研究日和






 肺に溜めた煙ごと、大きく息を吐き出す。
 吐き出された紫煙は天井に向けて吹き上がり、空気中へと融け入るように消えていく。後にはただ煙草独特の匂いだけが残される。
 既に馴染んでしまったこの匂い。この身に染み付いて、どれだけ洗い流そうともその香りの残滓を消すことはできない。
 もう一口煙を吸い込めば、微かに燃え燻る熱と音とが近くなる。フィルター近くまで灰と化したそれを未練の欠片もなく灰皿へと押し付けた。
 吸い込んだ煙を吐き出して、デスクの端に置いたシガレットケースへと手を伸ばす。しかし無骨な指がシガレットケースの上に置かれたジッポーへと触れる間際、唐突に横合いから伸びた白い手が奪うようにしてケースとジッポーとを取り上げた。
「…………」
 目的のものを掠め取られたソルは僅かに眉間に皺を寄せて、不機嫌さを隠そうともせずその白い手の主を睨みつけた。
「……おい」
「吸いすぎですよ」
 呼びかける声も不機嫌ならば、応える声もまた同じだった。
 鮮やかな翡翠色の瞳が眇められ、責めるような眼差しでソルを見下ろす。
「別にそんな吸ってねえだろうが」
「そういう台詞は、その灰皿をよく見てから言って下さいね」
 返る言葉には取り付く島もない。ソルの煙草一式を取り上げたとは反対の手で、やはりデスク上に置かれた灰皿を指差した。
「何処をどう見たら、『そんな吸ってない』なんて言えるんです?」
「…………」
 示された灰皿には実に大量の吸殻。ぱっと見ただけでもその数は軽く20を超えている。
「Pf.(プロフ)ソル…」
 普段ソルを『教授』と呼ぶはずの彼――カイがその呼称を変えた時、それは即ち彼のお説教モードにスイッチが入ったということ。白衣の腰に手を当てて睨みつけてくる姿は――ソルにしてみれば――正直言って迫力の欠片もなく、むしろ反ってカイの20歳を越えた男のものとは思えぬ幼さをより強調することとなるのだが、幸か不幸か彼自身はそのことにまったく気付いてはいない。とりあえずソルに黙って人に説教される趣味はないので、カイの口からお叱りの言葉が出る前に、肩を竦めてとっととデスクへ向き直った。
「プロフ!人の話を聞く気はあるんですか?!」
 んなもんねぇよ、などと思いつつもまさか口に出してそれを言うほど無謀でもない。黙ってひらひらと手を振ると、ついでに空っぽになったマグカップを差し出した。
「コーヒー」
 簡潔にそれだけを言えば、確かめずとも形の良い眉がきりりと吊り上げられるのが分かる。けれど机に向かい仕事する姿を見せれば、この有能な助手がそれ以上何も言わなくなることも十分理解していた。
「…私はお茶汲みのためにここにいるんじゃないですよ」
 言いつつも律義にカップを受け取るカイを振り返り、解っているさと僅かに口の端を引き上げた。



 温かいコーヒーを片手に実験のデータを整頓していく。シミュレーションに実際計測して出た結果を加えて仮定上の理論と実際の誤差を修正する。ハイスペックのモデムは低く唸りを上げながらソルの操作に従って次々と結果をはじき出していく。
 一方、カイはカイで自分のデスクに座り、先ほどから無言で山積みの書類相手に格闘している。どうやら研究所に提出する報告書をソルの代理で作成してくれているらしい。何せソルは自分で自分の研究を文字にしない。必要最低限――全体から見ればほんの一割程度――のバックアップだけをチップに残し、他データの九割は完全に頭の中に叩き込んであるらしい。はっきり言って並の記憶力ではない。
 その頭脳――それを考えれば各国各地の学会が喉から手が出るほどに彼を欲する気持ちも解らないではない。
 もともとソルは大学院卒業後、ずっと私財で建築した個人の研究所で自らの研究を進めていたのだが、世界屈指の頭脳(ブレイン)を多くの研究者たちが見逃すはずもなく。毎日10通を超える数の研究所所属勧誘の文書が自宅の郵便受けへと届き、時にはあざとくも粗品まで付け加えてくるものもあった。ソルはそれら一切を完全に無視し続けていたのだが……
 ある日例によって届けられた文書の中で、ソルが差出人の名前を見た途端僅かに眉を顰めたものがあった。カイはその差出人の名を直接見たわけではなかったが、封筒に印字されたシンボルを持つ頭脳集団の名ならば知っていた。
 遥か東の海――日本という国から届いたエアメール。
『カイ、ここに返事出しとけ。その誘い、承諾してやるってな』
『え? 教授……宜しいのですか?』
 公設にせよ私設にせよ、他の人間と共同の施設で研究することを厭う――それは極端でないにせよ余計な人付き合いを嫌う――ソルの性格を理解していたカイは、当初その言葉に戸惑いを覚えたものだが、念のためにと確認してもソルの決定は変わらなかったため、指示通りにその研究所宛に承諾の文書を出した。
 その時ソルに、どのような心境の変化があったのかは知れない。ただ、
『……あの野郎……』
 薄暗い研究室の中で1人、件の文書を握り締め、憤りを含んだ声で呟いていた姿がカイの眼に焼きついて離れなかった。


 シミュレーションと実測値の照合が一通り終わったところでデータを保存し、アプリケーションを閉じる。一息ついてから啜った珈琲はすっかり冷めていて、舌の上に嫌な苦味だけが残った。カップを覗けばまだ半分以上中身が残っていて、しかし不味いのを我慢してまで全部飲みたくはないと恨めしげに黒い水面を睨みつけていると、書類の山を半分ほどに減らしたカイがあ、と声をあげた。
「教授、定例の学会に提出する論文、もしかしてまだ未提出だったりしません?」
 言われて学会?と首をひねる。少し記憶を手繰ってから、ようやく思い当たるものに行き着いた。
「ああ、アレか」
 言われてみれば確かにそんなものがあったような気もする。気のない返事にカイは大きく溜息を落としがっくりと机に伏せた。
「『ああ、アレか』じゃありませんよ〜。今度の学会は今年度の研究の総まとめの発表になるんですから、きちんとやっておかないと、来年度の研究予算削られてしまいますよ?」
「ふん、知るか。経費など寄越されなくとも金には困ってない」
 予算が出せねえってんなら、自分の研究所に戻るだけだ。
 本心からであろうその言葉に、カイはただただ苦笑するしかない。
 そんな暴言を吐きながら、しかしソルがそれを実行することはないと理解していたから。この研究所へと来た目的は、ただ研究のためだけではないと――口に出して言われずとも、解っていたから。
 この研究所に来ることになった時ソルは一度、カイを助手から解雇しようとした。理由があってのことたっだのだろうが、ソルはそれを説明しようとはせず――したがらず。カイもまた「理由も明らかにされず解雇されるのは嫌です」と、本来なら雇用主の解雇命令に逆らう権限など持たないはずにも関わらず強固にそう言い張り、半ば強引にソルについてきた。
 実際にそれは正解だったと思う。理由は…きっと挙げ始めたらキリがない。もしかしたらそれはカイの自己満足にしか過ぎない可能性もあるけれど、同時にそうではないと思う確信もある。
 何よりソルは、自分にとって煩わしい――邪魔な人間を好き好んで自分の側に置いたりはしない。
 それさえ解っていれば、カイにとっては十分だった。
「でしたら、私にしっかりお給料くれるためにも、しっかり研究所から予算せしめるようにして下さい?」
「……なんだそれは」
「言葉の通りです」
 そうは言うが、カイ自身お金に困っていたりするわけではない。比較的――どころかばっちり裕福な家の生まれのカイには誇張ではなく一生遊んで暮らしていけるだけの財産があった。しかし代々の先達が苦心して築き上げた財を自分の代で無駄に散らすような愚かな真似をするつもりなどさらさらなく、故郷より未だ送られてくる生活費にも一切手を付けずにこの職で出される給料のみで毎日を生活している。
 説得としてはあまりにも不的確で不相応な言葉のようにも思えるが、ソルを動かすのにあまり深刻な問題などを持ち出すのは反って逆効果だ。何より『努力』と『頑張ること』を嫌うこの偏屈者は、そうなれば梃子でも動かなくなってしまうのだから。
 一見いいかげんそうな、どうでもいいような理由でも一度動けば半端も厭うソルのこと、一応最後まで遣り遂げてくれるだろう。
「清書くらいなら私もお手伝いしますから、どうぞ頑張って下さいね」
 ソルの手から冷めた珈琲の入ったマグカップを取り上げ、にっこりと微笑む。
 温かい珈琲淹れなおしてきますから、と白衣の裾を翻す後姿を見送って、ソルは手荒に前髪をかき上げる。ずれた眼鏡のブリッジを引き上げて、
「やれやれだぜ…」
 そう溜息を落としつつ言われた通りワードソフトを立ち上げて、論文の作成に取り組むソルだった。


 ソルがキーボードを叩き出してから約1時間。カイの前に積み上げられていた書類の山がとうとう最後の1枚となった時、それまでBGM代わりに響いていたささやかなタイピングが、唐突にぴたりとその音を止めた。
「…教授?」
 なんとなくその音の停止の仕方に不自然さを感じて顔を上げる。論文を打ち始めてから約1時間。いくらソルでも学会発表用の論文を打ち終えるには些か早すぎるような気がした。
 どうかしましたか? と訊ねれば、ソルは気のない相槌を寄越して苛立たし気に前髪をかき上げた。しばし腕を組んで何かを考えるような素振りを見せると、小さく舌打ちしてから手元のメモに手早く何かを書き込んだ。
「カイ、ここに書いた本5冊、資料室から取ってきてくれ」
 書き込んだメモを破り取り、視線はディスプレイから外さぬままにカイへとそれを差し出す。カイは慌てて席を立ち、差し出されたそれを受け取った。
 おそらく研究内容を詳しく説明する中で、専門外の研究員にとっては些か難解すぎる部分が出てきたのだろう。一言に科学といってもその分野は果てしなく幅広い。自分の専門外の『畑』の成果は時に噛み砕いて説明されないと理解できない部分と言うものも生じてくるのだ。研究者本人がいくら理解していても余人に伝わらないのでは、面倒を押して成果を発表する意味がない。その難解な部分の補説を、資料から多少引用するのだろう。
 カイはメモに書かれた資料のリストにざっと目を通すと、資料の配架場所から資料を揃えるのと貸出処理にかかる時間を簡単に計算する。
「では、20分ほどで戻ります」
「ああ」
 ソルは頷いてちらりと横目でカイを見遣り、そしてまた視線をディスプレイに戻す。おそらくカイが戻る前の間に少しでも先に進めておくつもりなのだろう。注釈を加えたりするのは後からでもできる。
 カイは自分のIDカードを確認して研究室を出ると、資料棟へ向かい足早に歩を進めた。



 中央資料棟。各階各部屋に分野ごと細かく分類されて納められた資料は、いざそれが必要となった時も速やかに目的の物を探し出すことができる。2階の生命科学部門の資料室に入ったカイはまず自分のIDを検索システムに通し、目的の資料の貸出状況を確認した。この広い研究所の中で生命科学について研究している研究者は何もソル1人だけというわけでもない。もしかしたら他の研究者が件の資料を借りている可能性もあるから、配架場所を探すより先に貸出状況を確認した方が無駄も少ない。
「えぇと…あれ?」
 表示された検索結果を見て、ふとカイは首を傾げた。目的の資料5冊のうち4冊は未貸出で資料室内の配架場所に置かれていることが確認できたが、残る1冊の書名の上に『貸出中』の赤い文字が浮かんでいる。…どうやら貸し出し中らしい。
「参ったな…」
 普通資料室に置かれた資料は利用者が複数来ても閲覧に支障が出ないよう最低2冊は置かれているはずなのだが、たまたまその1冊だけは予備が置かれていないらしく、ただ返却予定日のみが虚しく表示されている。一応その日付を見るに返却予定日は今日のようだが…さてどうしたものか。
「…とりあえず、一旦今ある資料だけでもお借りしていきましょうか」
 いつまでもここで立ち往生しているわけにもいかない。あのソルのこと、1冊くらい資料が足りなくとも大した痛手にはなるまい。そう考えて各資料の配架場所の番号をメモに取ると、カイは件の4冊を集めるべく配架棚の方へと足を向けた。


 目的の資料を探し出すのは大して苦になる作業ではない。確かに1資料室内に納められた資料の数は千やそこらではきかないが、配架された資料の整頓はしっかり為されていたし、中には以前にも一度利用したことのあるものも混じっていたので、それに関しては迷うことなくその配架場所へ足を進めることができた。
 しかし…、4冊目の資料を見つけたところで少し困ったことが起きた。理由は単純で、その資料がカイの手の届かない高さの棚に収められていたのだ。まさか棚を昇るわけにもいかず少々途方に暮れていたところ――ふと資料室の扉か開く音がして、他の利用者がここを訪れたことに気付いた。
「あ…、もしかしてあの資料を返却しにきた人かな」
 先ほど貸出中と見て保留にしておいた5冊目の資料のことを思い出し、検索カウンターの前に向かう。4冊目の資料はまた後回しでいいだろう。たしかカウンターには棚に手が届かなかった時のための脚立が備えられていたはず。ともあれ、もし今資料室に来た人物が資料を返却しに来たのならそのままこちらに貸してもらおう――そう思って顔を出した、その時。
「あら?」
「あ……」
 カイは、無自覚に自分の行動を後悔した。あくまでも、無自覚に。
 カウンターで資料の返却処理をしていたのは、黒髪の女性研究員。まさか女性に対して――いや、誰に対しても同じことだが――『この人にだけは会いたくなかった』など……そんな思考を持つことなど、カイ本来の信条からは激しく逸脱することだった。
 よって衝撃はあくまでも無自覚に。だが無自覚だろうがなんだろうが、カイの他人観の中で極めて異例な『できることなら会いたくない人物』と対面してしまった彼は、まるで蛇に睨まれた蛙の如くその場から一歩も動けなくなってしまった。
「誰かと思えば、あの『ピー』野郎のトコの坊やじゃない?」
「あ…は、い……こんにちは…です、……イノ女史」
 微笑を向けられ、どうにか不自然でない程度に取り繕った笑みを返してぎこちなく挨拶を口にする。
 カイは、自分自身でも巧く理解できないが何故かこの女性が苦手だった。これまでも何度か――一言二言だけだが――言葉を交わしたことはある。しかし初めて会った時から何故かこの女性からは言葉にもできない異様な雰囲気を感じて…どうしても不自然なまでに身体が強張ってしまう。人様に対してこの反応はあまりにも失礼なものと承知してはいるのだが、最早反射にも似たこの反応は自分でもどうにもできないほどの域に達している。
「なぁに? あいつに言われて資料を探しに来たの?」
「は、はい…」
 イノは「大変ね」と目を細めて笑い、返却処理の済んだらしい本を片手にカイへと歩み寄る。
 近づいてくる彼女からさりげなく視線を逸らし俯くと――下ろした視線の先で、イノが手にした資料の書名に気が付いた。それは先ほどカイが探していた5冊目の資料。
「あ、それ…」
 思わず声を上げてしまった。こちらに向けられていた彼女の目線がその声に釣られるようにして己の手にした資料へと向けられる。
「あぁ、もしかしてこの本を探していたの?」
 資料を目線の高さまで持ち上げて首を傾げる。
「はい…あの、イノ女史。もし返却なされたのでしたら、そのまま私がお借りしていっても宜しいでしょうか?」
「ふふふ…、宜しいも何もこれは利用する研究員共用のものでしょう?」
 さも可笑しいと言わんばかりに笑みをこぼすイノを前に、カイは思わず赤面する。動揺、緊張のしすぎだ――自分は一体何を言っているのか。
 だがイノはカイの内心の焦りにはまったく気付かない様子で、はい、と資料を差し出す。それを受け取って、カイはほっと胸を撫で下ろした。
(どうして私はこの人に対してこんなに警戒してしまうのか…失礼、ですよね本当に…)
 心の中で自嘲して、それからありがとうございますと頭を下げる。どういたしまして、と悪戯めいた口調の返答が返った後ようやく顔を上げて――見ると、触れ合わんばかりのまさにカイの目の前に虹色に煌く瞳の光彩があった。
「えっ、あのっ?!」
 突然の接近に戸惑って一歩退く。するとその逃げる肩を捉えられ、抗う間もなくカウンターへと上体を押し付けられた。
「イノ女史?! いったい何を…!!?」
 焦る気持ちをどうにか堪えて問いかけても、返るのは明確な答えではなく楽しげな笑い声だけ。互いの体勢の問題はあるとはいえ、男であるカイをなんなく押さえつけたイノは舌舐めずりでもしそうなほど愉快気な――どこか淫靡な笑みをたたえてカイの顔を覗き込んだ。指先が頬を辿り首元を辿る。カイの両膝を割ってその間に身体を滑り込ませると、白衣越しに自らの身体を密着させた。
「抗わないで、坊や…別に怖くはないわ…」
 耳元の熱っぽい囁きに、そこから生じた寒気にも似た奇妙な感覚が肌を伝わっていく。女の指が巧みにワイシャツのボタンを外し、日に灼けることを知らぬ白皙の肌を外気に晒した。
「やめっ…やめ、て下さい…っ!」
 いくら必死に身を捩ろうとも、イノの戒めは僅かにも揺るがない。押さえつける力はそう強いとも感じないのに、カイは女のしなやかな腕の中から一向に抜け出すことができなかった。
 首筋を辿り露わになった鎖骨を撫でる指先の感触。カイは有効な抗いの手段も見出せぬまま、混乱する思考ばかりが募っていく。
「可愛い坊や…あの男には、いつもどんな風に可愛がって貰っているのかしら?」
 肌けられた襟元からイノの指が入り込む。その冷たさにカイは肩を震わせた。
「やめ…て…」
 抗おうとして、しかしこの後に及んで女性を力尽ずくで押し退けることに躊躇を覚えるカイにはただ拒絶の言葉を吐き身を捩る程度のことしかできない。赤いルージュが笑みの形のまま首筋に埋められ、今度こそ明らかにその細い肢体が跳ねた。
「やっ…だ、やめて下さいイノ女史!! どうして、こんな…っ」
「今更何を言うの? いつもあの『ピー』野郎にされていることじゃなくて?それともあの男だけに操を捧げると、そんな可愛らしい誓いでも立てているのかしら」
「…っ!!」
 明らさまな揶揄にカイは返す言葉もなく、羞恥に染まった顔できつくイノを睨み付けた。悔し紛れのその表情も、しかしイノにとってはただ自分の愉悦を増幅させるためのものにしかならず。
「反抗的な目も可愛いわね、ゾクゾクしちゃうわ…」
 伸ばされた舌が首筋から耳元を辿りねっとりと舐め上げる。這い上がってくる得体の知れない感覚に息が上がっていく。堪え閉じた瞼の端にうっすらと涙が浮かんだ。明らかな凌辱のために動く女の手が、乱れたシャツの合間から奥へと入り込もうとしたその時、
「何してやがる」
 怒り、などと生易しいものではない。耳にしただけで対象を震え上がらせんほどの絶対零度の低音が、その場の空気を一瞬にして凍て付かせた。
 イノは小さく舌打ちをして、掌はカイの胸へと這わせたままゆっくりと身を起こす。
「…遅かったのね『ピー』野郎…それとも早かったのかしら?せっかくこの可愛い坊やを美味しく頂こうと思ったのに」
「御託はいらねえ。とっととそいつから離れろ」
 ぶっ殺すぞ、とただの脅しとは思えぬ言葉を吐いて、きつくイノを睨み据える。
 その眼差しを見て、カイは無意識に肩を震わせた。こんなソルは知らない。こんな…殺気すら込めて他人を睨みつけるソルの顔を見るのは初めてだ。
 ――怖い。
 相手はソルだと分かっているのに、カイは心の奥にソルに対する恐怖が生まれるのを止めることができなかった。
 女の体がカイの上からゆっくりと退く。離れる間際、もう一度ねっとりとした仕草で頬を優しく撫で上げられた。
「…っ」
「じゃあね、可愛い坊や。また今度遊んであげる」
 戯れにかそんな台詞を吐いて、後はまた何ごともなかったかのように入り口へと足を向ける。ソルと擦れ違う刹那、二人の目線が火花でも散らんばかりにぶつかり合う。憤りを込めた赤茶の瞳と、どこまでも笑みを消さない虹色の瞳。
「とっても素敵な子。――テメェごときの側に置いておくのが惜しいくらいにな」
「…とっとと失せろ」
 豹変したイノの言葉遣いに戸惑うこともなく、ソルはただ再度警告を含めた呟きを繰り返す。イノはそんなソルを鼻で笑い、後は振り返らずに資料室を後にした。


 イノの姿が扉の向こうへと消え、ドアの閉じる音が取り戻した静寂を震わせた後、カイは乱されたシャツの前をかき合わせ、自らの身を抱きしめるようにしてずるずるとその場に座り込んだ。身体の震えはまだ止まらない。己が腕の中に顔を埋め、きつく唇を食いしばった。
 こんな…こんな無様な姿を見られて、ソルに合わせる顔などあろう筈がない。
 噛み締めた唇からする血の味。喉の奥が苦しい。少しでも気を抜けばこのまま嗚咽し、泣き崩れてしまいそうだった。
「……おい」
「…っ……!」
 低い声で呼びかけられて、大袈裟なまでに肩が震える。
 ――違う、こんな態度を取るつもりなんてないのに。
「おい…カイ」
 苛立ち混じりの声。次いで溜息。
 近づいてくる――足音。
「いや…っ…」
 腕を掴み上げられて反射的に身を捩る――まるで叱られることを恐れる子どものように。
 決してソルのことが嫌なわけではないのに、身体が勝手に抗い、心を裏切る言葉を吐く。
「やぁっ…放して…っ…」
「落ち着け、カイ」
「いや、です…っ……教授に、合わせる顔なんて…ないんです…っ…!」
 お願いですから放して下さい。
 言葉の拍子に、とうとう堪えきれなくなっら涙が堰を切ったように溢れ出した。白い頬を幾筋も透明な雫が伝い、泣きじゃくりながらただ「ごめんなさい」の言葉を繰り返す。
「なんでお前が謝る必要がある?」
 穏やかな声。逞しい腕が有無を言わさずカイの背中を抱き寄せて、あやすように優しく撫で上げた。
 カイは間近に触れ合った温もりに驚いて顔を上げ、見下ろしてくる赤茶の視線に交わるとまたぼろぼろと涙を流し、縋りつくようにその白衣の胸へと顔を埋めた。
「だっ…て、わ…たし、あの…ひと、と……」
 イノ――あの女と、あんなことを。
 しゃくり上げながら告げるカイにソルはやれやれと頭を振って、抱きこんだその華奢な身体に絡める腕の力を更に強めた。伏せらせた金糸の髪にそっと鼻先を埋める。
「どうせあの女が無理矢理お前のこと押し倒しただけだろう。お前は何も悪くねえよ。んなこと気に病むな」
 カイの性格上、相手が女である以上強く出られないだろうことは容易に想像がつく。たとえどのような身の危機に晒されようとも。他人に対しひどく謙虚で控えめなところはカイの美点だが、同時に最大の弱点でもある。
 涙の雫を目尻に残し恐る恐る見上げてくるカイにそう言って苦笑を返すと、手に馴染む柔らかな金髪を存分にくしゃくしゃとかき回した。
「わっ…教授?!」
 無闇に髪を乱されることを厭うカイは悪戯な手から逃れんと身を捩るが、未だ抱きしめられたままの状態でそんな都合の良い逃げ場などあるはずもなく。むぅ、とまさに子どもがむくれたままの表情で見上げてくるカイにソルは意地の悪い笑みを張り付かせ、そっとその耳元に囁きかけた。
「そんなにあの女に襲われかけたことが申し訳ないってんなら、いっそ俺に喰われてみるか?」
「……へ?」
 眇められていた眼差しが鋭さを失い、きょとんとしたあどけない表情へと変わる。
 言われたことの意味が解らないとばかりに目を瞠り、首を傾げて?を飛ばす。
 …どうやら本気で言葉の意味が伝わっていないらしい。
「くくっ…やっぱり『坊や』だな」
「え? なんですか? なんのことですか??」
 意味が通じていないのだからソルの笑いの理由も解るはずもなく。
「あ、あの、教授? 私、何か可笑しいこと言いました?」
「いや、いい。ともかく研究室に戻るぞ。あとは資料で補説加えるだけだからな」
「は、はい」
 なんだか巧くはぐらかされた気もしないではなかったが、ソルが行くぞと言えばそれに否と返すわけもない。揃った4冊の資料に加えて届かない位置にあった資料をソルに取ってもらうと、揃って2人、資料室を後にした。





 その後、カイはソルの言った『喰われる』の意味をその身を持って知り、イノ曰く『たっぷりと可愛がって』貰う日々を送るようになった、…とか、ならなかったとか。
 その辺のところは謎である。






[END]











えーと…えーと…確か、金夏様より承りましたリクエストは
『現代版ソルカイ in Japan』だったはずなのですが…。
なんなんじゃこれ!!? ただのパラレルじゃん!!?
現代といったら科学全盛で、ソルはやっぱ科学者だよね!!
と思って書き出してみたらアラ不思議…。
これが果たして日本と言えるのか…。
なんかイノ姉さん出てるし…。
うわ〜ん申し訳ありません金夏様!!
書き直し命令受け付け致します〜っ!!(泣)
▼金貨のコメント▼
書き直しだなんてなんてとんでもありませんっ。
素晴らしい現代風なソルカイをありがとうございますvv
こんなにもナチュラルにリアルな世界が描けるなんてすごいですよね。
イノもなにげに出てきてて、ス・テ・キ・☆ みんなに喰われまくりなカイちゃんをどうもありがとうございますぅ〜(笑)


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