「ええっとつまり、その…『ツウカ』が変わるって……?」
「ああ。今日の発表で正式に、イリュリア連王国の通貨はユーロからワールド$に変更される」
王の城から幾分離れた空中回廊の真ん中に突っ立って、シンは意味が分からないまま隣のソルに尋ねた。それに、ソルは常識すら危うい程の知識しかないシンに、更に難解な回答を寄越す。
通貨という概念自体が分かっていないシンには、それが変わるのだと言われてもピンと来なかった。賞金はいつもワールド$で支払われるので、それが普通だと思っていたのだ。
言われてみれば確かに、ソルは時々現地で違う絵柄の紙幣を使っていたように思う。自分に渡される小遣いがワールド$のみだったので、あまり気にしていなかったが。
「うーんっと……。それで、イリュリアがワールド$に変わるからって……何かあんのか?」
首を捻りながら、シンは疑問を口にする。街を縦に割るように走った長い回廊の赤い絨毯は、賑わう市民で埋め尽くされていた。シンとソルがいるところは城から離れいるので、まだ肩が触れ合うかどうかの距離を保てるくらいの密集度ではあるが、眼下の城の前などは市民と報道者達がひしめき合うようにずらりと並んでいる。
中には若い女性も見受けられ、連王の名前を書いたハンカチやフィギアらしき物を持ってはしゃいでいた。報道陣や市民が連王の登場を待つのは分からなくもないが、ミーハー気分で場違いに騒ぐ女達には、流石にシンも呆れ顔になる。
世間的には連王は未婚のままとなっているので、余計に浮き足立つのだろうが……はてさて、自分のようなデカイ子供を持っていると知ったら、どう反応するのやら。
小難しい話題にも関わらずお祭り騒ぎ並みになっているこの状態に、シンは顔に不可解を露わにしてソルを見た。しかしそうした疑問は予想の内だったのか、ソルはいつものように面倒くさがって説明を省くということをせず、一応解説をし始めた。
「今の世界で通貨の基軸になっているのは、ワールド$だ。だがこれは、聖戦前に先進国だったアメリカ合衆国が使っていた通貨を、戦時中にアレンジを加えて使用していたに過ぎない」
「うん。……うん……?」
「……まあつまり、世界各国で戦争が起きている状態なんだから、とりあえずこれを共通の通貨ってことで妥協しようぜってなったわけだ」
シンが思い切り眉をひそめて生返事を返すと、ソルが少し噛み砕いて言い直した。しかし理解がなかなか追いつかないシンは、難しい顔をして空を仰ぐ。
「えっと……えーっと。ホントは穴ウサギ捕まえたいんだけど、野ウサギで我慢しよう……みたいな?」
「……妥協っていう点でしか合ってないように思うが……まあいい。とりあえず話を進めるぞ」
かなり頑張って、自分の知識の範囲で例えてみたつもりだが、ソルは至って冷たく流した。
「聖戦中はワールド$を主に使うことになっていたが、ギアとの生存争いの真っ只中で、実際に経済の統制は取れてなかった。建前として統一したことにはなってるが、国ごとに違う通貨を使ってたわけだ。聖戦が終わってからも、復興を優先してそうした経済や法、規制なんかの整備は二の次だった。……そうしてやっと10年経った今、世界経済の統一に乗り出した。ここまでは、分かるな?」
「うん……え? あ、いや、さっぱり分か……」
「よし、じゃあ次だ。一応復興したといっても、聖戦前に比べればかなりの国が滅亡して、世界の人口は激減している。だから逆に、国をまとめ上げて基軸通貨を浸透させやすくなっているんだが、問題はこのワールド$だ。聖戦中にアメリカ合衆国はギアによる襲撃を受けて、戦後の今でも国力がほとんどない。……にも関わらず、今までかつての基軸通貨である$の延長線上としてワールド$を使っているというのは、そもそも無理があった。だからその歪みを正す為に、今の世界で実質最大の国力を持つイリュリア連王国が、基軸通貨としてのワールド$の流通管理を任されたってわけだ」
そこまで一息に言い終えてから、ソルがちらりとシンの方を見る。シンは何か悪い物でも食べたような顔で、大量に冷汗をかいていた。
強張るシンの様子に気付いていながら、しかしソルは見なかったかのように、明後日の方向を向いて再び口を開いた。
「厳密には多少含まれる国は違うが、イリュリア連王国の前身はEUに相当する。だから通貨はユーロを使用していたんだが、自国の通貨ではなくわざわざワールド$に変えたのは、今までにワールド$が出回って浸透しきっちまってるせいだ。それらを回収して新しい通貨を作ってばらまくよりは、そのまま使った方が余計な資金を割かなくていいからな」
面倒くさそうにソルは首を回し、周りがギョッとするくらいの関節音を響かせる。しかしすぐに目を細め、連王国の城を見据えた。
その赤茶の瞳は、どこか憐憫の色を帯びる。
「……基軸通貨を扱うには、そもそも高い国力がなければならない。労働力となる人口、作物の収穫できる広大な国土、長い歴史を持つ様々な国の文化、そこから生み出される国内総生産……特に食糧自給率の高さは、国力だけでなく独立性も表す。輸入に頼る国ってのは外交状況が悪くなると、途端に足元をすくわれるからな。あと、完全に自衛ができるくらいの軍事力も必要だ。……それらを全部安定して高い水準を保っているのは今の世界で、イリュリア連王国をおいて他にない。今日の式典で為替市場の変動を発表することはそれすなわち、イリュリア連王国が世界最強国だという証だ」
そこまで一気に言葉を吐き出し、ソルは久しぶりに長くしゃべって疲れたと言わばかりに、ため息をついた。
長ったらしい講義が一度途切れたのを見て、シンは引きつる顔をなんとか笑みに変えて、ソルを振り返る。
「えっと、…それで。……なんで俺達、こんなとこに立ってんだっけ?」
そもそも、賞金のかかったスナイパーを狩るためにこの地へ来たはずだ。イリュリアの真ん中に位置する大きな空中回廊に突っ立っている理由が、シンには理解できなかった。……ソルの難解な話も、もちろん理解できなかった。
しかしそれをわざわざ解説したというのに、全く分かっていないシンにソルは盛大に顔をしかめてみせる。
「だから、その理由を今、言ったんだろうが」
「えーっと……、んー、あー。なんか難しくて、耳を素通りしてった感じなんだよな!」
「おい……人が折角説明してやってんのに、聞き流してんじゃねぇよ」
「うぎゃッ!?」
シンが頭を掻きながら朗らかに言うと、ソルの凶暴な足が唸りを上げる。避ける間もなく背中を回し蹴りで強打され、シンは回廊の鉄柵に頭から突っ込んだ。ガシャン!と音を立てて柵に顔面がめり込み、思わずシンは悲鳴を上げる。周囲の人間が、その騒ぎに驚いて身を引いた。
いきなり人を足蹴にしたソルに周囲から非難の眼差しが集中するが、当人は憮然と鼻を鳴らすだけだ。ずるずるべしゃっと床に這いつくばったシンは、なんとか顔を上げてソルを睨む。
「そんなこと言ったってよぉ……オヤジぃ。んな、小難しいこと分かるわけねぇじゃん」
「テメェの場合は、分かろうともしてねぇだろ。考えようっていう意思すら見えねぇ」
最近のガキは学習意欲ってやつがないな、などとソルはぶつぶつ呟く。
体術や法力の勉強ならまだいいが、こういう学問に関してはあまり興味が持てないシンとしては、最初から学びたいとも思わない。大体、文字ですら最近やっと覚え始めたのだ、そんな世界経済だと言われても分かるわけがない。
ソルの水準で語られても困る、と思いながらシンが起き上がると、ソルは眉間に皺を寄せてシンを見ていた。
その赤い双眸に、一瞬ドキリとする。何かを透かしみるような、いつもシンに向ける眼差しとは違った深い情が桓間見えた。
「……アイツは、6歳だった」
「?」
小さく、可聴域ギリギリの声で囁かれた言葉に、シンは思わず顔をしかめる。周囲の人間には聞こえないが、GEARであるシンには聞き取れる声量であることに気付き、意図が読めぬまま耳を澄ませた。
ソルは唇をほとんど動かさず、再び言葉を紡ぐ。
「6歳のときだ。聖戦真っ只中で生まれたアイツが、ギアと闘うために命を投げ出す覚悟を決めたのは」
「……!」
投げかけられたその言葉に、シンは肩を揺らして目を瞠った。
いきなり話題に出された自分の父親に対して、反射的に一瞬嫌悪を抱くが、告げられた事実を理解した途端にそれは驚きに変わった。
6歳……? 死ぬ覚悟を決めたのが?
自分自身、今年で5歳になるシンだが、GEARの血が流れているからこそソルと負けず劣らずの体格と力を持っているのだ。本当の、ただの人間ならば6歳など、ほとんど無力な存在でしかないだろう。
大体、自分が生まれて1年経ったくらいの外見かもしれない。しかもGEARの力もないのだから、闘うどころか自分の身を守ることすら危ういはずだ。
そこまで考え、シンは強張る頬を無理に引き上げ、嘲笑うように息を吐いた。周りには聞こえぬよう、ソルにならって声量を下げてシンは皮肉な言葉で指摘する。
「ハッ、なんだよそれ……。だいたいそんなので、闘えるわけねぇじゃん? ただの人間で、6歳だぜ。何ができるってんだよ」
「……ああ。流石に、何もできやしないな」
シンが顔を歪めて吐き捨てると、意外にソルはあっさり肯首してきた。思わずシンが眉間に皺を寄せるが、ソルは表情を変えることなく淡々と言葉を紡ぐ。
「だから、当時の聖騎士団団長から『何をしてでも5年生き延びろ』と厳命されて、その時は騎士団に入らなかった。それからアイツは約束の時まで、GEARだけでなく、人間の醜い暴力にも踏みにじられながら生きた。今でも発作を起こすほどの、ひどい仕打ちだ……。それでも生き長らえて今日まで至るのは、強さだけでなく、多くの知識と頭の回転の良さがあったからだろうな」
感情を削いだように事実だけを述べるソルを見つめ、シンは動きを止める。
それは、初めて耳にする、実父の生い立ちだった。
天才だ、偉人だと褒めたたえる言葉は、周囲から嫌というほど聞いた。うんざりするほど、母からも聞いた。
だが、それはカイ=キスクという人物の表面的なことでしかないのだと、今知らされた。華々しい表舞台に出るまでの経緯など、誰も語らなかったから。……いや、多くの者がそんなことなど知らなかったのだろう。
簡素な説明であれ、同じ時期に聖騎士団に入っていたというソルの言葉は、随分と重みがあった。
「頭でっかちがいいとは言わないが、ちったぁ自分で学べ。文字を覚えて本を読めば、膨大な情報が得られる。他の国の言葉を覚えれば、もっと得られるものが増える。……そういうのは一見無駄に思えても、いつか役に立つときが来るもんだ」
ソルはふと、呆然と見上げるシンに手を伸ばした。大きな節張った手が、シンのアッシュブロンドの頭を無造作に撫でていく。
「ゆっくりで構わん。……ま、頑張んな」
普通の声量に戻し、ソルは存外穏やかな口調で呟いた。くしゃくしゃと髪を乱されるが、それはとても柔らかくて悪い気はせず、シンはうつむいて苦笑を噛み殺す。
こうしてつかず離れずのソルの態度を、シンは好ましく思っていた。母親ほどに何かをしてくれるわけではないが、父親のように全く見放しているわけではなく、少し距離をおいて見ている、そんな適度な距離感でソルはいつも接する。暴力による制裁は容赦ないが、それでもよそよそしい態度をとられるよりは断然いい。意味もなく拳を振るうわけではないことも、重々承知していた。
大きな手が頭を撫でる感触に嬉しく思いながらも、それを素直に言うにはプライドが許さず、シンは緩みそうになる顔を必死で引き締める。
「すンげー頭良くなって、オヤジを驚かしてやるからな……!」
「……何世紀あとになるか分からんが、一応望みをかけて待っとこうか」
「な、なんだそれー!」
強がるように宣言した言葉をにべもなく一蹴され、シンは憤慨する。よく馬鹿だの阿呆だの言われるが、何百年後とは失礼極まりない。
頬を膨らまし、むーっと不満を露わにしてソルを睨みつけるシンだったが、突然周囲から歓声が湧き起こって驚いた。
「――!?」
「始まったか」
視線を城の方へと向け、騒然となる周囲に連王が現れたのだと察して、ソルはふと厳しい顔で呟く。
法力が動力源のカメラが、次々とフラッシュをたいた。途端に騒がしくなる周囲に、しかしシンは顔をしかめる。端正な造作であることは認めるが、好んであの腹立たしい顔を見たいわけでもなく、近付いて連王を確認する気にはなれなかった。
だが、空中回廊の半ばで止まったままでいるシンとは裏腹に、ソルは厳しい表情のまま城の方へと近付いて行った。人垣を軽く掻き分け、柵の端に寄ったソルは城の正面を見下ろす。
「シン、こっちへ来い」
「なっ……嫌だ。見たくねぇよ、あんなヤツ」
緩く手招きして呼ぶソルに、シンは思いきり顔をしかめて見せた。しかしソルは、その態度に呆れたようなため息をつく。
「これから獲物が動く。何もしなくていいが、見てろと言ったはずだ」
「……でも」
「そんなに嫌なら、周りだけ警戒しとけ。アイツを見る必要はない」
しぶるシンにあっさりそう言い捨て、ソルは促した。反論する術も失い、そこまで言うのならとシンは人だかりの中をかき分けてソルに近づく。
ソルには少し足りないが、そこそこに上背があるシンはソルの斜め後ろに立ち、人の頭の隙間から下を見下した。
『本日は忙しいところをお集まり頂き、有難うございました』
程よい低音を保った、凛とした声が響く。城の前に立つ連王の声は、拡張器を通して周囲に発せられていた。先程接触した際に聞いた声と、同じ声だ。
場違いに黄色い声を発する女達の様子に呆れの一瞥を向け、シンは苦々しい顔でその注目を一身に浴びる男を見た。
『ではさっそくですが、本日の本題に入ります』
上品な正装をまとった連王が、優雅な仕草で袂から白い紙を取り出す。動作に応じて、日の光を受けた装飾が輝いた。
まるで別世界の住人のような、そんな完璧すぎる振舞いに、シンは心の底から嫌悪が込み上げるのを感じる。周りを拒絶して、自分だけが余裕な態度……そんな風に見える連王に、すべてをぶち壊したい凶暴な衝動が湧き上がった。
だが怒りに歪んだ眼差しによって、その時シンは周りを見ていなかった。警戒しろと念を押されていたソルの言葉も、その瞬間はシンの頭から消えていた。
「――」
それ故に、目の前で起こった事態が把握できなかった。
不意に鳴り響いた銃声に、騒ぎ立てる民衆の声がぴたりと止む。
同時に、壇上にいた連王がぐらりと傾いだ。細身の体がスローモーションのように、ゆっくりと倒れていく。
胸から、赤い血を噴き出しながら。
「――ッ!?」
音もなく、連王は赤い絨毯の上に倒れた。うつぶせに横たわるその体から、ゆっくりと血溜まりができていく。
瞬間、凍りついた空気が、民衆の悲鳴によって引き裂かれた。我に返って事態の急変に気付いた周囲が、一気に騒然となる。
城の前に居た民衆や報道陣は、口々に悲鳴や絶叫をあげて連王の元へ駆け寄って行き、止めに入った警備の者もろとも連王の姿は人の波に埋もれて見えなくなった。逆にその場から逃げ出す者もおり、眼下の人だかりは一瞬で混乱の極みへと達する。
回廊の上で見ていた民衆も同じく、混乱のあまりお互いに押しのけるように騒ぎ、悲鳴をあげ始めた。
「……え……?」
突き飛ばすように隣の男に肩を強く押され、目の前で悲鳴をあげる女性に肘で突かれ……だが、そんなことなど全く感じぬまま、シンは呆然とその場に立っていた。
一体何が起こったのか、全く理解できなかった。……いや、分かっていてもそれを認められる状態ではなかった。
白い法衣を突き破るように血を溢れさせ、自らの血溜まりに沈んだ連王。ついさっきまで、毅然とした態度で言葉を発していたはずなのに……何故、今はもう姿が見えない?
「なんで……」
なんでだ、なんで……倒れた?
血が……馬鹿みたいに出てて、しかもそこは左胸で……。
周りが悲鳴をあげる、泣き始めた者もいる、絶叫する声が聞こえる。
「王は、死んだのかッ!?」
「……っ!」
遠くで誰かが叫んだ。シンは、思わず肩を跳ねさせる。
くすんでいた視界が焦点を結んだ瞬間、衛兵に抱えられる血濡れの連王の姿が桓間見えた。
――死んだ……?
「ぅ……あ…!」
目を見開き、シンは声を絞り出す。自分でも叫びたかった言葉は、何なのか分からなかった。
だが、体の震えが止まらない。目の前の現状を認識した途端、歯の根が合わなくなった。
連王が……死んだ。
「おい!」
「…っ!?」
突然、腕を強く掴まれ、シンはビクリと体を跳ねさせた。振り向くと、横に居たソルが封炎剣に巻いていた布を引き剥がし、厳しい表情でこちらを見ていた。
「テメェはここに居てろ。俺は、首を狩ってくる」
「……!」
ソルが言った言葉に、シンは目を見開く。一瞬言われた意味が分からなかった。
だが、理解して更に驚愕した。
賞金首を狩りに行く……つまりそれは、狙撃した犯人を追うということだ。
――目の前で、血を流している連王を放って?
「ふ……ふざけンなッ!!」
「! おい…っ?」
力任せにソルの腕を振り払い、シンは絶叫した。周囲の人間も何人か巻き込んで吹き飛ばしたが、そんなことなどどうでもいい。
それよりも、平然と賞金首を追うと言い出したソルが、ひたすら信じられなかった。
シンの実父であり、ソルにとって戦友でもあるカイが目の前で倒れたというのに、心配している様子も見られない。戦闘態勢に入るソルを、シンは睨みつけた。
「そんな場合じゃねぇだろ!? とう…っ、…カイが死にかけてるってのに、首なんか追っかけてる場合かよ!」
ソルの腕を引き掴み、シンは叫ぶ。こんな状況になるなど考えたこともなくて、自分では何をどうしていいか分からなかった。
だが、ソルはすがりつくようなシンの手を見て、あからさまに顔をしかめた。
「死んじゃいねぇ。とにかく今は、スナイパーを狩るのが先決だ」
「なんで……、なんで死んでねぇって言い切れんだよ!? あんなに血が出てて!」
あっさりとそう言うソルのレザージャケットに指を食い込ませ、シンは食い下がる。
血なんか、普段から見慣れたもののはずだった。これがソルなら、これほど心乱されることはなかっただろう。
カイだから、だ。だって――アイツは、
「アイツは……人間なんだぜ!? 心臓やられたら、死ぬんだろう……!」
そうだ、人間だ。……脆い、生き物だ。
GEARとして生まれたシンは、傷が瞬時に治るのは当たり前のことだった。傷が痛むことは同じでも、多少の傷で生命が脅かされることなどあり得ない。
感染症にもならない、病気にもかからない、全盛期まで成長すれば年もとらない。衰えることなく強い生命と力を生まれたときから持ち合わせるシンには、人間など脆く儚い存在だった。
それに思い当たって、ふと甦る記憶があった。いつだったかは分からないが、恐らくまだ両親のもとにいた時だろう。
『私は、あなたを残して先に死にます。母さんも残して行くことになるでしょう。……そのときは、母さんを守ってあげてくださいね、シン』
柔らかく笑いかけながらそう言うカイに、幼い自分は腹を立てていた。
居なくなることを前提に、頼るなと言われているのだと思ったからだ。自分で守るのではなくシンに守れと言ったのは、母さんを愛していないからだと思った。
……そこにある、本当の意味も分からずに。
カイは分かっていたのだ、妻も子も残して先に死ぬ、自分の運命を。
GEARとて不死ではないが、人間より長く生きるのはほぼ確実だ。それを承知で、カイはGEARの妻を持ち、子を持った。それだけの、覚悟をしていた。
『母さんなら結婚相手、あんな奴じゃなくても良かったのに』と不満を漏らしたシンに、母が首を横に振ったことを思い出す。『あの人だから、私は一緒にいられたのよ』と返す母に、その時のシンは首を捻るばかりだった。美人で優しい母なら、もっと良い人が見つかるのにと、単純に思っていた。
どういう意味で言ったかなど、考えもしなかった。
だが……だからと言って、こんな終わりなど――早すぎる。
「オヤジ! あのムカつく奴、なんとかしろよッ! 簡単に……簡単に死なせやしねェ! 山ほど文句あんのに、俺……全然言ってねェよッ! まだ、何も言ってねェ……!」
離れようとするソルの腕を握りしめ、シンは叫んだ。しかし、袖を引き千切らんばかりのその剣幕に驚きながらも、ソルは苦々しげに舌打ちする。
「だから、坊やは死んでねェっつってんだろ! お前もちったぁ落ち着け。……大体、アイツが狙われてんのは初端っから分かってたんだ。知ってて撃たれたんなら、自業自得だろッ」
「!」
知ってた……?
急いで反論するソルに、シンは驚愕の眼差しを向けた。
しかし思い返してみれば、確かにそうだ。わざわざ式典の前に変装をしてまで、カイはソルに賞金首を狩るように要請しに来た。それは、狙われていることを知っていたうえでの行動だろう。
だが、知っていようがいまいが、今撃たれたことに変わりはない。血を流して意識を手放している現状は変わらない。
「とにかく手ェ放せ、シン。首に逃げられちまうだろ……!」
袖を掴んだシンの両手を引き剥がそうと、ソルが力任せに体を押しやった。しかしその手に、自分でも信じられないほど必死にすがりつく。いつもなら、カイがどうなろうと知ったことではないと言えるのに、今は冗談でも言える気分ではなかった。
馬鹿みたいだ、こんなに訳が分からなくなるなんて。でも嘲笑う声は、どこか遠い。ただ目の前のことを否定してほしくて、無かったことにしてほしくて、ソルが困っているのが分かっていながら食い下がった。
「オヤジなら、治せンだろ!? 法力使えば、治せるよな……ッ!?」
何をこんなに必死になっているのだろう。そう思いながらも、ソルを掴む指は強張る。叫ぶ声は、みっともなく震えた。
自分はGEARだ。よほどのことでない限り、傷は瞬く間に癒える。だから傷を治すとか、そのための法力の使い方だとか、考えたこともなかった。それが出来るなら、こんなに絶望的な気持ちになどなりはしなかっただろう。
手のひらから命が零れ落ちていくのを、自分はただ見つめることしかできない。
「なぁッ! オヤジ!!」
「だから、落ち着けっつってるだろ! イリュリアなら、いくらでも法術士がい――」
力任せに揺するシンを、ソルが怒鳴りつけようとした瞬間だった。
それを掻き消すように、ドン!と爆発音が鳴り響いた。
シンや民衆は驚き、音があった方へと振り向く。城外に近い、ここからは少し離れたところから黒い煙が立ちのぼっていた。
「チ……ッ! もう、あんなところまで逃げてやがる!」
それを見た途端、ソルが盛大に舌打ちする。怯えて悲鳴をあげる周囲の喧騒に埋もれながら、爆発を眼の当たりにしたシンは、困惑してソルを見た。
いつもは無表情の、精悍な顔の中に苦渋をにじませて、ソルはシンの視線に気付いたように目を合わせる。不意に、緋色の瞳が鋭く光った。
「悪く思うなよ」
「――ッ!?」
眼の端で何かが動いたと思うや否や、シンは首筋に衝撃を受けた。一瞬でフッと意識が白み、頭の重さを支えきれずに体が揺らぐ。
膝からくず折れたシンが意識を失う前に見たのは、人ごみの中に消えるソルの背中だった。





















「――で、首尾はどうだった」
横で監視していた衛兵を退室させた後、若き王はベッドに横たわったまま、こちらを見上げてさっそく問うた。
王の間ではあるがソルと二人きりなせいか、その色白な顔に浮かぶのは昔からの戦友としての、どこかいたずらな笑みだった。そのからかうような視線に、ソルは苦虫を噛みつぶした顔で答える。
「連中の仲間は始末した。……首謀者は、逃がしたが」
「なるほど」
ソルの報告に、カイは笑みを浮かべたまま頷いた。随分と軽い返答に、ソルが片眉を動かす。その不審げな眼差しに、カイはクスリと笑いを漏らした。
「お前にしては、珍しい失敗ではある。……が、お前のことだ。ただでは起きまい?」
行動を読む…というよりは、これも信頼なのかもしれない。カイの確信に満ちた指摘に、ソルは一瞬眼を瞠り、僅かに感じる感傷を吐き出すようにわざと溜息をついてみせた。
「……スナイパーの顔は見た。銃を仕込んだカメラを持って、報道陣に紛れてたからな。ブラックテックを使ったってのも、逆に絞り込むにはイイ条件だ。今、色んな伝で包囲を固めてる」
「そうか。……ならば、そちらは任せたよ」
眼を細めて、カイは安心したように微笑む。深く追及もなしに返事を返すカイに、ソルは顔を歪めて無意味に頭を掻いた。
信頼されすぎているのも、少しこそばくて落ち着かない。
だが、カイの判断は正しいと思う。襲撃を事前に知っていながらも、イリュリア連王国は犯行を防げずにいた。事の後でさえ、シンの思いがけない足止めを食らったソルよりも対応は遅く、満足な成果が出せていない。
内通者がいるという疑いもなくはないが、それ以上にこの国は大きすぎて動きがままならない、あるいは型にはまり過ぎて身動きが取れない、といった感が否めないとソルは思った。
周囲の建物で警備を固めていながら、王の目の前まで報道陣や民間を近付けていたのは迂闊と言える。せめて身元のはっきりした者に厳選すれば良かったのだが、恐らくその辺りも審査が緩かったのだろう。事前に調べて身元を照合するならまだしも、当日に身元の証明書を提示するくらいなら、いくらでも偽造が可能だ。
そして同じようにカイも、警備の穴に気付いたのかもしれない。兵隊を使わずに、自ら早朝に街へ出掛けて犯人の退路になりそうな箇所に法陣でトラップを仕掛けていたのは、そちらの方が効率的だと判断したためだろう。実際、襲撃後の爆発はそれによるもので、このときに犯人グループの約半分が吹き飛んだ。
……いやもしかすると、カイは警備の穴を知っていて、わざと利用したと考える方が正しいのかもしれない。本当に防ぐ気があるなら、そうするために細かな指示を兵に出していたはずだ。例え軍が愚鈍であったとしも、それらに正確な指示を飛ばして操ることなど、かつて聖騎士団を率いたカイなら朝飯前だろう。
つまりは、犯人をおびき出す為にわざと撃たれたということか。そこまで考えて、ソルは大きな溜息をついた。
「傷はまだ痛むか? 法力で弾道逸らしておきながら、わざわざ撃たれるなんざ、そういう趣味にでも目覚めたか」
「……なんでそうなる」
ムカつく言い方だと不満気な目を寄越すカイに、ソルはそれを黙らせるような苛烈な眼差しをくれてやった。非難の篭った重苦しい視線に晒され、カイはすぐさま逃げるように顔を背ける。
「頭を狙われたら、完全に防ぐつもりではあった」
「じゃあ心臓の真横ならいいってのか? とんだマゾヒストだ」
「だから違うって! ……撃たれた方が、都合がいいこともあるんだ」
カイは顔を背けたまま、微かに苦笑を浮かべた。それはどこか諦めたような色で、ソルの胸中を苛立ちで満たしていく。
「テロには屈しない……と主張をするとき、実際に怪我を負っていた方が同情を集めやすい。そういうことだ」
政治家は辛いな、などと冗談めかしにカイは言って笑った。王という肩書でありながら、国連の傀儡とならざるを得ない現状を十分わかっているからこそだろう。
今回の襲撃も、普通に考えれば為替市場を奪われる形になったアメリカ合衆国が主犯ということになるだろうが、実際は違う。辿って行けば、狙撃を依頼した大元は恐らく国連関係、もしくは終戦管理局辺りの、上層組織だろう。
だから狙撃犯の確保に力は入れても、黒幕を暴く方には力を入れない。目星はついていても、こちらから打って出ることが危険だと判断して、カイはわざと藪を突かないのだ。
降り掛かった火の粉を完全に払うのではなく、わざとかすらせて大ごとに見せる。そうすることで、向こうが同じ手を使えないように選択肢を奪っていく。地味な意趣返しではあるが、それが現状での最大の抵抗手段だ。
……それは、頭で十分に理解している。けれど湧き起こる苛立ちや憎悪を抑えるには、足りなかった。
ソルはシーツの上から、カイの傷口に手を置いた。
何をとカイが訝しむ間も与えず、ソルは一気に練り上げた法力を叩き込んだ。超高密度で編み込まれた法階の羅列は、カイの体に吸い込まれて瞬時に変調を来たす。
「あッ、はぁッッ!!」
カイの細い体が、その圧倒的な力に呑まれて跳ね上がった。色白な喉が仰け反り、どこか艶を含む悲鳴が迸る。
ぶるりと体を震わせて、涙目で睨んできたカイにソルはくつくつと喉の奥で笑ってみせた。
「傷が治って良かったじゃねぇか」
「だ……だからって、こんな強引な治癒を施さなくても……っ!」
まだ体中を巡り、くすぶり続ける法力の余韻を感じるのか、カイは体を強張らせて非難の声をあげる。通常は自然治癒力を促進させる程度に治癒魔法は使うのだが、ソルはわざと一瞬ですべての傷を治してやったのだ。体にかかる負担が大きく、傷の具合によっては危険を伴うがソルはカイの様子から、ギリギリ大事に至らない程度に調節して高度な治癒を施してやった。
皮膚や肉が再生される痛みはもちろんだが、カイは同じ法力使いなだけにソルの力を直接感じ取って、別の意味でも苦しいことだろう。朱の差した頬を見れば、一目瞭然だ。
――だが、これくらいは仕返ししてやらねば気が納まらない。
「人の肝、冷やしてくれた返礼だ。男なら、二人分きっちり受け取れ」
「だからって……!」
ソルの横暴な物言いにカイは声を荒げようとして、ふと動きを止めた。
「……? 二人分?」
「ああ、違うな。3人分か?」
「! ぁ、ひゃ……ッ!」
追加1名、などと嘯きながら、ソルはカイに無意味な活性化魔法を叩き込む。害はなくとも、強引な体調の変化にカイは悲鳴をあげた。
声が出せて悲鳴をあげられるなら、それだけの力が残っているという証拠だ。カイの安否は、さほど心配するほどでもなさそうだった。
全く、お騒がせな坊やだ……。
ソルは大仰に溜息をつく。しかしその態度に、カイは眉を釣り上げた。
「お前という奴は……!」
非難の声を喧しくあげるカイを鮮やかに無視して、ソルは部屋の窓へと視線を向ける。
アンティーク調の窓枠の向こうに、一匹の白い鳩がとまっていた。何故かエメラルド色の目を持ったその鳩は、ソルが視線を合わせると、慌てたように飛び去って行く。
……心配なら心配だと、素直に態度に表わせば良いものを。
ソルが浮かびそうになる苦笑を噛み殺し、飛んでいく白い影を見送った。
「……何を、笑ってるんですか」
ソルの様子に気付いて、カイが怪訝な眼差しを寄越す。それに機嫌良く喉で笑い、ソルは答えた。
「素直じゃねぇのは、遺伝だな」
「な……なんなんですか、それ」
話が見えないカイは、思い切り眉を寄せて首を傾げた。
















後日、シンはソルに法力の指導を自ら請うてきた。
そうして真っ先に覚えたのがパテカトルステインだった理由は、ソルのみの知るところであった。









END







第二話はシンをメインに動かしてみました。
シンが回復技を使うということに違和感を抱いていたので、勝手な理由づけをしてみました。

とりあえずGGXXAC+ストーリーで引っ掻き回されて修正を余儀なくされたのは、冒頭部分です。
デズがカイとプライベートに話すようになった理由、うちのサイトでは恋愛の悩みなのですが……それはまだ掘り下げませんでした。
外伝みたいな形で別に書いた方が、良いかもしれませんね。心臓に(笑)。

次回からGG2本編に突入したいと思います。