その時、咄嗟に左目を覆うことが出来た自分を、褒め称えてやりたいと思った。
それ程に突拍子もなく、前触れもなしに、それは容赦なく目の前に降って来た。
「……ッ!?」
常人ならば顔面から床に激突してもおかしくはない姿勢から現れた男は、しかし予想を裏切り、高い壁から放り出された猫が華麗に着地するかのように身を捻って、足から床に降り立った。
だが、獣を思わせるその身のこなしを持ってしても、勢いは殺しきれなかったらしく、重量感のある騒音を響かせる。
ぶわりと、はためいた生成りの法衣が、ゆっくりと沈んでいく様に、カイは目を奪われていた。
両膝と片手を地に付けて首を垂れるその姿は、走り出す前の猛獣を思わせる。顔は伏せている筈なのに、その体躯だけで見る者に畏怖を抱かせた。
この男を、知っている。……いや、正確には、知って「いた」。
そう思考が巡ったその瞬間だけ、カイの本能は理性を凌駕した。
状況を判断するよりも早く、理由なき警告に従って自分の左目を叩きつけるように手で隠す。
それとほぼ同時に、男は顔を上げていた。
「……」
言葉は発しない。だが、状況を見極めようと細められた赤い両目が、鋭い眼光を放っていた。
その敵意を剥き出しにした気配に煽られ、カイの目も微かに細められる。
そうして身構えるのは逆効果だと遅れて気が付いたが、反射的な緊張は簡単に解けなかった。
静寂が支配して、3秒。やけに長く感じた沈黙の後、男は鼻根にグッと皺を寄せた。
「お前は……小僧か?」
押し殺した低音が、男の喉から発せられる。威嚇のようなそれは、微かな戸惑いを伴っていた。
断定出来ず、窺うように投げられた言葉に、カイはいつの間にか詰めていた息をそっと吐き出した。こちらが構えていては、事態は好転しない。
強張った肩の力を抜き、努めて笑みを浮かべて見せた。
「ああ、そうだよ。私はカイ=キスクだ」
まるで初めて会うかのように、名乗る。もしもこの場にシンが居たら、どうしてそんなことをするのかと、疑問に思うだろう。今更自己紹介をするなんて、気でも触れたかと心配するかもしれない。
しかしこの対応が正解なのだと、カイは自身の経験も踏まえて、知っている。
今のこの男にとって、目の前のカイは初めて見る「カイ=キスク」なのだから。
「ようこそ、未来へ……ソル」
「……くそッ、そういう事か」
カイが片目を閉じたまま、微笑んで手を差し出すと、懐かしい姿の男は顔を歪めて舌を打った。
まるで、人に慣れていない猫のようだ。
紅茶と茶菓子をソルの目の前に置きながら、カイはそんな感想を抱いた。もっと言えば、人目を避けて物陰に隠れていた猫をつまみ出して無理やり座らせたら、きっとこんな感じだろうと思った。
さっさと何処かへ逃げたい、だがそうも出来ない。そんなジレンマを抱えた、剣呑な雰囲気を漂わせている。
「今は、何年だ」
「2187年です。聖戦が終わって、12年経っています」
差し出した香り高いアールグレイを無視して、ソルは言葉少なに質問した。抑揚も無く無愛想な物言いに、カイは何のてらいも無く答えて自分の紅茶に口を付ける。
聖騎士団に所属していた頃に纏っていた法衣を着込んだソルは、その答えに眉間の皺を増やしたようだった。無表情を装うその奥に、緊張と不安を滲ませる。
目の前のソルと一緒にいた当時の自分では、この微かな変化を読み取れなかった。自身が幼すぎたのか、あるいはただこの男を見慣れていなかっただけか、それとも両方か。
いずれの要因か分からないが、今はこの男の心情が理解できるのだからそれで良しとするべきかと、カイは自身を納得させた。
唐突に時間を跳んで来たソルの現れた場所が、カイの誂えた隠し部屋で良かったと改めて思う。
危うく、治療の為に制御を緩めていた左目を見られそうにはなったが、この迷子の大猫を他の者に会わせてしまっては余計な混乱を招いただろう。
「それで、貴方が元の時代に戻る方法についてですが……どの方法を取るにせよ、今は時期が悪い、というのが正直なところです」
「……どういうことだ」
勿体つけることも無く、カイは目の前の男が欲しているであろう話題を口にした。常にも増して言葉少なになっていたソルは、驚いたように目を瞠る。
早々に元の場所へ帰してあげたいのは山々なのだが、こちらとしても問題が山積していた。
カイは現状を大まかに伝えようと唇を開きかけたが、それを遮るように不審げな表情のソルに問われた。
「何故、時間跳躍を知っている。しかも……帰る方法まで」
……ああ、そちらに驚いたのか。
思わず胸中でそんな感想を抱き、認識を改めさせられた。カイは自分が冷静に現状を分析出来ていると思っていたが、実際は随分と甘い見込みだった。
このソルにとって、カイ=キスクとはほんの少し目立つ子どもの一人でしかないのだろう。まさか後の人生で、それなりに関わりがあるとは夢にも思っていない。
長く生きるこの男にとって、聖騎士団で過ごした歳月など瞬きに等しい。
まず自身が時間跳躍をすでに体験していること、ひいてはアクセルやイノの存在を知っていることから語らねばならない。
カイは静かにティーカップをソーサーへ戻し、簡潔にそれらを伝えた。
これは歴史改変になるのだろうかと一抹の不安がよぎるが、それを言ったらアクセルは今までのタイムスリップでそれこそ無数に改変を行ってしまっているだろう。
必要最低限の情報だけ伝え、今度はこちらの現状をカイは説明し始めた。
「実は今、とある事件の真っ最中でしてソルも……あ、こちらの時代のソルということですが、彼もここには居ないんです。だからもし意図的に時空の歪みを起こさせるなら、まず呼び戻さなければいけません」
「……紅い女は、見かけなかったか」
「イノさんですね? 彼女は今のところ、ほとんど目撃されていません。コンタクトを取ることは、ギアメーカーを通じて出来るかもしれませんが……確実とは言えません」
あまり多くは語らないこのソルが言うには、どうやらイノのせいでこちらの時代に飛ばされてきたらしい。厄介事を持ち込んだ本人に落とし前をつけさせようと思っているようだが、帰る為に確実な手段だとは言えなかった。
「アクセルもイノさんと同じ能力を持っていますが、こちらも正確な所在は分かりません。やはり、同一存在による時間跳躍が一番良いと思います」
「……随分、慣れてんな」
淡々と事務手続きでもするように話すカイを見て、ソルがそんな感想を洩らした。
慣れている。なるほど、言われてみれば確かに慣れを感じるほどには、この異常事態を目の当たりにしている。
本人の意思に反して日常的に姿を消したり現したりするアクセルに、意図を持って時を渡るイノ、あるいは膨大な法力の衝突で偶発的に発生する歪み……思えば普通の人では一生体験しないであろう事象に、随分とありふれた頻度でもって遭遇している。
言われてみて、何故だろうかと一瞬思いを馳せるも、結局はこの男と関わっているからだと思い当たり、カイの視線は目の前に集約される。
「慣れてしまうのは……必然ですね」
自分がソルの傍らにいることを、決めてしまっているのだから。巻き込まれるのは、ごく当たり前のことだ。
そう思い至り、カイがくすっと微笑んで見せると、目の前のソルは落ち着かなげに視線を彷徨わせた。
警戒を身に纏ったままのソルは、本当に人慣れしていない動物のようだ、とカイは改めて思いつつ、温度を失いつつある紅茶を飲むように促した。
「先程、こちらのソルには戻るように連絡しておきましたから。窮屈かもしれませんが、暫くこの部屋で待っていてください」
「ああ……」
茶請けのクッキーサンドとマドレーヌも勧めると、精悍な顔は戸惑いの色を濃くする。
そういえば、この男はあまりこういうものが好きではなかったと遅れて気づいた。カイが王位に就いた頃には、最初の時ほど渋い表情を見せなくなっていたので忘れていたが、本来こういう小さくて繊細な菓子は好まない。
チーズとクラッカーを用意しましょう、紅茶よりコーヒーの方がいいですよね、とカイは矢継ぎ早に言って腰を浮かせると、ソルがそれを制するように言葉を発した。
「場所が分かれば、俺から出向く」
構うなと言外にいうように硬い声が向けられて、カイは中腰のまま止まった。
停止したカイの代わりとばかりに、去ろうと動き出したソルを見て、慌てて引き止めた。
「待って! それは、やめてください。……きっと、かなり、都合が悪い」
「……一体、何の不都合がある」
言い淀むさまに、立ち上がったソルが微かに首を傾ぐ。
ヘッドギアの陰から覗く両眼が、暗闇で獲物を狙う肉食獣のように鈍く光っていた。
言え、と圧を掛けてくる。
どう説明したものかとカイは逡巡するが、結局脳裏に浮かぶのは、以前アクセルから聞いた内容を元にした話だった。
「……強いて言うなら、タイムパラドックスの危険、でしょうか。あなたが未来を知ったことで、行動を変えてしまう可能性がある」
「タイムパラドックス……。ふん、SF小説や映画ではお決まりのパターンだな」
カイは至って真剣に危険性を口にしたが、恐らく初めてタイムスリップを体験したであろうソルには、冗談に等しく聞こえたらしい。
だが、鼻先で嗤う仕草を見せながらも、ソルの眼は欠片も笑っていなかった。それは実体験では初めてだが、イノやアクセルの存在を知っているからだろう。
時間跳躍。その手の作品や解釈などは、法力が確立された後の世界にもあるにはあった。
だが、長くギアとの交戦状態にあった人類は、そういう実用的とは言い難い研究から手を引いた。
故にカイが語れることは極端に少ない。
「過去の行動が変われば……今、この場にも影響を与える可能性がある、と聞きました。場合によっては、すでに終わったはずの聖戦が、まだ終わっていない世界へ改変されることもあり得るそうです」
いつだったか、それらしい言葉を紅い楽師が言っていたのを思い出す。未だに正確なところは理解できないが、彼女は何度もその改変を行っているようだった。
あまりに大きな変化を及ぼすような事態になれば、恐らく彼女が介入してくるだろうが……出来るだけそれは避けたい。
それ故に、事実上ソルをこの部屋に軟禁せざるを得なかった。
「……外に出るだけで、影響が出るのか」
「分かりません。ですが、ここは……この国は、貴方の時代にはない国です。それを知ることは、あまり良いように思えません」
正直なところ、客観的に歴史を観測できる立場にないカイには、影響があるのかどうかすら分からない。
しかし誠実にリスクを説明するカイに思うところはあったのか、ソルはため息を吐き出しながら椅子に座り直した。
出て行くことをやめた彼に、カイは安堵する。
「不自由を強いて、すみません」
「……別に」
言葉を発するのも億劫だとばかりに、ぼそりと呟いた。
不機嫌そうなその様子に苦笑し、カイは美味しいコーヒーを淹れ直そうと部屋を後にした。
戸惑いがないと言えば、嘘になる。
しかしその戸惑いが、どこから来ているのか判然としなかった。
いや、追求するべきでないと別の感情がブレーキを掛けている。分かってしまうと、恐らく支障が出る。……何に、と自身に問うのも危険だ。
そう冷静に分析しながらも、分からないことを明らかにしようとする科学者気質が走り出すのを、なんとか押し留めて、ソルはガリガリと行儀悪くクラッカーを噛み砕いた。
殊更だらしなくソファに背を預けたソルは、鬱陶しい法衣の裾を広げて、布越しにも分かる筋肉質な足を乱暴に組む。
ソルにとっては楽な姿勢だが、最近よく見かけるようになった小さな団長さんは、まるでチンピラだと評して五月蝿く注意してきた。
自分にも厳しく他人にも厳しい模範生は、鬱陶しいこと、この上ない。
そんな喋る教科書と化しているカイ=キスクの十何年後かの姿が、まさかのコレだ。
改めて抱く驚愕を表情には出さず、ソルは横目でデスクに向かう美丈夫を盗み見た。
顔立ちは、御使だとか天使だとか謳われた頃の美しさを残し、青年となっている。しかしそこから伸びる四肢は、少年の頃と同じく細く無駄がない。
筋肉を付けるのだと張り切って牛乳を飲んでいた少年をついこの間食堂で見かけたソルは、その努力が全く実らなかったことを知ってしまい、僅かながら同情する。
とはいえ、あの顔で筋肉隆々ではバランスが悪いのも事実で、これはこれで良かったのだろうと思う。
団員達から可愛いと騒がれている少年は、恐らく皆からカッコイイと騒がれる容姿に成長していたが、十分に予測できる範囲だった。
カイは髪を伸ばすようになったのか、後ろで高く結わえている金髪が、書類にペンを走らせる度にふわふわと揺れ動く。
視線を紙面に落とす目元には、ハーフリムの眼鏡が掛けられていた。目が悪くなったのだろうか。
着ている制服は、細かいところで違いは見出せるものの基本的に聖騎士団の頃と大差ない。聖戦は終わったと言っていたのに、何故着ているのだろうか。
取り留めもなく感想を胸中で呟いていたソルは、ふと顔を上げたカイと視線がかち合い、心臓が跳ねた。
「どうかしましたか?」
「いや………別に」
盗み見ていたはずが、明らさまにじろじろ見てしまっていた自分の失態に眉を寄せる。
顔を歪めるソルに、しかしカイは柔和に笑って見せた。
「暇、ですか? 本でも読みます? 昔のものなら、きっと支障はないはずですよ」
「いらねぇ」
聖書なんて最適ですねと、絶対に読まないと分かっていてカイが冗談を口にする。
そんな気安い態度が、ソルを戸惑わせるのだと本人は気付いていない。
いつも口煩く付き纏うヒヨコ頭という認識程度の少年だったはずが、どうしてこうなったのか。
見た目は予想通りに育ったカイは、ソルの嗜好や行動を熟知して世話を焼くお人好しへと変貌していた。
……いや、お人好しという点は少年の時から変わりない。ただ、それがソルに対して発揮されることがないだけで。
長い間老化の止まったソルが、態度を変えてここに至ったとは考えにくい。
カイが大人になった。ただ、それだけのことなのだろう。
老いたクリフと対面した時のような、自分だけ時間に取り残された感覚を味わう。
そんなことは分かりきっていると、ソルは改めて心に刻み付けた。今更、感傷に浸るなど馬鹿げてる。
「……ソル?」
心配げに自分を呼ぶ声に気付き、いつの間にか俯いていた顔を上げると、思ったより近付いていたカイが視界に入った。
眼鏡を外してソルの傍に立ったカイが、こちらを覗き込む。
冗談みたいに長い金の睫毛が、瞬きと共に震えて光を反射した。きょとんと、実年齢に不釣り合いな表情でこちらを見つめる青緑の瞳が、窓から差し込む陽光を受けて、澄んだ湖面のように煌めく。
耐え切れず、ソルは顔を背けた。
直視していては、魂を持って行かれる。そう本気で危惧するほどに、カイの眼は何のてらいもなくソルを真っ直ぐに見ていた。
「……どっか行け」
「え、ひどいな。不安なのかと思って、心配しただけなのに」
「いらねぇ。鬱陶しい。消えろ」
顔を完全に反対方向へ向けたまま、ソルが思い付いた罵倒を連ねる。
その言葉を聞いて、意外にもカイは噴き出した。
「ふっ…はは! ……これは、何というか…っ…うん……」
怒り狂う、ではなく、笑い出すという反応にソルは驚き、思わずカイの方へ向き直る。
そしてそうしてしまったことを、心底後悔した。
息が触れ合うほどの距離で。
エメラルドのような大きな目を笑みで蕩かしたカイが、ソルの頭をゆるりと撫でた。
「可愛いなぁ」
「……!?」
およそ、一世紀くらいは自分に向けられたことのなかった形容詞に、戦慄した。
しかも、その言葉がよっぽど似合いであろう相手から、満面の笑みで告げられる。
意味が分からず、思考が凍りついた。
目を瞠ったまま金縛りに遭ったように動けなくなったソルに構わず、カイは動物でも愛でるように自由奔放に跳ねる茶髪を撫で続ける。
「昔は気付かなかったけど、ソルって可愛かったんだな」
いっそ能天気とも言える調子でそう宣ったカイに、フリーズしていた脳が解凍・沸騰の2段階を一気に通過した。
殴り付ける勢いで、ソルはカイの腕を払い除ける。
「ふざけてンのかッ、テメェ!」
「え!? いいえ、全然」
吼えるソルに一瞬びっくりして手を引っ込めたものの、不思議そうな顔をするカイに、盛大な肩透かしを食らう。
何なんだろう。この男の思考が、読めない。
自分の知る、少年のカイと姿は似ているのに中身が違いすぎる。
二の句が継げなくなったソルは無視を決め込もうとそっぽを向くと、見計らったようなタイミングで通信を知らせる音が鳴った。
失礼、と一言告げてカイが離れていく。
部屋の隅へと移動しながら、カイが法術による通信を展開すると、どこかで聞いた声が響いた。
『おい、今どこにいる』
「ソル」
通信の相手に向けて、カイが名を呼ぶ。
客観的に自分の声を聞くというのは妙な感じがしたが、この時代の自分は特に変わりはないようで安心した。
なまじカイの変貌ぶりを知ってしまったが為に、自分はどうなっているのだろうかと不安ではあったのだ。
「執務室だ。忙しいところ、すまないな」
『別にいいさ、今のところ手詰まりだ』
「進展なし、か……」
難しい表情で、カイは報告を聞く。何か事件の最中だと言っていたが、それの解決に難航しているようだ。
タイムパラドックスの観点からも、あまり二人の会話は聞くべきではないかと思い、ソルはコーヒーカップを取って口をつけた。すでに冷めていたが、後味のすっきりした苦味が心地よい。
「そうだ。ソル」
『あ?』
「昔のお前って、可愛いな」
危うく、コーヒーを噴き出しそうになった。なんとか含んでいた液体を吐き出すのを免れたが、口に押し当てたカップをしばらく離すことはできなさそうだ。外したら、せき止めているコーヒーが溢れ出す。
コイツ何を言い出すんだと、ぶるぶる手を震わせながら胸中で罵ったソルは、カイを睨みつけようと首を巡らせた。
そのままファッション雑誌の表紙を飾れそうな美貌が、法力通信を耳元にあてながら無邪気に笑っている様が視界に入る。どうやら先程の言葉は、本気で言っているようだ。悪意の欠片も見当たらない。
なんてタチの悪い…と思ったところで、姿の見えないソルの方も、『はあ?』と呆れたような声を上げて、
『何言ってんだ、可愛いのはテメェだろ』
と言ってくれたので、頑張ってせき止めていたコーヒーは見事にぶち撒けられた。白い法衣と高そうな絨毯に茶色い液体が飛び散る。
残念ながら、二度の衝撃には耐えられなかった。
コーヒーカップを叩きつけるようにテーブルへ戻すが、誤って息を吸い込んで気管へ逆流させてしまったソルは、ゲッホゲッホと更に咳き込んだ。息苦しさか、それとも他の何かか、涙目になるのを自覚する。
自分は大丈夫だと思っていた。今まで何も変わらなかったのだから、これからも変わることはないはずだと思っていた。
なのに、酷い裏切りに遭った気分だ。
こんなセリフを言う人物が、己の未来の姿だとは到底思えない。
幻覚でも見ているのではないか。ソルは混乱の末にそう思い始めていた。
「はは、三十歳でそんなことを言われてもなぁ……」
……三十歳!?
カラカラと笑いながらそんなことを言っているカイの横顔を凝視し、ソルは咳き込みがぶり返すのを感じた。折角治まりかけていたのに、呼吸がおかしくなる。
老いを感じさせないこの顔なら、未来のソルが先の発言をしたのも少し分かる気がする。……少しだけ。
何しろ、今のカイはソルの外見年齢を越えている。それでこの容姿を保っているなど、驚異だろう。
きっと、誰もがそう思う。だが、肝心の本人だけがそう思わないようだった。
「なかなか素敵な冗談だ、ありがとう」
待っているよ、と苦笑に近い、寂しそうな笑みを浮かべてカイは通信を切った。
濡れた口元を拭いながら、その様子を見て。
このカイは、ソルの言葉を信じていない。それを直感に近いかたちで、気付いた。礼を言いながら、カイはそれを全く真に受けていない。
何故、信じていないのかは分からなかった。この十何年間かで何かがあったのかもしれない。あるいは何もなく、ただカイがそういうものを信じないだけだったのかもしれない。
だが何にせよ、この時代のソルの言葉はカイに届いていない。多分、冗談のつもりなどなく、未来の自分は本音を口にしている。
それが分かるだけに、目の前のカイの反応に歯痒いものを感じた。
少年のカイは今まで怒った顔ばかりで、笑いかけてきたり、和やかに話をしたりすることもなく、こちらの顔を見れば報告書を出してないだとか武器の破損が多いだとか、暇なら勝負しろだとか、うるさくてかなわなかった。
同世代の子どもに比べれば遥かにしっかりしているだろうが、はみ出し者のソルに遠慮することはないとばかりに、カイは他で見せないような無茶な振る舞いをすることも多かった。
それをソルは心底うざったいと思っていたし、今も出来れば関わりたくないとさえ思う。
だが、こうして大人になった彼と見比べて気付いてしまった。カイは無意識にソルを特別だとみなして、甘えていたのだ。
だから、成長したカイを前にして戸惑ってしまった。我儘に振舞ってみせる少年は、もうそこにいない。
大人になった彼は余裕を得て、誰にでも平等に優しさを与えられるようになった。失礼な態度も、笑って流せるようになった。
だからこそ、ソルという存在はカイの中で特別ではなくなったのではないか。本気の言葉も、その他大勢の賛辞と何ら変わらなくなるくらい。
ソルは自分が何に対してイラついているのか、どんどん分からなくなってきた。
逆立った頭をグローブ越しにがりがり掻き、ソファから立ち上がる。
「あ、ソル。もうすぐ帰れますから……」
動き出す気配に、カイが振り返りながらやんわりと制する。
もう少し待ってほしいと請うその言い方も、よく聞けば他人行儀で、ソルは目を細めた。
ローテーブルを避けてカイに近づいて行くと、てっきりどこかへ行こうとしていると思っていたカイが、不思議そうに目を瞬いた。
「どうしました……?」
間近に立つと、僅かばかり下にある長い睫毛に縁取られた碧眼が、こちらを見上げてくる。
清潔そうな香りを纏う彼を暫し見下ろし、ソルはその小さな顎を掴んだ。
「!?」
そして、息を呑んで戦慄く薄い唇に、噛み付くようなキスを落とした。
衛兵に道を開けられ、向かった先の廊下で、ソルは空間が歪むような不快な力の働きを感知した。
同一存在が接近したことで、恐らくイレギュラーな昔のソルの方が、空間から彈き出されたのだろう。
歩を緩めることも早めることもなく、ソルは廊下を渡りきると、突き当たりの執務室の扉に手を掛けた。
事前に連絡していたので、ノックもなく押し開く。
「……あ」
最初に視界へ入ったいつもの椅子に城主の姿はなく、ぐるりと中を見回したソルは、同時にこちらへ気付いたカイと視線が合った。
何故かカイは、部屋の隅の方で壁を背にしてしゃがみこんでいた。
しかも、いつもきっちり後ろで結わえている髪は乱れ、飾り紐が毛先で引っかかっている有様で。無駄に複雑な制服の上半身は、前が半ば開かれていた。
極めつけに、色白の頬には朱が差している。
「強姦魔はどこに行った」
「消えたよ、多分もとの時代に帰ったと……って、未遂だからな!」
後手に扉を閉めながらソルが部屋に入ると、カイは大きな目を潤ませながら言い訳じみた叫びをあげた。
襲われた被害者側が慌てるなんて、恐らくこの男くらいだろうなと思いながら、ソルはカイの前に立って手を差し伸べる。
「ほら、立て。キスで腰でも砕かれたか」
「ッ! 自信過剰か、お前はっ」
からかってやると、カイの秀麗な顔が羞恥でさらに紅くなった。しかし出された手には素直に掴まり、立ち上がる。
挙動におかしいところは見られないので、本当に襲われて間もないところで中断したのだろう。
ソルが乱れた制服の裾を叩いてやると、カイは取れかかっていた髪留めを外して髪を結び直しながら、納得がいかない顔で呟いた。
「……お前は、私を怒らせる天才だけど」
「ん?」
「私も、お前を怒らせる天才だったのかな……?」
「は?」
何が気に障ったんだろう、とカイは本気で首を傾げている。
なるほど、この男には腹が立った末の行動だと受け取られたようだ。昔の俺が哀れだなと思いながら、ソルはため息を吐き出す。
ただのクソガキだと思ってた相手が、想像以上に理想的に成長していたものだから、気の迷いが生じた……という、色のある方へ解釈はされないらしい。
とはいえ、その原罪を作ったのは他ならぬ自分自身だ。
カイ=キスクの先を知ったソルは、この後元の時代に帰ってから、ろくな言葉もなく少年を自分の物のように扱った。
あの頃に何かしら説明があれば、もう少しカイはソルとの関係をまともに捉えることが出来ていただろう。
だがその後にソルは自分の都合で、聖騎士団を抜けて封炎剣を持ち去った。
男の裏切り行為に、恐らく少年は深く傷付いた。
今はもうその行動の理由を理解しているし、カイから非難するような言葉もない。
だが長い付き合いの間に、こちらの思惑とは少し違った解釈をされてしまったのか、カイはソルの恋人らしい言動をあまり真に受けなくなった。
お陰で最近はわざとあけすけな言葉を投げかけて、周囲を驚かすのが楽しみの一つになりつつある。
その犠牲になったことのあるアクセルに言わせれば、理解できない、らしい。
俺はめぐみ一筋だから!と胸を張って言われたが、ソルとしては自分はアリア一筋だし、カイはディズィー一筋だろう。何も違いはない。
しかし、じゃあその関係は何なのさ?と聞かれると、これと言い表わせるものはなかった。
「ああ、そうだ」
ふと思い出したように、ソルは服の乱れを直したカイの肩に触れる。
先の騒動の名残りを消し去ったカイは、ん?とこちらを見上げた。
遠い昔の……先程消えた昔の自分には、ついさっき起こったばかりのアクシデントが、ソルの脳裏にフラッシュバックする。
記憶が美化されていたかと思ったが、目の前の人物はその記憶に見劣ることなく、鮮やかな金色と碧を纏っていた。
この青年を、誰よりも先に自分のものにしたい。
そう思った当時の気持ちが、蘇る。
「消毒、しておかねェとな」
笑いながらそう囁き、ソルはカイの柔らかな唇を奪った。
END
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野良猫みたいな聖ソルが、二人の様子にあてられてコーヒー噴き出すのが書きたかった。