控えめなノックが執務室に響き、レオは霞む目を瞬いて扉に視線を向けた。


「入れ」


先に衛兵から話は通っていたので、向こう側にいる人物が誰かは分かっていた。レオの短く横柄な命令に、飴色の光沢を纏ったアンティークの扉が軋みをあげる。

隙間から現れたのは、すらりと伸びた足とそれを覆い隠すような白い裾。そして半瞬遅れて色白の秀麗な顔と光を溶かし込んだような金髪が覗いた。


「やあ、レオ。約束を守りに来た」


見目の儚さとは裏腹に、芯の通った男の声が朗らかな調子でそう告げる。唄うような、あるいは詩を朗読するような声音が、腹立たしくもよく似合っているその男を視界に留め、レオは片眉を上げた。


「予想以上に酷いツラだな、カイ」

「はは、それは君も同じだろう」


奇譚のない感想をぶつけても、カイは憤った様子は見せなかった。指摘通り、こちらも酷い面構えになっているからだろう。

レオもそれは自覚している。慈悲なき啓示の事件が解決してから一週間が経っているが、その間にあまり眠れた記憶がないからだ。


バビロンでゆりかごが発現する少し前から、レオは首都圏を受け持っていたカイに代わって、公務を行う為にイリュリア城へ移った。それから事件解決までの間、レオは暫く自分の領土を離れていたのだ。

自城へ戻った際に、未処理の書類の山で隙間なく埋まった哀れなデスクと再会したのは言うまでもない。


無駄に広いと思っていた荘厳な飾り彫りのデスクは、今のところ三分の一ほどしか顔を出していない。しかしここまで書類を減らすのに、既に一週間を要している事実に流石のレオも辟易していた。

よって、レオの鋭い両目の下にはクマができ、強面な顔が更に凄みを増していた。


「こっちのテーブル、借りてもいいか」

「好きに使え。ペンはここにある」


同じく疲れきった様子で目の下に陰を作るカイが、慣れた足取りで応接用のテーブルへ近付く。

目の前を横切るのを見て、レオがおざなりにデスクの上にある予備のペンとインクを指差すと、カイは礼を言いながらそれを持って行った。

その動作に普段の覇気はなく、幽鬼が彷徨っているようにさえ見える。表面上は平素と変わらないため衛兵などは恐らく騙されているだろうが、その実カイは相当疲れている。


レオがイリュリア城に居た間、カイは溜まった書類を片付けてはいたが積まれていくスピードの方が早かった。そのうえ、聖皇アリエルスの襲撃により首都は大きな被害を受け、街の修復に手を取られている。

他国、他組織からの援助もあったので、その後の対応もせねばならず、瓦解した聖皇庁や元老院の処理も重なり、書類の処理は少なくともカイの仕事は膨れ上がっていた。

事件後に首都圏へ寄ったダレルができる範囲で代役を務めてはくれていたが、簡単に補いきれるものではなかっただろう。

それでもなんとか隙を作り、カイは書類処理の手伝いをする約束を果たす為、遠路はるばるレオの城へ来てくれた。


元気だとはお互い冗談でも言えない状態だが、こうして気の置けない旧知の友と仕事をするのは、悪くない。

レオは気分を少しでも入れ替えようと息を吐きながら、幾つかの書類の束を掴んだ。


「この案件なら、お前の委任で執行できる」

「分かった」


軽く顎を引き、カイが了承する。受け取った書類に目を通しながら、ソファに腰を下ろした。

無駄口を叩く余裕も気力もなく、レオは再び自分の書類に視線を落とす。カイもまた言葉を発することなく仕事に没頭していった。







「お茶でも淹れようか」


三、四時間ほど過ぎた辺りだろうか、カイが凝り固まった体を伸ばしながら、そんな提案をした。

本来なら客人にお茶を淹れて貰うなど言語道断だが、ティーカップ集めが趣味のカイが出すお茶が美味しいことを知っているレオは、給水室に案内するよう部下に命じた。

仮にも王位の者をそんな場へ連れて行くことに衛兵は躊躇いを見せたが、さっさと行けと叱咤して追い払う。

部屋を案内し終えて執務室に顔を出した衛兵が、遠慮がちに尋ねてきた。


「あの、レオ様……あれで宜しかったのでしょうか」

「『紅茶』の欄にはアイツのストレス発散と記している、問題ない。それより、夕食の用意と寝室の手配をしておけ」

「は、はい!」


恐らく泊まり込みになる…下手をすれば数日かかるだろうと予測し、レオはそう命じる。

二人で作業に当たっているが、書類が減る速度は遅々としたものだった。

ただ署名をすれば良いものなどは皆無に等しく、確認の為の調べ物にも時間を割かれる。決定が下せても各方面への承諾でさらに時間を取られる。

レオのデスクは山となった書類以外にもファイルや本が積まれて、散乱していた。簡易デスクと化した応接用のテーブルもまた、カイが持ち出した資料や書類で埋まっている。

早くこの事態を解消して、カイをイリュリア城へ帰してやりたいところだ。

ダレルやDr.パラダイムがいるとはいえ、それ以外の面子が頭脳的な物事に向いていないのは分かっている。軍神とも言われた頭脳明晰な男が、面倒臭いの一言でその能力を一切発揮しないことも知っていた。

破壊する、暴力に訴えるという一点においては突き抜けた評価をせざるを得ないカイの周りの人物達だが、逆に平時のことを当たらせるには不適格だった。


そうしてレオが当て所なく思考を漂わせていると、芳醇な香りを漂わせながらカイがサービスワゴンを押して現れた。


「レオ、クリームブリュレは食べるか?」

「食べる」

「よかった。紅茶は砂糖二杯だったな」

「ああ。ミルクはいらんぞ」


レオがデスクの書類を纏めて端に退けると、カイが空いたスペースにティーカップと茶菓子を置いていく。

聖騎士団時代から交流のある二人の仲では、こうした茶会は別段珍しいことでもない。しかし今や王としての立場を持つ者に雑用まがいの事をさせてよいのかと、ヤキモキしているらしい召使い達が扉の隙間からこちらを覗いていた。

いいから放っとけとレオが手を振って合図を送ると、その仕草に気付いたカイが苦笑をこぼして、召使い達の方を振り返る。


「大丈夫ですよ、レオは職務怠慢だ!なんて怒ったりしませんから」

「俺様は心が広いからな」


カイの軽口に、レオはどんと胸を叩いてみせた。それを見たカイがふふっと笑みを深める。

二人の和やかな様子に本当に大丈夫らしいと思った召使い達が、失礼しましたと一言告げて扉をそっと閉めた。


「……こうして二人きりなのは、久し振りだな」


向き直ったカイはティーポットを傾け、レオのカップにお茶を注ぎながら改めてそんなことを呟いた。

相変わらず顔色は悪いが、無駄に見目の良いその端正な顔は穏やかな表情を浮かべている。お茶に触れられたことと、慣れた相手と一緒にいる気安さが安心感を与えているようだった。

湯気とともに香り立つダージリンの匂いを愉しみながら、レオもまた穏やかに呟く。


「王の身では……昔のようにはいかんからな」


今では二人とも、お茶一つでも他者が介入してくる立場だ。聖騎士団時代のように、郷土土産を寮に持ち込み、酒を飲みながら朝まで語り明かすなど、出来ようはずもない。

気遣い、世話を焼いてもらえる立場は幸福なことではあるが、凡そ全てのことを自分でこなせる二人にとっては、それが時に息苦しくもあった。


紅茶を満たした繊細な白磁のカップに砂糖を足し、くるりと金の匙でかき混ぜたカイが、どうぞ召し上がれと促す。

掴めば砕けてしまいそうなティーカップは、大柄なレオには扱いが難しい食器だ。しかしその不便さを差し引いても、カイが淹れたお茶は飲むに値する。

金細工を施した細い取っ手を持ち、ゆっくりと中身を傾けると、フルーティで芳しい香りと共に、爽やかな甘みと僅かな渋みが口腔を満たした。時間と温度をきちんと守って淹れられた紅茶は、喉を潤すと同時に疲れも洗い流す。

上質なお茶に、レオは満ち足りた吐息をこぼした。


「美味い」

「どういたしまして」


珍しく素直に賞賛を口にすると、カイが自分のテーブルにティーセットを置きながら微笑んだ。

その柔らかな表情を見て、ふと昔を思い出す。そういえば、カイは戦時下ではどちらかと言うと余裕のない顔をしていることが多かった。

人類が滅ぶ瀬戸際という状況だったので無理もないが、十六歳にしては似つかわしくない雰囲気だった。

特に、聖戦終結前は鬼神の如く戦場を駆けていた。時には味方でさえ震え上がらせる程の力を発揮し、各戦地でギアを追い詰めた。


レオはオセアニアや東南アジアを中心に戦っていて、あまり本部に帰っていなかったので詳しくは知らないが、どうやらカイが団長の座に着く前にソルの入団と脱退があったらしい。

僅か一年ほどの在籍でありながら、今でも噂と武勲に事欠かない男の存在は、カイに大きな影響をもたらした。

レオが聖騎士団でカイと手合わせをして、初めて敗北を知った時と同じく、団長クリフの秘蔵っ子として名を馳せたカイは、ソルに完膚無きまでに叩きのめされて、初めての屈辱を味わった。

そうして、人との争いにさほど興味を示さなかった少年が、男との勝負で勝つことに執着を見せるようになったのだ。


封炎剣を強奪して姿を消した傍若無人は、カイのことなど毛ほども気にしていなかっただろう。

しかし、カイは違った。二言目には「アイツには負けられない」と言い、双眸に強い意志を宿すようになった。

知らぬ間に変わっていたカイの様子にレオは最初こそ戸惑いを覚えたものの、その変化を悪いものだとは思わなかった。

何故なら、以前のカイは鮮やかな瞳の奥に、死んだような色を見せていたからだ。


清く正しくあれ。

そして、人類を導く希望となれ。

正義はかくあるべきとばかりに、模範生を地でいっていたカイが、初めて自分の欲を持った。

人類が勝つためではなく、ソルに勝ちたいという我儘で剣を磨く。見返してやりたいと、成果をあげる。

過ぎた私欲は人を堕落させるが、真面目すぎるカイには少し我儘なくらいでちょうど良かった。

それは、カイの精神に柔軟性を与え、張り詰め過ぎて何かの拍子に砕けてしまいそうな危うさを消し去ったのだと思う。


百年の聖戦で先陣を切っていた長は、誰もが武勇に秀でた超人だ。天賦の才に溢れ、人類を率いた猛者ばかりだった。

その圧倒的なカリスマに、皆が頼り、依存した。

前任のクリフは豪快で明朗な人柄で、長く戦場を仕切ったが、それでもクリフの背負う重圧は如何許りか……恐らく誰も察することはできまい。

その歴代が君臨した頂点に弱冠十六歳で立つには、カイはあまりに繊細過ぎた。カイに度量がないということではない、伸し掛かるものが重すぎたということだ。

全属性の法力を操る才能、細腕から繰り出される卓越した剣技、そして見た目の良さも相まって周りを惹きつけてやまない模範的な人格者。あまりに完璧で、どこにも隙がなかった。

だから、その少年がただの一人の人間だということを、人々は忘れてしまっていた。神様か、それに準ずる天使か御使か。そういった、人間を超えたものだと錯覚していた。


人は苦境に立てば、神を欲する。その存在に希望を見て、救いを求める。

だが、その神様自身を心配する者は誰一人としていない。

軍神だと言われたソルにレオが先日忠告したのは、それを間近で見たことがあったからだった。

あまりに眩しい存在を、自分達とは違うものだと人々は思ってしまう。そこに希望を見出して、祭り上げてしまう。

だから、レオはその年端もいかない少年に、よく突っかかった。僅かな弱みさえ見せられない、哀れなただの少年にバンビーノとあだ名を付けた。

自分の欲も意思も見つけられないのは、青二才なのだと断じてやった。


今も連王という立場で神格化されている節はあるが、あの頃を思い返せば今のカイは随分と余裕を持てるようになった。

ソルとの邂逅、ギアである少女との結婚、家族を持ち、国を護るということ……紆余曲折を経て、カイ=キスクという神様もどきは一人の人間になった。

……以前よりも益々磨かれた強さには、腹立たしいばかりだが。


「『生意気』の欄にも名前を加えておくか……」

「……え?」


思わず口をへの字に曲げながらレオが苦々しく呟くと、不穏な雰囲気にカイが顔を上げた。ティーカップから口を離し、疑わしげに問うてくる目に、何でもないと言ってレオは誤魔化す。

実はレオのマイ辞書で、カイの名前は記載されている箇所が最も多い。殆どが悪い意味で、だが。


小さなティーカップの中身を飲み干し、レオはスプーンを手に取った。焦がした飴の膜に無造作にそれを突き立て、クリームブリュレを口に運ぶ。

ほろ苦さの伴った甘い菓子が、疲れた脳に染み渡った。

甘いものは嫌いではない。酸っぱいものは好かないが、甘いものは疲れている時は特に有難い。

レオの豪胆で横柄な態度からあまり菓子を差し入れられることはないのだが、カイはレオがそれらを嫌っていないことを知っていて、決まって手土産に甘いものを持ってくるのだ。


「これはどこの店のものだ?」

「ん? 私の手作りだよ」

「よし、二度と持ってくるな」

「えッ!?」


何気なく菓子の出所を聞くと、王にあるまじき答えが返ってきたので、レオは一瞬美味しいと思ってしまったことを闇に葬った。

にべもない態度に、カイは「そんなに不味かったかな……」と些かショックを受けている。彼の世話係達の為にも、これに懲りて今後キッチンを占拠するような真似をしなければ良いのだが。

とはいえ、甘味の摂取に少し気力が回復したのは確かだった。レオはメイドを呼びつけて、食べ終わった食器を下げさせた。


「夕食は八時頃の予定だ。就寝までに、これだけは終えたい」

「分かった、頑張ろう」


積み上げられた書類を四分の一のところで区切って示すと、カイはティーカップを置いて頷いた。

デスクがスッキリするまでにはまだまだ時間がかかりそうだが、文句を言っても仕方がない。二人で地道に山を切り崩していくだけだ。










カイが加勢に現れてから、二日が過ぎた。

レオの仕事が立て込んでいるのは勿論のこと、カイの抱えている仕事や交渉も重なり、最初に見込んでいた段取りよりも些か遅れていた。

休憩中に談笑くらいはしていた二人だが、それすらなくなり無言のまま黙々と仕事をこなすようになっていた。

睡眠時間は最小限に抑えている為、酷使した目が霞む。

法力通信でダレルと連絡を取っていたカイは、目をこすりながらそれを切った。


席を外して廊下へ出ていたカイが執務室へ戻ると、ソファに横たわるレオの姿があった。

仰向けで寝転がるレオは、口を半開きにして寝息を立てている。二十分ほど席を外していただけだが、限界に近い彼では夢の国へ落ちるのにさほど時間はいらなかったようだ。

カイが座っていた位置とは反対にある、対のソファは王に相応しく立派であったが、大柄なレオが横たわると体の部位がはみ出て、相対的に小さく見える。


耐え切れず少しだけ仮眠しようとしたのだろうなと思いながら、カイはその強面な顔を覗き込んだ。

枕を用意することなく倒れ込むように眠ってしまったようで、ソファの肘掛から頭が半ば滑り落ち、窮屈そうな形で収まっている。

枕に代わるクッションはないだろうかと視線を周囲に向けるが、生憎と見当たらなかった。

少し首を傾げて逡巡し、微かに頷いてからカイはそっとレオの頭を持ち上げた。ふが、と鼻息をもらすが、目覚める気配はない。

長く伸びた、タテガミのような髪を撫でながら纏め、カイは空いた空間に身を滑り込ませた。

ソファに身を沈め、膝の上にレオの頭を下ろす。力の抜けた彼の頭はそれなりに重いが、枕代わりに膝の高さはちょうど良く、カイはよしと満足げに頷いた。

片手でレオの頭を優しく撫でながら、カイは中断していた資料の黙読を再開した。


「すみません、ツェップから承認が下りまし……うぇあっ!?」


暫くそうしていたところで、ノックもそこそこに入室してきたレオの側近の一人が、こちらを見た瞬間に奇声をあげる。

持っていた書類まで落としかけるその様子にカイは訝しげな視線を向けたが、側近はハッと口元を押さえて静かに近づいて来た。

どうぞこれを、と囁くように告げて書類を渡され、カイはご苦労様ですと笑顔を向ける。

そっと下がっていった側近は、これはアリだ、と謎の呟きを漏らしながら扉の向こうに姿を消していった。


「……ん……」


他者の気配に意識が浮上したらしく、レオが呻く。眉間に皺を寄せながら重たそうに瞼を開けるレオを、カイは書類から視線を外して見下ろした。

ゆるゆると撫でていた手を離し、大丈夫か?と声をかける。

たっぷり十秒ほどレオはぼんやりとカイを見上げ……突然、がばりと起き上がった。


「おおおお前の辞書に、『恥』という言葉はないのかッ!?」

「……え? いや、私は君みたいにマイ辞書は持っていないが」


獅子の咆哮のように非難の声をあげたレオに、カイは意味が分からず眉をひそめる。

的外れな返答に、レオは絶句して憤りを顔面に貼り付けた。

呻くような、唸るような、長い溜息を吐き出して、レオは体を起こしてソファに座り直す。


「膝枕なんぞ、二度とするな。いいな、絶対だ!」

「どうしてだ? 気持ちいいだろう? 私もたまにディズィーの膝を借りることがあるけど、疲れが癒されるんだよ」


にこにことそんな惚気を口にするカイに、レオは口元を大いに歪めた。この愛妻家は、それが夫婦間であるらこそ成り立つものだとは気付いていない。


「『はた迷惑』の欄には既にお前の名前がある。朱筆でマークされたくなかったら、さっさと仕事に戻れ」


立ち上がり、金色の髪をぐしゃぐしゃと撫で回すと、カイは納得しかねるような眼差しで見上げてきた。

拗ねたように口を尖らせるなど、およそ三十路の男がしていいことではないが、違和感のないその所作に苛立たしさを煽られ、レオはそのままベシッと叩く。わぷ、と声をあげるカイを尻目に、レオは少し眠気の晴れた頭で仕事の続きに乗り出した。












そして次の日、やっと仕事の量が平常時に戻ったところで、二人は燃え尽きたように倒れ伏した。

寝室に行く気力も残っておらず、机に突っ伏して眠る二人が部下により発見されたのが、だいたい半日前のことである。

一眠りし、起きた二人は遅めの朝食を摂っていた。


「昼には、ここを立とうと思う」


蜂蜜のかかったクロワッサンをちぎりながら、カイがそう言い出した。睡眠を十分取ったことで、顔色は幾分マシになっている。

まだ眠気をまとう頭でそれを聞き、レオは頷いた。


「そうか、今まで付き合わせて悪かったな。……ま、お前の代わりをやってたせいで溜まった仕事だ。当然とも言えるがな」

「そうだな、先日は助かったよ。レオがいて、本当に良かった。ありがとう」


お前のせいだ、と嫌味を投げてみても、生真面目な男は綺麗に笑って、礼を言うだけだった。つまらない事、この上ない。

ふんと鼻を鳴らして、レオはオリーヴオイルを付けたバケットを頬張った。

香ばしい薫りとバリッとした食感を楽しみながら咀嚼していたレオは、ふと最近はあまりこの男と手合わせしていなかったことに気付く。

それに気付いてしまうと、生来の負けん気がむくむくと頭をもたげてきて、口端が釣り上がるのを抑えられなくなった。


「おい、デスクワーク続きで体もなまってるだろうから、この俺が手合わせに付き合ってやるぞ」

「ん? 手合わせか……」


尊大に提案すると、カイは乗り気でなさそうに首を傾げて悩む。すぐに首を縦に振らないことにレオは苛々とカイを睨め付けたが、時間をおいてこちらの思惑に乗ってきた。


「あまり時間はないから、一戦だけでいいか?」

「構わんぞ。一本勝負にしたことを後悔させてやる」


にやっと挑戦的に笑うと、カイはじゃあ宜しく、と好青年然とした返答を寄越した。

いつ見ても、余裕綽々で腹が立つ。嫌味でもなく本気でそう返すから要らぬ敵が増えるのだと、本人は気付いていない。

しかしこのムカつく顔を公然とぶん殴れるのもまた、試合中だけである。私闘を認めない聖騎士団でも、訓練や試合の名目があれば騎士同士で戦う事ができた。

正式に申し込まれれば、カイの性格上断る事はまずない。そこに付け込んでろくな思惑を持たない連中もカイを負かそうと現れることはあったが、地面にのされるのは大概は挑戦者側である。

実力の切迫するレオはカイをぶん殴ることは可能だったが、それでもあまり容易なことではなかった。

それこそ、あの紅い男以外にはこの天才と謳われた男を地面に叩き伏せることは難しい。

だが、普段から鍛錬を怠らないレオは自分の剣技に自負を持っている。年々訓練に時間が割けなくなっているカイに負ける気はしない。

よし、存分に憂さ晴らししてやる。レオはそう胸中で決め、甘い紅茶を一気に飲み干した。









身を捩り、レオは迸る雷撃を紙一重でかわした。遠く背後にある、庭師が手塩にかけて育てた植木へ着弾したような気配はしたが、それを確認する余裕はなく、足を狙ってきた剣先を双剣で弾き返す。

カイの提案で、部下を中庭に入れずに外へ立たせたのは正解だった。久し振りに行う、ルール無用の試合は際どい攻撃が多く、恐らく他の者が見れば止めに入られていただろう。

聖騎士団にいた頃、レオとカイはよくこの「なんでもあり」の試合をしていた。

武器は何を使っても良く、真剣を使うのはもちろん、途中で武器を手放して素手で攻撃しても構わないし、小石や砂を煙幕代わりに使うのもありだった。攻撃してはいけない箇所は鍛えようのない目と下半身の急所のみで、顔面は構わない。

過激な戦いに他者が止めに入ることもあったが、そのルール無用の理由を分かっているクリフは二人の試合を認めていた。

聖騎士団が敵と定めるギアは、ルールなど守ってはくれない。あらゆる事態を想定し、あらゆる手段で勝利をもぎ取らなければならない天敵だった。人類はどんなにみっともなかろうが、相手を殲滅し、生き残らなければならなかった。

だから、考えつくもの全てを武器にする。それが訓練を行う時に決めた二人のルールだった。そうして切磋琢磨し合ってきたからこそ、レオとカイは戦場において多くの成果を上げてきたのだ。


連王の座に就いてからは滅多に行わなくなった特別な試合に、レオの戦意は高揚する。

連日の仕事漬けになまった足が石畳を踏みしめる毎に力を増し、ペンばかり握っていた腕は剣を振るう毎に速度を増す。

十字架を模した重量級の剣が、カイの顔を掠めた。切断されて散る金髪にかまけることなく、カイがこちらの懐に踏み込んでくる。

陽の光を反射させて、長い刀身が首を狙ってきた。絶命の現実を突き付けるその斬撃を、レオは双剣を法術で伸ばすことで辛くも阻む。

レオはカイのように、あらゆる法力を器用に使いこなすことは出来ない。カイやソルが理系とするなら、レオはどちらかというと文系だろう。理屈や計算などは最初から学ぶ気もなく放棄していたせいで、扱える法力は得意な「金属の伸縮」に限られる。

普段の人前で見せる試合では、レオは自分の双剣を一定以上に長くはしない。その方が扱うには都合が良いということが主な理由だが、今のような「なんでもあり」の試合ならば自分の得意な法力は最大限に活かす。

伸縮自在の武器は、相手の目測を誤らせるには最適だ。体を回避させることでは間に合わない防御も、盾と化した双剣が相手の攻撃を遮断する。


上手くカイの攻撃を弾き返したレオだが、触れ合った剣から伝わる静電気に気付き、防御壁を展開した。半瞬後に、高圧な雷撃がレオの全身を襲う。

明滅する青の稲妻の向こうで、カイは妖艶に微笑んでいた。

対カイ用に編み出した絶縁防壁の展開があと少し遅れていれば、一瞬で黒焦げにされていただろう。只でさえ発生も安定も難しい雷を、この男はいとも容易くとんでもない熱量で叩きつけてくるのだ。

実の姉とは違う意味で、悪魔だ。そう改めて思いながら、レオは防壁を解くと同時に背を向けるように半回転した。振り上げられた細い足の蹴りを避けながら、レオはカイの背後に回り込む。

敵に敢えて背を向ける、ブリュンヒルドの構え。

背中に目は持たない為、当然ながら防御は出来ない。しかし長い双剣と遠心力により、高い殺傷能力を発揮する。

大柄な体躯のレオは機動力が低く、逃げ回る俊敏な相手を得意としない。鳥のように舞いながら攻撃を繰り出すカイは、相性で見ればはっきり言って不利になる。

だがそれを分かっているカイは、レオの得意な接近戦で敢えて戦う。フェアにしようとしているのだろうが、それがまた嫌みに感じられて腹が立つとレオが思っているなど、本人は微塵も気付いていないだろう。

ボコボコにしてやる。そんな私怨を滾らせながら、レオはカイの背後から襲い掛かった。

振り返り様に身を捩ろうとするカイの肩口を、十字架の剣が引き裂く。制服の裂ける音とともに、鮮血が飛び散った。


「……!」


息を詰める気配はするが、声はあがらなかった。

入ったものの、傷は浅い。

上半身が逃れたことで、斬撃は思ったほどの傷を負わせられなかった。流れるような動作で攻撃態勢に移ったカイが、法力を纏った指先をレオに向ける。

また雷撃が来ると思ったレオは、双剣で再び盾を編み出した。今度はその場凌ぎの盾ではなく、相手の攻撃を全て絡め取る強力な盾だ。


しかし、レオがカイと数え切れないほど試合をして手の内を知っているのと同じで、カイもまたレオの次の手を読んでいた。

神々の怒りのように圧を撒き散らす雷が、その白い手から放たれることはなかった。あと一息で完成する術式が、オセロをひっくり返すような容易さで別の内容に書き換えられていく。

雷の代わりに発現した突風と炎が、カイを包み込んだ。フェイントに引っ掛かったとレオが自覚するのと、爆炎の反動で距離を詰めるカイを背中に感じたのは、ほぼ同時だった。

カイは気以外の四属性を使いこなす。普段は雷だけを使うが故に「迅雷」の二つ名を持つが、その実、炎も水も風も操ることができて、尚且つ同時に発生させることが可能だ。

ほぼ密着に近い形でレオの背に張り付いたカイは、双剣と髪の合間を縫ってレオの襟首を鷲掴み真上に跳躍した。


「ぐぉあ……ッ!?」


法力の風を纏う鳥に、体ごと上空に持って行かれる。

そして一瞬後には地面に叩きつけられていた。激突しそうになる顔面を辛うじて庇ったが、代わりに体が可笑しな捩り方で衝撃を受ける。

肺が詰まり、息が止まる。ひゅっと喉を鳴らしながら、レオはバウンドする体を立て直そうと藻掻いた。仕切り直そうと距離を取って片膝をついたレオは、慌てて顔を上げる。

追い打ちをかけようと、長い真剣を閃かせたカイが視界に入った。

いつもは暴力のぼの字も知らないような澄ました顔のクセに、こんな時ばかりは実に楽しそうに笑うのだ、この優男は。

掲げた鋼の十字架に、白刃が衝突する。つん裂くような金属音を響かせるそれに、レオもまた口端を釣り上げた。

これだから、この男との勝負はやめられない。














「君達。少しは加減というものを覚えてくれないか」


レオの居城まで迎えの飛空挺を寄越したダレルが、レオとカイの姿を見て開口一番にそう言った。

然もありなん。見るも無残な傷や痣は手当てし、血と泥で汚れた制服は着替えているとはいえ、包帯や湿布がそこかしこに貼られた満身創痍の二人を見れば、そんな呆れた言葉も出てくる。

王様二人の大人気ない本気の試合に、周りの部下が泡を食っただろうことは、想像に難くない。

また今回も負けたのか、不機嫌を全開にしたレオはダレルの小言に反応さえしなかった。代わりに、カイが申し訳なさそうに謝る。


「すまない、つい熱中してしまって……」

「つい、で済まされるレベルを超えていると言っている。分かっているのかい、全く……」


眉尻を下げて恐縮するカイに、ダレルは溜め息を吐き出した。


「そちらの衛兵から二人は膝枕している仲だと聞いたから、てっきり上手くやっているのかと思っていたんだが」

「な……!?」


残念だとダレルが首を振りながらそう言うと、レオが絶句した。

顔を赤らめてわなわなと震える様にダレルとカイが訝しげに視線を送ると、レオが怒れる般若の顔になり、見送りに整列する部下達をギロリと睨み付けた。

全員が、さっと視線を逸らす。


「覚悟しろッ! 全員減俸だッッ!」


平和な青空の下、イリュリア連王国の獅子王が大人気なく吠え立てた。










END











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友達として、わちゃわちゃしているレオとカイが書きたかった。満足。