「何よ、これ……」
時空の狭間でたゆたいながら、イノは知覚した現状に茫然と呟いた。
腹に受けた傷が癒え、やっと本調子に戻ったと思ったところで時の流れに触れてみれば、何故か変化した痕跡が残っていた。慌ててその軌跡を読み解いてみると、事故で跳ばされたソルが過去に影響を及ぼしたのだと知る。
しかもその変化は、重要な分岐点において起こっていた。カイを助けられるか否かの、大きな分かれ目だ。
とはいえ、イノには歴史の再編など容易いこと。気に食わなければ、また変えればいい。そんな程度のことでしかない、はずだったが……。
時空を超えて戻ってきたソルの出現場所と時間を見たとき、イノは気味の悪さに顔を歪めていた。
「なんだって、よりによってこのタイミングなわけ……?」
ソルはカイが犯される直前に現れたが、そのタイミングはイノがもしソルの進行を妨害していなければ起こり得たものだった。つまり、元々イノの介入がなければソルはギリギリでカイの危機を救えたのだ。そして時空跳躍の力は偶然にも、それに沿うかのように働いていた。
まるでイノの妨害を拒絶するかのように。――そして二人が無事であることを望むかのように、歴史が動いた。
自分ならすべてを操れると信じて疑わなかったイノには、その事実はまるで見えない何かの力が働いているように感じて、堪らなく気持ち悪いものだった。
「”ねじれ”の自動修復ってわけ……? にしても、胸クソ悪ぃったらありゃしねェ。もっかい全部ぶっ潰してやろうかぁ……!?」
イノは口端をつり上げて、暗い愉悦の笑みを浮かべる。ソルが過去を変えるよりも、さらに前に遡って手を加えることなど、イノには造作もないことだった。
しかし愛用のギターを引き寄せ、掻き鳴らそうとピックを滑らせた瞬間、いつの間にか現れた背後の存在に気付き慄く。
「勝手なことは許さないよ。……特に、彼に関しては」
「!」
イノが慌てて後ろを振り返ると、フードを目深に被った男が立っていた。いや、地面もない時空の狭間なので宙に浮いていたというべきか。
男の静かないさなめに、イノは途端に不満の表情を見せるが、彼がそう言い出した以上は従わざるを得ないことが分かっていたので、イノはギターを収めて黙り込んだ。
たとえ彼がイノよりも弱かろうと、脆かろうと、従うと決めたのは自分自身である故に、それを反古にすることはできない。いや、してはならない。誓いを容易く破ってしまっては、『本気の』遊びではなくなってしまう。
彼がソルを特別視することへの、苛立ちはあれども。
「このまま放っておくの?」
「ああ。……このまま放っておく方が、いい」
イノの恨みがましい視線などものともせず、彼は首肯する。彼は本当に、ソルのことばかり気にかけているようだ。
……つまらない。
イノは短くため息をつき、その姿を闇に溶かしていった。また三日前の騒動を起こしたときのように、お仕置きをされるのも面倒だ。
彼は存在自体はイノより劣るが、現世界を構成する要素――つまりソースを直接いじり、すべての事象を改変する術を持っている。故に、存在そのものは違う次元のイノだが、現世界に関わる以上はそのルールに則り、制約を受けることとなる。
そんな、飼い猫のように首輪を付けられるのは、面白くない。あくまでこちらが、付き合ってやっているだけなのだという感覚が楽しいのだ。
確かに、彼に心奪われているのは事実ではあるが……。
お互い、厄介な相手に惚れたものね、坊や。などと胸中で囁きながら、イノは気まぐれに別の時空へ跳んだ。







茶器が擦れ合い、奏でられる微かな澄んだ音と芳香な香りを伴い、ベルナルドは静かに部屋へと入った。
その小さな一室にはベッドとサイドテーブルのみが据え付けられており、そこには半身を起こしたカイがいた。窓から差し込む夕日の光を受けて、白い横顔が鮮やかな緋色に染まっている。
「お目覚めになられましたか」
「ベルナルド……」
ティーセットを持って現れたベルナルドに気付き、カイが振り返った。以前より痩せてはいるが、顔色はそう悪くはないようだ。しかしそのサファイアのような瞳は、どこか暗い色をはらんでいた。
覇気に欠けたうつろな目をさ迷わせて、カイは言葉を選ぶように口を開く。
「私は……、どうしてここに……? あのとき、一体どうなって……」
「順を追って説明しましょう。……まずは、紅茶でも」
長いまつげを震わせ、視線を落とすカイに、ベルナルドは至って穏やかにお茶を勧める。温かいものでも口にすれば、少しは気持ちもほぐれるだろうと考えてのことだ。
ベルナルドは自分用に用意して持ってきた茶器をサイドテーブルに置いて、静かにポットからカップに紅茶を注ぎ始めた。ベルナルドの落ち着いた対応にとりあえずは冷静さを取り戻したのか、カイは口を閉ざしてその手慣れた仕草を見つめる。
鮮やかな飴色の紅茶がたっぷり注がれた白磁のカップをベルナルドが差し出すと、カイは呟くように「ありがとうございます」と言って受け取った。
「純スリランカ産のアールグレイです。なかなか香り高い逸品で、私のお気に入りの一つでもあります」
一口、二口と緩慢な動きで紅茶に口をつけるカイに、ベルナルドは柔らかく笑いかける。鼻孔をくすぐる香りをゆっくりと吸い込み、楽しんだカイは伏せ目がちに微笑んだ。
「ええ、とても良い香りです。やはりアールグレイは、こうでなくては」
再び口をつけ、カイは満足そうに言う。一般に普及するダージリンと違い、アールグレイは質の違いで大きく味と香りに差が出るため、良い茶葉を取り寄せたのだとカイにはすぐに分かったようだ。
高い評価を得られて少し嬉しかったベルナルドだが、カイが半分ほど飲んだところで、表情を引き締めた。
「……階段から落ちて気を失ったカイ様を抱えて、私に連絡を寄越したのはソル様です。下手に警察や病院につれていけば、騒ぎが大きくなるだろうと、危惧してのことですよ。幸い……知り合いの医師に診てもらったら軽い脳震とうくらいで、使われたドラッグも依存性の低いものだったようです。とはいえ、しばらくの安静が必要でしたので、しばらく身を隠すことにしました」
ちなみにここは郊外の、私の息子の家なのでご心配なく。
部屋の外へとさりげなく視線を向け、広がる田園風景にベルナルドは目を細める。都会の喧騒とは全く無縁の、のどかな場所だ。
カイもつられるように窓の外を見つめ、夕日に染まる稲穂の波に目を細めた。
「……こんな穏やかなところは、久しぶりな気がします。しかし、お手間をかけたようですみません。息子さんの家にまで上がり込んでしまって……」
申し訳ないと、カイは深く頭を下げる。ベルナルドとしては、既に自分の家も家族も持つ倅には大したことでもなかろうにと思うのだが、カイは本当に迷惑をかけたと、真剣に詫びていた。
諸事情は大体ソルから聞いていた(というより尋問した)ベルナルドなので、カイがどれほど深く傷付いているかは分かっているつもりだ。それでもなお相手を思いやり遠慮する性格が変わらないのは、いささか寂しく思う。
誰かを頼ること、助けを請うことは、決して恥ではない。自分には出来ないこと、無いものを補い合うために人は群れ、社会を作っているのだから、必要なときにそうすることは当然なのだ。如何に天才と謳われている人でも、完璧ではない。
自力で生きることも立派だが、たまには頼ってほしいと思うのは勝手な願いだろうかと思いながらも、ベルナルドは年寄りのお節介を口にした。
「私や息子は、カイ様を敬愛しております。だから迷惑だなんて、全く思っておりません。……そしてそれは、ソル様も同じこと。あなたのことを、とても心配して捜しておられましたよ」
「……ソル、が……」
かの男の名を挙げると、カイは茫然と呟き、眉を寄せて唇を噛んだ。名前だけで苦しそうな表情をするカイに、いたたまれない思いを味わいながらも、ベルナルドは口を閉じなかった。
「ソル様の、あれほど焦燥した顔は今まで見たことがありません。あの性格の彼が、あそこまで思い詰めていたのですから……余程カイ様が大切だったのでしょう」
そう言い募り、ベルナルドはソルを擁護する。本当はベルナルドとしてはソルのような輩は、カイの社会的立場から考えて好ましくない相手なのだが、カイの心に彼が棲んでいる以上は粗末な扱いはできない。
そしてその事実に、真っ向から向き合ってほしいとベルナルドは思っている。どうあっても切れない、切ってはならない関係というものはあるのだ。
だが、カイはそれを聞いて目を細めた。
「例えそうだったとしても……私は『代わり』でしかありません。ソルは誰かの面影を、重ねているに過ぎない。……こんな力も経験も足りない、時代がたまたま選んだだけの身であれば、仕方のないことですが」
薄く笑い、カイは虚空を見つめる。ソルの何を思い出しているのかはベルナルドには分かり得ないことだが、ソルとの間にあったことだろうと思わされた。そしてソルとの立ち回りに力量のなさを感じて、今までの歩みすら不安に感じているのかもしれない。
しかしそれは、ソルもまた同じこと。あれほどの長い年月を生きていながらも、カイとのいさかいで思いを改めたのか深く反省しているようにベルナルドには思えた。死線を乗り越えてきた戦士ではあるが普通の家庭を持ち、孫までいるベルナルドに男同士の恋情はいまひとつ理解できないが、それでもカイとソルが強く思い合っていることはよく分かる。
だからこそ、二人には共に在ってほしい。カイをベルナルドに託す時、恥じることなく好きなのだと短く告げたソルの姿は、嘘とは思えない。
彼はそんな風には思っていません、とベルナルドが口を開こうとした瞬間、カイがまるでそれを見透かしたかのようにベルナルドを青い目で射抜いた。思わず、その強い眼差しに一瞬言葉を詰まらせる。
緋色の空を背負い、カイは潤いを帯びて赤さを映す碧眼で、ベルナルドを見つめながら口を開いた。
「それでも……それでも私は、ソルを追いかけます。彼と対等であるために、そして共に道を歩むために」
嘆き悲しむ暇さえない。自分を彼の視界に入れるには、彼に追いついて追い越せるまでにならなくてはいけない。
そう決意し、告げるカイの姿にベルナルドはあっけにとられた。あれだけ様々な障害に遭遇しながら、どうして強い意志は折れることがないのか。互いに近づけば傷を負うことも、報われる可能性の低いこともよく分かっているだろうに。
なんて、呆れるほど真っ直ぐな想いなのだろう。
言葉の出ないベルナルドに、カイは尚も言葉を募る。まるで自身に言い聞かせるように、だが眼差しはひるむほどに強いまま。
「……たとえ本当の私が無価値でも、無能でも構わない。この地位が分不相応だとしても構わない。みんなの笑顔が一つでも多く守れるのなら、私は胸を張って自らを誇ることができる。……そうなって初めて、私はアイツと対等に向き合えるんです」
恥じぬ生き様を以ってこそ、彼と共に歩む資格を得るのだと。カイはその一見秀麗で繊細な面に、意思を貫く男の表情を見せて語る。
これだから、この人はタチが悪い。そんなことを思いながらも、ベルナルドは悪い心地のしない自身に気付く。カイがこうした覚悟を見せるとき、どれほどの窮地が救われてきたかを戦場で知っているからかもしれない。
若いっていいですね、などと冗談めかしに胸中で呟き、ベルナルドは軽く肩をすくめた。気弱になっているようなら慰めるなり背中を押すなりしようと思っていたが、そんなものなど無用だったようだ。
ベルナルドは微笑み、カイの外套を手に取る。
「ならば、カイ様。一度、ご自分の家に帰られなさい。……予定よりは少し早いですが、まあ……なんとかするでしょう」
「……? どういうことです、ベルナルド?」
ベルナルドの謎の言葉に、カイが不思議そうな顔をする。だがそれには答えず、ベルナルドはにこやかに笑ったままカイに立つよう促した。
何か意図があってのことだと長い付き合いで察したカイは、それ以上聞くことなく、ベッドから体を起こして立ち上がる。一瞬体の重心が定まらずに体が揺れるが、すぐにカイは安定を取り戻した。
少し痩せたその肩に外套を掛け、ベルナルドは少ないカイの手荷物を取り出して差し出す。ふと、それを受け取った、剣を握る戦士の手でありながら女性のような繊細さを持つカイの手が、ベルナルドの古い記憶を呼び覚ました。
それは、かつての団長が語った戯言。
「……カイ様。聖戦以前、世界中の人々に慕われた女性の偉人を、ご存じですか」
「え……?」
突然の話の転化に、カイは金のまつげを瞬かせて不思議そうな眼差しを向けてきた。しかしそれに構うことなく、ベルナルドは今は亡きクリフの言葉をそのまま辿る。
「彼女の名は、マザー・テレサ。ただの修道女でしかなかった女性ですが、貧しい者へ勉学の場を与えたり、病で苦しむ者へ医療の場を与えたり、献身的な活動を行った人物です」
「……マザー・テレサ」
カイは反芻するように、その名を呟いた。何分、聖戦以前の話なので記録として残っているものは、無に等しい。古い友人から聞いたというクリフの言葉を、ベルナルドはそのまま語ることしかできないが、クリフがベルナルドにそれを語った理由は分かっているので、事細かい事実を調べて述べることにあまり意味はない。
言いたいことは、その女性が何をしたかということではなく、周りからどう思われていたかということだ。
「その行いを世界に認められてからも、各地を自らの足で訪れる彼女に、病に伏せる者達は喜びました。手を握ってもらう、ただそれだけの行為に涙を流す者さえいたのです。……何故だと思います?」
「え……」
突然の問いに、カイは困惑する。顔は分からないが、修道女だというその女性が微笑んで、病人の手を取る姿は存外、想像するに容易いだろう。だがそれを喜ぶ病人の心境となると、理由は複数思い浮かべど、決定的なものがカイには分からないようだ。
カイは、教師に難問を問われた生徒のような困り顔でベルナルドを見た。その様に思わず苦笑してから、ベルナルドは表情を改めてカイに真摯な眼差しを向ける。
「彼女は、病を治してくれる医者ではない。お金をくれる金持ちでもない。……それでも関係なかったのです、苦しむ人々にとっては。自分という存在を認め、愛情を与えてくれる彼女に、体ではなく心が救われたのですよ」
国も人種も宗教も飛び越えて、愛情を注ぐその姿にこそ、多くの人々は心を震わせたのだ。
ベルナルドの答えに、カイは僅かに目を見開いた。難しいようで単純な答えだが、それを実行することが難しいのは、彼女が世界に称えられたことから窺える。
そしてその希望の片鱗を、同じくカイは持っているとベルナルドは思っている。
この話をしたクリフもまた、同じことを思ったのだろう。いや……それよりももっと前に、クリフにこの話をした者もそう思ったのかもしれない。
「カイ様。無礼を承知で正直に申し上げれば、あなたはまだまだクリフ様には及ばない。全盛期のクリフ様の力と比べれば、尚更。……ですが、その高みを目指す精神は、誰よりも尊い。多くを救うために、割り切って少を切り捨てるクリフ様とは違い、すべてを守りたいと願い悩むあなたの姿は、多くの人を救ってきました。……実力が、経験が、全てではないのだと心に留めて置いていただきたいと、この老いぼれは身勝手ながら思うのです」
「ベルナルド……」
厳かに礼をしながら、そんな大胆な発言をするベルナルドに、カイは驚いたまま言葉もないようだ。言い回しに怒るでもなく、カイは単純に驚き、しばらくして苦笑をこぼした。
「馬鹿正直なだけだと言われているような気もしないではないですが……私にとっては最大の賛辞ですね。有難うございます」
楽しげに、鈴のような笑いを立てながらカイは礼を述べる。真意は互いに伝わっているが、あくまでも言葉遊びで流すやり方は、昔から二人の間にあるものだった。
それに応えるように、ベルナルドは道化師のような仕草で再び恭しく頭を下げ、部屋の出口を指し示した。
「老人の世間話に付き合わせてしまいましたな。さあ……急いで自宅へお戻りになりなさい。少しは反省しておとなしくなった獣が、あなたの帰りを待っていることでしょう」
含んだ笑みを浮かべるベルナルドに、カイは不意に笑いを収めた。大きな目を瞬き、じっと見つめる。
「獣……。え…? ソル?」
ベルナルドが例えて指した相手の正体に気付き、カイが怪訝な顔をした。それもそうだろう、ベルナルドの言い方ではソルはカイの家に居ることになる。
だがその理由を簡単に明かしてしまうほど、親切なつもりはない。
ベルナルドは、茶目っ気たっぷりにウインクして見せた。
「種族も罪も飛び越えた貴方の愛情で、あのマヌケな男をノックアウトしてきてください。結果を楽しみにしておりますよ」
「な……っ」
ソルの正体に気付いていながら、暗に応援するような言葉を贈ったベルナルドに、カイは今度こそ絶句した。









帰りゃんせ 帰りゃんせ   
お宮のご用がすんだなら 
この道通って帰りゃんせ










全く知らない土地から出立したカイは、ベルナルドから渡された地図を見ながら帰路へと着いた。長い列車の旅だったが、途中からようやっと見知った風景に出会うようになる。
しかし馬車に乗り換え、自らの足で降り立った頃にはすっかり日も暮れて月が顔を出していた。街外れの自宅へ向かいながら、冷たい夜風に思わず襟を合わせたカイは、頭上を照らす月を見上げて白い息を吐く。
「もう……こんな季節か」
暗い空からポツポツと舞い降りる白い雪を見て、カイは淡い微笑をこぼした。積もるほどのものではなさそうだが、パウダーのように降り注いでは消えていく雪は、やはり幻想的に見える。
聖戦時には雪山での戦闘なども多く経験したため、もうこりごりだと思っていたはずなのに、こうして久しぶりに見ると綺麗に思えて、訳もなく嬉しいと感じてしまった。そしてその、音もなく舞う雪の向こうに見えた小さな光に気付き、カイは柳眉を上げる。
遠目に見た自宅に、明かりが灯っていた。一人暮らしの自分の家に明かりがついているのは、本来なら不審ではあるが、ベルナルドのほのめかした言葉通りならば、そこに居るのはソルなのだろう。
カイは襟を掻き合わせ、口を引き結んだ。少し緊張の心地で歩を進める。何を言いたいかは決まっているのに、顔を合わせた瞬間に何から話していいかが分からなかった。
だが、今更逃げる気はない。真っ向から向かい合って、言いたいことをぶつけて……それで駄目なら、それまででしかない。
――自分の心は、決まっているのだから。
「よし……」
気合を入れるように小さく呟き、カイは自宅へと近付いた。


緊張のあまり、というのもあって、カイは自然と気配を絶って自宅へと入ってしまった。そのためか、リビングの方で動く気配は、こちらに気付いた様子はなかった。
しかし、間接照明に照らされた玄関に足を踏み入れたカイは、目の前の光景に驚き、思わず息を呑んだ。
――辺り一面が、白い薔薇で埋め尽くされていた。
花瓶はもとより、棚の上には花束が幾重にも重なり、壁にはフラワーリース、螺旋階段には一段ずつご丁寧に薔薇が添えられている。
「な……んだ、これ……?」
充満する花の香りに、めまいさえ覚えたカイは、艶やかに飾られた自宅に茫然となった。ベルナルドが含みのあることを言っていたが、この予想外の有様を指していたのだろうか。
一体誰がこんなことを…と思うが、該当する者は恐らく唯一人。しかしその意図は、ようとして知れず。
おっかなびっくり、カイは恐る恐る足を踏み入れ、リビングへと向かった。行く先々の途中でも、白い薔薇で埋め尽くされた光景は続き、更にカイを困惑させる。
そうして警戒しながらリビングに顔を出したカイは、今度は満たされた薔薇の香りの中に別の匂いが混ざっていることに気付いた。胃腸をくすぐる、食べ物の匂いだ。
三日ほど食事を受け付けない体と化していたカイだが、暖かなスープの匂いに、少し物欲しい感覚が湧き出る。飛びつくような衝動は流石に起きないが、吸い寄せられるようにカイはリビングを通り抜けてキッチンへと進んだ。
――そして、そこで予想していた人物と顔を合わせた。向こうもこちらの気配に気付いていたのか、スープを掬ったオタマを持ったままの不自然な姿勢で振り返っているソルと顔を鉢合わせる。
お互いに黙ったまま硬直して、しばし。
「……何を、してるんだ」
「飯……作ってる」
呆れたように、カイが棒読みの問いを口にすると、ソルは少し気まずげに視線を逸らせて「予定より早ぇ…」とぼやきつつ、そのままの答えを寄越した。見れば分かることを言われたカイは思わず眉を寄せるが、ここでしつこく詰問したところで仕方がないのだと気付いて口をつぐんだ。
まずは、言わなければならないことを言わなければ。そして伝えるべきことを伝えなければ。
震えそうになる唇を一度噛み締めてから、カイはソルを真っ直ぐに見つめた。
「ソル……とりあえず、助けてもらったことに礼を言う。危ないところを救ってくれてありがとう。あと、ベルナルドのところに連絡してくれたことも助かった。……感謝している」
「……」
油断すると事務的になりそうな口調をできるだけ柔らかくし、カイは微笑みを張り付かせて礼を述べた。失礼のないようにと思ってだったのだが、ソルはゆっくりと目を細めて、不機嫌そうにオタマを鍋に放り込む。
ヘッドギアの影から覗く赤い瞳が、獰猛な光を帯びてこちらを睨んだ。
「言いたいことを、言えよ」
「え……」
「テメェが言いたいことは、そんなことじゃねぇだろ」
嘘をつくな、不愉快だと言わんばかりの非難の眼差しに、カイは内心ドキリとする。礼儀だからと、先に感謝を述べたことがただの建前だと見破られているようだ。
カイはしばらく口を引き結んで黙り込み、意を決してからソルを見据えた。
その瞳は、あらゆるものを灼く青い炎の色。
「……私は、あなたの慰み者じゃない。都合のいい宿の提供者でも、性欲処理でもない。誰かの代わりにされるなど、以っての外だ。……お前の、『もの』なんかじゃない!」
呪詛のように、吐き捨てるように、カイは震える声で叫んだ。今まで抑え込んでいた怒りを、真っ向からぶつける。そうすることがお門違いだと理屈では分かっていても、湧き上がる苛立ちは消せなかった。
だって、悲しくて、悔しかったから。自分が彼に選ばれないと分かっていても、それでもその事実は悔しくて仕方なかったから。
カイの憎悪をはらんだ眼差しに晒され、それでもソルの表情は変わらない。微動だにせずこちらを見据える紅い眼を、カイもまた睨みつけた。
たかだかこの程度で何をむきになってると、思われても構わない。ただ、悲しいと思った事実を知ってほしかった。
なぜなら――それでも、自分はソルが好きだから。
「割り切った関係ができないなんて、うっとうしい、女々しいと思われても構わない。嫌われ、避けられても構わない。……私はそれでも、あなたのことが――」
「待て!」
カイが言い募ろうとした瞬間、鋭い制止の声がかけられた。思わず言葉を呑み込んだカイは、焦ったように叫んだソルを見て、信じられないと目をみはる。
あなたは私に、言葉にすることさえ許してくれないのか……?
眉を寄せ、下唇を噛みしめて、カイは痛む胸に耐えようと反射的に下を向いた。
まさか、言うことさえ拒否されるとは思わなかった。気持ち悪いから追いかけてくるなと言われるなら、それは仕方ないと思えるが、宣言することさえ拒まれるなんて。
どうしても潤みそうになる眼を平静に保とうと、必死に力を込めていると、ソルが突然大股で近付いてくる気配がした。床を踏み鳴らすように距離を詰めるソルに一瞬どうして良いか分からず、逃げることも睨みつけることもできずにいたカイは、唐突に伸ばされた手に顎を取られて上を向かされた。
無理矢理顔を上げさせられたカイは、至近距離でソルと顔を突き合わすことになる。逃れようもなく、視線を絡ませたカイは、しかし意外にも困り顔のソルと出会った。
「待て……いや、違う。その…お前が先に言うんじゃねぇ」
「っ……?」
「それは……俺のセリフだ」
歯切れ悪く言葉を紡ぐソルに、カイは目を瞬かせる。ソルの言いたい意味が汲み取れず、次の言葉を待っていると、ソルは迷うように視線を泳がせ――だが目元を微かに染めて、意を決したようにカイを見つめた。
「俺は……お前が……」
「……ソル?」
この男にしては珍しく、言葉が出てこないらしい様子に、カイは訳が分からず怪訝な顔をする。ソル自身もそれがもどかしいのか、一度言いかけた言葉を切って舌打ちした。
そして唐突に、強い力で抱き寄せられる。
「! なに――」
驚いて思わず声を上げかけたカイだったが、それを抑え込むように、ソルの温かい腕が力を込めてくる。だがそれは決して息苦しいものではなく、密着したソルの厚い胸板からダイレクトに鼓動が伝わる、包み込まれるような抱擁だった。
体格の違いは大きいが身長自体はさほど差がないため、深く抱き合えば互いの顔は自然に互いの肩に埋められることになる。それが狙いだったのか、ソルはカイの肩口に顔を埋め、耳に押し当てるように唇を寄せてきた。
「……きだ。愛…てる」
「…っ…」
吐息と共に吹き込まれた言葉に、ぞくりと背筋が震えた。耳元で尚かすれて聞こえた、熱のこもったそれの意味を理解した途端、カイは自分の顔が熱で紅潮していくのを自覚する。
今……、なんて言っ……。
知らぬ間に止めていた息を、震える唇でゆっくり吐き出して、ぐるぐると混乱する思考を整えようとするが、カイの鼓動は早まるばかりで静まる気配を見せない。思わず自分を抱く男の背に手を添えて、黒のタンクトップを引いて緊張を散らそうと試みるが、その固い筋肉質な体を余計に意識してしまい、カイは喉をひくりと震わせた。
……さっきの言葉、もしかすると自分の都合のいいように聞こえただけかも。
動揺のあまり、自分の聴覚も疑い始めたカイは、肩口に見えるソルの頭をちらりと見、無理に笑おうと口端を上げた。
「何……どうしたんだ…っ? らしくない……」
「っるせぇッ。愛してるっつってんだろ……! だから……もう、勝手にいなくなるな」
「ソ…――」
呼吸が、止まった。大袈裟でなく、心臓も止まった気がした。
それくらい、ソルの言葉は衝撃だった。そんなことを口にするとは思っていなかっただけに、完全なクリティカルヒット。
いやむしろ、一撃必殺かもしれない。……そんな冗談が脳裏をよぎるほど、信じ難いことだった。
「なんで……そんな、今更……」
カイは無意識にそう呟いてから、自分の言葉を改めて反芻する。
そうだ。何故、今更そんなことを……?
今回の事件で、カイがいなくなると思ったから出た言葉なのではないか。その可能性に行き当たり、カイは目を細めた。
そういう、慰めのような言葉が欲しいわけではなかった。一時の感情だけで関係が続くほど、男同士の、異種族の付き合いは容易くない。男女のように誓いの証を立てることも、繋がり保つための子孫も、二人がいたことを示す種族の繁栄も、そこにはない。
だからこそ、それは壊れやすく、生半可な覚悟では成立しないのだ。
そのことを分かって欲しくて、カイはソルを抱きしめて口を開いた。
「ソル……。私は、貴方の魂を愛しています。貴方が他の誰かを愛していたとしても、その中に少しでも私に向ける感情があるなら、それで十分です」
凛とした響きをもって、カイは告げる。
別の誰かを愛していても、構わない。自分が彼を愛していることは、確かだから。
もう、自分の想いは揺らがない。
驚いたように顔を上げたソルを、鼻先が触れ合うほどの距離でカイは見つめ、微笑んだ。
「長い生を強いられてきた貴方だ、きっとその人はかけがえのない人なんでしょう。今の貴方を、貴方たらしめるのも、おそらくその人。……それが分かったから、私はもう嫉妬したり悲観したりしません。――なぜなら、今の貴方が、好きだから」
「坊や……」
目を見開き、呆然とソルは呟く。それ以上言葉が出ないのか、カイを見つめたまま、それきり唇は動かなかった。
だが、それでも構わない。答えが欲しいわけではなかったから。
「……すみませんね、これからも私は貴方専属のストーカーです。忙しい身分なので、いつでも追いかけるというわけにはいきませんが」
そう茶化して告げ、カイは片目を瞑ってみせた。それに目を瞬かせたソルは、急にハッと笑い声を上げた。
「ったく、よぉ。飯作って、花まで飾って……驚かせようとしてたってのに、結局驚かされてるのはこっちだってんだから、世話ねぇぜ……」
くっくっと喉の奥で笑い、ソルはそう言って愉快そうにカイを見つめた。その言葉で、部屋を白い薔薇で埋め尽くしたり、食事を作っていたのがカイのためだったと気付かされる。
改めてソルの肩越しに大量の花を見、カイは少し首を傾げて見せた。
「いや、この有様には十分驚いたんだが。……でも、何故また、薔薇を飾ろうなどと?」
思わず、カイが何気なく疑問を口にすると、ソルは途端に苦虫を噛み潰したような顔をした。しばしの逡巡の後、絞り出すように答える。
「イギリス野郎が、花でも飾れっつった……」
「……それをそのまま実行したのか」
ソルにしては素直すぎる行動理由に、カイは驚きと呆れのないまぜになった息を吐いた。だが正直、こうして贅沢にも沢山の花に囲まれるのは、悪い心地ではない。
ソルがカイの為にしたというなら、尚更。
苦笑を浮かべ、カイは「まあいいか…」と呟いた。
「綺麗だし、香りもいいし……。ちょっと私一人には勿体ないけど、嬉しいことに変わりはないよ」
「……そうか」
カイの言葉に、ソルが安堵したように微かに表情を和らげる。そんなソルを見て、カイは抱きしめていた手を何気なく離した。
しかしふと、何かを思い出したようにソルは微かに目を細めて、カイを抱く手に力を込めた。
「あいつは……アリアは、どっちかっていうと赤い薔薇の方が似合う女だった」
「え……」
ソルの呟いた一言に、カイは目を見開く。それは、初めてソルが自らの口で語る、自身の過去だった。
驚くカイをよそに、どこか寂しさをにじませた、遠いものを見るような眼差しでソルは続けた。
「……うるさい女だったよ。煙草は体に悪いだの、食事はちゃんとしろだの……。まるで、どっかの誰かさんみてぇにな」
「なんだそれは……嫌みか」
苦笑しながらそう言うソルに、カイはムッと片眉を跳ね上げた。だがその仕草にすら笑いを誘われたのか、ソルは口端を上げたまま鼻で息をつく。
「人の心配ばっかで、自分のことには無頓着。そっくりって言や、そっくりだな。……だが、坊やみたいにしたたかに生きる術は持ってなかったかもな」
「……」
どこかが痛むかのように、ソルの眉が一瞬寄るのを見て、カイは沈黙した。ソルが追いかける男との因縁は詳しく知らないが、その女性の死が関わっていることは容易く察せられる。
今もなお、ソルが決して忘れることのない人。
「……坊やの言う通りだ。こんな体になっても今まで生きてきたのは、あいつの為だ。仇を取る為、あいつのような犠牲者を出さない為、ギアを作った男を追ってる。――あいつの存在がなければ、たぶん俺は今、ここに居ない」
触れることを避けていたブラックボックスの部分を、ソルが自ら開いてみせる。
そのことを、本来ならば喜ばねばならないのに、カイの胸は痛んだ。妬むというほどの強い感情はないが、一人だけ置いて行かれたような物悲しさが、心臓の奥でじわりと広がる。
――しかしそれを見透かしたように、ソルはカイを真っ直ぐな視線で射抜いた。
「でもな……それは、俺が『死なない』理由でしかない。……俺が今『生きたい』のは、お前と先の未来が見たいって思うからだ」
「……!」
告げられたその言葉に、カイは息を詰めた。
まさか、そんな風に言ってもらえるとは思わなかった。こんな自分を、生きる理由に挙げるなど――。
とっさに何か言おうとカイは口を開いてみるが、結局なにも言葉が出てこず、口を閉じてしまう。震えるほどに嬉しいのに、何を言っていいのか分からなかった。
困惑しながらも、頬を染めて必死に色々考えて口の閉開を繰り返すカイに、しばらく見つめていたソルが不意に、耐え切れないとばかりに噴き出した。
「…っ何やってんだ、お前!」
「! わ、笑わなくたっていいだろっ。こ…こっちは、ちゃんと考えてだな……!」
不様なさまを笑われ、カイはどもりながら憤慨する。しかしソルにはその焦る姿が面白いのか、いつもの不敵な笑みを浮かべてからかった。
「可愛くアリガトウって言って、キスの一つでもすりゃいいだけの話だろーが」
「だ、誰がそんなこと……! どこの生娘だ、それはッ」
「なんだ、じゃあ景気よく俺の上に乗って、イイ声あげてくれんのかよ?」
「〜〜! ふ、ふざけるなッ!!」
ソルの下品な戯言に、カイは思い切り叫ぶ。なんてデリカシーのない!とカイは怒りを顕にするが、威勢のいい噛みつきっぷりに、むしろソルは楽しげだった。
その方がいいとばかりに。
「大体お前は、いつもいつも……ッ!?」
カイが尚も言い募ろうとした瞬間、強引に口を塞がれて、言葉が途切れる。己の唇でカイの口を封じてきたソルは、細めた目にからかいの色を見せながらも、それとは裏腹に性急で熱い口付けを施してくる。
唇を割って侵入してくる温かい舌に、思わずカイの背筋が震えた。
「ん…! んぁ…っ、ふぁ」
とっさに逃げを打つ体を強く抱き寄せ、ソルがカイの舌を絡め取って吸い上げる。ちゅぷっと水音を立てて離れ、すぐさま掬うように舌を絡ませて口腔へと侵入し、なぶるように擦り上げるソルの舌に、カイはなす術なく翻弄された。
舌の擦れ合う生々しい感触に、唾液の混ざり合う濡れた音。随分久しぶりにキスをされたように思うカイには、それはリアルすぎて羞恥を煽った。
しかしそうしてキスを施しながらソルが腰骨を撫で、下肢に手を潜り込ませようとした瞬間、カイは突然湧き上がった嫌悪に、衝動のまま思い切りソルを突っぱねていた。
「っ! ……坊や?」
腕力の差で、完全にカイから離れるまでに至らなかったが、激しい拒絶にソルが驚く。だが、突き放したカイ自身もまた、驚いていた。
一体、なんだ。今の気持ち悪い感覚……?
確かにキスで夢見心地だったはずなのに、突然嫌悪感にさいなまれた。何故そんな風に感じたのか理由が分からず、カイは困惑する。
見知らぬ男達に辱められたときのような、吐き気のする嫌悪感とは違う。ただ一方的に、触れられて暴かれることへの恐怖感に近い。
訳が分からぬまま、腕を突っ張った姿勢でカイが昔の記憶を探っていると、ソルが顔を覗き込んできた。
「どうした……。嫌か?」
「! そうじゃないっ。……でも、何か……」
ソルの問いに否定しながらも、記憶の隅に引っ掛かる何かにカイは眉を寄せる。
そしてしばらく悩み続け、視線をさ迷わせていたところで気がついた。
部屋に満たされた花の香りで、連想するものがあった。
「……ラベンダー」
「あ……?」
カイのぽつりと呟いた言葉に、ソルが怪訝な顔をする。しかし原因に気付いたカイは、そんなソルを暗い眼差しで睨んだ。恨みの篭ったそれに、ソルは訳が分からず困惑する。
「一体、なんなんだ……?」
カイの視線の意味に気付かないソルが、戸惑ったように聞いてきた。その鈍さにカイは一瞬苛立つものの、ソルが気付くはずがないのだと思い至って、怒りを抑える。
ソルが分かるはずない。いつもカイを抱く前に、抱いていた女性の香水の匂いなど。嫌がるカイを無理にセックスへ引きずり込んだあの夜、香水の残り香がラベンダーだったことなど、尚更知るべくもない。
だが、そのときに受けた蹂躙は確かに体の奥底に刻み込まれていて、カイを苛んでいた。
溜息を一つつき、カイは腕を下す。
「……恋人気取りのつもりはないから、他の人と寝るなとは言わない。でも……他の女性を抱いたすぐ後に、私のところへ来るのはやめてくれないか」
「……!」
ずっとわだかまっていた、胸の刺に触れる。驚愕するソルを見つめながら、遂に言ってしまったなとカイは思う。本当はこんな、縛りつけるようなことは言いたくなかった。
しかし、ソルに触れられる度に思い出してしまって、苦しむくらいなら言いたい。……言わずに、すれ違い続けるのはもう沢山だ。
溜息混じりのカイの言葉に、意味を理解したらしいソルが「あー…」と唸った。何かを考えるように視線を横に投げてから、窺うようにカイを見た。
「……悪かった。魔が差した」
「別に、謝ってほしいわけじゃない。……次から気を付けてほしいだけだ」
流石に、前に抱いた相手の匂いが残ったままで、行為に及ばれるのは気分が悪い。
いっそ傲慢なほどにぴしゃりと言いきり、カイはわざとらしく肩を竦めてみせた。そうでもしなければ、悔しさと悲しさで声が震えそうになるからだった。
大仰に腕を組んでいるが視線を逸らせたままのカイに、ソルは間を取るように頭を掻きながら、言い難そうに重い口を開いた。
「似てる奴を……無意識に探しちまう」
「……え?」
唐突な切り出しに、カイが思わず訝しげな視線を送る。ソルは気まずそうに、紅い眼を歪めた。
「首を追うのが短い期間なら、耐えられる。だが3か月以上くらいになると、どうにも抑えられなくてな。坊やに似てる、商売女を探しちまう。……まあ結局、違うって思って坊やんとこに帰ってきちまうんだが」
「え……それって……」
苦笑し、真相を告白したソルの言葉に、カイは怒りも忘れて呆然とする。カイの人格を蔑ろにするような行動にずっと悩んできたのに、まさかそういう理由があったとは。
ソルの言葉を逆に解釈するなら、あの性欲に旺盛な男が3か月以上、カイ以外とは誰とも関係を持っていないことになる。しかも我慢の限界でことに及ぶにしても、カイに似ているという理由で相手を選んでいる。そして求めていたものと違うと気付いて、いてもたってもいられずにカイの元へ来てしまうと……そういうことになる。
都合のいいように聞こえる気もしないこともないが、ソルが前の相手の気配を纏っているときがいつも、久しぶりの逢瀬に限られていたことや、カイの前に現れる時間帯が明け方に近い深夜であったりすることが、ソルの言い訳と合致する。
そして自分の情けない様を恥じ入るように、視線の揺らぐソルの様子は嘘をついているように見えなかった。
そこまで考えに至り、カイは一気に熱を帯びた顔を見られたくなくて、慌てて下を向く。
「っ…お前はどうして、そう……! 気にしていた私が……馬鹿みたいじゃないかッ」
「坊や……」
恥ずかしさと嬉しさで顔が紅潮するのを止められず隠そうとするカイに、ソルが驚いたように呟く。だがすぐにカイの顎へと手を伸ばし、強引ではないがやんわりと引き寄せ、顔を近付けた。
「悪かった……。今度からは最初に、坊やんとこに帰ってくる」
「だ…だから、別に責めてるわけじゃ……んぅッ」
言葉を遮るように柔らかく口づけられ、カイはソルを押し返すように手は添えながらも、力の入らないそれには意味がなく、キスを甘受する。唇の感触から、すぐに温かく濡れた舌の擦れる感触に変わり、吐息が熱を帯びた。
「っ…カイ…」
「は、ぁ…ッ。ソル……」
ソルがキスの合間に囁いた己の名前に背筋を震わせて、カイは潤んで湿った睫毛を震わせる。肩に添えているだけだったソルの手が、長いキスの間に背中から腰、臀部へと滑り下りて撫でていった。カイもまた、ソルの胸に当てていた手はいつの間にか縋りつく様に背中に回されている。
しかし息苦しいほどの激しいキスに喘いで、一気に息を吸い込んだ瞬間――カイは焦げくさい匂いに気付いて、目を見開いた。
「――っ、ソル! スープ、焦げてるッ」
「……ぁあ?」
カイの悲鳴に、キスを邪魔されてソルが不機嫌な声を上げる。だがカイは無粋にもソルを押しのけるようにして、キッチンの鍋をうかがった。遠目だが、水分がすべて蒸発してしまったらしいスープは、具材が鍋の底で焦げているようだった。
「ちょっと、ソルッ。それ……!」
「どうでもいいだろ、そんなの」
放っておけ。
焦るカイにソルがそう言おうとした瞬間だった。二人の間に、控え目な腹の虫の音が鳴り響く。
「!」
自分の腹の虫が鳴っているのだと気付いたカイは、羞恥に真っ赤になった。驚いたソルは、やがてゆっくり半眼になる。
「お前な……」
「……ッ、だって」
頬を染めながらも困ったように、カイは眉を寄せる。三日も食べていない状態なのだから当然といえば当然の反応だ。
しかし、ソルとの和解で気が緩んだことで一気に食欲が復活してしまったらしい自身の反応が、あまりに現金すぎて恥ずかしい。
「…ったく」
俯くカイに、ソルが降参とばかりに大仰に諸手を挙げた。
「メシ、作り直してやるからそこで待ってな。坊や」
そう言って折れたソルが指し示すのは、白薔薇にデコレーションされたソファ。カイは羞恥に頬を紅潮させたまま――笑って頷いた。







END






紆余曲折を経て、ようやっと話が完結しました。ここまでのお付き合い、どうも有難うございました。
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。