傍にいて
白い息を吐いて、カイはいつもの街を歩いていた。
ちらちらと降る雪は昨日までの激しさを失い、幾らか積もった白い雪の絨毯の上にパウダーをかけているかのようだった。すでに街の人達の手によって雪掻きをされた石垣の道は、その穏やかな雪に薄く包まれてはいたが、人通りの多いこの道ではすぐに踏まれて溶けざるをえなかった。それでも立ち並ぶ店や等間隔に植えられた木々の上には真っ白の雪が降り積もったままだった。
そんな純白の世界は今、色とりどりの装飾や灯でなんとも見目鮮やかなものとなっていた。肌を刺すような寒さであるにも関わらず人々が街に出、賑やかに活気を放つのは、ひとえに今日という日が皆にとって特別であったからだった。
街はすでにクリスマス一色。多くの人がこの大イベントを最大限に楽しもうと、手間も時間もかけて祝いの準備をしている午前だった。
カイもそうしてクリスマスを楽しみに待つ者の一人だ。
「えっと、次は……」
小さなメモ用紙を見ながら、カイは食料品店に向かう。近くの行き慣れたその比較的規模の小さい店では、いつもの倍近くに増えた、買うべき食材がすべて買えるかどうかは難しいところだが、あまり遠出するのも憚られた。
カイはつい最近、借金のために奴隷の身分へと落ちた。買い手が決まるまでは自分がこの先一体どうなってしまうのか検討もつかず、不安に満ちた日々を送っていたが、今の主人に買われてからは不安などどこかへ消えてしまった。
今、カイの主人はソル=バッドガイだった。大きな屋敷と莫大な財産を持った男である。親が残したその資産のおかげで働く必要もなく一生遊んで暮らせるはずなのだが、それを気にくわないと感じているらしい彼は特に道楽へのめり込むわけでもなく、一人でその屋敷に住み、翻訳の仕事をしていた。
とはいえ生来の面倒臭がりなせいか、ソルはその豪邸を極限まで放置して外泊ばかりしていた。それが随分長い間続いたようで、流石に屋敷の汚れ具合が嫌でも気になり始め、奴隷を買って清掃を任せようという結論に至ったらしい。そうしてカイはソルのもとへ連れてこられたのだった。
だが、外界のことに関心の薄かったソルは奴隷を選ぶときに「一番値の張る奴」と適当に注文した。価値が高いほど役に立つのだろうと思ってのことだったようだが、実際に「高級品」の扱いを受ける奴隷はすべて見目の良い者を指し、雑用ができるか否かが基準ではなかった。奴隷の用途自体が買い手の性を満足させるためだけであることが多かったためだ。
それを知らなかったソルはまだ成長途中のようなか細いカイを見て、当然の如く文句を言った。本来ならそこでカイは別の者と交換されるべきだったのである。
しかしソルの口の悪い揶揄にカチンときたカイが口答えしたのを見て、そんなに言うならやっとみろとカイを買い取ることに決めたのだ。
本当なら自分はソルに買ってもらえるほどの価値はなかった。その事実は今でもカイにとって負い目になっている。
「今日は頑張らないと……!」
クリスマスということで晩御飯を豪華にして驚かせようと計画しているカイは、気合いを入れるように拳を握った。確かに無愛想で強面ではあるが、優しく接してくれるソルに呆れられたくない一心でカイは頑張ろうと思っていた。
初めて自分を必要としてくれた人。そして奴隷としてでなく一人の人間としてきちんと扱ってくれる人。
その腕は時々自分を暖かく包み込んでくれし、紅玉のような瞳は優しい光をたたえている。
不幸の中で巡り遭ったその幸福に、カイは本当に感謝していた。
「あー…、クソだりィ」
悪態をつきながら、ソルはタバコをふかす。それを見た一人の男が、タイプライターを打つ手を一瞬止めて睨みを利かせた。
「締切りを守らなかった君が悪いのだろう。私とてこんな切羽詰まった状況で仕事をしたくはないのだからな」
同じく口許にパイポをくわえたその男はそう言い、再びタイプライターをリズミカルに打ち始めた。
二人が缶詰状態になっているこの書斎は、その男の所有する屋敷の中の一部屋だった。ソルも三十部屋以上に及ぶ屋敷の持ち主ではあるが、その男はさらに倍近くの部屋数を有した屋敷に住んでいた。そのうえ古くからあるものなのか、幻とも言われるような蔵書が山と眠っており、仕事をするうえではこのうえなく好都合な場所であった。
燕尾服に十字架を象ったネクタイを付け、悠々とパイポをふかすその男の名は、スレイヤーといった。年齢不詳の彼は美しい伴侶とともに人里から遠く離れたその屋敷でひっそりと暮らしている。普段から面倒ごとに関わる気はないと主張する勝手気ままな男なのであるが、あまりに暇だとか突然言い出し、小さな出版会社を設立したのは少し前のことである。古い誼みで不承不承それに付き合うこととなったソルはスレイヤーの頼みで翻訳の仕事をすることが多くなった。
この道楽人間に関わったがために要らぬ仕事を勝手に増やされ、ソルは毎度毎度辟易していた。
「溜め込んでた俺も悪いが、いらねェっつってんのに仕事持ってくるてめぇも悪ィんだろ」
尤もな言い分でソルは文句を言う。なにしろ、スレイヤーはソルに承諾も求めずに勝手に仕事を押し付けてくるのだ。
しかし経営者兼担当・編集者のスレイヤーはどこ吹く風である。
「折角の才能を腐らせておくのは私の主義に反するのだよ」
「はた迷惑だ、やめやがれ」
恨みも込めて、ソルは呻いた。それでも早く終わらせてしまいたい一心で手は万年筆を持って紙のうえを滑る。
「ああ、くそっ。まだるっこしい」
まだ目の前に積み上げられたままの未翻訳の本六冊を睨付けて、ソルは万年筆を持つ手を右から左に持ち替えた。今では両利きであるソルだが、もとは左利きなのでどちらかというと左の方が書きやすい。早さ自体は微妙な差だが、気分の問題である。
その行動を見たスレイヤーが不思議そうな顔をした。
「……君が左でペンを握っている姿は随分久し振りに見るな。そこまで急ぐ理由があるのかね?」
「なんだそりゃ。急いでほしくねぇのか」
「いや、そうではなく」
タイプライターを打つ手は休めず、スレイヤーはソルの方へ視線を向ける。それにソルは、片手でポーランド語の辞書を引きながら「なんだ?」と目で問い掛けた。
「……毎回君は締め切りギリギリだが、そこまで本気で急いでいるのはそうそう見かけないのでな。何か今日はあるのかね?」
「クリスマス・イブだろ、今日は」
「それだけの理由とは思えぬが。君はむしろそういった行事を嘲笑っている、ひねくれたタイプだからな」
「……うっせぇな」
スレイヤーの鋭い意見に、無宗教論者のソルは反論に窮して不機嫌な声を出した。不貞くされているようにも見えるその態度に、スレイヤーは苦笑する。
頭のきれるこの髭紳士にはソルの心境などとっくにお見通しのようだった。
「君のところにいる、あの青年が何か言ったのかね?」
目を細めてそう言ったスレイヤーは、最近知り合ったばかりのカイを思い出しながら聞いているように見えた。
スレイヤーとカイが顔を合わせたのは、ソルがカイと出会ってその日のうちに体を重ねた次の日のことだった。ちょうどいいところで、原稿を取りに来たスレイヤーに邪魔されたのである。
そうとは知らなかったスレイヤーは客間で世間話を交えながら仕事の話をしていたのだが、ソルの指示通りお茶とお菓子を持って現れたカイを見て、随分驚いた顔をしていた。屋敷があまりに汚い、なんとかしろと言い出したのはスレイヤーの方で、ソルは仕方なく奴隷を買うことを決めて事前に知らせていた。しかしそれでもスレイヤーが驚いたのは、カイがまだ二十歳に達していない若い青年でしかも美しかったことと、モヤシのような役立たずはいらないと豪語していたソルがそんな華奢な青年を買ったという事実だったのだろう。奴隷とは思えないほど幸せそうな笑みを浮かべるカイと、無意識にそのカイに優しく接するソルに、聡いスレイヤーはすべて分かったようだった。何も言わなくても心得てくれたスレイヤーがカイを奴隷扱いしなかったのは非常に有難かったように思う(しかしカイの手を取って甲にキスしたのはやりすぎだ)。
ともかく、新しく加わったカイを同じく気に入ったらしいスレイヤーに、ソルはますます分が悪くなってしまった。伴侶を持つべきだといつも主張していたスレイヤーを邪険にしていたソルは、カイに出会って初めて特定の誰かを大切に思う気持ちを知り、スレイヤーの意見を真っ向から否定できなくなってしまったのだ。それがソルとしては結構不愉快である。
今も、図星を指されて眉をひそめるソルをさも楽しそうな表情で見るスレイヤーが憎らしかった。
「何も隠すことはないだろう。今日は私も仕事が終わり次第、シャロンとデートに行こうと思っているのだからな」
スレイヤーは愛しそうに自分の妻の名をあげて、クリスマスの計画を話す。今まで付き合いで何度となくのろけを聞かされているソルはその様子を見て、確かにこの男に隠したところで仕様がないかと半分呆れの境地で思った。
「……別に、お前んとこほど御大層なもんじゃねぇよ。ただ、ご馳走作って待ってるとか勝手に坊やが言っただけだ」
カイが勝手にやってることで、自分は知らないとでもいうようにソルは軽く突き放して言った。実際、ソルは早く帰ってきてほしいとかカイに言われたわけではない。
待っていますから…と言って、カイは微笑んだ。年齢に相応しく我儘やお願いをしてくるということはなく、ただ「待っている」と言っただけだった。自分が勝手にそうするだけだと、カイは自分で言外に匂わせていたのだ。
カイは奴隷であることを強く意識している。どんなに抱いても、ソルが特別扱いしている事実を理解できていないのか、最後の最後でこちらに縋る手を引っ込めてしまう。
そんな権利はないのだと、そんな価値はないのだと、そう言わんばかりだ。
ソルは確かに愛の言葉を囁いたりしたことはないし、カイも同様にない。名を呼ぶこと以外は口を開かず、いつも行為に及ぶ。そんな態度を取っているせいか、普段はともかく、体を重ねるときはどこか踏み込めないままの一線を残している。
だが、ソルは言葉で気持ちを表すことをいいこととは思わなかった。理由は簡単だ。カイは奴隷という立場のせいでソルの言うことなら何でも聞き入れてしまうのだ。ソルが金でカイの身を買ったという事実がある限り、あの青年は逆らう術を持たない。
好きだと言えば、カイはソルを憎んでいようと嬉しそうに微笑むのだ。これほど胸クソ悪いことが他にあるだろうか。
だからさほど関心がないように装って、できるだけカイの気持ちや行動に制限をかけないようにしていた。
「だが、君があの青年と一緒に過ごすことを楽しみにしているのは事実だろう」
こちらの心の内などすっかり見透かしたように、スレイヤーは片目を軽くつむって笑い掛けてくる。それにソルは不機嫌そうに眉をひそめてみせたが、それほど腹は立っていなかった。癪なのは確かだが、言わなくても心得ていてくれるのは気分の悪いことではない。
「……ま、どっちにしろこの仕事の山を何とかしねぇとな」
「それは私も同感だ」
溜め息混じりに呟いたソルに、スレイヤーは苦笑を零して同意した。そして互いに無言になり、それぞれの作業を進める。
ソルがふと窓の外に目をやると、ちらちらと雪が降っているのが見えた。
「今日は沢山買ってくれたから、おまけを付けておいてあげるよ。他のお客さんには秘密にね?」
「えっ、本当ですか!? ありがとうございます!」
いつも行き慣れた食料品店の女店員が軽くウィンクして幾つか商品を余分に袋へ詰めてくれたので、カイは素直に喜んだ。その幼さを残した満面の笑みに、女店員もおまけを付けた甲斐があったとでも言うように柔らかい笑みを浮かべる。
「じゃあ、バッドガイさんにも宜しくね」
「はいっ!」
ひらひらと手を振る女店員にぺこりと頭を下げ、カイはその店を後にした。まだ買うものは沢山残っている。
カイが奴隷であることは、ソルから贈られた首輪をつけていたことで一目瞭然であった。奴隷ともなれば街の人々に敬遠されてもおかしくはなかったが、カイは見た目の良さと愛想の良さで多くの人に快く受け入れられていた。困ったことがあっておろおろしていると、誰かがそれとなくやって来て助けてくれることさえしばしばあった。
とはいうものの、生理的に奴隷に対して嫌悪を感じる者は当然少なからずおり、そういう人達に絡まれたこともあった。しかしそういうときは大抵、カイの首輪を馬鹿にしたように弄んでから初めて、その鎖の先に付いた銀のプレートに気付いて目を剥くのである。その銀のプレートには、「ソル=バッドガイ」「カイ=キスク」と二人の名が同じ文字の大きさで平等に刻まれている。ソルの名前はこの付近では大富豪としてかなり有名で、そのうえ強面の外見のせいで街の人々に勝手に恐れられていた。深夜に出歩くことはあってもそれ以外で街に滅多に現われないことから、吸血鬼か何かと勘違いしている者もいるほどだった。
そのため、主人がソルだと知るやいなや、皆一様にして怯えたような顔で退いてしまったため、カイは話が分かってくれそうな人達には一生懸命ソルの良いところを話した。妙な先入観があるためか、皆は話自体は眉つばものにしか感じていなかったようだが、あまりにカイが必死になって語るので、最近はそれが本当のソルという人物なのだと皆も認識してきたようだった。とはいえ、ソル本人が街に顔を出したことはほぼ皆無に等しかったが……。
ともあれ、ソルの悪い噂が少しでも払拭されたので、カイは嬉しかった。自分の大好きな主が不当な陰口など叩かれるのは、やっぱり悲しいものだ。
「えっと、後は雑貨屋さんのところでクリスマスの飾りを買わないと!」
食料を大量に詰め込んだ袋を抱えながら、カイは荷物の重みで頼りなくなっている足で雑貨屋へ向かった。
そんな重いものを持っていながらも、カイはこの寒い中で冷たい首輪の鎖に触れていた。その感触と自分の熱が伝わって温かくなったそれに、カイは知らず笑みを零した。
翻訳の作業は、尋常でない時間を要した。
ソルの作業速度は決して遅くない。しかしあまりに膨大な量で、やり終えるのはまだまだ先のことのようだった。
ちらりとソルは時計を見、眉をひそめる。いつの間にやら日も沈んでしまった時刻で、そろそろ街の店の大半が閉まってしまう頃である。
「……さっきから時計ばかり気にしているが、どうかしたかね」
タイプライターを長時間打っていたせいで流石に腕が痛くなったらしいスレイヤーは、疲れを取ろうと手首を軽く捻りながらこちらを訝しげに見る。その視線に、ソルは乱暴な所作で原稿用紙にペンを走らせる手を止めぬまま、少々歯切れ悪く呟いた。
「坊やに何も用意してやってねぇ……」
「ああ、なるほどな」
いつも無愛想で横柄に構えているソルが決まり悪そうにそう言うのを聞いて、スレイヤーが苦笑する。
いくらカイに必要以上構ったりしないようにしているとはいえど、クリスマスというイベントを丸きり無視するほどソルは頑なな態度を取るつもりはない。奴隷だからとカイは遠慮するかもしれないが、何か贈り物をして喜ばせたいと内心思っている。
しかし肝心のプレゼントを買うのを忘れていた。仕事が早く終われば買えるかと気楽に考えていたが、このペースだとかなり雲行きが怪しい。こういうイベント用のプレゼントは当日に渡さなければ意味がないだろうし、店が閉まってしまっては為す術がなくなる。
今、仕事を中断して買いに行くべきか。とはいえ、このスレイヤーの屋敷から街まではかなり遠い。その時間のロスを考えると、躊躇いが生じた。
原稿に向かいながらソルが逡巡していると、不意にドアが開いて一人の女が姿を現した。
「私がプレゼントを買いに行きましょうか?」
「おお、シャロン!」
静かに書斎へ入ってきた美貌の妻に、スレイヤーが歓喜の声をあげる。艶やかな黒髪を背中に流したその女は、丈の短いワンピースを華奢な身に纏い、襟にはネクタイを付けていた。肌は大理石のように白く、儚い印象を与えるが、形の良い眉と長い睫を携えた眼は鋭く、内面の強さを表していた。
カップの乗ったトレーを片手に持ったまま突然現れたシャロンの申し出に、スレイヤーは大きく頷いた。
「ソル。シャロンもこう言っているのだから、贈り物の件は任せてしまってはどうかね」
パイポを口元から離し、スレイヤーは朗らかに言った。ソルはそれにすぐ同意しなかったが、紙の上にペンで文字を書き連ねながらしばらく悩み、しぶしぶ頷いた。
「……しゃあねぇか。そうする以外、方法がねぇもんな」
できることなら自分で選びたかったが……致し方ない。
握っていたペンを放り出し、ソルは椅子に凭れ掛かった。凝り固まった肩をほぐし、空いた手で頭をがしがしと掻きながら、ソルはこちらに視線を向ける二人をちらりと流し見た。
「一つ……頼んでいいか?」
「はい、なんでしょうか」
背筋をきちんと伸ばした綺麗な姿勢のままで、シャロンがこちらに体ごと向き直る。その礼儀正しい様子がカイと妙に似通っているのに気付き、ソルは開きかけた口をなんとなく一旦閉じた。それに怪訝な顔もせずにソルが何か言い出すまで黙って待つシャロンに、今度は「似てるようでやっぱり違う」と思った。
カイは礼儀正しいが、表情は非常に豊かだ。こちらが何か躊躇えばそれに不安な顔をし、こちらが機嫌のいい顔をすれば心底嬉しそうな顔をする。明確な言葉を交わさなくとも、互いに気持ちは汲み取れていた。
大切なのはカイに対する気持ちであって、プレゼントがどうこういう問題ではない。たとえ自分が買ってきたものでなくと、カイに何か贈りたい気持ちは本当であり、自分がきちんと手渡しするのならプレゼント自体は小さなことだろう。なにより、街まで行って帰る時間のロスで仕事を長引かせてしまい、「今日」という日を逃してしまっては意味がない。
ソルは口端を上げてふっと小さく笑い、シャロンの方を見た。
「プレゼントは俺が指定するものにしてくれ。あとの細かいことは任せる」
「はい、わかりました」
あまり表情に変化のなかったシャロンが、その一瞬だけ微笑んだように見えた。
早く帰ってきてほしいと、強く思う。
それが浅はかな願いとは知っている。自分が何かを望むことは許されない。そんな我儘を言う権利は、借金のカタとして身を売ったときからとっくになくなった。
ひどい主人ならば影で詰れただろう。今が不幸だと感じていたならこれほど罪悪感に苛まれることはなかっただろう。
ちゃんと人として扱ってもらえ、不自由のない生活を与えてもらっていながら、これ以上何かを望むなどおこがましい。それを充分に分かっていながら、主に早く帰ってきてほしいと思ってしまう自分の身勝手で身分を弁えないこの心が恥ずかしい。
外に降り積もる雪はまるで自分の想いそのものに思えた。主人の仕事が大変だと知りつつ、この家に留まってほしいと願う罪深さ。それは静かに、だが着実に積もり、その重みで心は不安で潰されそうになる。
「待っています」と言ったとき、ソルは何も言わなかった。だが、カイがどういうつもりでそう言ったかは分かっていただろう。奴隷とは思えないほどに良くしてもらっていて尚、何かを願おうとした自分に呆れてはいないか。カイの不安は積もる一方だった。
「もうそろそろ明日になる……」
カイは壁の時計をちらりと見て、小さく呟いた。
今日はクリスマス。しかし時計の長針が12を過ぎれば日付は変わり、クリスマスではなくなってしまう。特別な日が日常に戻るまで、あと三十分もなかった。
今日の朝、ソルを見送った後はいつものようにすべての部屋を掃除し、カイは予め買っておいたクリスマスの装飾物をリビングルームに飾り付け、料理の下準備をした。それが済めば今度は庭に花や植木を植えて綺麗な飾りを付けてまわり、門から玄関までの道を掃除した。雪が途中から降り始めたのに気付き、足りない食材を街へ買い出しに行き、帰るといつもの倍は掛かって料理を作った。
カイは食卓も綺麗に整えた。クロスを敷いた大きなテーブルのうえに並んだ銀製のフォークやナイフが、所々に灯されたキャンドルの光を受けてキラキラと輝いている。厨房の方から流れ込んだ料理の匂いもその場を満たし、食べてくれる者を今か今かと待ちわびていた。
しかし、この場に最もいて欲しいと願う人は……いない。長針はもうそろそろ12に差し掛かる。
カイはテーブルの椅子を一つ引き、そこに座った。目の前には虚しく空いたままの席がある。それを認めてカイは僅かに表情を曇らせ、その瞬間感じた痛みを避けるように視線を逸らせた。
何気なく見つめた先には、室内で焚く暖炉の暖かさで少し曇った窓があった。その向こうには雪がかさ高く積もっており、どこまでも白い地面が続いていた。
……寒い。
どうしてだろう、酷く寒い。
カイは自分の体を抱くように身を縮め、俯いたまま小さく息を吐いた。
触れてみて、体はさほど冷えていないことは分かった。火の元で料理をしていたことと、暖炉で温まった部屋いることで寒いと感じるはずはない。なのに体の芯が冷えているような錯覚をカイは感じた。
なんだろう、心に穴が空いているようだ。そんなことを思って、カイは困惑して苦笑いを零す。
誰かを待つ寂しさを初めて味わったような気がした。ソルに買われて間もない頃は不安がカイの多くを蝕んでいた。いつか捨てられるのではないだろうかとか、嫌われたりしないだろうかとか、ただただソルの機嫌を損ねないように顔色を窺っていた。
だが、今は違う。ソルが自分をさげずんだりせず、それなりに大事にしてくれていることが分かっていた。短い時間で、カイはいつの間にかソルをすっかり信頼していたのだ。貧しい育ちのせいであまり人を心から信頼できないカイだったが、なぜかソルの優しさと頼もしさは体の奥までしみ、その存在はカイの中で大きくなっていた。
捨てられるかもしれないという恐怖は、ほとんどなくなった。だが、その代わりにソルがいないというだけのことで空虚を味わうようになった。
心が欠けたままではとても生きていけない。この穴を埋める別のものなどどこにもない。代わりがないから、ここまで切望する。
だからお願い。そばに、いて。
カイはきつく閉じた瞼から、一筋の涙を零した。
「旦那様……」
主人の名を呼び、カイは時計の鐘の音を聞いた。ボーン…と厳かに大時計が午前0時を知らせる。一度だけ鳴ったその鐘の音は広い部屋に響き渡り、そして静かに沁み込んでいった。
完全に音が消え、静寂が戻る。部屋にはカイがひとりだけ。
「……」
しばらくの間、カイは微動だにしなかった。だが、ふと苦笑いを零し、立ち上がる。
ここまで遅いとなると、恐らく外食かあるいは外泊かもしれない。仕事で疲れた体を癒すのならば、どこかもっと料理の美味しいところへ行くだろうし、機嫌が悪いのならそれなりの場所で相手をしてもらって気分を晴らすだろう。よくよく考えれば、この屋敷に帰ってくるメリットは少ない。だだっ広いだけの屋敷に、奴隷が一人だけなど、考えてみればこのうえなく寂しい環境だ。
主人が楽しんで過ごしてくれるのなら、それ以上望むことは何もない。カイは少しだけ無理に笑って、食卓に並んだ食器を片付けようと手を伸ばした。
「なんだ、もう終わりか?」
「え……」
気配もなく突然響いた低い声に驚いて、カイは顔を上げた。視線を上げた先には、部屋の入り口に立つソルがいる。髪の逆立った頭や幅の広い肩には、雪が少し積もったままだった。
カイはもともと大きな瞳を見開いて、待ち侘びていたその人を見つめた。いつの間にか現れたソルに、カイは信じられない思いで震える唇を開いた。
「旦那、様……?」
「おぅ」
表情を少し緩め、ソルは微かに笑う。ほとんど無表情に近い強面の顔が、その一瞬だけ穏やかな雰囲気を纏った。
嫌われるのではないかとか、自分など取るに足らないのではないかとか。そういった考えは、それだけでカイの頭からすべて吹き飛んだ。
「旦那様っ!!」
何かを考えてから行動するなど、その瞬間は不可能だった。カイは込み上げる嬉しさに押されるまま、ソルの厚い胸板に飛び込む。何の躊躇いもなく抱きついてきたカイに、ソルは些か驚きながらも難なく抱きとめた。
ソルはコートを着込んでいて厚着だったが、カイは布越しに伝わってくるその暖かさに、欠けた心が埋まっていくような、全身が満たされていくその感動を味わった。抱きついても完全には腕が回りきらないその大きな体躯に、カイはうっとりと体を預ける。
こうして触れ合っているだけのことがなぜこんなにも自分を安心させるのか。カイはそれを不思議に思いながらも、なんとなく分かったような気もした。理屈ではなく、ソルが自分の中で欠くことのできない存在になっているのだ。いつの間にか。
カイがその厚い胸板に頬を寄せてほうっと息をつくと、カイの細腰を抱いていたソルが、頭上で可笑しそうに笑いを零すのが聞こえた。
「どうした? 随分熱烈な歓迎だな」
「あ…っ!」
指摘され、カイは羞恥で顔を真っ赤に染めた。奴隷の身分で主人にいきなり抱きつくなど、なんととんでもないことをしてしまったのだろうとカイは慌てて身を離そうとしたのだが、ソルの腕は強固にカイの腰を抱き、引き寄せてきた。
その仕草にカイが目を瞠ってソルの紅い瞳を見つめると、ソルはフッと口端を上げて笑い、突然カイの首筋へ顔を埋めてきた。
「まあ、それくらいでなけりゃ雰囲気も出ねぇか」
「ん、ぁ…ッ」
少し鋭く伸びたソルの八重歯が軽く肌に食い込む甘い痛みに、カイは思わず声をあげた。まるで喉元に喰らい付くようなその行動にカイの体は容易く震え、ソルのコートを掴む手に力がこもる。
しかし思わずしがみ付いてしまった事実にハッと気付いてカイは弾かれたように手を離した。
「…んだァ? 嫌なのか」
「え。いえッ、そんなことは決してありませんっ!」
不機嫌そうに顔をしかめたソルに、カイは慌てて力いっぱい叫んだ。その言葉にソルがニヤリと笑うのと、思い切り肯定して墓穴を掘ったことにカイが気付いたのはほぼ同時だった。
「じゃあ構わねぇよなぁ? やっと原稿があがって解放されたんだ。手加減なしでヤるからな」
「え、あ、ちょっ…ちょっと待ってくださ……ッ!?」
咄嗟の制止も聞かず、ソルの大きな手がカイの服の裾を捲り上げて侵入してくる。唐突で性急な行動はいつものことと言えるので驚きはそれほど強くなかったが、その骨張った手が思いの外冷たかったことにカイの体はびくりと跳ねた。
「わりィ。冷たかったか」
「だ、大丈夫ですっ。それよりも……」
反射的に引っ込められたその無骨な手に、カイは視線を落とした。いつも熱いくらいに感じるはずのソルの手が冷たくなっていたということは、よっぽど外は寒かったのだろう。
仕事で疲れているうえにこんなに体を冷やしたら風邪を引いてしまうと、カイはソルを心配げに見つめて、半溶けになったコートの雪を払った。片腕で腰を抱かれたままだったが、カイは丁寧にそれらを落とし終え、ソルの空いた片手に視線を落とした。
こんなことを言ったら笑われるだろうか。カイは自分の思ったことに不安を感じ、瞳を揺らめかせながらも、頭上にあるソルの顔を見つめた。
「あの…、手を……温めましょうか……?」
恐る恐る言葉を口にしたカイに、ソルは一瞬瞠目する。その表情の変化に、カイは何か変なことを言ってしまっただろうかと、眉を寄せて俯いた。
ソルが寒い思いをしているのなら、早く温めてあげたい。そう願う心に偽りはなく、そんな風に焦がれるような思いを抱くのは初めてのことだった。主人だからだとかそういうことではなく、自分の中から自然に溢れた願いに体が突き動かされる。
自分でも困惑するその感情にカイが俯いたまま視線を泳がせていると、ソルが不意に手を伸ばしてきた。
「ふーん、温めてくれるってか。なら、舐めてくれよ」
「え…っ。えぇ!?」
意地悪く笑ったソルが目の前に片手を差し出してきたので、カイは驚きの声をあげてソルの顔とその大きな手を交互に見つめた。
おろおろとするカイに痺れを切らせたらしいソルは、タチの悪い笑みを浮かべたままやや強引にカイの唇を指で割ってきた。冷たいその節張った指が口腔に侵入してくるのを、カイは最初は驚きで迎えたが、すぐに大人しく舌を搦めた。舐めろと命令されたからというよりは、そうすることが一番その冷たい手に体温を与えられる方法だと思ったので、カイは素直に従う。
「ふっ、う……んっ」
カイはソルの手に両手を添え、太く長い指を遠慮がちに口腔の奥まで含んだ。その一本一本に熱い舌を這わせ、カイは指と指の間も丁寧にねぶる。
「ん…ぅっ」
「……坊やの口は熱いな」
唾液を口端から滴らせてソルの指を舐める自分の行為に羞恥が込み上げてきたカイが頬を染めて視線を少し上げると、ソルが薄く笑っているのが目に入った。どこか気持ち良さそうに細められる赤い瞳に、カイは込み上げる嬉しさで青い瞳を潤ませ、長い睫を僅かに伏せたまま恍惚とした表情を作った。
そうしてカイが一心にその指に舌を絡めていると、不意にソルが耳の後ろに唇を寄せてきた。
「あぁ……ッ」
ソルの手から思わず唇を離し、カイは短く甘い悲鳴をあげる。唇を寄せられたその箇所を強く吸われ、背筋から頭を突き抜けるように身を焦がす痺れが走ったのだ。言い様のない快感に羞恥を感じつつも、カイは惚けた表情のままソルの大きな体に凭れ掛かってしまう。それに、ソルが少し笑みを零したようだった。
しかし、恍惚とした中でふと理性が蘇り、カイはハッと顔を上げた。
「あ! こ、こんなところに痕が残るのは……ッ」
すごく困るんです……。
最後の方は消え入りそうな声で呟き、カイは視線をさ迷わせた。見える位置に痕があると、街に買い物へ行きづらくなってしまうのを思い出したのだ。
困った顔でそう言うカイにソルは呆れるでもなく、黙ったまま床に置いていた紙袋を取り上げた。一体何をとカイが疑問を口にする間もなく、ソルはそこから何やら取り出し、カイの首に巻く。
「これで隠れるだろ」
そう、少し照れの混じったような声でソルは言った。よっぽど決まりが悪いのか、カイが驚いた顔でソルを見つめると、その紅い両の瞳はふいっと逸らされる。
「クリスマスプレゼントだ。……一応な」
「え……?」
吸い寄せられるようにカイが首元へ視線を落とすと、そこには薄桃色のマフラーがあった。随分上等なものなのか、肌触りがとても良く、色合いも綺麗できめ細かな作りだった。
それに顔を半ば埋めてカイは一瞬幸福に浸りそうになったが、弾かれたように顔を上げた。
「で、でもっ! こんな良いものをもらう資格は私なんかにありませんッ!!」
お金で買ってもらった奴隷の身だというのに、何かを与えてもらうなど贅沢過ぎる。
そう叫んだカイに、ソルはあからさまに不機嫌な顔をした。
「俺が坊やにやりたいから、やった。資格がどうとか関係ねぇ」
「……!」
ソルの口から出た言葉に、カイは驚愕した。普段は主人に喜んでもらおうとカイが何かするばかりで、ソルが特別何かをするということはまずない。もちろんそれをカイは不満に思うことはなかったし、ごく当然のことだと思っていた。ソルが自発的にカイに何かをするとなるとせいぜいがセックスくらいのもので、自分も楽しむことが前提となったものばかりだった。
なのに、今は。こうしてマフラーをくれると言う。
カイはかつてない喜びに全身を満たされ、目の前が潤んで霞むのを感じた。
「ありがとう、ございます……!」
自然に溢れた涙をぽろぽろと零しながら、カイは微笑んだ。その様に些か驚いたソルは僅かに目を見開いたが、すぐに穏やかに目を細め、カイの頬から涙を拭った。
「メリークリスマス」
耳元でそう囁かれ、カイはその低く掠れた声に酔いしれるように目を閉じた。
END
はい〜。思いっきり遅刻ですねー(笑→殴)
すみません、色々事情がありまして……f(^^;)
ええっと、約一年ぶりと思われる奴隷ネタ再びって感じですね。
本当はエロシーンがある予定でした諸事情によりカットです;
ともかく、遅れましたがメリークリスマス♪