「あ」
「……あ?」
驚きを伴って漏れたその声を聞き留め、ソルは後ろを振り返った。
こちらに近付こうとしていた声の主が、まだいくらか距離のある位置で立ち止まり、呆然とこちらを見ている。
何に対しての驚きなのか不思議に思ったソルだったが、カイの手に乗る缶詰と足元の猫達を見やり、合点がいった。
「なんだ。こいつらにエサやりか?」
「あ…いや、その……」
ぐるぐると機嫌良さそうに鳴く猫の喉を指先で掻いてやりながらそう聞くと、カイは気まずそうに視線をさ迷わせて口篭った。ソルは片眉を上げて疑問の表情を作ったが、足元に並べた皿にカイの視線が行っていることに気付き、なるほどと思わず浮かべた苦笑を噛み殺す。
「俺がやってるのはミルクだけだ。エサをやるなら、さっさとやりな」
「え、あ……う、うん…」
先客が居るとは知らず、持ってきた缶詰の行き場に困っていたカイはソルの言葉に押され、ぎこちなく頷く。ソルの読み通り、カイはわざわざ野良猫のために律義に餌を用意してきたらしい。
戸惑いながらも近付いてきたカイは、ふと顔を上げ、場所を空けるように退いたソルを見上げた。
「ところで……なんで、警察署内の庭にあなたがいるんですか」
「別にいいだろ」
「よくありませんよ! 明らかに不法侵入じゃないですかっ」
根本的な疑問にさらりとのたまうソルを、カイは柳眉を立てて睨みつける。しかしその程度の怒りなど効果があるはずもなく、ソルは面白くなさそうにふんっと鼻を鳴らした。
「血税払ってる善良な一般市民だ。文句言われる筋合いねぇよ。……この国には納めてないけどな」
「い、如何に人畜無害で善良であろうと、ここは関係者以外立ち入り禁止です……!」
「じゃあお前の関係者ってことで。」
「な、だっ……! ああ……もうッ」
ああ言えばこう言うソルの屁理屈に焦れて、カイは大仰にため息をつく。額に手をやり、項垂れるカイが「誰がお前の関係者だ!」と怒鳴り返そうとして、咄嗟に呑み込んだのだと気づいたソルは、少し面映い気持ちになった。売り言葉に買い言葉でも、生真面目なカイは関係ないと言えなかったのだろう。
ソルは口端が笑むのを誤魔化すように、足もとの小さな獣達に視線を移すと、五匹の子猫は餌を持つカイに群がっていた。
「ほら、早くしねぇと噛じられっぞ」
「え、……わわっ」
指摘されて自分の足元を見たカイが慌てたように身を引く。二人で無意味な押し問答をしている間に、猫達はカイの足に絡まって愛想を振りまいていた。
無邪気にうみゃーっと鳴かれ、カイは苦笑いしながら開いた缶詰を地面に置く。
すると、わっと駆け寄り、我先にと猫達は顔を突っ込んだ。
じゃれあうような、柔な猫パンチを繰り出す獣達の争奪戦に驚いたのは、カイの方だった。
「こ、こら! 喧嘩しないっ。他にもまだあるから……」
「まだやる気かよ。甘やかしすぎだ、坊や」
呆れたように、ソルは焦るカイを諌める。
見たところ飼い猫ではなく、最近生まれた野良猫達だ。どうせ他にも餌を確保する場はあるだろうし、下手に構いすぎると図に乗ってキリがなくなる。もともと、付かず離れず気ままに過ごす性分の生き物なのだ、真面目に相手してやらなくとも彼等は十分強かに生きていける。
しかし生真面目なカイはソルのそっけない態度に納得がいかないようだった。
「この子達は最近親猫を亡くしたばかりなんです! まだ餌の確保もままならないというのに……」
「なら、尚更だろ。自分で生きてく術を早く覚えねぇと命取りだ。放っておけ」
「で、でも……!」
言い募ろうとするカイに、ソルはデコピンを喰らわせる。かなりの力で弾かれ、短く悲鳴をあげたカイは額を抑えて、恨みがましい視線を向けた。
「何するんですかっ!」
「きゃんきゃんうるさい犬に、躾だ」
「なッ……!?」
人を犬扱いして鼻で笑うソルに、カイはキリキリと眉をつり上げる。予想通りに、馬鹿にするのも大概にしろとカイが叫びそうになったところを、ソルは髪を撫でる仕草で制した。
「テメェが猫なんかの、従順な『犬』になってどうすんだよって言ってんだ」
「え……?」
出鼻を挫かれる形で、カイは険しい顔を解き、隣のソルをぽかんと見上げる。ぐしゃぐしゃと乱暴に金髪を掻き乱しながら、ソルは呆れたようにため息をこぼした。
「いい加減、その犬体質をどうにかしろ。言うこと聞いてイイ子にして、皆のために身ィ削って尽くして……ンな、クソ真面目に生きてても、損するだけだぞ」
「……」
なだめるような緩やかな仕草で頭を撫でるソルにされるがままになりながら、カイは黙り込む。こちらを見上げる、ビー玉のように澄んだ青い瞳は、言っている意味を理解しているのかいないのか、湖面のように静かだった。
「私は……、別に……」
「オラ、こいつらみたいに可愛く身勝手に振る舞ってみろよ」
「え…うわっ!?」
戸惑っていたカイに、ソルは手近にいた子猫を一匹拾い上げてカイの胸元に押し付けた。少しはお腹が満足したのか、子猫は人の手に逆らうことなく、とっさに抱えたカイの腕に収まっている。
突然人の腕に委ねられた縞トラ模様の子猫は不思議そうに小首を傾げただけで、それ以上に驚いて固まっているカイの顔をじっと見上げ、うみゃーっと鳴いた。
「え……えっと……」
愛敬を振りまく子猫と鼻先が触れ合うほど近くで見つめ合ってから、カイは困ったようにソルに視線を向けてくる。しかしソルは黙ったままカイを眺め、ほら何か言えとばかりに顎をしゃくった。
困惑したままのカイの足にも他の2匹が絡まり、無邪気に見上げてくる。何かを急かすように凝視してくる子猫達に、カイは困ったように首を傾げてから、ふと何か思い立ったように顔を上げてソルを見た。
「……ニャー?」
……………。
疑問符まじりにカイの口から出た言葉は、何故か、猫語だった。
……考えた末が、それ……か?
思わずうめくような声を喉の奥であげ、ソルは急に重たさの増した頭を支えるように額を抑えた。
心底呆れたようなソルの仕草に気づき、カイは猫を抱き締めたまま慌てる。
「あ、あれっ? 違う??」
「……誰が、猫の真似をしろっつったよ」
「ち、違いました……か」
「ったりめーだろ!」
はあ…と大仰に溜息をつき、ソルは恥ずかしさで顔を赤くして俯くカイを睨めつけた。
猫のようにたまには自分勝手に振る舞えと言ったつもりが、カイは何故か猫そのものの真似をするように言われたのだと思ったらしい。言葉が少なかったのがいけなかったのだろうが、話の流れで分かりそうなものだ。しかし昼休みで気の緩んだカイは、長官を勤め上げる仕事中の彼とは程遠く、ソルの前ではボケ倒しときた。
とはいえ、愛らしい子猫を抱えたまま戸惑いつつも嬉しそうに猫撫で声を発したカイを、一瞬でも可愛いと思ってしまった自分も重症だとソルは思う。咄嗟に顔に出すことはなんとか踏みとどまったが、実をいうと今でもカイに手を出したくて心が疼いていた。成人男性なんかにそんな感情を抱くなど、どうかしているとしか思えないが、これが惚れた欲目というやつだろうか。
「猫みてぇに、もうちょっと自分のために生きろって……そう言いたかっただけだ」
「あ、ご…ごめんなさい……」
前言の意図を簡潔に説明すると、カイは恐縮したように身を縮こませて謝った。
謝るようなことでもない、とソルはそっけなく手を振る。
「そういうんだから、犬だってんだよ。てめぇは」
「……犬、犬って連呼しないでください」
ムッと眉を顰めて、カイはソルを睨んだ。しかし2匹の子猫を足元に戯れさせ、1匹を腕に抱くその姿では迫力がない。
カイではなくソルに擦り寄っていた残りの2匹を足元から掬い上げ、ソルはカイの頭と肩にそれぞれ乗せた。びっくりするカイをおいてそのまま、ソルは傍らに置いていた愛剣を手にして背を向ける。
「頭悪ぃ長官殿は、猫にまみれてろ」
「な、な、なんだそれはッ!」
「じゃあな、さっさと仕事に戻れよ。高給取り」
合計5匹の子猫をたわわに実らせたカイにひらひらと手を振り、ソルは立ち去る。きまぐれでカイのいる警察機構の敷地内に入って、たまたま見かけた猫にミルクをやっていたが、別に深い意味はない。
今更ながら換金所の順番がそろそろかと思い出したところで、ソルの後ろ髪が思い切り引かれた。
「…っ」
「ま、待ってください!」
猫をぶら下げたまま、ソルの後ろ髪をしっかりと掴んでいるカイを見下す。落ちることを恐れて、カイの剥き出しの肩に爪を立てた猫がいたが、気にすることもなくソルを真剣に見つめていた。
「寄って……いきますよね?」
「ぁん?」
「あの……、私の家に、寄っていきますよね……?」
質問していながら、答えを恐れるようにカイは緊張していた。その真剣な眼差しを、ソルは気もなく見つめ返す。
わざわざパリに寄る理由は、元よりカイの家へ行くために他ならない。めぼしい賞金首がいるでもなし、ギアの情報があるわけでもなし、となれば自ずと理由は限定される。
それを告げようとして、ソルは口を開いた――が、寸でで止める。折角だ、可愛くおねだりしてもらうのも悪くない。
「別に……坊やの家に、用はねぇぜ」
「え……」
「それがどうかしたか?」
わざとソルは、素知らぬ振りでカイに質問を返した。逆に問われ、カイは答えに窮する。反射的に何か言いかけて慌てて俯き、カイは顔を赤らめながら無意識に猫をきつく抱きしめた。子猫がそれに不満気に身じろぐ。
しばし口をつぐんで逡巡していたカイは、意を決したように顔を上げた。
「あの、先日良いワインを頂いたので、私の家で一緒に飲みませんか?」
カイにとって、誘うための精いっぱいの理由がそれだったのだろう。些かつまらなそうな顔をして、ソルは黙り込んだ。
「えっと……。あ! 昨日はお肉が安かったので、沢山買い込んであるんです。好きな料理、何でも作りますよ」
「……それだけか?」
「えっ。他は……そ、そうですね。煙草、今日は少し吸うくらいなら怒りませんよ……?」
「煙草なら、何も坊やンとこで吸う必要ねえだろ」
「た……確かに」
考えた理由をことごとく打ち砕かれ、カイはしゅんと頭を垂れる。他の者にも通じる、まっとうな誘いをソルに向けるから行き詰まるのだと、本人は気づいていない。
そもそも、二人の関係は他とは異質なのだ。仕事の関係でも、友達の関係でもない。カイのお決まりなセリフの通りにライバル同士なら、自宅に招くこと自体がおかしい。どちらかといえば、気まぐれに会う点で野良猫との関係に似ているが、一方的に愛でるものではあり得ない。
カイのお堅い頭ではここらが限界かと思い、ソルは盛大に溜息をついた。そして徐に、カイの頭や肩、腕の中に収まる猫を次々引っぺがし、ぽいぽいと地面へ放り投げる。
「ちょ、な……!?」
乱暴な扱いにカイは抗議しかけるが、存外、猫の方は軽やかに地に降り立っていた。それには目を向けず、ソルは邪魔なものがなくなった無防備なカイの顎を掴み上げ、顔を近付けた。
「ワイン、ねぇ。もちろん坊やはミルク、だろ?」
「……! ば、馬鹿にしないでください! 私は子供じゃありませんっ」
ソルの言葉に、カイは途端に憤慨する。しかしその様をせせら笑い、ソルはカイの柔らかな耳に唇を当てて囁いた。
「分かんねぇか? 俺は大人の扱いをしてんだぜ。……家に誘うってことは、『俺の』ミルクを『下の』口で飲んでくれるってことだよな、って聞いてんだ」
「…〜〜〜!!?」
脾猥な表現に、カイは言葉にならない叫びをあげながら真っ赤になる。
その反応に満足したソルはカイから離れ、さっさと身を翻した。
「じゃあ、また後でな。今晩は寂しがりの坊やに、たっぷりミルクを飲ませてやるよ」
にやにやと笑いながらソルが去る後ろで、硬直したままだったカイが拳をぶるぶる震わせながら真っ赤になって叫ぶ。
「お前なんか、来なくていいーッ!!」
毛を逆立てて雷を落とすカイに子猫達は驚いて、わっと逃げ出した。