その部屋の前を通ったのは、ただの偶然に過ぎなかった。

つい先日の戦いは死者こそ最小限に抑えられたものの、多くの負傷者を出した。傷が完治するまでゆっくり休んでいてほしいという思いはあるが、聖戦の真っ只中である以上、そうも言っていられない。次の戦いがいつくるか分からないのだ。迅速に態勢を立て直さなければならない。
そのために私は団員達の部屋を訪ねて、様子を窺ったり必要ならば治療を施したりと忙しく歩き回っていた。

山積みの用事をこなしている間、いつもならどこかで見掛けているはずの人物に会っていないことに気付いてはいたが、どうせ先の戦闘でも大した怪我をしていない様だったから放っておいても問題ないだろうと思っていた。彼は規則を破って回る悩みの種だが、今は正直それどころではない。


だから、その部屋の前を通り掛ったのは偶然でしかなかった。

だた……そこで足を止めてしまったのは、自分の意思ではあったのだろうけれど。


いつもならば他人を拒絶するように締め切られているはずの部屋のドアが、僅かばかり緩んで隙間を開けていた。そこから故意に中を覗こうと思ったわけでは決してなかったが、首を巡らせた時に中の様子が私の視界へ飛び込んで来て、思わず釘付けになってしまった。どくんっと大きく脈打つ己の心臓の音とともに、足がその場から動かなくなる。

僅かに開いた隙間からは、全裸で佇むソルの姿が見えていた。傷の手当てのついでに着替えも済まそうとしていたのか、額当て以外を取り払い、浅黒く焼けた彫像のような体を惜しみなく晒していた。いつもならば一つに結わえられている長い髪も解かれ、隆起した筋肉の上に纏わり付いて、たぶんに水分を含んでいるようだった。ふと視線を自分の足元に落とすと床が僅かながら濡れている事に気付き、ソルが共同シャワー室から濡れたまま部屋へ帰ってきたらしいことが分かる。まさか素っ裸で廊下を渡ってきたわけではないだろうが、タオルを持っていくのを忘れていたのかもしれない。僅かにドアが緩んでいたのはそのためだろうと私は思った。

しかしもう大分経つのか、殆ど乾いているように見える。なのに、ソルは左手に包帯を巻きつけながら、何か黒いコードの端を耳に取り付けて聴き入っており、服を着ようとする様子は窺えない。手に握る箱の物体は、おそらく音楽再生機だろうが、あんな角張った形の物は見たことがなく、私は首を傾げたが、新しいデザインのものだろうと思うことにした。聖戦で娯楽の類のものは大半が生産ラインをストップさせているが、最近は闘いの重圧から一時的にでも解放されたいという願いから需要が高まっており、一部では新たに作り始めていると聞くので有り得ないことではない。

……などと、ソルの様子を冷静に分析していた私だったが、その間中視線はソルの体から離れることがなかった。
悪いとは分かっていても、吸い寄せられるようにその裸体に魅入ってしまう。共同施設や遠征の最中で他人の裸は頻繁に目にするので物珍しいわけではない。服の上からも存在を主張するその筋肉が羨ましいというのも多少なかれあるが、それも理由としては違った。

ただ、目の前の存在に煽られる。
何がどう、というわけではなく、体の芯を揺さぶられるような震えが湧き上がる。

自然と頬が紅潮していき、体の内側で鼓動が煩く響く。いつもならば冷え切っている指先まで不可解な熱に侵されていくその感覚に、私は大いに戸惑った。
しかし、風邪でも引いたのかと思うほどはっきりとした自身の変調が紛れもない興奮のせいだと気付くのにさして時間はかからなかった。一般的に多感な時期と言われる年齢である私は、この劣情をすでに知っていたからだ。

だが……この欲情を抱く相手が明らかに間違っている。その事実にも同時に気付き、私は羞恥で余計に体温が一、二度上昇するのを感じた。
別に目の前のを男をどうこうしたいというわけでは決してなかった。欲望を押し付けたいというわけでも、もちろんない。

ただ、触れたいと。触れてほしいと。
彼の体温を感じることが出来たならどんなに自分は至福だろう、と。

考えるほどに深みに嵌りそうな思考に、私は慌ててブレーキをかけた。これ以上追求してはいけないと、直感が警告する。
途端に我に返った私は軽く頭を振って幾分か冷静さを取り戻し、裸のまま部屋の中で荷物を漁ったりしているソルをしばし眺めた。羞恥というものがないのかと疑うほど、ソルはずっと肌を晒したままで雑誌を取り出したり剣を弄くったりしている。その眼差しは無表情の顔とともに、どこか遠いものを見るような、あまり光のない目で、折角の自由時間でさえつまらないとでも言うような緩慢な様子だった。

それを眺めていて、私はふと気付いた。
あのソルが、この至近距離で私の気配に気付かないはずはないということを。
幾ら私が気配を隠してこっそり覗いていて、尚且つソルが音楽に耳を傾けていたとしても、聡いソルはすぐに見破る。今もここに私がいることに気付いているはずだ。

なのにまるで気付かぬ振りをしているのは。
……簡単なことだ。
私の存在など、ソルにしてみればどうでもいいのだろう。

煩く小言を言われればしかめっ面をして逃げていくソルだが、周りから注目を集めることにはまるで無頓着なところがある。その視線が好奇心だろうが敵意だろうが、彼は全く気にもしないのだ。実害がなければ放っておくということだろう。


ならば今、私がここにいることはどうでもいいことだと……そういうことだろうか。
見られようがなんだろうが、知ったことではないと、そういうことなのだろうか?


途端、私は体温が氷点下にまで下がったような気がした。
あの紅蓮の瞳は、私など全く映してない。
その事実に気付き、私は反射的に眉をひそめて唇を噛んだ。

そして次の瞬間には、意識する前に手が勝手に動き、緩んだドアを閉めていた。
ドアが閉まった音にソルの視線がこちらに向いたのではないだろうかという考えが一瞬脳裏をよぎったが、今更だろうと思い直す。それでも追求を掛けられるのが恐ろしく、即座に背を向け、足音を消して廊下を走った。



ただの偶然でありながら、この事はソルに向ける自分の感情が、憧れやライバルというものから掛け離れているのだと気付くきっかけになった。
だが、これは報われない想いだということも痛いほどに自覚した瞬間だった。














遠ざかる気配に、ソルは微かに口端を上げた。

「ふん……ガキのくせにイイ顔しやがる」

元からカイがいることに気付いていたソルは、わざとそれを放置していた。
ドアをきちんと閉めていなかったのもソルが素っ裸であったことも、ただの偶然でしかなったが、カイの反応が見てみたくてわざと気付いていない風を装っていた。恐らくいつもの説教が始まるだろうと思いながら。

しかし予想は裏切られた。
もっともそれはソルにとって思いがけず嬉しい方向であったが。

ソルに見惚れてしまったらしいカイは、そこらの美女顔負けの艶のある上気した顔で潤んだ視線をこちらに向けていた。
カイは気付いていなかったようだが、ソルには窓ガラス越しにその凄艶な姿が見えていたのだ。

何も言わずにカイが立ち去ってしまったのは些か勿体無い気もしないでもなかったが、あんな表情を見られただけで運が良かっただろう。

ソルは舌なめずりして、目を細める。
「……悪かァないな」
ガキなどハナから眼中になかったが、ソルは少しカイに興味を抱いた。