恐らくはどこかで見た、人間の愛情表現を真似ているのかもしれない。時折息継ぎに唇を離すが、長い舌がべろりと溢れた唾液を掬い取る様は、仕留めた兎を食む狼のようにひどく野生的だ。
顎を伝う生暖かく濡れた感触に、悪寒に似た刺激が背筋を走り抜けた。
「やめ…っぁ、こら……ラピードッ!」
「フレン……」
「…ッ、く…っ」
圧し掛かる体を退けようと、フレンは力の抜けそうな腕で懸命に筋肉質な両肩を押すが、首筋に喰らい歯を立てられて体を強張らせてしまう。本気で噛み切るつもりはないのだろう。けれど鋭い犬歯が動脈の上に当てられ、皮膚に喰い込む痛みは、本能的な恐怖を煽った。
しかし同時に、そんな真似をしてまで自分を欲しているラピードの感情をはっきりと感じて、フレンの理性を揺さぶった。
本当は、別に性行為自体は構わないと思っている。ラピードはラピード、本来の姿であろうと仮初めの姿であろうと、彼であるなら拒む理由はない。
だが、この姿で接することができるのがあと数時間しかないとしたら、それは話が違ってくる。顔を摺り寄せ、歯を立てるラピードを押しやろうとフレンはもがいた。
「ダメだ、今はこういうのは……っひぅ!?」
しかしなんとか制止しようと言葉を紡ごうとした途端、鷲掴まれた臀部の奥に太い指が潜り込み、敏感な箇所をぐりっと抉られてフレンは思わず声を跳ね上げる。未知の刺激に、フレンはただ体を震わせた。嫌がらせや妬みで押し倒されたことは何度かあるが、流石にここまで触れさせたことはない。
ラピードだからこそ完全に拒みきれないのだが、しかしそれは時と場合による。欲しがられ、弄られる熱いの手に頬を染めながらも、フレンは理性を奮い立たせてラピードを睨み付けた。
「ラピード、待てッ!」
「!」
鋭く叫んだフレンの命令に、ラピードはびくりと体を強張らせ、まさぐっていた手を止めた。滅多に使わないが、子犬のときに躾として教え込ませた『命令』が効いたらしく、反射的にラピードは硬直する。
凍ったように動かなくなったのを見て、乱れた呼吸を整えたフレンは、ラピードに笑いかけた。
「今は、こういうこと…するのは勿体無いだろう? 折角、言葉が通じてるんだし、他のことをした方が有意義だよ」
「……他? だがこの姿の方が、フレンには抵抗が少ないんだろう?」
拒む理由が分からないと言わんばかりに、硬直から解けたラピードは僅かに首を傾げる。ラピードは自身が犬であること、フレンが人間であることを承知しているが故に、人間同士なら性行為に嫌悪を抱かないはずだと考えたのだろう。一般的に言えば確かにそれは多数意見だろうが、既に先日の逢瀬で腹を括っているフレンには、それは瑣末な問題でしかなかった。
フレンはいつもと同じようにラピードの首の辺りを撫でて、苦笑を零した。
「気を遣ってくれてるのは分かるけど、いつもの姿でも僕は全然構わないんだよ。そんなことは、最初から承知の上だろう?」
「それはそうだが……」
「じゃあ今更だ、気にすることじゃない。折角今は話ができるんだから、それを楽しもう。……ね? ラピード」
普段は豊かな毛並みに覆われているはずの、剥き出しの首元を優しく撫でながらにこにこと笑うフレンに圧され、ラピードは押し黙る。伸びっぱなしの無造作な髪にも手を伸ばし、フレンは少し躊躇いながら一つの我侭を口にした。
「ね、一緒に出掛けよう。君と、街を見て回りたい」
「……出掛けたい?」
「うん。……散歩じゃなくて、買い物をしに、ね」
含みを持たせたフレンの言葉に、ラピードは無表情のまま瞬きをする。何がどう違うのか分からないという顔を、組み敷かれたまま見上げてフレンは苦笑を浮かべた。
「折角だからこの機会に、何か君の気に入った物を買ってあげるよ。いつもの君の視点では、品物が見えにくいから」
「……そうか。そういうことか」
ただ店の前を一緒に歩くのではなく、店先に並ぶものを同じ視点で見て楽しむ。そういうことを示唆しているのだと気付き、ラピードは意外そうに、だが納得したように頷いた。
低い位置に物が置かれていれば見えるが、そうでない場合も多い。店によってはそもそも人間以外を入れてもらえないところもある。そういった障害は、人の姿をとっている今のラピードにはない。
今しかできないことを、したい。それが、ラピードの姿が変わってフレンが最初に思ったことだった。
「分かった。行こう、フレン」
「うん。……わわっ」
同意を示したラピードは、フレンが自力で起き上がる前に、力任せに引っ張り上げられて驚く。手で何かを掴むのが慣れないのか、握力がなかなかに容赦ない。
顔をしかめるこちらをまたも首を傾げて見るラピードの、精悍な顔と動物的な仕草とのミスマッチに、思わず笑みをこぼすフレンだった。













朝早くに店は空いてないかもしれないという危惧はあったが、幸い朝市のような野菜や果物などの売り場が出ていた。ラピードはフレンに連れられ、市場を見て歩く。
途中、いらないと言うラピードの遠慮を押しのけてフレンに装飾品を買われてしまったりと、さほど大きくない街だが買い物としての醍醐味は満喫していた。
「……この辺りは、土に養分が多いのかもしれないね。位置的に暖かくはないはずなのに、採れる野菜が多いみたいだ」
「そうらしいな。地形的に恵まれてるのかもしれん」
店先に並べられた様々な色や形の野菜を見ながら、フレンが笑顔でそう話しかける。最も大きい都市である帝都に長くいたのだから、特産物を見るのはさほど珍しいわけではないはずなのだが、とても楽しそうでリラックスしているのが分かった。
自分と居てそう思ってくれるなら、それ以上嬉しいことはない。昔と変わらず、フレンの笑顔は純粋なままだ。
しかし無防備な笑みがだだ漏れで、周りの目を引いてしまっているのは難点だとも思った。噂の新しい騎士団長代理ということもあって注目されているせいで、人々からは余計に好奇の目が向けられる。
思わずこちらに振り向かせようとラピードがフレンの袖を引くと、青い瞳がこちらを見るのと同時に、周囲の目まで一斉にこちらへ向いた。
「……!?」
他の客や通行人ばかりか、店の人にまで好奇の目で見られ、ラピードは思わずたじろぐ。
僅かに顔を引きつらせたラピードに気付き、フレンが苦笑を浮かべた。
……なんなんだ?
周りの視線を集めている理由が分かっているかのようなフレンの表情に、不審の眼差しを向けると、フレンが剣を握るには華奢に思える手でラピードの手を取った。
「あっちにベンチがあるし、行こうか」
「……ああ」
意図が分からぬままラピードが生返事を返すと、フレンは周囲の人々に軽く会釈してから手を引いて、坂の横道へと入っていった。
そこは早い時間帯なせいか人影はなく、緩やかに風が通り抜けるだけの拓けた場所だった。人の目がなくなったのを確認して、急にフレンが歩を緩める。
腕を引かれていたラピードがなんだろうと視線を向けた途端、声を立ててフレンが笑い出した。
「ぁはは…っ、やっぱりラピードは目立つね!」
「……どういう意味だ」
まるで注目されるのを予想していたかのような物言いに、ラピードの青い隻眼が剣呑に光る。それとももしや、どこか人間と違うところがあって、気付かぬ間に可笑しい行動でも取っていたのだろうか。
戸惑うラピードに、しかしフレンは優しい笑顔を向けた。
「ラピード、格好いいからね。それで目立ってたんだよ」
「……は?」
思わぬフレンの指摘に、ラピードは目を瞬く。
格好いい? そんな理由なのか? 大体、今の自分の姿が人間に好感を持たれるものかどうかすら、よく分からない。
反射的に眉根を寄せたラピードが、よっぽど複雑な表情をしていたのだろう、フレンがたまらずといった様子で吹き出した。
「本当だよ、格好いいんだってば! 服装が少し独特だけど、かえってそれが似合ってるし。……僕と一緒にいたから、余計に注目されたのかもね」
無駄に有名なのは自分でも分かってるから、とフレンは笑いながら付け足す。
つまり話を要約すると、ラピードの容姿は他より目を引くもので、騎士団長代理のフレンと一緒にいた為に、余計に人々の興味を引いてしまったということか。
状況を理解して、ラピードは思わず眉間の皺を深めた。
「この姿なら一緒にいられると思ったんだがな。もとの姿の方が良かったか……」
「そんなことないよ! だって……手を握って歩くのは出来ないだろう?」
そう言って笑い、フレンはラピードの手に指を絡める。温かい指が触れる感触に、ラピードは不思議な心地で握り返した。
確かに、こういう接触は感覚に覚えがない。フレンがラピードの頭を撫でることや、ラピードがフレンにじゃれついて飛びかかることはあっても、お互いが触り合っているという状態はなかった。
そうか、こういうことが出来るのか、と妙に感心しながらラピードは絡んでくる手に、こちらの指を絡めて感触を確かめる。
フレンもそれが嬉しいのか、微笑んで手を引いた。
「あのベンチに座ろう。…で、いっぱい話そうよ」
「そうだな」
頷いて、ラピードも誘われるままにベンチへと歩く。
こうして言葉が交わせる時間は残り少ない。それをひしひしと感じながら、それでも笑顔を絶やさないフレンの横顔をラピードはじっと見つめた。






ラピードと会話が出来ればどんなに楽しいだろうと、フレンはいつも思っていた。
偶然にもそれが実現したことは、本当に嬉しかった。だがそれが一時的なものであり、幻の如くすぐに戻ってしまうのなら、それはもしかすると残酷なことなのかもしれないとも思った。
今まで出来なかったことが、今は出来る。だが、もう数時間経てば出来なくなる。それが分かっているからこそ、不安が生まれる。
出来ることの便利さを知ってしまえば、出来なくなることに以前よりも強く不満を抱くのではないか。その喜びを知れば、以前は漠然としか願っていなかった身勝手な望みが、より強くなるのではないか。
醜い欲望が膨れ上がるのを、果たして自分は抑え切れるだろうか。そんな、自分に対する不安をフレンは抱きながらも、願いが叶った今の時間を大切にしようと努めた。
それでも、ラピードとの会話は純粋に楽しかった。ほとんどは下町時代の話だったが、あの時どう思っていたか、なんであの時吠えたのかなど、分からなかったラピードの言動の意味を聞かされて、なるほどと思うことも多かった。
しかし、楽しい時間ほどすぐに過ぎてしまうもので、早朝から話していたにも関わらず、気が付けばいつの間にか太陽は真上に来ていた。
「あはは。本当にあの時の貴族達の顔ったら、なかったよね」
「なに、あんな連中くらい幾らでも出し抜ける――」
悪いと思いつつも散々誹謗中傷を浴びせられてきた相手の悪口に乗っていたところで、急にラピードは途中で言葉を切り、動きを止めた。凍りついたような表情に、フレンが不安を覚えて覗き込むと、遅れてフレンも遠くの喧騒に気付く。
複数の悲鳴や叫び声。遠いが、街の人々が騒然となっているのを感じ、瞬時にフレンとラピードは目配せした。立ち上がり、声のする方へと顔を向ける。
「何かあったのか!?」
「魔物だ。魔物が、入り込んできた……!」
鼻をひくつかせ、ラピードがそう呟いた。本来ほどの鋭い嗅覚は失われているが、常人よりは優れているらしい。精悍なラピードの顔は険しかった。
「行こう!」
反射的に腰の剣に触れて帯刀を確かめてから、フレンは叫ぶ。民に危害が及ばぬよう、体を張って守るのが騎士の仕事だ。いつもの愛剣ではなく護身用の剣だが、この際致し方ない。
フレンは騒がしい方へと、返事も待たずに走り出した。その隣をラピードも青い衣をはためかせて、寄り添うように走る。
二人並んで走るのは、二年ほど前なら当たり前だった。下町の噴水前でよく駆け回って遊んだものだ。だが、今はそれを懐かしく感じるようになってしまった。
青年の姿を借りているラピードの横顔を窺うと、彼は苦渋の表情を浮かべていた。
「……恐らく、俺のせいだ」
「え?」
ぼそりと呟かれた言葉に、足を動かしながらもフレンは疑問の声をあげる。こちらを一瞥し、ラピードがどこか諦めたような乾いた笑みを浮かべた。
「俺がこの姿でいることが、ハルルの結界を弱めている」
「! そんな……」
「事実だ。俺が元に戻れば、ハルルは本来の力を取り戻すだろう」
ラピードの言葉に、思わずフレンは沈黙する。姿が変わった経緯をすでに聞いていたフレンには、その予想が正しいであろうことが分かっていた。
約束通りの時間ならば、あと三時間以上は人間の姿を保てたはずだが、それすら許されないらしい。とはいえ、ハルルの樹や街の人々に、自分達の勝手な願いで迷惑を掛けるわけにはいかない。
……それに、フレンにはラピードが一緒に居てくれるという事実だけでも、十分だった。犬の姿であろうと人間の姿であろうと、関係ない。自分のことを想ってくれていると分かったのだから、それ以上望むものはなかった。
「まず先に魔物を倒してから、ハルルの樹に元の姿へ戻してもらおう」
「そうだな。それしかない」
フレンの提案に、ラピードも頷く。
残念だという思いはあるが、仕方のないことだ。…いや、本来ならば決して叶わなかったことを現実にしてくれたのだから、ハルルの樹には感謝しなくてはならない。
視界に見えてきた大きな熊やカマキリの姿をした魔物の群れと、逃げ惑う街の人々のもとへと走りながら、フレンは剣を引き抜いた。
「ラピード。……僕はこれからも変わらず、君が大好きだよ」
「! フレン?」
突然の静かな告白に、ラピードが目を瞠る。剣を構え、フレンは厳しい表情で前方を見据えながらも、微かに頬を染めた。
「だから……だから、もし世界が無事だったら、いつか僕の傍に来てほしい」
「……!」
「ダメかな?」
込み上げる恥ずかしさを抑えながら、フレンはちらりとラピードを肩越しに見やる。本当は、すべてが終わって落ち着いた頃に言うべきことだったが、今を逃せばラピードの意思を明確に問える機会を失ってしまう。
暗に、ユーリ達にではなく自分とともに騎士団で働かないかという誘いに、ラピードは隻眼を見開き――苦笑を浮かべた。
「何のために、俺が腕を磨いてると思ってる。お前といるために決まってるだろう」
「……ラピード」
小刀を抜いて構え、ラピードは口端を上げた。鋭く野性的な眼差しに真っ直ぐ射抜かれ、不覚にもフレンの鼓動は大きく跳ねた。
……ああ、やっぱり君と一緒がいい。
胸が熱くなるのを感じ、フレンは柔らかく微笑む。
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ」
頬を染めて、溢れるような慈しみの笑みを向けられたラピードは、少しこそばゆいように苦笑いを浮かべた。
「分かったなら、不安がるな。俺はいつでもお前と共にある」
「……うん」
返ってきた言葉の力強さに、フレンはこくりと頷く。気持ちが永劫変わることはないと信じられるほど、既に純粋ではいられなくなってしまったが、少なくとも今ラピードはフレンとの未来を望んでいる。その事実が、何よりも嬉しかった。
「……さぁ、じゃあここを一気に片付けよう!」
「ああ!」
フレンは目の前まで迫った魔物へと切っ先を向け、フレンは叫ぶ。ラピードも吼えるように応えた。






空中要塞の攻略中で疲れて眠っていたユーリやレイヴン、カロルは昼まで起きる気配を見せなかったが、ノックも荒々しく扉を勢い良く開けたリタの叫びに目覚めを余儀なくされた。
「ちょっと、いい加減起きなさいよアンタ達ッ! この大変なときに呑気に寝てるんじゃないわよ!」
しかしリタの叱咤も虚しく、男三人の反応は実に鈍かった。
「うるせぇな……なんなんだよ……」
一応聞こえてはいたのか、ユーリとカロルがまるでゾンビのようにのろのろとベッドから起き上がる。目も開けないまま、顰めっ面のユーリが長い髪を掻き乱して悪態をついた。
どうやら連日戦い通しなために、疲れが蓄積しているらしい。体力勝負の遺跡探索ならば男性陣の方が向いてるだろうと、ここ最近は三人が常に前線へ出っぱなしだった。
そのせいか、問題が起きたとなればいつも乗り出すはずのユーリが、眠気に項垂れたままだ。カロルも首領としての責任から起きはするものの、時折白目を剥いており、とてもまともに起きているとは言い難かった。
レイヴンに至っては、シーツにくるまったまま動く気配すらない。
「シャンとしなさいよッ、街で魔物が暴れてるの! あの天然騎士様が止めに行ってるみたいだけど、手伝わなくてもいいの!? エステルだって怪我人の手当てで残ってるんだから!」
疲れているとはいえ見るに耐えない男共の有り様に、リタが見えない耳と尻尾を逆立てて、甲高く叫んだ。じゃあお前が行けよという反論をされる可能性は無きにしもあらずだが、リタの魔法は強力であるほど攻撃範囲が広く、街中で行使するにはリスクを伴う。
一緒に街へ散歩に出ていたエステルは、魔物の襲撃に怪我を負った人々の治癒に忙しく、その場に留まった。だから、知らせに来たリタが男達を引き連れねば、エステルの危険も負担も増す。
いっそ火の玉でも叩き込んでやろうかと帯を取り出したリタだったが、急に跳ね起きたユーリがブーツを履いて刀を握るのを見て、押し留めた。
「どこだ。店の方か?」
「……ううん、そこから坂を下りたところ。っていうか、アンタいきなり起きたわね」
さっきまでの寝ぼけ眼は幻覚かと思ってしまいそうな態度の豹変ぶりに、リタは呆れを通り越して感心する。恐らく、エステルとフレンの名が出たからだろうが、それをわざわざ確認する時間はなかった。
リタの返答にすぐさま身を翻したユーリは、部屋を飛び出していた。そのまま軽々と柵を飛び越え、二階の廊下から一階ホールへと着地する。あとを追って二階の柵から下を見たリタは、走って宿屋を出ていくユーリの後ろ姿に、これまた呆れた視線を向けた。
「なんて現金……」
口では言わないが行動に出るユーリに、リタは思わず苦笑を浮かべる。何を考えているか分からないようで、意外に単純なのかもしれない。
まあ、人のことは言えないが。
「あたしも行かなきゃいけないわね」
怪我人を助けようと、ひたむきなお姫様の姿はもはや想像に容易い。
まだ夢の世界の住人と化しているレイヴンとカロルは放っておいて、リタも階段を下り始めた。






ユーリの後を追ったリタは、息を弾ませて喧騒の中心へと近付いたのだが、予想とは少し違う雰囲気に包まれていることに気付いて歩を緩めた。
最初に見た、魔物の襲撃に悲鳴をあげて逃げ惑っていた住民達が、何故か壁を作るように棒立ちになっている。不審に顔をしかめながらも何が起こっているのか確かめようと、リタは周りの人垣を避け、皆が目を向ける中心へと近付いた。
しかしやっと人壁を通り抜けたところで、黒い大きな壁にぶち当たる。リタは思わずムッとして睨み上げると、それは意外にも先に行っていたはずのユーリの背だった。
いつもどこか人を食った笑みを浮かべて飄々としているはずの男が、何故か呆然と目を見開いて固まっていた。その表情を仰ぎ見たリタは驚き、その向けた視線の先を辿る。
眼の前には、まだ4体の魔物がいた。だがそれを恐れるでもなく人々は周りを囲み、中心で剣を振るう2人の人物へと魅入られたように視線を向けていた。
1人は、鮮やかな金髪を靡かせていつもより軽装で剣を振るう、フレン。騎士団長代理の肩書を持つが故に、どこに居ようと否が応でも注目を浴びてしまうのだろう。
だが、それはリタには既に承知の上だった。彼が真っ先に駆けつけ、通りかかったリタとエステルに応援を呼ぶように指示を出したのだから。
しかしリタの目に映った人影は、フレンだけではなかった。ユーリと同じく長身のフレンよりも上回る上背の男が、フレンと並んで小刀を振るっている。
青い衣に、青い髪。痩身は筋肉だけで構成されているのか、動きは素早く無駄がなかった。刃渡りの短さを活かした小回りの良さは、魔物の懐に飛び込むことを容易にし、反撃の暇も与えずに喉を掻き切っていく。
武装を解いた私服のフレンの、軽やかな舞のような剣技とぶつかることもなく、まるで示し合わせたかのように息のあった闘いぶりに、周りと同じくリタもそれを呆然と見つめていた。
「誰、あれ……」
「……知らねぇ」
一体あの男は何者だ?と疑問を抱くリタと同じく、ユーリも眼前の光景から目を離せぬまま首を横に振る。幼馴染のユーリが知らないとなると、騎士団の団員だろうかと考えるが、リタはそれを即座に打ち消した。
あのフレンと肩を並べて見劣りしないほどの腕を持つ者を、ちらりとも見たことがないなど、あり得ない話だ。それともレイヴンのように、姿をくらませている期間の方が長い団員なのだろうか? それにしても、これほど目立つ格好の男を、噂にさえ聞いたことがないのは不自然だろう。
事態が呑み込めずに戸惑っている間に、2人は残った魔物をすべて斬れ伏し、剣の切っ先を下げた。乱れ落ちた前髪を掻き上げ、フレンは顔を上げる。
静寂が降り下りたと思った瞬間。
「凄い! 流石、騎士様!」
「ありがとうーッッ!!」
唐突に、四方八方から人々の歓声が湧き上がった。口々に喜びを叫ぶ大声援に、フレンと青い男はビクリと肩を跳ね上げる。
戸惑った様子で周囲を見渡す青い男が、たまたまこちらに顔を向け、リタは思わず口の中で「あっ」と漏らした。
その男は左目が欠けていたのだ。縦に走る大きな傷跡と、口元に咥えた煙管に、リタは既視感を覚える。しかしその要因に考えが至る前に、フレンがこちらの存在に気付き、焦ったように青い男の手を掴んだ。
「す、すみませんっ…ごめんなさい、通してください! 彼が怪我したみたいなので……!」
突然そう叫んだかと思うと、フレンは男の手を強引に引っ張り、駆け寄る人々の間を器用にすり抜けいく。されるがままに引きずられていった男も驚いた表情のまま、フレンについて人々の輪から抜け出していた。
あれだけ危なげもなく、見惚れるほど優雅に闘っていて怪我も何もないだろう。そんなことをリタは冷静に突っ込むが、周りは嵐のようなフレンの唐突な行動について行けず、既に遠くへ走り去った後姿を呆然と見つめることになった。
「……さ、ってと。仕事しなくちゃね」
お礼を言う相手を見失って立ち尽くす人々を、溜め息を吐きながら見つめ、リタは腰に手を当ててユーリの背を叩く。急な衝撃に肩を跳ねさせたユーリはこちらを振り返り、盛大に歪んだ顔で睨んできた。
「なんだよ」
「ほら。妬いてないで、怪我人の誘導。あと魔物の死体処理。ギルドは庶民の味方なんでしょ?」
「……! や、妬くってなんのことだッ」
リタの軽口に、珍しくユーリが動揺したように顔を強張らせて叫ぶ。それを、ちょっと面白い…などと内心思いつつ、リタはそれ以上そのことをつつくことはしなかった。
フレンが隠したがった青い男の正体になんとなく察しがついてしまったので、下手に掻き回すのはやぶ蛇というものだ……。















不意の襲撃であったにも関わらず、ハルルの街での騒動は大した被害もなく、半日と経たず問題なく治まった。鮮やかに魔物を撃退したフレンと謎の男の話題でしばらく持ち切りなったが、結局その正体を知る者は誰もいなかった。
「……皆さん、本当に申し訳ございませんでした」
事後処理も終りに近付いた頃、唐突に姿を消したフレンがユーリ達のもとに戻ってきて、深々と頭を下げた。現場を離れたことを悔やんでのことだろうと思うが、非番にも関わらずその腕を振るってくれたことを感謝こそすれ、責めるはずもなく、凛々の明星は笑って迎え入れる。
それからしばらく感謝と謝罪を述べていたフレンの後ろから、滑り込むようにドアの隙間から入る一つの影。
長い尾を揺らめかせ、部屋を横切っていくその姿を眼の端に収め、リタはさり気なく隅へと行く青い犬のあとを追った。物陰に隠れるように床へ伏せた犬の様子を窺いながら、リタは近くのベッドに腰掛ける。
「鎖に引っ掛けてあるの、綺麗ね」
「……」
「ま。良かったじゃない、犬っころ」
「……ワゥ」
少し意地の悪い笑みを浮かべて指摘してやると、青い犬は「分かっているなら聞くな」とでも言うように、鼻息交じりの返事を寄越してきた。その様子に自分の推測が当たったことを確信して笑むが、どうしてそうなったかまでは流石に稀代の魔導少女でも分からない。
青い犬の首元で輝く青い宝石『クローナシンボル』を見つめながら、今度にでも天然騎士様を問い詰めてみようと、探究心に火のついたリタは密かに思ったのだった。












END





長ぇ! …禁断の擬人化を一度だけ…と思ったら、色々書きたくて長くなりました;