ヒーロー





聖戦という長い戦いが終わり、世界には平和が訪れた。今までの傷痕は大地に残り、消えない痛みは人々の胸のうちに残り続けたが、それでも恐怖や絶望から解放され、多くの人々が穏やかに暮らしていた。
そんななか、カイ=キスクは戦場を机上に移して日夜格闘していた。聖騎士団は聖戦終結と同時に解体され、その役割は新たに組織された国際警察機構が担うこととなり、カイは元聖騎士団団長という栄光によって長官という地位に就いている。聖戦時のように前線に出て部隊を統率するということはなくなったが、どんな世でもなくなることのない犯罪を取り締まる忙しい日々を送っていた。
もちろんカイはそれを不満に思っているわけではない。人々を救うために何か自分にできるというのならば喜んでしようと、自ら志願した。同じく戦場で戦った友の多くもそうした道を選び、仕事場には知った顔が多かったのでさして苦だと思うこともない。概ね平和といえる日々を過ごしている。
ただ一つだけ不満をあげるとするならば、それは良くも悪くも平和すぎるということだった。今も預かり続けている神器・封雷剣で斬り捨てるべき敵は昔よりも格段に少なくなり、その相棒を手に握ることさえほとんどなくなってしまって、どこか物足りない。それはまさしく平和の証拠なのだから何を物騒なことをと人はいうかもしれないが、カイが敵と認識する存在は決して減ってはいなかった。
ギアを排除したときのように悪だから斬り捨てる、という単純な手段が通じない相手ばかりなのだ。それはときに権力を振りかざす政治家であったり、法の網をかい潜る狡賢い自分の上司であったりする。力で裁いて解決するものはほとんどなくなってしまっていた。
カイは一つ溜め息をつき、手元から視線を上げた。まだ書かなければならない書類がデスクの上に束で置かれている。それが視界に入ると、否応なしにカイの気分は陰鬱なものとなった。
痛みを増したように思う頭を片手で押さえ、カイは形の良い眉を寄せて眉間に皺を刻んだる。長い睫を携えた瞼を下ろして俯くと、長めの前髪が心地好い音を微かに立てながら額を滑って垂れる。
「そういえば……もう五年近く経つか」
なんとはなしに独りごちて、カイは髪をくしゃりと握り込む。
聖戦が終わり、カイが国際警察機構に身を置くようになってから五年近くの歳月が流れている。戦いにおいて神童と言われたカイだったが、欲望が渦巻く汚い世界で活動するようになった最初の頃はやはり素人だった。聖戦での組織が綺麗なものであったとは決して言えないものの、人類にとって共通の敵がいることは人同士の絆を結び付けるに充分だったのだ。ところが平和になって、今までなりを潜めていた化けダヌキどもが我が物顔をするようになった。それらに対処する方法を学ぶには、流石にカイも時間を要した。
世界は、綺麗ではない。この五年でそれは身に染みるほどよく分かった。だが、それでも――。
「カイ様、少しよろしいですかな?」
ふと掛けられた声に、カイはそちらへ顔を向けた。ちょうどドアを開けて入ってきたところの執事に目を留める。
彼の名はベルナルドといった。年齢は随分上で、カイとはまるで祖父と孫のような差があるが、聖戦時に共に命を掛けて戦った大切な仲間である。カイが長官という地位に就くとき、補佐役を名乗り出てくれたのだ。
すでに何度も助けてもらっている尊敬すべき先輩に、カイは立場上適切な口調で返事をした。
「ええ、今少し休憩しようかと思っていましたから。あなたもお茶を召し上がられるでしょう?」
カイがふわりと微笑んで椅子から腰を上げると、ベルナルドは何やら少し苦笑いを浮かべた。カイはその反応におや?と片眉を上げる。カイと同じくお茶好きであるベルナルドが誘いに微妙な笑みを零すのは珍しかった。
疑問を視線で問い掛けるカイに、ベルナルドは脇に抱えていた書類から一枚を抜き出し、手渡してきた。戦士でありながら造形物のように濃やかな爪が生え揃った手を伸ばし、カイはそれを受け取った。しかしそれに視線を落とす前に、ベルナルドは口を開いた。
「ジェリーフィッシュ快賊団の頭領・ジョニーが今朝捕まりましたよ」
「え?」
不意に掛けられた言葉に、カイは書類に向けかけた目を引き戻してベルナルドの方を見た。
ジェリーフィッシュ快賊団とはその筋では有名なレジスタンス組織である。弱きを助け強きを挫くその姿勢は義賊として尊敬に値する集団だが、いかんせんやっていることが法に反している。彼らの活躍を悪いものとは思わないが、立場上カイは彼らを追わなければならない。
とはいえ実力は折り紙付きの彼らがそう安々と捕まるわけはない――はずだったのだが。
「どういうことですか?」
カイは目の前のベルナルドに説明を求めた。手渡された書類に詳細が書かれているであろうことは分かっているが、この優秀な執事から直接事情を聞いた方が確実であろう。そしてそれが分かっているからこそ彼はわざわざカイの執務室まで足を運んできたのだ。
問われ、ベルナルドは歳によって皺の刻まれた口を開いた。
「昨晩から今朝にかけて風俗関係の店の取締りをしていた班が、娼婦館で酔い潰れているところを逮捕したそうです」
「……」
あまりの馬鹿らしい逮捕経緯に、カイは一言も発することができなかった。
頭領のジョニーは居合いの達人として一目置かれている、傑出した人物だ。個人の戦闘能力でなら、世界で五本の指に入るだろう。カイよりも遥かに強いとも思われる。だというのに、一体この情けない捕まり方はなんだろうか。
指名手配書でしか顔を確認したことはなかったが、カイは初めてそれを目にしたときの印象を確定させた。要するに軽そうであまり物事を深く考えていなさそう、ということである。
カイは上げていた腰を下ろし、デスクに肘をついて頭を抱えた。
「……そうなると、捕まえられたのは頭領のジョニーだけなのですね?」
受け取っていた書類をお座なりに放り出し、カイは溜め息混じりに確認した。その様子にベルナルドは同じく呆れたような疲れたような顔で、それでも丁寧に答える。
「ええ。単独行動でしたので、飛空艇もその街には着いておらず、仲間の方も全く別の場所にいることが確認されました」
「……それは、深い意味もなくただ遊び歩いていたということですか」
「そうなりますな」
あくまで淡々と発言するベルナルドの方を見ず、カイはデスクに視線を落としてもう一度盛大な溜め息を漏らした。なにやらきりきり痛んでいるような気がするこめかみを押さえ、カイは陰鬱な表情のまま静かに告げる。
「つまりは、ジェリーフィッシュ快賊団が活動不能になったというわけではないのですね。……引き続き、彼らの動きは追跡しておいてください」
「分かりました」
カイの端的な指示に、ベルナルドは恭しく頭を垂れた。しかしベルナルドもカイがそう言うであろうことはすでに予想済みであったし、カイもそれを分かっていて言った。それでもそうしたのは、この場にいない間抜けな男への当て付けであった。
……ああ、なんて馬鹿な男なのだろう。
なまじ色々と噂を耳にしていただけに、カイは失望を隠し切れなかった。いや、もしかするとただ単に買い被りすぎだったのかもしれないが。
カイは眉間に皺を寄せたまま、徐に立ち上がった。つられたようにこちらを見たベルナルドに、カイは不機嫌を露にしたまま一言告げた。
「折角ですから、その愚か者の顔を拝んできます」
「分かりました。適当にして戻ってきてくださいね」
「ええ」
棒読みのような淡々とした会話をして、カイはそのまま執事の横を通り過ぎた。
そしてカイがドアに手を掛けたところで、二人はまるで示し合わせたかのように重い溜め息をついた。


流石に環境は宜しくないな。
ジョニーはそんなことを呑気に考えながら、鉄格子の向こう側でふんぞり返っている看守を眺めていた。
「『愉快な快賊』だかなんだか知らねぇが、確かに愉快な捕まり方だぜ」
「そりゃどーも」
まだ二日酔いで痛い頭を押さえながら、ジョニーは薄汚れた寝台に座って投げやりな言葉を返す。ジョニーは単に昨夜のどんちゃん騒ぎで体が気怠かったために普段より覇気のない声で言ったのだが、それを看守は観念したものと思ったらしく、脂ぎった顔で下品な笑い声をあげた。
「まあ精々そこで臭いメシでも食ってるんだな」
何がそこまで愉快なのか不思議に思うほど満面の笑みで捨てゼリフを残し、その看守はどこかへ消えていった。狭く薄暗いその部屋が静かになったところで、ジョニーは溜め息を漏らした。
「ふぅ……俺としたことが、とんだミステイクだぜ」
ジョニーも、まさか気持ち良く酒に酔っていたところで取り抑えられるハメになるとは思わなかった。折角クルーの――特にメイの追跡を逃れて解放的になれていたのに、すべて台無しである。なにより、この失態がクルー達に知られたら一体どうなることか。逞しくも姦しいクルー達は思い切りジョニーを責め立て、一週間くらい説教漬けかもしれない。
考えれば考えるほど空恐ろしいことになってきたジョニーは、とりあえず考えるのをやめて寝台に寝そべった。簡易なものであるうえにひどく痛んだそれは、ジョニーが体を横たえるとぎしぎしと音を立てる。
突然脚が折れたりしないだろうかと心配しながら、ジョニーはなんとはなしに自分の手を見つめた。骨張った己の手は別にどうこう変わりはないが、視界に映る袖が薄汚れたセンスの悪い色とデザインであることが、ジョニーにとっては気に入らないことだった。
「この最低なセンスは何とかならないもんかねぇ」
一応身だしなみに気を付けてお洒落を自負している(が、黒色ばかり選んでいる)ジョニーには、このダサい作業着のような服が不満であった。いつもは黒のコートに黒のズボン、更に黒の帽子を被り、サングラスを掛けるという黒ずくめの格好でクールにキメていたのだが、身に付けていたものはすべて没収されてしまい、ジョニーとしてはなんだか丸裸にされてしまったような気分だった。
体の一部と化していると言っても過言ではない愛用のサングラスがない目許を押さえ、ジョニーはこれからどうするかを考えた。ジョニーほど戦いに長けた人間にはこんなしみったれた牢獄ははっきり言って監禁の意味をなさない。出ようと思えばいつでも出られる。手段など無数にあった。だがそれを実行に移さないのは、脱獄した後に自分の首に掛けられる賞金が跳ね上がって行動に制限がかかることを懸念していたからだった。別にジョニーは殺人や麻薬などで指名手配されているわけでもないので、ここでしばらく大人しくして罪状を清算するという手もあり、デメリットを背負ってまで外に出る必要はない。
しかしもう一方で、早くクルーのもとに帰らなければならないという意思もある。心配を掛けるのは忍びないという気持ちももちろんだが、下手をすればあのパワフルなクルー達はジョニーを助けるために乗り込んでくるのではないかと戦々恐々としていた。警察を表立って敵に回すのは、流石にまずい。
さてどうしたものか…とジョニーは眉間に皺を寄せて目を閉じた。痛みの引かない頭ではまだ判断しかねる。
結論を急いでも仕方がない。体調が戻ってからまた考えるか。
ジョニーはそんな風に気軽に考えて、およそ衛生的とは言い難い寝台で眠りにつこうとした。だが、どこからともなく微かに聞こえてきた話し声に薄く目を見開いた。
「こんなもんで……だろう」
「いいや…もう少…」
「何言って…。…以上は……」
「……ならいいんだぜ?」
「……わかった」
意図的に抑えて話す二人の男の声に何か引っかかりを覚えたジョニーは、体を起こした。気配を完全に絶ち、ジュニーは鉄格子に近付いて通路の方を窺う。角に立っている二人の男が、かろうじて視界に映った。その男達は先程ジョニーを牢に入れた者とは違ったが、看守には違いない。この刑務所全体が薄暗かっこととあまりに遠い位置にいたために、その男達の顔は判別できなかったが。
会話……というよりは何かの商談に聞こえたその話し声はぴたりと失せ、片方の男がなにやらポケットから小さく白い袋をもう一人の男に手渡した。人目を避けるようにその袋を素早く受け取り、男は代わりに札束を支払う。互いに交換したものを確認した後、その二人の男はまるで何もなかったかのように言葉を交わすこともなくそれぞれ別の方向へ歩き去った。
「……麻薬か?」
妥当な線で考えるならそれが一番可能性が高いだろうと、ジョニーは冷静に推測した。多少違ったとしても、大きくは外れていまい。
興味が引かれるものがなくなり、ジョニーは再び寝台へと横になった。折角暇潰しになるかと思ったが、一瞬の出来事だったので大して面白くもなかった。しかし……やはり警察といえども腐敗は免れないものだなと、つくづく思ってしまう。これだから無駄に肥大した組織というものはタチが悪い。
「あ〜…。どうでもいいが暇だな」
ジョニーは頭をがしがしと掻き乱しながらぶつぶつと呟いた。
やはり寝るしかないかと思ったその矢先――誰かが近付いてくる気配がした。
ジョニーは身じろぎはせずに寝転がったままで、鉄格子の方へ視線を向ける。薄暗い向こう側から最初に現れたのは、揺らめく金と浮かび上がる柔らかな白。この薄汚い牢獄に相応しくないその清らかな色彩に、ジョニーは目を見張った。
それは紛れもなく人だった。だが、有り触れているはずの金髪はひどく細かく、クセはないものの少しの動きでふわりと舞う髪の一本一本が僅かな光を反射してたゆたっている。それが滑り落ちる額や頬はくすみ一つなく、雪のように明るさを持った白い肌で包まれていた。そして伏せ目がちでいるために長い睫が被る瞳は青のような緑のような、複雑で深い彩りをみせる。
下手に触れると壊れるのではないかと思うようなその細い体を持った人物は靴音を控え目に響かせ、迷いなくジョニーが入れられた牢の前まで歩み出て、ぴたりとそこで止まった。造形物のように整ったその外見はジョニーに中性的なイメージを持たせたが、体に纏った紺のマントとそこから覗く体、そして何をも射抜く鋭い瞳が、彼を男だと知らしめていた。
ここまでパーフェクトなのに、肝心の性別が間違っている。
男と気付いてジョニーは落胆が隠せなかったが、それでも不思議と目が離せない人物だった。
「こんな所まで何か用かい? ハンサムボーイ」
鉄格子を隔てて立つその男に向かって、ジョニーは先に口を開いた。こちらは寝転がったままでこの薄暗い中では眠っているようにも見えなくはなかったが、その男はジョニーが起きていることに気付いていたらしく、精巧にできた人形のような顔を少しも動かさずに平静なままだった。
しかしふとその柳眉が歪められ、形の良い唇が開いた。
「あなた、バカですか?」
「……は?」
凛とした心地好い声音が流れ出たかと思ったら、いきなりとんでもない言葉だった。あまりの予想外に、ジョニーは我知らず間抜けな声をあげてしまう。しかしその男は全くジョニーの反応には頓着せず、少々横柄なきらいのある眼差しを向けてきた。
「ジェリーフィッシュ快賊団をまとめる人物と聞いて多少は期待していましたが、失望させられましたよ。ジョニーさん」
明らさまに呆れたような溜め息を交えてそう呟いた男に、ジョニーは僅かに片眉を上げた。この男が一体何者かは知れないが、いきなり失礼なことを言われて流石にジョニーも気分が悪くなる。とはいえそんな揶揄ですぐに腹を立てるほど気は短くない。
ジョニーは体を起こして寝台に座り、綺麗な顔で刺々しい物言いをするその男を見遣った。
「いきなりバカとはマナーがなっちゃいないんじゃないか?」
「犯罪者のあなたにマナー如何を問われたくはありません」
いっそ冷ややかとも言えるその態度で、男はぴしゃりと言い放つ。先程の看守のような下世話さはないものの、威圧的なその口調はあまり気分のよいものではなかった。
突然現れて一体何なんだ、こいつは。
怒りが激しく込み上げる…ということはないが、妙な腹立たしさがじりじりと胸を焼いた。もともと二日酔いで気分がよろしくないこともあって、珍しく口調は不機嫌なものになっていた。
「それでアンタは一体何者で、わざわざこんな所まで来たわけだ?」
「あなた如きに名乗る名はありません。それに、ここへは間抜けな男の顔を拝みに来ただけです」
「そりゃまた、名無しのお巡りさんはお暇なこって」
煥発入れずに無表情で言い捨てる男に、ジョニーも憎まれ口で応戦する。羽織っているマントと襟元に付いているピンでこの男が警察であると遅れ馳せながら気付いたが、どうにもこういうユーモラスに欠けた人間は好きではない。
だが、その男は嫌味など全く気にした風でもなかった。その端正な顔は怒りも表さず、平然と皮肉を受け止める。
「言っておきますが、こちらは全く暇ではありません。ですからこんなところに長々といるつもり更々ないんです」
それではさようなら。
嘲笑めいた笑いを唇に乗せ、男はそのまま身を翻した。言いたい放題言って退散するつもりだと分かって怒りを感じなかったわけではないが、こういう皮肉屋にはもう何も言わないでさっさとお暇していただくのがベストだとジョニーは思った。だからそれ以上何も言わずにその細い後ろ姿を見送った。
しかし、
「……強い男だと聞いていたのに……」
ふと失望したような寂しげな呟きが、耳に届いた。全くと言っていいほど崩れなかった無表情の仮面がその一瞬だけ剥がれ落ちて、人形のようだった男の顔に色を持たせた……ように、ジョニーには思えた。
ただ上辺だけの嫌味や非難は職業柄、今まで散々浴びてきた。だが、心の底から失望されたのは……初めてだった。
最初からこちらをよく思わない連中は、ジョニーを侮蔑を含んだ眼差しで見る。逆にクルー達は信頼と期待の眼差しで見る。例え何か失敗したとしても、彼女達は根本的なところでジョニーを信じているのでよほどでない限り呆れて去っていくということはない。
だから、自分の窺い知らぬところとはいえ、期待を寄せていたこの男に失望されたという事実には衝撃を受けた。
そのせいかもしれない。ジョニーは咄嗟に口走っていた。
「本当にアンタにとって期待外れかどうか、自分で確かめてみたらどうだ」
「……!」
自分でも口に出してから初めて驚いたその言葉に、男も驚いた様子でこちらへ振り返った。すでに相手の耳に入った後で、何を馬鹿なことをとジョニーは一瞬で後悔する。
だが、歩みを止めてこちらを見るその男の表情には、心底驚いた。こちらを冷めた目で見つめていた瞳は零れんばかりに見開かれ、海底を思わせたはずの暗い青が明るさを増し、朝焼けの湖面のような鮮やかさを放つ。形の良い顎のラインを辿ると目に留まる薄く開いた唇は紅をうっすら差したように紅かった。白すぎた肌も少し明るさを増し、付け入る隙もなかった完璧さを欠いたがためにそれは、男を実年齢よりもひどく幼く見せていた。美しいだけの生き人形が魂を得て人間になった……そんな表現が当て嵌まる決定的な変化だった。
こんな表情もできたのか。
一瞬後悔したはずのジョニーだったが、いつの間にか掘り出し物でも見つけたような得した気分になっていた。
「それは……どういうことですか?」
蒼玉の瞳を瞬かせ、男は困惑気味に聞いてきた。僅かに小首を傾げた仕種で、金糸の髪がさらりと揺れる。
半身で振り返る男をなぜか完全にこちらへ向けさせてやりたくなり、ジョニーは立ち上がって鉄格子の前まで行って男との距離を縮めた。
「手っ取り早く、俺と手合わせしてみればいいんじゃないか?」
「手合わせ……ですか?」
おうむ返しに聞き、男はこちらに体ごときちんと向いてきた。それどころか恐れもなくこちらまで近付いてきて、手を伸ばせば触れそうな位置で足を止め、ジョニーを見上げてくる。その僅かにあどけなさを備えた表情が、少し怪訝そうなものになっていた。
「……牢に入っているあなたとどうやって手合わせしろというのですか?」
「アンタが鍵を開ければいい」
「まさか」
冗談でしょう、と男は苦笑を漏らす。口許に当てた手はとても自然で、嫌味な感じは一切なかった。
しかし話を軽く受け流そうという気配は感じたので、ジョニーは僅かに先回りして言った。
「もしやアンタ、負けるのが恐いのか? まあ、パーフェクトな俺に勝てる奴は草々いないからな」
「……何を言うんですか、失礼な」
からかうようにジョニーが挑発すると、男はムッとした様子でこちらを睨付けてきた。眉根を寄せたその表情は初めに彼が現れたときにした表情と同じであったが、目はどちらかというと生き生きしており、ジョニーに興味を示しつつあるのが分かる。表情の読みにくい堅物かと思いきや、根はとても素直なようだ。
失望されたままおさらばというのが癪に触って咄嗟に言い出したことだったが、ジョニーはなぜか純粋にこの男と手合わせしてみたくなった。身のこなしからそれなりの実力があるのは窺えるし、何より「殺し合い」のような殺伐とした闘い以外は久し振りだった。普段の活動では邪魔者を早急に排除することが最優先であり、駆け引きを楽しむ間もない。そしてクルーの一員であるメイと仕合いをするときはあくまで訓練であり、手加減は常である。
だからなのか、目の前の男を説得するジョニーの口調には熱がこもった。
「それとも、アンタは俺が逃げ出す可能性を考えてるのか? 生憎、鍵を開けてもらわなきゃ出られないようなボンクラじゃないんでね。本当にエスケープするつもりだったなら、俺は今ここにいないさ」
「それはつまり……逃げられるのに逃げるつもりがない、ということですか?」
「必要以上に犯罪暦を増やしたいとは思わないからな」
おどけて肩を竦めてみせるジョニーに、男は思案顔になる。しばし男は俯き加減で虚空を睨付けるように凝視して、それからちらりと周りを見渡した。
「……分かりました。お手並み拝見といきましょう」
不意にそう言い、男は決心のついた強い眼差しでこちらを見た。一点の曇りもなく真っ直ぐに自分を射抜いてくるその男に、ジョニーは機嫌良く笑う。
「よし。そうきてくれないと面白くない」
「私も半分は好奇心です。しかし監視者側の私がこんなことを仕出かすのだから、それなりの覚悟はしてもらいますよ」
つられたように、男も眼差しを和らげた。そして、そうと決まればとその場で片膝をついて鍵穴を覗き込む。
てっきり鍵を借りてきて開けるのかと思っていたジョニーがその行動に怪訝な顔をするのをよそに、男は鍵穴を検分してからそこに手をかざした。すると一瞬その手が淡く光り、続いてカチリと錠の開く音がした。
「魔法ってのはそんなことまでできるのか」
思わず感嘆の吐息を漏らしてジョニーが称賛すると、男は苦笑を零しながら開いた扉を押してこちら側に身を滑り込ませてきた。
「開錠するためにどこを弄ればいいか分かっていれば、あとは空気に圧力を加えて操作すればいいだけです」
ピッキングとそう変わりはありませんよ、と事もなげにいう男に、ジョニーはひたすら感心する。理屈では確かにそうではあるが、鍵穴のような小さなところに法力を集中させるのには相当な技術が必要である。攻撃として使用するには余波が大きくてもさして困らないが、こうした一点だけに作用させなければならない魔法はそうおいそれとできるものではなかった。多少は炎を使えるが未だに魔法に対して苦手意識の否めないジョニーにはとても真似できない芸当だ。
なんでもない風に牢の中へ入ってきた男は内側から再び法力で鍵を掛け、今度は壁の方へと歩み寄った。何をするのかとジョニーが無言のまま見守っていると、男は小さく発生させたかまいたちで自分の指先を切った。途端に繊細な白い手から血が溢れ出しきててジョニーを驚ろかせたが、男が平然とした様子でそれを壁に塗り付け始めたのを見て納得した。高度な魔法を使う場合、あるいはある程度広い範囲に魔法を発動・持続させる場合は陣を描いてそれを基盤とする。恐らくは結界の類いだろうと、ジョニーは推測した。
慣れた手付きで描いた陣に、男はこちらの様子を気にした風もなく何事か呟きながらそれに触れる。一瞬閃光が走り、膨れ上がった強力な法力が壁伝いに牢全体へと広まった。一時的にしか効果を発揮しないものとは違い、それらは四方の壁へと定着し、ジョニーに何か強大な力のど真ん中に取り込まれているような気を起こさせた。
軽々ととんでもなく高度なことをやってのける男を見遣って、実は分が悪かったのはこちらではなかろうかとジョニーは思った。得意の居合いに欠かせない自分の愛刀はもちろん手元にないのだから、体術のみで応戦しなければならない。目の前の男とは体格差があるのでそれだけでも余りあると思っていたが、これ程までの法力使いともなるともはやどうなるか分からない。
もしかして随分まずいことを言い出してしまったのではと冷汗を流すジョニーの方に、用事が済んだらしいその美麗な男は振り向いた。こちらと視線を合わすと、男は気の強い笑みを浮かべて羽織っていたマントを脱いで静かに床に置いた。
「防音と幻覚作用のある結界を張りましたので、どんなに暴れても音は一切漏れませんし、外から覗いてもあなたが寝ている姿しか見えないようになっています。……では、手合わせお願いします」
男はそう言うと右足を引き、利き手を自分の胸の辺りの高さで構えた。
――が、悪いがジョニーの耳にはその説明も手合わせの開始を促す声も届いていなかった。大袈裟でもなんでもなく、ジョニーは目を点にして目の前の男の姿を見つめる。
青いマントの下から現れたのは、冗談としか思えないほどの細い肩だった。白を基調にした詰襟の服から露出するその狭い肩は、脂肪どころか筋肉さえついていなさそうな危ういもので、そこから伸びる腕もすぐに折れてしまいそうなものだったのだ。体に沿って作られた服は胴回りの細さも強調し、女のようなくびれがない分、体全体がすとんと細い。どうやら先程まで羽織っていたマントには肩パットが入っていたらしい。この反則的な繊細な体を隠すには、確かに正解だった。
しかし今はそれを取り去り、その男は構えたまま真剣な眼差しでこちらを見据えている。姿形でどうこう言うのはジョニーの好むところではないが、本当に大丈夫なのだろうかと思わざるを得ない。この優男を自分などが殴って果たして平気なのか。
一体どの程度力を出せばいいのか悩むばかりで一向に構えを取ろうとしないジョニーに、男は不審げな眼差しを向けてきた。
「どうしたのです? 今更やめるとか言い出す気ではないでしょうね」
「いや……そのナリだと、法力使っても丸腰の俺と五分五分だなと思ってな……」
僅かの逡巡の後にジョニーが正直に意見を述べると、男は途端に険しい顔をした。
「私を馬鹿にしているのですか? 生憎、武器もないあなたに法力を使う気は最初からありませんよ」
「なんだって……?」
不愉快げに眉をひそめて言い放った男の言葉に、ジョニーは驚いた。その体で体術のみで戦うと言い出すは正直思わなかった。
しかし、悪いことは言わないからそれはやめておけとジョニーが言い掛けた瞬間、男が動いた。
「……!」
身のこなしはなかなかに素早い。
些か心の準備が出来ていなかったジョニーだが、男がこちらの間合いに踏み込んできたのを見て、こちらも一歩踏み出した。
こちらも打って出ることで距離感を掴みにくくさせたつもりだったが、男は的の広い腹部を狙って拳を繰り出してきたので、ジョニーは半身を引いてそれを紙一重でかわす。しかしそれが当たるとは更々思っていなかったらしく、男は煥発入れずにジョニーが体を逃がした方向から顔面目掛けてフックを仕掛けてきた。確かに先の回避によって次の行動が制限されるジョニーはその攻撃を腕で防ぐか、あるいは大きく飛び退いて避けるしかない。
意外にこの男は接近戦が何たるかを分かっているようだ。肉弾戦はただ闇雲に突進するのではなく、如何に相手の行動に制限をかけて次の手を読みやすくするかという緻密な戦いである。ジョニーは称賛するように楽しげに笑い、その迫ってきた細腕を男とは反対の腕で受け止めて即座に払った。それと同時に、相手の軸足に足払いをかける。しかもそれは通常のものではなく、擦り足で払いながらそれを軸に相手の懐へ踏み込むものだった。
如何にジョニーの方が力が上回っていようと、足が地に着いている分だけ力は分散されるうえに、それを受ける男の足も軸足であるため、完全に払い切ることは出来なかった。だが、衝撃でバランスを崩して男の体が傾いだその瞬間が大きな隙となり、ジョニーは上半身を軸足に乗せて前へ滑らせると同時に拳をたたき込んだ。しかしそれは男の腹部に掠りながらも決定的なダメージを与えることが出来ぬまま回避されてしまった。不安定な体では思うように動けないはずだが、男はジョニーと擦れ違い様に斜め前に体を投げ出すという尤も単純な動きで避けていた。
後ろに倒れるのは危険だが、前方ならば確かにまだ動きやすい。とはいえその大きな動作は例え受け身を取ってもすぐには動けない。こちらが向きを変えて拳を振り下ろす方が早いだろう。
ジョニーは前へ余分に踏み出しかけた足を止め、拳を固めながらその場で男の方へ振り返った。
が――、
「ッ……!」
突然跳ね上がった男の足が、下からジョニーの顎を叩いた。どうやらこちらが追撃に出るのを予想して、男は完全な受け身を取らずにうつ伏せのまま足を振り上げたらしい。
予想だにしなかった反撃にジョニーが怯んだその一瞬で男は態勢を立て直し、拳を前に構えてこちらに踏み込んできた。不意打ちではあったものの大して強くもない一撃はすぐにジョニーを立ち直らせ、懐に飛び込んできた男の手刀を軽々避けた。ついでにと、ジョニーは自分の肩口を通り過ぎた細い腕を掴み、引き寄せる。男が微かに驚いたような顔をし、それを間近で見たジョニーは小気味良く笑いながら鳩尾(みぞおち)に拳を叩き込んだ。
「っぅ……!」
重い一撃に、男が苦しげに息を吐く。普通ならば気絶していてもおかしくはないのだが、咄嗟に腹に力を入れたらしく、男は衝撃に耐えた。
しかしやはりその細い体ではこたえたのか、動きが止まり、こちらの追撃を容易にさせた。とはいうものの、同じ場所をもう一度叩くのもその端正な顔を殴るのも気が引けて、ジョニーは男の腕を取ったまま両足を払った。
ちょうどそこにあった寝台に、男が背中から倒れ込む。かなり焦った様子でこちらを見上げるその男が起き上がれないように、ジョニーはその上に伸し掛かった。だが、足を押さえたところで男が反撃に出てくる。捕まえている方とは反対の腕で、こちらの喉を狙って拳を突き出してきたので、ジョニーは咄嗟に体を退けてぎりぎりでそれが届かないように回避した。――と、それは概ね成功に思われたが、男は腕を伸ばし切ったところで固めていた拳を解いて指を突き出してきた。男の腕を掴んだままであったことが災いし、ジョニーは長い指の分だけ伸びてきたその距離を後退することができず、指先で喉を突かれる。
「ぐっ……!」
一瞬咳き込みかけたジョニーは咄嗟にそれを耐えて、男を押さえ付ける方を優先させた。安全に戦うのも確かに賢い戦い方ではあるが、時には思い切った行動にでなければ決定打は与えられない。
自分の痛みは無視して掴んでいる腕を力任せに引っ張ったジョニーは、男をうつ伏せに叩き付けて上に伸し掛かり、暴れる両腕を後ろ手にぎりりと締め上げた。
そのとき、ジョニーは加減を忘れて本気で力を入れてしまっていた。容赦のないその力に、細い体は大きく跳ねて男に悲鳴を上げさせた。
「んっ……ああッ!」
「!」
零れた声は確かに苦痛を訴えたものだった。だが、ただの悲鳴にしてはやけに艶かしいものだったので、ジョニーは一瞬どきりとして、思わず男を押さえていた手を緩めてしまった。
それに気付いた男がこちらの手を払い、拳を振りかぶるのと、しまったとジョニーが焦ったのはほぼ同時だった。
ごつッ!
「いッ…て!」
鈍い音をさせてこめかみに走った衝撃に、ジョニーは寝台から転げ落ちた。思わず痛む頭を押さえてジョニーが男の方へと目を向けると、男は細くしなやかなその体をしどけなく開いたまま、上半身を少し起こしてこちらを見つめていた。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
こちらを気遣うように、男は恐る恐る声を掛けてきた。その頬は先程の戦いで上気して紅く染まっており、薄く開いていた唇からは荒い息が漏れている。僅かに乱れた金髪はもちろん暴れたせいであったし、潤んだ大きな青い瞳は痛みで生理的にそうなったものだったろうが、それにしても色艶のあるその姿に、ジョニーは頭の痛みも忘れて動揺した。
野郎なんかに何を見惚れてるんだ。
胸中で詰ってみるものの妙な気分はなかなか抜けきらず、ジョニーは頭を振った。変な勘違いを起こさせるのはこの男が女のように綺麗すぎるせいだと、自分を無理矢理納得させて、ジョニーは至って何でもない風を装って目の前の男に苦笑いを浮かべて見せた。
「流石にちょっと効いたが……あれくらいノープロブレムだ。それよりお前さんの方が痛かったんじゃないか?」
そう聞くと、男もこちらと似たような苦笑いを浮かべて完全に体を起こした。
「ええ、まあ少し。でも手合わせなのだから当然ですし……それよりも」
男はふと真剣な面持ちになり、寝台から下りて床に腰を下ろしたままのジョニーに目線を合わせて膝を付いた。一体何をする気だろうかと目を瞬いたジョニーの前で、男は深く頭を垂れる。
「申し訳ございませんでした。あなたは噂以上にとても強かった……。先程の私の失礼な態度をどうか許して下さい」
「え、おい。そこまで謝らなくても……」
いきなり謝罪を述べられ、ジョニーは驚いた。むしろ予想以上に強かったのは男の方であったし、失礼な言葉を投げたのはジョニーの方も同様であったのだからお互い様といえよう。
なのに頭を下げたまま顔を上げようとしないので、ジョニーは慌ててその細い肩を叩いた。
「俺もつい噛みついちまって大人げなかったからな。そんなに気に病むなよ」
失礼な奴だと思い込んでいたが、相手の実力は素直に受け止められる純粋なところがあるのだと分かって、ジョニーはその男の形の良い顎を持ち上げて上を向かせた。心地好く滑らかな顎をくっと持ち上げてこちらに向けさせたその顔は微かに驚いているようだった。睫の長い瞼をぱちぱちと瞬かせながら、男はジョニーと視線を合わせ――花が咲いたように表情をほころばせた。
「そう言ってくださって、ありがとうございます」
柔らかく細められた瞳が熱を持ってこちらの視線に搦め取り、赤みの差した唇が形よく微笑みを作って言葉を紡ぎ、視覚でも聴覚でもこちらを甘く侵食する。
それに思わずジョニーは目を瞠ったが、彼はそれを意識してやったわけではなかったらしく、次の瞬間には真顔に戻り、ジョニーのこめかみへと触れてきた。
「痛みが完全に消えるわけではありませんが何もしないよりはマシだと思いますので……じっとしていてください」
男はどこか子供をあやすような口調でそう言い、戸惑うこちらの様子など気にした風もなく魔法で治癒を始めた。
この男はなんて多くの表情を持っているのだろう。ジョニーは感心したように間近の端正な顔を見つめていた。最初は表情が乏しいがために人形のようにしか思えなかったのだが、驚いた顔、心配そうな顔、安心してほころぶ顔……ほんの僅かの時間で目まぐるしく変化していった。それは警察官としての彼ではなく、彼個人としての彼自身の持つ顔なのだろう。
男は好みの範疇ではないが、まあ彼ならばそんなに悪い気はしないと、ジョニーは思った。手合わせをして何となくこの男の本質が見えたような気がしていた。
魔法で傷を癒そうとするその男に、ジョニーはふと笑いかけた。
「いや、そこまでしなくてもいいさ。放っとけば治る」
「でも、私の責任ですから……」
「それよりも、名前を教えてくれないか?」
礼を言うにしても呼びようがないからなぁ。
冗談めかしにそう言いながら、ジョニーは男の手を取って立ち上がらせた。きょとんとこちらへ向けられた青い目が、ああ本当だ!と見開かれる。
「私の名前はカイ=キスクです。ジョニーさん、お手合わせしてくださってありがとうございました」
その男――カイはそつなく微笑を浮かべて、ジョニーに握手を求めてきた。少々事務的な口調に戻り、勇ましく上がった眉は気の強さを表して、また初めのときのような厳しい雰囲気を漂わせたが、こちらを見下すことなく、同じ視線で見つめてくるその目は気分が良かった。頭を下げてきたときのような柔和な表情にも見惚れたが、こういう強い眼差しも嫌いではない。
最初は気にくわない気にくわないと思っていたが、なかなかどうして根は悪くない。むしろ自分の好むところだろう。
ジョニーはふっと満足げに笑い、差し出されたカイの手を握った。見た目通りのその細い手は強く力を入れると壊れてしまいそうに思うが、先程の一戦でそうでないことはよく分かった。腐り始めていると思っていた警察にも骨のある奴がいるようで少し安心する。
そういえば、腐り始めているといえば……。
「アンタ、ここの看守が何してるか知ってるか?」
「え?」
握っていた手を解いて、ジョニーはふと神妙な顔つきでカイを見た。無意識に眉が寄って不愉快げな表情になったジョニーに、カイは良い話ではないとすぐに察して微笑を引っ込める。
「もしかして……何か見ましたか?」
「ああ、ちょっとな……」
カイに会う前にちらりと見た二人の看守のやりとりを、ジョニーはかい摘まんで伝えた。すると、じっとこちらの話に耳を傾けていたカイが、ジョニーが話し終わるのを見計らったように一つ溜め息をついた。憂いを帯びたその青い瞳が、金の睫の間で揺れる。
「話してくださってありがとうございます。恐らくそれは推測通り、麻薬の取引でしょうね」
「おいおい……まさか俺の話を鵜呑みにする気か?」
俺はアンタらから言わせたら犯罪者なんだぜ?とジョニーは肩を竦めて言うと、カイはくすりと笑ってみせた。
「根も葉もなくなく信じようというわけではありませんよ」
「……となると、何かあったってことか」
確信を強めて問うと、カイは僅かに顎を引いて頷く。
「あまり詳しく言うとこちらの恥になるので言えませんが……そういう疑惑が複数」
複数。そう言うカイに、ジョニーは表情を険しくした。他人の寄せ集めのような組織では、やはり簡単にはいかないのだろう。この真面目そうな男は特にそうした不正を見過ごせないタイプのように思えるので、気苦労が絶えないに違いない。ジョニーが持つジェリーフィッシュ団は皆が損得なしに助け合い、一緒にいることを互いに望んでいる集団だ。仕事をこなす仲間であると同時に家族であるため、喧嘩はあっても裏切り行為などというものは考えたこともない。
しかし普通の社会団体はそんな風にはいかない。一物腹に抱えたような連中がいる組織では、信頼しきることはできないだろう。そうした情に欠けた世界に嫌気が射してジョニーは自分がよしと考える独自の世界を作り上げたが、カイは従来のその世界で生きている。
しかも、強く――生きている。
「内部のこととはいえ、悪事を黙って見過ごすのは性に合いませんからね……。早めに証拠を挙げてしまってなんとかしたいと思います」
口端が形良く上げられたかと思うと、青い瞳が鮮やかに光を取り込んできらめいた。その強い眼光を秘めた優男に、ジョニーは眩しげに目を細める。少しでも世の中を良くしようとするその姿勢はまさに快賊団を作ることを決心したあの頃の自分と同じだった。
志は同じなのだ。ジョニーは自然と笑みを浮かべていた。
「他に何か俺に出来ることがあるんなら聞くが?」
「手伝ってくれるんですか?」
「囚人の身でよければな」
センスの悪いつなぎの服を示しながらジョニーはおどけて言った。この姿では精々おとなしく牢に入っているしかないのは分かっていたので、正直、返答は期待していなかった。
だが、目の前のカイは手伝うと聞いて、顔を輝かせた。
「本当ですか!? ではご協力お願いします」
「……ん?? 俺にできることなんてあるのか?」
「はい」
囚人の身でしかできないことですから。
カイはどうにも食えない笑みを浮かべて、得意げに言った。


麻薬の類いが刑務所所属の人間の間で出回っているのは知っていた。そしてそれが上部にも入り込んでいて、検挙しづらいことも知っていた。
下をつついたところで出てくる膿みはたかが知れている。それでもまだ健全な者にまで影響を与えかねないと思うと、やはり叩かざるを得ない。そう思ったカイは、即、行動した。
ジョニーのような人物に会えたのは本当に幸いであった。そうでなければカイはこんな無茶なことを出来なかっただろう。
「大丈夫か?」
「ええ…、まあ……」
カイのすぐ背後から投げかけられる気遣いの言葉に、カイは曖昧に頷いた。もちろんそれが嫌だというわけではないが――カイにとって少し誤算だった。
今までに、信頼できる上司や同僚やらと刑務関係の腐敗については調べ上げていた。だが、検挙するにはいま一つ足りない。職場を強制捜索しても構わなかったが、どうやら別の所が拠点のようで、刑務所での取引はただの経由点に過ぎないらしかった。早く根本を潰したいがそれもなかなか上手く行かず、ならばせめて警察機関内からは排除しようと躍起になっていた。
小さな証拠はすでに集まっている。あとは如何に逮捕するか。一番手っ取り早いのは現場を押さえることだろうとカイは思った。しかし行動に出るのは自分一人にしようと思っていた。上にも繋がった内部告発は、下手をすると地位の低い者の肩身を狭くしかねない。カイならばある程度顔が利くし、何より「英雄」と言われたカイを上層部がみすみす切り捨てられるわけがない。その辺りの弱みを突くためにも単独行動が望ましかった。
そう覚悟してみたはいいが、実際に一人だとやれることはどうしても限られる。現場を押さえるにしても潜入するだけで一苦労だろう。そう思ったカイは、ジョニーの牢屋で隠れて機会を待つことを考えた。牢以外には隠れる所もない刑務所ではそこ以外に身の隠しようがないからだ。とはいえ普通の犯罪者に協力を頼んだところで、自分の身が危ういだけ。そこで……信頼できそうなジョニーなら協力を頼めるのではないだろうかと考えた。
ジョニーが犯罪者であることには変わりない。ベルナルドに話したときにも、危険だと言われた。自分でも上に立つ身が何をやっているのだと思っている。
しかし手合わせしたときに、カイはジョニーを信頼に足る男だと認めた。そもそも彼ほどの実力者なら、牢から逃げ出す方法など無数にあっただろうに、そうはしなかった。手合わせのときもこちらが痛がった時点で勝負を止めてくれていた(にも関わらず反射的に殴ってしまったのはカイの落ち度である)。そういう紳士的なところは噂でも聞いていたくらいなので信用できるとカイは判断した。
だが……信頼できすぎるのも問題だと、後から気付いたカイだった。
「あの……やっぱり私、ベッドの下に隠れますので……」
「アンタだってここが牢屋ってことくらいは分かってるだろ。そりゃもうデンジャーなくらい不衛生なんだぜ?」
「そ、そうかもしれませんが……」
だからと言ってこの態勢はないんじゃなかろうか。
口には出さずに胸中で呟きながら、カイは僅かに身じろぎした。動いたことで質素なシーツに皺が刻まれ、自分の腰を押さえる太い腕と背後の大きな存在を嫌でも感じてしまう。背中どころか、しっかりと回されたその腕のせいで体全体を暖かく包まれているような錯覚に陥り、カイは眉をひそめながらも顔を赤らめた。
そう。実はこの狭い寝台の上に、ジョニーとカイは寝ていた。最初、カイは寝台の下で隠れさせてほしいと頼んだのだが、ジョニーが汚いからやめろと言ってカイをシーツの中に引っ張り込んだのである。確かにジョニーが通路側に身を置いて奥にカイが横たわれば、カイの細い体はジョニーの体で隠れてしまう。ジョニーが通路側に背を向けて壁を作り、さらにシーツを被れば完璧だろう。
しかし、この激しい密着状態はなんとかならないものか。ジョニーに背後から抱き締められた状態で、カイは現状から逃れるための言い訳を必死で考えていた。
「不衛生なのは確かですが、これは私の仕事なので……あなたにまで迷惑を掛けるわけにはいきません」
「さっき下を覗いてみたらネズミの死骸があったぜ。ついでにこの部屋でゴキブリも見かけたな」
「うう……っ」
ぽそりと嫌なことを言われ、カイはあえなく反論の余地をなくした。言葉に詰まるカイにジョニーは面白そうに耳元で笑い、こちらの腰を捕らえた腕に力を込めてくる。強すぎることは決してないが、こちらが身動き取れないくらいにぎゅっと抱き寄せられ、カイは手持ち無沙汰な両手を祈るような形で組んで背後の存在をこれ以上感じないように努めた。それでもジョニーの吐く息が首筋に当たるので、カイはなんとも言えない落ち着かなさに困惑の色を浮かべる。
カイの体が強張っていることに気付いたらしいジョニーが、空いている方の手でカイの頭を抱え込むように撫でてきた。
「やっぱ信用できない、か?」
からかうような、だがどこか困っているような声音で、ジョニーは聞いてくる。
カイはその言葉に、慌てて首を振った。
「そんなことはありませんっ! た、ただこの態勢がどうにかならないかと……」
「ここ以外に隠れる場所なんかねぇんだから仕方がないだろう」
ジョニーの尤もなことを言われ、カイはう〜と小さく唸って押し黙る。
理屈は分かる。だが、なぜかひどく落ち着かないのだ。居心地がいいのか悪いのかも判断がつかないくらいにそわそわする。今までにこんな経験などしたことがなかっただけに、カイは戸惑いの色が隠せなかった。
「あ、あの…でも」
「待て、しゃべるな」
なおもカイが言い募ろうとしたとき、突然ジョニーがカイの口を手で塞いできた。それに一瞬驚くが、通路の方から足音が聞こえたのでカイは押し黙った。
「……」
コツコツと緩やかな足取りで、誰かが近づいてくる。十中八九、見回りにきた看守だろう。
息を潜めて二人はそれが通り過ぎるのを待った。しかし、ジョニーがカイを引き寄せるように抱き締めてきたときにその骨張った手が腹部に触れ――カイは思わず声をあげた。
「痛……ッ」
「――ん?」
鳩尾辺りに走った痛みに、カイはびくりと体を跳ねさせた。ジョニーもカイ自身も驚いたその小さな悲鳴が耳に入ったのか、看守が鉄格子の向こうで足を止める。カイは目を見開いたまま思わず硬直した。
不審に思ったらしい看守が、足を止めたままでこちらを鉄格子越しに覗いてくる気配がした。カイは口を引き結んだまま、どうしようと目をさ迷わせる。ジョニーと手合わせしたときに殴られた溝落ちの痣が消えていなかったため、それに触れられて思わず苦痛の声をあげてしまったのだ。
こんなところで見つかってしまったら、本来捕まえるべき相手に逃げられてしまう。どうか勘違いであったと看守が思い込んでくれたら……。
そう思っていると、不意にジョニーがカイの腰を抱いていた手を上げ、看守に背を向けたままひらひらと手を振った。気にしなさんな、と言いたげなその動作に目を止めた看守が、溜め息をつく。
「早く寝ちまってくれや。俺は眠ぃんだ」
「ああ、悪かったな」
欠伸を噛み殺しながら面倒そうに呟いたその看守はそう言い残すと、そのまま歩き去っていった。
靴音のよく響く通路から看守の気配が消えてから、ジョニーがほぅ…と安堵の息を吐いた。
「……あ〜、一瞬ひやっとしたぜ。いきなりどうした」
「す、すみませんっ。なんでもないんです」
カイは慌てて首を振って胡麻化す。自分の落ち度で受けた傷が痛んだからだとは、少し情けなくて言えなかった。しかし、カイがそうやって取って付けたように苦笑いをしていると、突然ジョニーが体を起こしてこちらを覗き込んできた。
「なんでもないってことはないだろ」
「ちょっ、ちょっと……!?」
カイは有無を言わさず寝台の上で仰向けにされ、その上にジョニーが覆い被さってきたので流石に驚いた。慌てるこちらのことなど気にした様子もなく、ジョニーはカイに体重は掛けないようにしながら、シャツの裾を捲ってくる。カイはその不可解な行動を止めさせようと焦るが、看守に見つかる可能性を考えるとジョニーを強く押し退けることもできず、結局腹部辺りをおおっぴらに捲られてしまった。
その晒された部分に視線を落としたジョニーの目許が僅かに険しくなった。
「あのとき殴ったせいか……痣になってるな」
ぼそりと呟かれたその言葉に、カイは途端に羞恥で顔を赤くした。こうして刑務所に潜入する前、準備のためにカイは服を黒系のものに着替えていたのだが、そのときに鏡で見た青い痣を目の前のジョニーに見られているかと思うと、無性に恥ずかしい。同時にその跡がジョニーとカイとの間にある力の差を示しているようにも思え、情けなくもなる。
居たたまれない気分になって、カイはジョニーの手を押さえ付けた。
「ちょっとっ。もういいでしょう?」
自分の上に伸し掛かっている男の存在が強く感じられて、カイは困ったように視線をさ迷わせる。痣の具合を見られているとはいえ、こんなにも近い距離で見つめられるのは心臓に悪かった。
ジョニーはカイが嫌がると、すぐにその手を離した。しかし、今度は代わりに腕を掴んでくる。
「こっちも捻ったか?」
「えっ。いえ別に大丈……痛ッ!」
いきなり体を半分起こされ、腕を後ろ手に回されてカイはぴりっと走った痛みに顔をしかめた。
それを見て、ジョニーはこちらの腕を引き戻し――何を思ったか、袖を捲くって白い手首に唇を寄せてきた。途端にカイの顔は真っ赤になる。
「……なッ、なッ、何をしてるんですか……ッ!」
「少しでも痛みが引くかと思ったんだが」
痛い痛いの飛んでいけってよく言うだろう?
明らかに面白がっている目でしれっと言うジョニーに、カイは目を丸くし、次いで馬鹿にされたことに怒りが込み上げる。しかしカイが口を開く前に、ジョニーはさらにそこへ口付け始めた。
「わわ! や、やめてくださいッ」
うっすらと捻られたときに付いた痣の上を、ジョニーの薄い唇が滑っていく。それに慌てたカイは、それを止めさせようとジョニーを押しやるが、あまりはっきりと抵抗できないこともあって動きを阻めなかった。
こうして側に居られるだけでも心拍数が上がりっぱなしだというのに、恭しく甲にまでキスをされては体の芯まで羞恥で熱くなってしまう。
よく分からない自分の体の反応に戸惑ったカイが思わずぺしっとジョニーの頬を軽く叩いて拒んでいると、チリン…という微かな音が響いた。
「……!」
「始まったみたいだな……」
二人はふと動きを止めて、涼やかな音を鳴らした小さなメダルに目をやった。そのメダルは普段カイが通信用で使っているものとは違い、もう一つ対になるメダルの周辺に特定の物質が近付いた場合だけに音を奏でる装置である。事前にめぼしい場所に片方のメダルを5つ設置してあったので、今はそのうちの一つが赤く点滅して反応をしていた。
それを見て、カイは体を起こした。上に伸し掛かっていたジョニーも体をどけて寝台から降りる。
「どこら辺なんだ?」
「奥の資料室のようです」
カイはあくまで小声のまま端的に答えを述べると、寝台から降りた。
刑務所及びそういった刑罰権を持つのは国である。国際犯であろうといずれかの国でその身柄を拘束することになるのだから、管理はその国の責任のもとに行われている。あくまでも国際警察機構に所属しているカイは今回、自分の母国の怠惰を摘発することになるわけである。
犯罪であるから逮捕は当然、とは思うものの、内部告発のようなことはあまりいい気分はせず、カイは僅かに沈んだ気持ちのまま、服の乱れを整えた。
「ではジョニーさん、ご協力ありがとうございました」
微笑んで、カイはジョニーにその場で頭を下げた。ここから後は警察である自分が為すべき仕事である。一般人――特に囚人の身であるジョニーには協力を願えない。
一応カイの信頼できる部下を数人国際警察機構本部に待機させているので、よっぽどのことがなければ問題はないはずだ。そう思い、カイは鉄格子の鍵を法力で開けて通路に出ようとしたが、後ろからジョニーがついてきていることに驚き、慌てて長身のジョニーを無理矢理中へ押し戻した。
「一体何をしているんですか、あなたは」
「いきなり仲間外れとは流石にショックだな」
あくまで軽い調子でジョニーは言う。しかしその目が真剣であることには気付き、カイも眼差しを鋭くした。ここは、こちらが折れるわけにはいかない。
「仲間外れではなく、当然のことです。私にしか彼らを捕まえる権限は与えられてないんですから」
「だが、手伝いくらいはできる」
「駄目です。あなたはここで大人しく……っ!?」
言葉はそこで途切れた。ジョニーによって軽く拳を当てられた鳩尾に痛みが走り、カイの体が傾ぐ。それをさり気なく支えたジョニーが、悔しげに睨んだカイの視線を余裕の表情で受け止めた。
「無理をしないことがベストだ。一人で背負い込んでもメリットはないぜ?」
「あなたは本当に……自分が犯罪者という認識はあるんですか?」
背中に回される腕を軽く叩いて拒みながら、カイは目の前の男を呆れたようにみやった。なんとも甘くて情に厚い男である。
非難を含んだ青い瞳に、ジョニーは持ち前の渋く大人びた顔を少年のような楽しげな笑みで満たした。
「犯罪者という認識はしているが、意識はしてないな」
「は……?」
軽く片目を瞑ってみせるジョニーを、カイはぽかんと見つめた。だが次の瞬間、その言葉の意味を理解して、カイは何とも言えない表情で笑いを漏らしていた。
「は…、ぁははっ。そうですね、あなたは間違ったことをしているという意識は持っていませんよね」
だから、義賊なのだ。法律に違反していようと、彼らは彼らの思う正義で動いている。
そして自分も然り。
法に則って動きはするものの、組織に依存しない自分は腹黒い狸連中から言わせれば裏切り者だろう。
だが、それをやめる気はない。間違いも挫折もあるだろうが、自分の信じることを貫くことが自分の生きるべき道だと思っている。そしてそれは彼も同じこと。困っている人がそこにいれば、彼は迷わず助ける道を選ぶのだ。
ジョニーの志が自分と同じであることに気付いたカイは、この男の申し出を断ることは出来なかった。
「仕方がないですね。でも、派手な行動は控えてくださいよ? あとであなたが協力した事実をもみ消すのは面倒なんですから」
諦めたように大仰なため息をついて、カイは釘を刺す。子供に注意を促すようなそのカイに、ジョニーは肩を竦めてみせた。
「事後処理は優秀なポリスに任せればオーケーだからな。俺は好きにやらせてもらうさ」
「ちょっとッ!」
はははと陽気に笑ってジョニーは、先頭を切って歩き出す。その後ろを怒ったように追ったカイの胸の内に、もう翳りはなかった。























その後、仕事は概ね問題なく片付いた。麻薬取引の現場を抑えられ、関係者の人間はどう足掻いても罪を免れることはできなくなった。逃げ出そうとした数人もジョニーの活躍により無事に捕まえられ、部下達によって全員連行された。
むしろそのあとの、穴だらけになってしまった人員の席を埋めるのに大変だった。腐敗してはいけないと思い、規律を増やしてまともな人材を補給するのに大きな手間を割いたのだ。
そうして新しい風が吹き込んだ刑務所は実際どうなっただろう。そう思ってカイは数週間後に再び義賊の男のもとを訪ねたのだが……。
「いや〜、あのネエちゃんは本当に激マブ(死語)だった! こんな囚われの身じゃなければディナーに誘ってたのにな」
「……」
「それで、そのまた友達も結構好みでなぁ。あの色気がたまらないんだ」
「……」
「アンタにはホント感謝してるぜ? 看守にレディーを大幅に採用するってのはナイスなアイデアだった」
「……」
「こんなシケた牢屋でも、毎日がこんなに楽しいなんてなぁ」
「……それは良かったですね」
カイは、目の前でご満悦になっている男の話を黙って聞いていた。
聞いている限り、確かに刑務所内の雰囲気はカイの予想以上に改善したらしい。それに伴って囚人達の態度も少し大人しくなったとも聞いた。
しかしなぜだろう。こんなにも面白くないのは。
カイはムスッとした顔をしながら、陽気に話し続けるジョニーを眺めていた。話はほとんど聞き流している。なにしろさっきから女性関係の話ばかりなのである。
普段は興味のない話をされてもそれなりに愛想良く相づちを打つのだが、なぜだか今はそんな気も起きない。不機嫌が顔に出ているのを自覚しながら、カイはもやついた胸を抱えていた。
しかし、カイにはこの不快の原因がさっぱり分からなかった。
「……どうした? ぼーっとしてるが」
「いえ……そんなことはありませんよ」
ふとカイの方をまじまじと見つめてきたジョニーに、カイはにこりと愛想良く笑って見せた。一応、先日の件を話すために個室を借りて向かい合っていたので、カイの表情があまりよくないことにジョニーは気付いてしまったのだろう。
だが、この不可解な気持ちはジョニーと関係ないのだから、余計な心配はかけたくない。カイはそう思っていつも通りを装った。
「他に何か、気になったことはありませんでしたか?」
「いや、特にはなかったな」
「そうですか」
即答で返ってきた返事に、カイは微笑みを浮かべて頷き、席を立った。それにジョニーが、もう帰るのかと驚きに目を見開く。だが、カイはそれに気付かなかったような態度で無視した。
自分は一体なんのためにここへ来たのだ。
そんなお門違いな不満が胸を満たし、カイを戸惑わせた。そして同時にその場から早く離れたいとも思わせた。ここにいてジョニーの話を聞き続けていたら、きっともっと気分が悪くなる。……理由はなんだか分からないが。
さっさと部屋を出ようと、カイは扉に向かった。しかしその腕を、ジョニーに掴まれて引き留められる。
「なぁ、アンタはレディーの話が嫌いかい?」
「え……。い、いえ…そんなことはありませんが……私には関係のないことですから」
不意に聞いてきたジョニーに、カイは曖昧な笑みを浮かべて言葉を濁した。嫌がっていることがそんなにも態度に出ていただろうか。
謝るべきであろうか?とカイが逡巡していると、ジョニーはこちらの様子など構わずに再度言葉を重ねてきた。
「恋ってのはいいもんだぜ?」
「はぁ……。そう言われましても、今はそれどころでは……」
ないんです。
そう言おうとしたカイの言葉は、発せられることはなかった。唇に押し当てられた柔らかいものに封じられてしまい、カイはそれを不思議に思って目を瞬かせる。
……?
カイには咄嗟に自分の状況が把握できなかった。何が触れているのか、想像もつかなかった。だが、目の前で思わず見惚れるような鮮やかな笑みを浮かべるジョニーの顔を認めて――唐突に状況を理解した。
バキッ!
反射的に振るった拳が見事にジョニーの横面を殴打し、鈍い音が部屋にこだました。そしてカイは殴りつけた相手も省みずに脱兎の如くその場から走り去った。
一体今のはなんだ。一体なんだったんだ!
廊下をばたばたと駆けながら、カイは紅潮した顔を晒して混乱していた。しかし何度考えても導き出される答えは同じだった。
唇と唇を合わせてすることなんと呼ぶのか……。
分かりきってはいたが、それを認められるほどにカイはそういうことに関して免疫がなかった。
カイはその日、ジョニーにキスをされてからずっと、パニックに陥ったままだった。




「……ててッ」
部屋に取り残されたジョニーは、思い切り腫れてしまった頬を押さえて眉をひそめていた。ぽつんと男一人が虚しく残されるなど、ヒーローの条件にそぐわない。
「なにも本気で殴ることはないだろうに」
しかも、殴られた箇所がずきずきと傷む。情けないことこのうえない。
しかしなぜだろう。ジョニーは、笑えて仕方がなかった。
「ああ、だから恋ってのは楽しいんだ!」
ジョニーは額を押さえながら、その場でひとしきり笑い続けていた。


どうにもヤバイそうな恋に出会っちまったみたいだ。
流石のヒーローも、ピンチか……?











END