「――おい」
虚ろな覚醒の中で、カイは低く掠れた声を聞いた。どこか優しさと労りを感じさせる、そんな声だ。
「おい、坊や。起きろ」
「ん……」
カイは小さく呻くと、促されるままにシーツから顔を出して目を開けた。
――だが、光は一向に差し込んではこなかった。ただそこには暗闇があるだけで、何も見えなかった。
「え……?」
カイは光を求めるように、目を見開いて虚空を掴もうとした。
しかしそうしようとした自分の手すら確認できなかった。あるのは闇ばかりで、何も視界に入らない。自分の視界を染めるのは、黒というただ一色のみだった。
それを認めた途端、カイは頭を抱えて絶叫した。
「うああぁぁぁ!」
いつも当たり前のようにある光が、たった一筋ですらどこにも差し込んではこない。その事実が、カイを錯乱状態に陥れた。
どんなに首を巡らせても視界を占めるのは、闇。闇。闇。
そこにあるのは闇だけだ。
「ああぁぁ!」
「おいッ、坊や!」
自分の髪を握りしめてカイが声をあげ続けていると、唐突に腕を取られた。そしてそのまま誰かに抱き締められる。
自分の体が何か大きなものに包まれているのだと認識したカイは、目を見開いて叫ぶのをやめた。
「坊や……どうした」
「……?」
カイはその言葉をほとんど認識できないまま、自分を包み込む存在を手探りで確かめる。指先に当たる服の感触や筋肉の付き具合に覚えがあると気付いたとき、カイの意識は現実に戻り始めた。
「ソ……ル?」
「ああ」
確認するようにカイが聞くと、自分の耳元でソルは短く言葉を返す。僅かな吐息が耳をかすめ、密着している肌が温かいと分かった瞬間、カイはなぜか泣きそうになりながらソルの体にしがみついていた。
カイがソルの厚い胸板に顔を埋めて、背に回した腕により一層力を入れると、ソルは何も言わずに強く抱き寄せてきた。体がしなるほどに抱き締められ、カイはその無言の優しさにしばし甘える。
現在の記憶が明確に蘇って、混乱していた意識が完全に冷静さを取り戻したのを自覚し始めたとき、カイはソルから離れようと腕を突っ張った。ソルは何も言わずに、そのまま腕を解く。
「ごめん。もう大丈夫だ」
「……」
カイは真っ暗な視界の中で、苦笑いをした。ソルの気配が目の前にあるので、もう怖くはない。
何か聞いてくるだろうかとカイは少し身構えていたが、鼻先に何かとてもおいしそうな匂いのものを突き付けられて、目を瞬かせた。
「別に大したもんじゃねぇが……リゾットだ」
「え……」
カイがソルの言葉に呆然としていると、無理矢理手を引っ張り出されて、滑りの良い器を持たされた。それはとても温かく、いい匂いを漂わせていて、カイの強張った心を幾らか解きほぐしていく。
「とりあえず適当に作っただけだからな。味はあんまり保証しねぇぞ」
「う、う〜ん。そんな風に言われると、食べるのに勇気がいるなぁ……」
投げやりなソルの言葉に少し困りながら、カイはスプーンを受け取った。隣に椅子を持ってきたらしいソルが、そこにどっかりと座る気配がする。
そしてそのまま動かずにこちらを見ているようだった。黙っているところをみると、どうやらカイが料理に口をつけて感想を言うのを待っているらしい。
ちくちくと視線が突き刺さるので、カイは少し警戒しながらも有難く頂くことにした。
「……あれ? おいしい」
恐る恐る口をつけたリゾットは、ちょうど良い塩加減で、米の固さもほど良く、カイは思わず驚きの声を漏らした。きちんと風味もついているし、結構野菜が入れていてバランスもいい。おそらくカイが作るものとさして違いはないだろう。
十二分にまともな料理だ。
「ソル。これ、すごくおいしいですよ」
知らず満面の笑みを浮かべて、カイはソルの方へ顔を向けた。素直に褒められて戸惑ったのか、ソルが何やら居心地悪げに座り直す気配がする。
「まあ……食えりゃあ何でもいいんだがな、俺は」
「でも、本当においしい」
再度カイが笑顔で言うと、ソルは無言のまま自分の分のリゾットを食べ始めたようだった。心なしかスプーンの使い方が荒っぽくなっていて、器にカツカツと当たる音がする。一種の照れ隠しだろうか。
折角の料理が冷めてはいけないと思い、カイはソルにならって黙々と食べ始めた。
しかし、しばらくの間は胸中で料理に感心して食べていたのだが、カイはあることに気が付いて困った。目が見えないせいで、料理を綺麗に食べられないのだ。
どう頑張っても、米粒一つ残さないという芸当はできない。
かなり注意を払って掻き集めていたが、それでもやはりいつものようにはいかず、カイはリゾットと格闘していた手を諦めて止めた。すでに食べ終わっていたらしいソルに、カイは悪いと思いながらも、中途半端に料理の残った器を渡す。それを受け取ったソルは、しばし沈黙した。
「……やっぱりあんまり美味くなかったか?」
たっぷりと間を置いて聞いてきたソルの言葉にカイは驚いて、首を横にぶんぶんと振った。
「い、いやそういう意味じゃないんです! そうじゃなくて……目が見えてないから綺麗に食べられなかったってだけで……!」
「ああ、それでか。……しかし悪かったな。食べにくいもん作っちまってよ」
ソルが薄く苦笑しながら、食器をかちゃかちゃと重ね合わせると、徐に立ち上がる気配がした。
その動作に、カイは一瞬自分だけが置いていかれるような錯覚に陥る。
「ソル……!」
「あ?」
カイが咄嗟に呼び止めると、ソルは不思議そうに振り返ってきた。カイはソルの視線を真っ直ぐに受け、言いたいことを口にしにできなくなる。
「あ、あの……えっと」
「坊や。いいからお前は寝てろ。心配せずとも、三日くらいなら面倒みてやる」
カイがしどろもどろに言葉を紡いでいると、ソルがそれを遮って柔らかく苦笑した。そしてそのまま、ソルはきびすを返す。
焦ったカイは咄嗟に叫んだ。
「ソル! 一緒に寝て……っ!」
「な、なんだと?」
あまりに突拍子のない発言に、ソルは面食らったようだった。しかし、カイは構わず続けた。
「寝ても覚めても全部暗闇だから……怖いんだ」
「……」
「だから、一緒にいて……」
いつもの自分とは程遠い弱々しい声で、カイは懇願した。
目が見えないことが、カイの中から余計な見えを取り払ってしまっていて、羞恥よりも何よりも自分が取り残されることの方がひどく恐ろしかったのだ。
こんな願いは聞き入れてもらえないだろうかと、カイが長い沈黙の中で絶望していると、なぜか衣擦れの音が聞こえてくる。
「?」
カイが不審に思って眉をひそめていると、バサッと服を投げ捨てるような音がして、ソルが徐に近付いてくる気配がした。そしてすぐそばまで来たかと思うと、いきなり強い力でベッドに押え付けられ、カイは驚きに目を見開く。
「後悔するんじゃねぇぞ」
「え、え? あ、ちょっ、ちょっと……っ!」
いつの間にか上半身が裸になっているソルにのしかかられて、カイは悲鳴をあげた。しかしソルは全くお構いなしに、カイの服のボタンを次々外していく。
「ソ、ソル! 何をしてるんだっ、お前は!」
ソルを押し退けようと奮闘しながら、カイは非難の声をあげたが、ソルは平然とした様子で、
「だから、寝るんだろ」
と返してくる。
気配でしかソルの動きを捉えられないカイは、ほんとんど抵抗らしい抵抗もできず、いつの間にやら上半身を裸にされていた。羞恥で頬が熱くなるのを自覚しながら、カイはたまらず叫ぶ。
「お前、何か意味を勘違いしてないか!?」
「あ?」
ソルは不思議そうな声を出して、腰のベルトを外そうとしていた手を止めた。やっとこちらの言葉に耳を傾けてくれたことに安堵しながら、カイは深く息をつく。
「私はただ……隣で寝てほしいという意味で言っただけだぞ?」
「あ? なに分かりきったこと言ってんだ。それ以外になんか意味があンのか?

「え……」
今度はカイが不思議な顔をする番だった。別にからかっているわけでもなんでもないソルの言葉に、カイは眉をひそめる。
「じゃあ……なんで私の服を脱がすんだ」
「服なんか着てたら堅苦しくて寝れねぇだろ」
「え……でも、だからって何もいきなり脱がすことないだろっ。それに上はともかく下まで脱ぐ必要なんてないし……!」
「楽な方がいいじゃねぇか」
「そ、そういう問題じゃなくてだな……!」
ソルの紛らわしい行動のせいで勝手な勘違いをしてしまったカイは、羞恥に顔を赤く染めながら、ソルから顔を逸らす。
すると、不意にソルがニヤリと笑ったような気がした。
「なんだ、坊や。別の意味で寝てほしかったのか?」
「な……! ち、違……あっ」
面白そうに笑う声とともに胸の突起を指で弾かれ、カイは思わず弱々しい声をあげてしまう。
「嫌がる割には、イイ声出すよなぁ?」
「あ、あっ。やめて……んっ」
押し潰すようにそこを執拗に弄り回され、カイはぎゅっと目を閉じて、背筋を這い上がる甘い痺れに耐える。しかし突然服の上から下肢を擦られ、カイは抑えきれずにビクンッと体を跳ね上げた。
「ヤッてほしいってんなら、ヤッてやってもいいぜ? 坊や」
「や、あ……っ」
耳元で囁かれ、カイは泣きそうになりながらソルの広い肩を弱々しく押し返す。
目が見えないせいで感覚が研ぎ澄まされた体は、抗いがたい快楽に支配されてしまっていて、なかなか言うことを聞いてくれない。しかしそれでもカイは懸命にソルの手から逃れようと身を捩った。
「ソル……ソル、やめろ……っ。こんなの冗談にもならないっ」
「冗談のつもりなんてねぇよ」
「そ、そんなの尚更悪いだろ! 放せっ、このセクハラ男!」
ソルの方を睨付けながら、カイが涙目で叫ぶと、ソルは一瞬手を止めてムッとしたように不機嫌なオーラを放った。
「セクハラだと?」
「そうだろうが! 人が嫌がってるのに……っ」
「どこがだ? 喜んでんじゃねぇかよ」
言い様、ソルに敏感なところを鷲掴みにされ、カイは危うくあられもない声をあげそうになる。
「ッ! あっ、く……! お、お前はぁ…っ、いい加減にしろッ!!」
カイは本気で怒鳴ると、ソルを思い切り殴りつけた。
「……っ」
闇雲に拳を突き出したのだが、どうも見事にソルの左頬を直撃したらしく、かなり痛そうな音が響く。その音に内心しり込みしつつも、カイはソルを睨付けた。
「もういい! お前なんか頼った私が馬鹿だったッ。さっさと帰れ!」
そう言い捨てて、カイはソルを拒絶するように頭からシーツを被ってしまった。早くどこかへ行ってくれと切に願いながら身を固くしていると、ソルはカイの言葉に従うどころか、更にカイの上にのしかかってくるのが嫌でも分かった。
今度手を出してきたらライジング・フォースの一撃で葬り去ってやる、などとやけになりながら考えていたカイだったが、ソルが上にのしかかったまま動かないことに気付いて、不審に思いながらも少し顔を覗かせた。
本当は顔を出したところで、何も見えないことに変わりはないのだが、カイにはソルの表情がなんとなく分かった。
たぶん、ソルは真剣な顔をしている。そう思ったとき、ソルが徐に口を開いた。
「坊や、なんで暗闇が怖いんだ?」
「……」
ソルの問いにカイは答えなかった。
自分の中でわだかまっていることは、自分で解決するしかない。カイは少なくともそう思っていたので、ソルにその答えを求めようとは思わなかった。
ただ、そこにいてほしい。そして自分を支えてほしい。それが唯一ソルに望むことだった。
だからカイは何も言わずに、ソルの方へ手を伸ばした。この手を払われたらきっと傷つくだろうなと思いながらも、ソルに触れようと懸命に手を伸ばした。
その指先に、ソルは触れなかった。
けれどその代わりに、唇が温かいもので塞がれた。
「ん……」
柔らかく降りてきたソルの唇を受けて、カイは静かに目を閉じた。その行動が決して邪まなところからきたものではないと分かっていたので、カイはそのキスを甘受する。
ソルはただ唇を触れさせてきただけで、すぐに離れていった。それに伴って、カイは吐息を漏らす。
「坊やは何も怖がらなくていい」
優しい声音とともに、ソルの大きな手がカイの頭を優しく撫でていく。
「坊やはいつものように正義を振りかざして、ぎゃんぎゃん吠えてりゃいいんだよ。世の中には悪党が山ほどいるんだ。正しいことをしてるお前が、何かを恐れる必要はない」
「……!」
思わぬ言葉に、カイは虚をつかれたように呆然となった。
カイが目を丸くして驚いている間に、ソルはベッドの中に潜り込んでくる。
「ま、そんなに言うなら一緒に寝てやるよ。坊やはまだまだ子供だからな」
「……! 私は子供じゃないぞっ」
カイは我に返ってソルの言葉に食ってかかったが、ソルに強く抱き寄せられて、二の句が継げなくなった。
「ソ、ソル…っ」
「もう寝ろ。……横にいててやるから」
そう言って、ソルが優しく微笑んだのが、カイには分かった。思わず頬が熱くなるのを自覚して、カイはそれを隠すようにソルの厚い胸板に顔を押し付けた。
「……おやすみ」
「ああ」
胡麻化すように囁いた言葉に、ソルが何気なく返事をする。
そうした優しさに、心の中でありがとうと言って感謝しながら、カイはソルに抱き締められたまま、眠りについた。



その翌日、アクセルがカイの家に訪れると、ソルがカイの代わりにキッチンを掃除しているところだった。
カイが一時的に視力を失っているのだと聞かされたアクセルは、驚いて心配しながらも、カイに一つ指摘した。

「カイちゃん。あんまり襟元が開いてる服は着ない方がいいんじゃない?」
「え。なんでですか?」
「なんでって……キスマークが覗いてるからさ〜……」
「! な、なななーッ!?」
「あれ? 気付いてなかったの?」
「……あ、あの男は〜ッ。人が寝てる間によくもォーッ!」
「え〜と。旦那ならさっきゴミだ出しに行ったけど……」
「ソルーッ!! 今度という今度は許さないからなッ!」
そう言って、目も見えないのにカイはソルを追いかけていってしまった。


取り残されたアクセルは、やれやれと肩を竦めながらも結構楽しそうに見送っていたとか……。


END



う〜ん、未遂事件第二弾? いや、最近はなんでかスキンシップが激しいな、この二人。
なんとなく礼儀(?)としオチをつけなきゃと思ったら……うん、あんなになっちゃいました(爆)