よく晴れた日の午後、仕事でたまたま立ち寄ったイタリアの街でソルは珍しいものを発見した。
思わず足を止めてショーウインドの前に立ち、ガラス越しにその独特な形に目を向ける。木肌の覗いたその上から飴色のコーティングが施されたそのギターは、随分古いものらしかった。恐らくは聖戦前に作られた逸品で、精巧な技術者による作だろう。まだ人間だった頃に、よく好んでギターを弾いていたことがあるので、楽器の善し悪しはある程度は分かる。
「……」
もう一度弾いてみたい。
じっとそれを見つめていたソルは、そんなことを思った。馬鹿げた妄想であると頭では分かっているのだが、心はやはり正直で、ソルはそれから視線を外せなくなる。
それを肩に掛けて抱える腕はもう以前のものとは違う。弦を弾く指先はかさかさになり、無情なほどに長い年月は当時必死に練習したコードの位置を忘却の彼方に押し遣っていた。
埋まらない空白。いや、埋めてはならない空白。現在と過去とが結び付いてしまっては、今の自分の覚悟は軽いものへと変わってしまう。
背負うのは罪。歩むのは修羅の道。感傷も思い出もいらない。

だが、ふと思い出したのは金髪の青年との会話。
『なあ、ソル。私、もうすぐで誕生日が来るんだ』
『あぁ? なんだそりゃ、そんな歳になってまで祝ってもらいてぇのか?』
『普段から好き勝手に家のものを使っている誰かさんに何かせしめるにはいい機会だろう?』
『……。何がほしいんだ』
『おや、聞いてくれるんだ?』
『……ものによっちゃ、聞く気ねぇがな。一体なんだ、言ってみろよ』
『うん、じゃあ……お前の歌が聞きたい』
『――はぁ?』
『駄目なのか?? QUEENとかいうグループの曲、いつも聴いてるじゃないか』
『いや、そりゃそうだが……なんでよりによって俺の歌なんだ』
『理由なんて別にないよ。ただ、お前のありのままの姿を見てみたいだけ』
そう言って、カイはニコリと笑いかけてきた。その青い瞳はこちらの心を読んでいるかのように澄んでいる。
ありのままの姿。ソルが普段からQUEENを聴き、歌詞や楽譜の類いを手にしているのを見て、無意識に抑えている衝動にカイは気付いていたのだろう。歌詞を目で追いながらも口は決して開かず、楽譜を見て指を動かしていても楽器は手にしない。そうして自分を戒めていたソルに、カイは趣味に興じるための言い訳を与えてくれようとしたのかもしれない。
しかしそのときはそれを拒んだ。昔は弾きながら歌うことができたが今はできないとか、楽器は仕事のときに邪魔だとか適当に言い逃れをして目を背けた。
自分に一時でも楽しむことは許されないのだと思っていた。
……だが、それはきっと間違いだ。そうして自分を縛ってみても意味はない。願掛けというにもお粗末な自己満足の行為。
確かに自分は罪深い。多くの人間を不幸にした。だが、余暇まで苦しんで生きたところでその人達が幸せになるわけではない。ならばそうしてまで我慢する理由はない……。
「百何年ぶりか分からねぇが……弾いてみるか。確か今日は坊やの誕生日でもあったしな」
ふと笑い、ソルはその楽器屋へ足を踏み入れた。やけに体付きのいい客が入ってきたことに、店の主人が驚いてこちらをまじまじと見る。
その不躾な視線を無視してソルが雑然とした店内を見渡したとき――棚の上に置かれた小さな端末が目に留まった。情報を操作するための事務用のものではなく、もっぱら供給される映像を流すだけの家庭に普及した代物である。旧科学技術でいうところのテレビと同じ役割を果たすそれは、店の主人が暇潰しにつけていたのか、何かのニュースを報道していた。
それがいつもの取るに足らないものなら、ソルはそのまま視線を留め続けることはなかっただろう。だがそこに映し出されていたのは、ローマが炎上して民衆がパニックに陥っている様だった。
「……オヤジ、音量上げろ!」
それを認めた瞬間、ソルはその端末を指さして叫んでいた。驚いた主人がびくっと体を強張らせ、次いで慌てた様子でその魔法装置に手を伸ばした。
「……の事件は『デビル』と名乗る集団によるテロであり、現在は国際警察機構の手による処理が行われ……」
皆まで聞かず、ソルはその店から飛び出していた。何かよくない予感だけが湧いた胸を抱え、石畳の上を走る。
ローマ。なぜかその場所は思い出すだけで気分の悪い所だった。聖騎士団に一時期身を置いていたソルはそのローマでの戦いで肝を冷やしたことがある。
次期団長候補のカイが無謀な戦いに挑んだときだ。ソルは彼が死ぬのではないかと思い、ギアをなぎ倒しながらカイのもとへ走った。結局カイは満身創痍でありながらも無事だったが、そのときの掻き乱された気持ちは今でも覚えている。
いつも当たり前のようにいた、隣の存在。それを失うと思ったとき、とてつもない焦燥に駆られた。
「……くそッ」
気分が悪くなることを思い出し、ソルは舌打ちした。テロ一つで、いくら何でも考えすぎだ。場所が場所なだけに神経質になってしまっている。
ソルは余計な考えを排除し、ローマへと向かった。





「団長! やっぱり駄目ですッ。火が消えません!」
「そうですか…。つくづく面倒なことをしてくれたものですね」
カイはローマ市街で部下からの報告を受け、渋面を作っていた。
今、カイがいるローマ市街は、火の海となっていた。原因は『デビル』と名乗る宗教組織にとるテロでであった。その連中は何か要求があるわけでもなく、ただ自分達の奉る存在のために動いている。彼らの崇めるものは、ギア。俗に言う悪魔信仰によく似ている。この世を再生させるために一度はすべてを破壊しなければならないという考えらしい。
迷惑なことこのうえないが、事態はそれだけで済まなかった。彼らの放った炎は法力によるものであり、今もなおそれを操ってローマ市街を通常では考えられない早さで焼き払っていた。
普通の消火活動を行ってみたが、まるで歯が立たない。また、部下の中に炎を使える者はいたが、同じ属性では効果をなさないようにされているのか、炎を操る主導権が握れなかった。
探査能力に優れた部下の調査によれば、唯一それらに対抗しうるのは水属性だけだという。しかし生憎、水属性を扱える人間は元々少なく、この場でもそれを得意とする者は一人もいなかった。
「今の状況はどうなっていますか」
「北区、東区、中央区はすでに炎に飲み込まれています。このままいくと、あと6、7分で市街すべてが火の海となります」
「市民の避難状況は」
「避難勧告を出すのが早かったので、あと2、3分で大方は完了します。ですが、南区には病院がありますのでそちらの方は……」
「患者の避難がまだなのですね」
「はい、全力を尽くしているのですが……」
表情を曇らせる部下に近付き、カイはその肩を軽く叩いた。驚いた部下が顔を上げると、柔らかく微笑むカイの顔があった。
「大丈夫です。ここは私が責任を持ってなんとかします」
「え……ですが、団長……」
困惑している部下をよそに、カイは自分の持つ携帯用の端末を取り出した。手帳くらいの大きさのその箱を操作し、一つのデータを取り寄せる。それを空間に表示し、カイはそれを指して言った。
「このデータを今からあなたの端末に転送しますので、今度はあなたがこれをあと三人に送ってください」
「一体何を……」
「私も一応、水属性は扱えますからね。炎は私が止めます。最近開発されたその紋章を、それぞれ街の四方で表示して、あとは全員避難してください」
「な、何を言い出すんですか! 団長ッ!」
カイの言葉に、部下は悲鳴に近い声をあげた。
「団長だけを残して私達に逃げろといんですか!?」
「ここは戦場ではないんですから、逃げるのは何もおかしいことはありませんよ」
「そうではありません! 団長ひとりにすべてを任せるなど……!」
「私では信用に足りませんか?」
「違います! またあなたばかりがご負担を受けるのかと言いたいのですっ!」
部下は必死にこちらを見つめていた。それを、カイは静かな目で見つめ返す。
彼の言いたいことは分かる。聖戦時もカイの部下であった彼は、いつも危険を顧みずに先陣を切るカイを心配していた。ぼろぼろのなりで帰還してくるカイに涙を零したこともあるほどだ。
だが、カイはそれを決して不幸だと思ったことはない。自分に力が与えられていたことを神に感謝している。力が足りずに悔やんだことは沢山あるが、誰かの役に立てる可能性が得られたことは、カイにとって大きな支えとなった。
カイは一度静かに目を閉じ、再びゆっくりと目を開けた。
「しかし、時間がありません。それ以外に有効な策がない以上、私は実行します」
「団長ッ!」
「他に方法があるのなら、聞きますが?」
「……」
部下は唇を噛み締め、俯いた。意地悪をしているつもりはないが、そういう表情をされると悪いことをしているような気がする。
しかし、それを振り切るようにカイは背を向けた。
「病院の方には数人を残して、患者の人達を守ってあげてください。時間は少しかかるかもしれませんが、必ず火を止めて見せます」
「……わかり、ました」
ただ炎を見つめて歩き出したカイに、部下は拳を震わせながら頭を下げた。





逃げ惑う人の間を掻き分けて、ソルは走っていた。犇く人があまりに邪魔でなかなか思うように進めなかったが、足を止めることは決してなかった。
粗方の事情は情報屋の伝で聞いた。『デビル』とかいう宗教集団も、全くくだらないことをしてくれたものだ。よりによって法力でローマを炎上させるとは。
「くそっ! あの坊やは絶対なんか無茶しやがるぞ」
人の波に逆らって進みながら、ソルは思い切り悪態をついた。状況を聞いて真っ先に思ったのは、この事態を収拾できるのは国際警察機構でカイくらいのものだということだった。
絶対、あいつは全部自分で背負い込む。
ほとんど確信を持って、ソルは思っていた。自分以外にこの状況を打破できる者がいないとなると、カイは間違いなく一人で立ち向かう。それが危険であると知っていても。
ローマ市街を包みつつある法力の炎が外部からの干渉を妨げる見えない防壁を張っているのは、ソルは街に足を踏み入れてから知った。法力の発生や、それを制御する段階による干渉はすべて弾かれる類のものだ。純粋な力で叩き潰すしか方法がない。
だが炎に対して力のみで打ち勝つには、雷は向かない。ただ噴き出すだけの炎と違って様々な形を取れるという点では雷の方が優れているが、その分だけ破壊力には断然劣る。だからと言って炎に対して炎をぶつけたところで勢いが増すばかりであるだろうし……そう考えると思いつくのは、対となる水属性くらいのものだ。
もともと水属性を操れる能力を持つ人間は、全体の割合から考えるなら少ない方だ。国際警察機構内でかつて聖騎士団に所属していた人間もそれほど多くはなく、法力を使える者自体が極端に少ないのだ。
そうなると、すべての属性を操ることのできるカイにお鉢が回ってくるのはほぼ必然というものだ。
「……っても、坊やは雷が専門だからな。得意でもねぇ属性の魔法をこの規模で使ったら……」
下手すれば、死ぬ。よくても、法力が枯渇して只人になってしまう。
「させるか……っ!」
恐ろしい考えを打ち消すように、ソルはカイの姿を求めて、炎上する市街の奥へと走っていった。





目の前に迫る炎を時折睨み付けつつ、カイは大広場の噴水の前で紋章を書き連ねていた。
法力の増幅と範囲の決定、魔法の制御、発動後の余波の減少……それらを補助するための、最近新しく開発された簡易紋章を、カイは噴水の周辺に描いていく。実際に炎にぶつけるための水は、ローマ市街の地下を通る下水道と、それに一部が連結した噴水から調達するつもりだった。何分地下にあるものなので、勢いで建物を少々破壊しかねないが、人が残っているという病院付近だけを気をつければ被害は最小に抑えられるだろう。焼けてしまっては、何も残らない。
カイ自身、この行為が甚だ無謀であることをよく分かっていた。いくら天才と持てはやされても、得て不得手というものがある。得意でなく、あまり使うこともない魔法を突然最大限に使えば、その歪で体が耐えられなくなるのは道理。
こちらが力尽きるのが先か、それともあちらの炎が消えるのが先か。
カイは静かな表情で僅かに口端を上げ、皮肉げに笑った。まるであのときのようだと、ここ、ローマで思う。
聖戦の折に、カイはローマで大きな敗北を味わった。まだ団長にもなっていないとき、市民を見捨てることなどできないと、自ら先陣を切ってギアに戦いを挑んだ。それはとても賢い戦いではなく、案の定というべきか退却を余儀なくされたのだ。恐らくクリフならば、そんな無謀な賭けに出なかっただろう。
今までに何度か死を覚悟したことがあるカイだったが、あのときほどはっきりと「死ぬ」と思ったのはかつてなかった。それほどまでに追い詰められ、生きて帰れたことが奇跡としか思えなかった。
そうして退却する道々、山のような死体とすれ違った。逃げ遅れた市民の死体もあったが、その中には団員の姿も少なくなかった。彼らを殺したのは自分だと、カイはそれを見つめながら後悔した。二度とこんな無謀なことはしないと、二度とこんな過ちを繰り返さないと、胸に刻み込んだ。
「……なのに私はまた、無謀なことをしようとしている」
自嘲めいた笑みを零し、カイは紋章を書き上げて立ち上がった。
また過ちを繰り返す。だが、今回は失敗したときの犠牲が自分だけで済む。だから、誰も無駄に死ぬことはない。
これでいい。これが自分の生きる道だ。ここで人を見捨てて逃げ出したなら、自分は自分を許せない。
カイは大きく描かれた紋章の前に立ち、息を整えた。
と、その時――
「くだらねぇ死に方するんじゃねぇって言っただろッ!」
誰もいないはずの広場で、怒号のような声が響き渡った。カイは目を見開き、後ろを振り返った。
よっぽど急いで来たのだろう。そこには、息を微かに弾ませたソルが立っていた。赤い瞳は、射抜くように鋭くこちらを睨み付けている。
カイはその姿を目に留め、ああ、と柔らかく微笑んだ。本当は少し最後に顔が見たいと思っていた人物を一目見れて、胸が温かくなる。
そういえば、あのローマ会戦でもお前が駆けつけてくれたんだっけ。そんなことを胸中で呟きながら、ソルの姿を見れたことを純粋に嬉しく思った。
だが、ソルはそんな穏やかな状態ではなかったらしく、目つきのあまり良くない細い目を怒りでつり上げ、こちらに歩み寄ってくる。
「くだらねぇ死に方はしないんじゃなかったのか」
「くだらなくはない。まだ避難していない人達が助かる」
「だからって坊やが犠牲になる必要があるのか。全員で逃げればいいだろ」
「それが叶わないから、こうしてるんじゃないか」
カイは至って平静に言葉を返した。もうとっくに、迷いはない。
ソルはこちらを恨むような眼差しで見ていた。
「てめぇを生かすために今まで犠牲になった奴はどうなる!」
「どうせ時が経てば尽きる命。それをより多くの未来に繋ぐことができるんだから、彼らも文句は言わないはずだ」
「何を勝手なこと言ってやがる! あいつらは坊やに生きててほしいからそうしたんだろッ!」
「私は誰かを見捨ててまで生きる気はないッ。それでは自分が許せなくなってしまう………!」
顔を僅かに歪め、カイは声を荒げた。
「私にしかできないことがある! それが目の前にありながら逃げ出すなんて、したくなんだッ!!」
カイにはカイにしかできないことがある。ソルにはソルにしかできないことがある。人それぞれにできることは違う。
だから、自分のできることをする。
それが自分の生き方。
カイは描き込まれた紋章に手をかざした。
「最後まで戦う。それが私である証だ!」
「カイッ!」
ソルの叫びが聞こえ、こちらへ駆け寄る気配がした。だが、カイは躊躇いなく紋章に法力を注ぎ込んだ。





遠くに炎、手には水。ローマ市街は、一瞬で赤と青に染まった。
その背後で感じたのは、太陽。

お前がいるなら、きっと大丈夫だ。
そんなことを思いながら、カイはたゆたう水を操るためにすべての力を使い果たした。

















よく晴れた空の日、男は大きな体躯を少し丸め、木の下をくぐって庭園へと入った。
それを目ざとく見つけた子供達が、一斉に駆け寄ってきて男の周りをぐるりと取り囲む。
「わーい! お兄ちゃんが帰って来た!」
「またどこか遠いところへ行ってきたの? そのときのお話してよ!」
「その前に、みんなで遊ぼうよー!」
きゃいきゃいと口々に叫ぶ子供達に、男は困ったように頭を掻いた。
「あー…、またあとで遊んでやる。それより、ばあさんはどこだ?」
「台所でティモシーお姉ちゃんと晩御飯の用意してる!」
一人の男の子が元気よく答えたが、他の子供達は不満そうに口を尖らせた。
「行っちゃうの〜? まだお日様が出てるうちに遊んでよ〜!」
うぇぇんと泣き出しそうになりながら、幼い女の子が甲高い声で抗議する。それを期に、他の子供も騒ぎ出した。
「いっつもおばあちゃんのところばっかりーっ」
「お兄ちゃん、おばあちゃんと『あいびき』してるのかよ〜!?」
「……おい、どこでそんな言葉覚えた……」
意味が分かっていっているようにも見えないが、妙なことを叫ばれ、男は呆れ顔を作る。誰がそんな妙な言葉を教えたのだと聞きたいものだ。
だが、ここで子供達の相手をいちいちしていたらきりがない。男は、腕や腰にへばりついている子供達を引き剥がし、館の中へと足を向けた。
つたの這った趣のあるその洋館の中に入り、台所で夕飯の支度をしているらしい老婆と若い女に、男は声を掛けた。
「よぉ、調子はどうだ?」
「あ、おかえりなさい」
女はジャガイモを剥く手元を止めぬまま、男の方を見て笑いかけた。隣にいた老婆も、穏やかな表情で目を細めた。
「今日は来るだろうと思っていたよ……。おかえり」
その眼差しは柔和ではあるが、何か含めたその物言いに、男は微かに苦笑を零した。
「まあ、な。狙ってた獲物も諦めて帰ってきちまった」
「それはまた」
皺だらけの口元をほころばせ、老婆も笑う。しかし傍らにいた女は意味が分からず、不思議そうに二人を見た。
「何かあるんですか? 今日は」
「おや、ティモシーはまだ聞いてなかったかい?」
「え?」
首を傾げて女は老婆の方に顔を向け、次いで男への方へと顔を向ける。その視線に、男は困ったように眉を寄せ、老婆の方へと無言で顎をしゃくった。自分でわざわざ説明する気はない、ということだった。
老婆はその様子に笑みを零し、口を開いた。
「この孤児院を最初に建てた人のね、誕生日と命日が今日なんだよ」
老婆の言葉に女は目を瞠り、男の方へと視線を転じた。
「ここって、あなたが建てたんじゃなかったんですか?」
「まあな。……俺はそれを引き継いでるだけだ」
男は面倒そうに肯定し、肩に担いでいた荷物を床に置いた。
「ばあさん、倉庫のカギ貸してくれ」
「はいはい」
男が大きな手をひらひらさせると、老婆は慣れた様子で近くの棚から一つの鍵を取り出した。ゆっくりとした足取りで老婆はそのまま男の傍まで行き、鍵を手渡す。
「今年はまた新しい子が入ったからね。その子にも聴かせておあげなさい」
「わかった」
男は短く返事をして鍵を握り締めると、倉庫の方へと姿を消した。
その場に残され、女はまた少し首を捻った。
「大切な人、だったんですか……?」
女が老婆の方を見て問うと、老婆は何かを思い出したように少し微笑み、ゆっくりと頷いた。
「そうだね。本人はそうだとは言わないけれどね。……たぶん、言葉では言い尽くせないんじゃないかい」
「言葉では言い尽くせない……?」
女は老婆の言葉を不思議そうに反芻する。その様を見て、老婆は少し機嫌よく笑った。
「お前さんもそのうち、そう思える誰かに出会えるよ」
「そうかしら……?」
まだ年若いその女は、言葉の意味がよく飲み込めずにまた首を傾げた。




男が倉庫から取り出したギターを持って廊下を渡っていると、後ろからまたわらわらと子供達が寄ってくる。
「今日は何を歌うの〜?」
「俺、『くいーん』がいい!」
男の歩くスピードに合わせてぱたぱたと走りながら、子供達は口々に捲くし立てる。毎年恒例のこの行事を、子供達は随分楽しみにしているようだった。
そんな中、一人の幼い女の子がみんなに一生懸命ついていきながら、隣の女の子に聞いた。
「ねぇ、何が始まるの?」
「ミーナちゃんは初めてだよね。これからお兄ちゃんがお歌を歌ってくれるんだよ」
まるで自分のことのように誇らしげにそう言う隣の女の子を見て、幼い女の子の期待は膨らむ。
「お歌、上手なの?」
「うん、とっても綺麗で気持ちいいの」
「……でも私、今まで聴いたことなかったよ?」
「お兄ちゃん、毎年この日にしか歌わないもの」
二人の女の子がそんな会話をしているうちに、男は少し広めの部屋へと入った。
適当に椅子を引っ張ってきて男がそこに腰を下ろすと、そこを囲むように子供達が床に座る。
「今日は何を歌うの?」
わくわくと期待の眼差しで、男の子が聞いてくるのを、男は微かに苦笑してから答えた。
「QUEENの『You’er my best friend』だ」
その言葉を合図に、男はギターに指を滑らせる。位置を探るような音で、開放弦が一度鳴った。
弦楽器特有の音が部屋に余韻を響かせ、それが消えてから、男はギターを抱えなおした。
一瞬の空白を置いて、指が再び弦の上を滑った。
リズムを遅めにアレンジした曲がギターから紡ぎ出される。それに子供達は静かに聴き入った。
男はその様子を見て満足げに笑い、唇から零した少し掠れた低い声で柔らかく歌を歌った。




「……すごく綺麗だね」
「うん、そうだね」
「もう一人、誰かの声が重なって聞こえる」
「うん」
「綺麗だね」
「とっても綺麗だね……」










死に場所を求めて生きるのは、やめた。

絶望はしない。過去を振り返ることはあっても、嘆いたりはしない。
そんなことをするくらいなら、一歩先へ進む。
それはお前に教えられたことだ、カイ。




Happy Birthday .




END





…………。
え、待て。カイちゃんが死んでるじゃん!
と、ツッコみたくなる誕生日SS兼隣人編最終回でした。

実は最初から、カイが死ぬことで締め括るつもりで始めた隣人編。
ドラマCDのネタも一部使い…
最後だけが今までと大分違うものになりました;


時間的に大幅遅刻となりましたが(滝汗)、これで彼らの物語は終わりです。
ここまでつき合って下さった心優しい方々、本当にありがとうございました。