ACCEDE (Side Terry)





夜の屋外は視界が悪い。湿気を帯びた空気は生暖かく、肌にねっとりと絡み付く。
その不愉快の中でも、感覚はいやに鮮明だった。
不意に、体重を乗せた全力の拳が叩き付けられる。受け止めた肘は軋みをあげて神経を痺れさせた。その痛みにロックは思わず眉をひそめるが、間髪入れずに繰り出された逆手の攻撃を即座に掌で弾き返した。
しかし立て続けの猛攻撃は後退を余儀なくされる。
それは果たして、全力でなお力が及ばなかったからなのか、それとも気の緩みで隙があったからなのか。あるいはもしかすると、その気迫に押されて、だったのかもしれない。
いずれにせよ、一瞬で自分は絶壁へと追いやられた。
(はは……っ、強ぇ)
回し蹴りを腹筋で受け止めながら、まるで他人事のように暢気な感想を抱く。実際、彼の踏み込む足音も荒い息遣いも耳にはあまり入らなかった。高揚が過ぎれば、自分の脈打つ鼓動で雑音も背景も遠ざかる。
ひたすらに見据えるは、精悍な顔が怒りに染まる様。ディープブルーの瞳が光彩を取り込んで、獣の野性を剥き出しにする。
(ああ……アンタはなんて無様で滑稽で、綺麗なんだ)
嘲笑と賛辞をないまぜにして、ロックは笑みを浮かべた。大技を繰り出そうと気を高め、彼が拳を振り上げる。態勢の崩れた今は、反撃も防御も間に合わなかった。
彼は高らかに叫ぶ。
「パワー、ゲイザァーッ!」
収束した、ゾッとするほどの気の塊が、地面から噴き上げた。何度も身に受けた衝撃が全身を襲う。こんな時に一番彼の存在を感じるのは皮肉なものだと、後方に吹き飛ばされながら思った。
(俺は……死ぬのか)
確認するまでもなく、後ろに床はない。サウスタウンで最も高いビルの屋上だ。
衝撃のまま背にぶつかった木製のサクは、容易く砕けてロックの体を宙に投げ出した。
ああ、なんて呆気ない。だが、未練があったような、なかったような。意外にも、人生への執着はそんなものだった。
風が脇を摺り抜けて、体を跳ね上げていく。足が浮き上がり、顎が後方へ反った。乱れた前髪の間から、一瞬だけ夜空が見えた。
(月だ……)
白い輝きが、残像を残して目に焼き付いていく。見上げればいつでもそこにあった妖しい光が、今この瞬間はひどく穏やかで温かなものに感じた。
(そうだなぁ、あんたにとっては俺の人生なんて瞬き程度だろうな)
月にとっても、この地球にとっても、人間の一生など取るに足らないものだろう。それでも何か自分の痕跡を残したいと、人は必死にあがく。
死ぬ瞬間に走馬灯が走るというが、そんなものはないなと、巻き上げる風に遊ばれながら思った。見事に、何も浮かばない。
それは、この最期に満足していたからだろうか。
「――ッ!」
だが不意に、彼はこちらに駆け寄ってきた。その慌てたような気配に、何を今更と思う。なぜそんな必死になるのか。憎悪と悲劇にまみれたこの因果に決着をつけるには、どちらかが死ぬしかないと分かっていたはずだ。
なのに腕を取られ、体が覚束ない空中で停滞した。ロックは一度閉じた目を開き、手を差し延べた彼を見上げる。風に揺られて不安定な体を、彼は腕一本で必死に支えていた。
真っ逆さまに落ちる寸前で助けられた事実に、驚きはなかった。彼はそういう甘っちょろい人間だ。それが彼の味方を増やす要因でもあったが。
(……水、差しやがって)
しかし沸き上がるのは感謝ではなく腹立たしさだけだった。真剣勝負に自ら甘さを持ち込んだこの男が、ひたすら憎かった。
必死にこちらを見つめる男を見つめ返し、口端で嘲笑う。
(よくもまあ、こんなナメたことしやがる……)
お前の心に、俺の存在を刻み込んでやろうか? 一生、膿を出し続けるような傷で。
どす黒い愉悦が喉元まで沸き上がってきて、ロックは不遜に鼻で笑った。そして、掴まれた腕を欝陶しげに自ら振り払った。それは存外に容易く解けた。
途端に、支えを失った体は再び空中落下を始める。浮遊感に項がざわりと総毛立つが、不快ではなかった。
「――ッ!!」
瞬間、彼の喉からあげられる声なき悲鳴。聞こえない悲痛な叫びと形相を、ロックは反射的にうるさいと詰る。その紡いだ音は、上空に流れる突風に掻き消されて散っていった。
彼の姿とビルの頂上が急速に遠ざかる。体は風に乗って心地よく、気怠い意識は眠りに落ちる前のようだった。何の苦痛も感慨もない。
ただ、自分を色んな意味で引っ掻き回した男にだけは、自分の存在を刻み付けたかった。羨ましかったのか悔しかったのか憐れだったのか判然としないが、とにかくこの男にだけは自分を忘れさせやしない。
傷付き、悔やみ、憎め。そのお得意の甘い感情でも、決して救われないものがあると思い知るがいい。
(ははははは……!)
闇の底に吸い込まれながら、高らかに笑う。自分にとって、生も死も地獄に変わりない。恐れなど、どこにあろうか。
――だが、ふと最後に見た男の表情は、ひどく悲しげだった。唇を噛み締め、目尻を下げる様は、泣き出す寸前のように思えた。
(……あれ?)
それを認めた瞬間、ロックは顔を歪める。それは、自分が彼に望んだ表情ではなかった。
(違う……)
違う。怒り、罵倒する姿を思い描いていたのに。苦しそうな、泣き出しそうな、そんな表情をするだなんて。自分の死を悲しむ彼の姿など、見たくない。全く、望んじゃいない。
(憎めよ! 怒れよ! そうじゃないと……、そうじゃないと俺は……)
俺は。
「ロ―――ッック!!」
俺は……、
きっと
あんたに忘れられてしまうんだ……。










「――ッッ!!!」
声にならない悲鳴が喉からほとばしった。シーツを跳ね上げ、跳び起きる。
「…ッはぁ…! はぁッ、はぁ……ッ」
ロックは荒い息を吐いて、額に手を当てた。いつの間にか滲んだ汗が頬へと流れ落ち、掌を濡らしていく。だが、息が整うまでその手を退けることは出来そうになかった。
なんという夢を。
生々しいくらいにリアルな感覚に、息が詰まりそうだった。胸に蟠る不快感を吐き出したくて、何度も大きく息をつく。筋肉で覆われたしなやかな背を丸め、ロックは上半身を起こしたまま項垂れた。
「ああ……」
ごめん、テリー。
真っ先に言葉として形になったのは、謝罪だった。夢の中だと分かっていても、自分が望んでテリーの手にかかろうとしたことが、ただただ申し訳なかった。二度も、彼に望まない殺しを強いた自分の身勝手な願望が恨めしかった。
ロックは最後に大きく息を吐き出し、煩く叩く心臓を宥めて、顔を覆っていた手を外した。零れ落ちた汗が、ぱたぱたとシーツに落ちて染み込んでいく。くせのある細かな金髪がじわりと湿気を含んでいた。
ロックは折り曲げていた身を緩慢に起こし、茫然としたまま再び軽く息をついた。鼓膜にまで響いていた鼓動は、幾らか収まり始めている。ぎこちなく掌を握り、開いてみて、大丈夫だと確認した。
しかし、内心の激しい動揺は容易には収まらなかった。笑おうとして、口元が無様に引き攣る。見た夢が、いかに暴かれたくない部分であったかを改めて思い知らされた心地だった。
そう。それが罪であり、醜い願望であることを頭では分かっていても、あの夢は確かに心の奥底で思い描いた願いの一つであった。テリーを苦しめると分かっていながら、傷つけることで自分という存在を刻み付けることができるのではないかという、腐りかけの果実のような甘い願望。最低だと思いながらも、誘惑はいつも心を揺さ振った。
ロックが未だにそれに惑わされ続けるのは、偏にテリーがギースという男の存在を片時も忘れたことがなかったからだった。ギースのように死ねば、テリーは自分のことを覚えていてくれるだろうか? そんな陰湿な考えが、浮かんでは消える。テリーがふと何かの拍子にロックを通り越してあの男を思い出すとき、その危険な考えは決まってあらわれた。
一度しかまともに顔を合わせたことのない父親……らしき男、ギース。二、三言しか話したことのない男を父と実感することは到底出来ず、しかしテリーやその仲間達は必ずロックの後ろにギースの影を見る。知らないのに、比べられる。そして遠く及ばないと、失望の色を向けられる。その気持ち悪さと腹立たしさには、いつも吐き気がした。
一体どうすれば、自分は「ギースの息子」ではなく、「ロック・ハワード」として見てもらえるのだろうか?
「……ハァ。頭、冷やしてきた方が良さそうだな」
ぶるりと頭を振って思考を遮り、ロックは身を起こした。とてもじゃないが、もう一度寝る気にはなれない。よしんば眠れたとしても、とても安眠出来るとは思えなかった。
ロックは靴を履き、寝間着用のタンクトップをTシャツに変えて、上着を羽織った。ついでにグローブも付け、近くのコートでバスケットボールでもするかと考える。体を動かしていれば、余計なことで悩まずに済むだろう。
緩慢な動きで部屋から出て廊下を歩いていくと、一室から明かりが漏れていることに気付いた。既に日付の変わった真夜中だが、テリーがこの時間まで起きているのは別に珍しいことではない。近付いてちらりと部屋を覗き見れば、案の条テリーはテレビを見ながら晩酌をしていた。
「……ぁあ? どうかしたのか?」
少し視線を寄越しただけだったが、気配の動きに聡いテリーはロックの存在に気付き、声をかけてきた。カラリと澄んだ音を奏でるグラスをテーブルに置き、窮屈そうにソファへ寝そべったまま顎を突き上げてこちらを見上げるテリーに、ロックはさりげなく顔を背けた。
「少し、夜風に当たってくる」
影になった廊下に立っていて良かったと思いながら、平静な声でそう告げる。鏡で確認しなくとも、自分がひどく暗い顔でテリーを見ていたことは容易に分かった。こんな顔をしていては、鈍いテリーでも流石に奇妙に思うだろう。所詮は夢、しかし悪い夢を見ただけだと告げるにはあまりに残酷な内容だ。
まさか、テリーに殺される夢を見たなどと。絶対に言えるはずもない。
ロックは軋む床を踏み締め、外へと向かった。今は、誰にも会いたくなかった。
こんな醜く歪んだ自分の顔を、見られたくはない。












夜の屋外は視界が悪い。湿気を帯びた空気は生暖かく、肌にねっとりと絡み付く。
しかしその不愉快の中でも、感覚はいやに鮮明だった。それはこの闘いが最後だという、高揚と緊張からだったかもしれない。
高まる鼓動を耳の奥で捉らえながら、テリーは身を捻り、反動で全体重を乗せた渾身の一撃を繰り出した。顔面を狙ったそれは、鈍い音を立てて目の前の男の腕に阻まれた。しかし衝撃が芯まで響いた感触に、力まで完全に殺し切れなかったことを知る。
いける。自分の力が、十分に通用する。
テリーは確かな手応えに笑みを浮かべ、次の攻撃を仕掛けた。しかし間髪入れずに腹を狙った左の拳は、男の掌で弾かれてしまう。力が横に逸れて崩れかけた姿勢を踏み出した右足で支え、テリーは直ぐさま次の攻撃へと移った。
相手に攻撃する隙は与えない。目の前の男が反撃の手段に長けているのは身を以って知っていたので、その余裕すら奪わなければ自分は勝てないだろう。
可能な限り速く重い一撃を。そして、男が正面からガードしなければならない正確な攻撃を。この憎き男を屠るには、最強の一撃ではなく、確実なダメージが必要だった。
修業に明け暮れる日々でぼろぼろになったスニーカーが、磨かれた床の上で砂を擦り、耳障りな音を立てる。振るった拳が風を切り、唸り声をあげた。テリーの速まる息遣いとともに、筋肉のぶつかる鈍い音が幾重にも響き渡っていった。
内から込み上げる怒りをも力に変えて短期決戦に持ち込んだテリーの応酬に、眼前の男が防戦一方のままじりじりと後退していく。サウスタウンで最も高いこの要塞然としたビルの頂上で、逃げ場を無くすことは死を意味する。
一度は、この和風に装われた屋上から男を転落させた。しかし決着がついたと思った二年後に、男は不死身の如く舞い戻り、またテリーの前に姿を現した。
今度こそは。今度こそは、養父や虐げられた者達の無念を晴らさなければ。
テリーは怒り任せに、勢いよく跳ね上げた足で男の腹を蹴り飛ばした。防御が間に合わなかった男は、正面からそれを受けて、大きくよろめく。
これで最後だ。
隙を逃さず、テリーは全身の気を高めた。養父であったジェフとその師であったタンから学び、長い年月を掛けて自ら形にした、気を放出する大技。拳を引き絞り、構えを取る。
「パワー、ゲイザァーッ!」
空気を引き裂くように、テリーは叫んだ。拳の一点に収束させたすべての力を、地に叩き付ける。瞬間、床が震え、膨れ上がった気が反射するように地から噴き上げて、隙を晒け出していた男を襲った。
周辺の気も取り込んで倍増した奔流が男の全身を呑み込んでいく様を、テリーは力の放出で脱力感に見舞われながら、まるでスローモーションのように視界に留めた。襲い掛かる衝撃は確かなはずなのに、信じられないことにその男の口元には嘲笑が浮かんでいたのだ。
なぜ、笑う。
その光景にテリーは目を見開いた。そして違和感を抱いたまま瞬きをし、再び男の顔を視界に納める。不意に薄い靄を挟んでいたような感覚が失せ、目の前の光景がクリアになった。
夢から覚めたような、そんな鮮明な視界に映った男の姿に、テリーは驚きで心臓を跳ね上げった。今まで見ていたものが、自分の思い込みだったと気付き、声なき悲鳴をあげる。
改めて見たその男は、十数年怨み続けた宿敵ではなかった。それは色彩こそ似ているものの全く異なる、少年らしさを残す細い体に金糸の髪を持つ、紅い瞳の青年だった。
(――!)
テリーは男の正体に気付き、反射的に手を伸ばした。めいいっぱい伸ばしたその指先が彼に到底届くはずもなかったが、もはや理屈などない。
彼はテリーの最も大切な人だった。
「――ッ!!」
渇いた喉が引き攣り、テリーの悲鳴は声にならなかった。木のサクを突き破り、宙に投げ出される軽い体を追って、つんのめるようにして前に乗り出す。暗闇の向こう側に、足を着ける地はない。ここは高層ビルの最上階、一度踏みはずせば助かる術はなかった。
どうか間に合ってほしい。あまりの現実に血の気もなく蒼白の顔で、テリーは願った。
彼を、失いたくない。
「……ッ!」
床を滑るように這い、懸命に手を伸ばしたテリーは、闇に呑まれていく青年の手を寸でで掴んだ。ギリギリの、腕一本の支えに肩と左腕が軋みをあげる。自分より軽いとはいえ、格闘家として鍛え上げられた彼の体は女性ほど軽くはない。そのうえテリーは大技で気を大量に放出した後だったので、無理な体勢から彼を受け止めるには余裕がなかった。
支えるだけで精一杯。この状況で彼を引き上げて助け出すには、彼自身の協力が不可欠だった。
「ク……ッ!」
噛み締めた歯の奥から、思わず呻きが漏れる。高層ビルの絶壁でたった一本の腕に支えられた彼の姿は、遥か下にあるサウスタウンの夜景に淡く浮かび上がり、不安定に揺らめいていた。長く伸びると先が跳ねる彼の猫っ毛が、容赦なく吹き上げる風に弄ばれる。
腕を取ったこちらを、一対の紅玉が茫然と見上げた。表情は乏しいながらも、彼はテリーの行動に驚いているようだった。
(上がってこい)
テリーは咄嗟に、そう言おうとした。だが、それと同じタイミングで、彼は不意に笑みを浮かべてみせた。
口端を皮肉げにつり上げ、今まで見たこともないような尊大で侮蔑を含んだ眼差しを向け、彼はテリーを嘲笑っていた。
「――」
それに、思わず息を呑む。その表情は、忘れようとしても忘れられなかった男の、最後に見せた表情にあまりにも酷似していた。
(ギース……!? いや、でもそんなはずは……!)
目を見開き、テリーは悪夢を打ち消すように胸中で否定の言葉を叫んだ。幾らこの青年がギースの血を引いていようと、彼はあの男ではない。今まで長い間連れ添ってきて、彼がギースと違うところを多く持っていることは、自分が一番分かっているはずだ。
しかし、その表情は冷酷な闇の帝王そのもので。
否応なく動悸が激しくなり、目が眩んだその瞬間、不意に彼は鼻で笑い、自ら手を振り払った。唯一の繋がりであった手が、テリーが動揺した隙を突いて容易に解かれる。
(――!?)
今度こそ、息が止まった。耳に入る自分の鼓動さえ、止まった気がした。
必死になるテリーを嘲笑うように漏らされた、彼の嘲笑だけが脳に残っていく。
(どうして――!)
再び空中に舞った彼は、一瞬で小さくなっていった。腕を伸ばして届く距離では、既にない。遥か遠くになった彼に、テリーは絶叫した。
「ロ――ック!!」
声が枯れ、喉が潰れても構わない。伸ばした左腕の一本くらいやってもいい。
だから、お願いだ。今度こそ、この手で大切な人を守らせてほしい。もうこれ以上、自分の無力で何かを失いたくなかった。
(ロック……!)
毎年欠かさず訪れる父の墓前で誓っていた。新しく出来た家族を、今度こそ俺は守るんだと。父さんの二の舞にはさせないと。
なのに。
(こんな失い方をしたら……俺は一体誰を憎めばいい?)
ジェフを失ったとき、ギースを憎むことで自分は前に進めた。だが誤ったとはいえ、自らが原因で大切な人を失ったならば?
(俺は、生きていけない……)
彼との過ごした日々は鮮やか過ぎて。どれもが、かけがえのない思い出で。後悔したくらいで、再び立ち直れるなんて、そんな軽いものではない。
(ロック、ロック、ロック……!)
縋り付くように、テリーは何度も呼んだ。闇に呑まれていく彼に、無駄と知りつつ懸命に手を伸ばす。体裁など、そんなものはどうでもいい。半身ともいえる存在を永久に失う苦痛は何にも代え難く、想像を絶した。
叩きつけるように巻き上げてくる高層ビルの風の中、遠ざかる彼と、視線が絡み合った。憎悪に、侮蔑に、歪んだ笑みを浮かべていた彼が、不意に目を瞠り、徐に表情を崩して泣きそうな表情を浮かべた。それは、独り残される寂しさに唇を噛み締めて耐える、幼き日の彼の表情に似ていた。
「ロ――ックッッ!!」
テリーは、あらん限りの声で叫んだ。吹き上げる風に、この隔たれた距離に、その声は届いたかどうか分からない。
ただ、暗闇に消える寸前、彼は目を細めて寂しく微笑えんだように見えた――。










体が、無様に跳ね上がった。沈められた深海から浮上したように、テリーは空気を求めて大きく喘ぎ、自由を求めて体をばたつかせた。
「――ッ!」
飛び上がるように、上半身を起こす。反動で思わずソファから擦り落ちかけ、咄嗟に手を付いて体を支えた。
荒い息に上下する視界で、テリーは目を限界まで見開いて辺りを見渡した。落ち着きなく左右に視線を走らせて確認したそこは、さっきまでテレビを見ていた部屋だった。いつの間にか自分は眠ってしまっていたらしい。
「夢……、か?」
こめかみを叩く脈の異常な速さを意識しながら、テリーは茫然と呟いた。声に出して確認してみなければならないほど、見た夢は感覚がひどくリアルで生々しかった。
顔に掛かる髪をぎこちなく掻き上げ、テリーは弾む息を整えながらテレビを一瞥した。そこには、最後に見た記憶のある番組が映っている。終盤らしき雰囲気はあるものの、番組自体は切り変わっていないことから、さほど時間が経過していないことが分かった。
「……ハァ」
足を投げ出して横になっていたソファから体を起こし、テリーは溜息をついた。
立ち上がろうとして足に力が入らないことに気付き、ソファに座り直して両手で顔を覆う。汗ばんだ手は、微かに震えていた。
まさか、ロックの死を夢に見るなんて……。
自分の見た夢の内容が信じられず、テリーは再度溜息をつく。確かに今まで幾度もギースとの最後を悪夢で見たことはあったが、それがギースではなくロックの姿で見たのは初めてだった。
何故、あの戦いの相手がギースではなく、ロックだったのだろうか。
「……しっかし」
こうして突き付けられると、流石にこたえるなぁ。
冗談めかしにそう呟き、テリーはなんとか笑おうとしたが、強張った顔ではいつものように笑えなかった。次いで試みた苦笑さえ失敗して、唇を噛み締める。
テリーもロックも、幼少の頃に生きるか死ぬかの世界を経験した。物事の盛衰も人の生死も目まぐるしく変化していくことは、よくわかっていた。自分の今立っている場所が確かなのだと言い切れないことは、あのサウスタウンを見れば明白だった。
だから、互いに心配はしないことにしていた。それこそホクロの数さえ知っている仲なのだから、信じられる時は信じようと。信頼しているからこそ、判断は相手に託して無用な干渉はしないようにしようと、暗黙の内に決められていた。ファイターであることから、死ぬときは死ぬものだと割り切ってもいた。
だが、実際にロックの死を目の前にすると、無様なほど必死になる自分がいた。
どうにか出来ないかとあがき、叫び続けていた。誰であろうとどんな状況であろうと、敗者は散っていくのが定めだと分かっていたはずなのに。
こんなにもロックを失うことを恐れていたなんて、自分でも気付かなかった。失うと分かって初めて、その現実に青ざめた。大切な存在が守り切れない自分の無力に、打ちのめされる。庇護を受ける年齢ではとっくになくなっているロックを、この手で守りたいと切に願っていたのだ。掴んだ手を振り払われた瞬間の絶望といったらなかった。
昔から、大切なものはいつも自分の手を摺り抜けてきた。伝説の狼と讃えられるまでになってやっと、自分の力で何かが守れると思えるようになったのだ。人生で自分の思い通りになることなんて、実際にはほとんどない。それを分かっていて、それでも何とか出来ないかと思ってしまった。
「ロック……」
呟くように、名を呼んでみる。その言葉はゆっくりと自分の胸に染み込んでいき、少し心を落ち着かせてくれた。
俺も子離れが出来てないのかなぁ……などと思いつつも、やはりロックを手放せそうにはない。自分達の関係は家族なのか師弟なのか恋人なのか、もはや判然としないが、かけがえのない存在に変わりはなかった。
「……そういえば」
ふと、テリーは辺りを見渡してロックを探した。付けっぱなしのテレビから飲みかけのウイスキーへと視線を移し、最後に廊下を見つめる。ただの夢だと頭では分かっているのだが、ロックの姿を実際に確認してみないと落ち着かなかった。
……確か眠る前、ロックは外に出ると言ってはいなかったか。朧げに思い出したロックの言葉を反芻すると、あの時の声音が耳の奥に蘇った。そういえば、あまり覇気のない声で調子が悪そうだった。暗くて表情ははっきりと窺えなかったが、声は沈んでいたように思う。元々あまり賑やかな性格ではなく感情が分かりにくいところがあるのだが、ただの無愛想か悩んでいるかくらいの判別は長い付き合いで分かる。
このサウスタウンに来てから、ロックの様子は少しおかしかった。最近は感情の動きを上手く隠してしまうようになったロックだが、それでも隠しきれずにこちらに伝わるくらいに何か思い悩んでいるようだった。それが気になっていたテリーは、無防備になるセックスの最中にそれとなく探ろうとしたが、哀しみの色を浮かべた強い瞳に無言の制止をされてしまった。それを受けて、テリーはロックの悩みが彼の親のことで、その引き金がサウスタウンに近付いていることだと悟ったのだ。逃れられない因縁は自身で解決する他ないと、ロックの眼は訴えていた。
その問題のサウスタウンに滞在して、今日で一週間経つ。ギース亡き後、サウスタウンの裏の支配者が定まらずにギャングの抗争が激化する中、それに二人が巻き込まれたのはつい先日のことだ。名目上はKOFとなっていた格闘技大会の招待を受けたテリーはロックを誘って出場したのだが、実際はメフィストフェレスという新興勢力とメイラ兄弟率いるストリートギャングの対決の当て馬にされただけ、といったところだった。ギースに恨みはあってもギャングのボスという地位に興味のなかったテリーは、十年前に復讐を終えてすぐにロックを連れ立ってサウスタウンを離れてしまったのだが、長く見ない間に街の様子は大分変わってしまっていたようである。
しかし今のサウスタウンは、ボスであったデュークを追い出したメイラ兄弟によってとりあえず平和は取り戻している。一度拳を合わせたくらいだが、あの兄弟ならば街のことを任せても悪い方向へ行くことはないだろうと、テリーは思っていた。
「……って言ってもロックにとっちゃあ、別に街のことは問題じゃないよな。それよりも……」
父親のことの方が。
そう呟こうとした瞬間、ドンッ!と建物の外で何かが爆発する音が響き渡った。
驚いてテリーは顔を上げ、突如明るくなった窓の方へと視線を向ける。
「なんだッ!?」
立ち上がり、窓に駆け寄って外を見てみると、さほど離れていないところで炎が上がっていた。暗闇に包まれていた家々が、巨大な爆炎に赤く照らされている。
昔から騒動が絶えないせいか、多少のことでは動じないはずの街の住民が悲鳴をあげている事実からも、それが比較的規模の大きい爆発であったことが分かる。
さっそく燃え広がり出した炎が、大量の煙を吐き出して視界を悪くさせていた。
アパートの三階であるここからは、逃げ惑う人々まで容易に判別できる。視線を走らせる最中、テリーはハッと顔を強張らせ、窓を乱暴に開けて身を乗り出した。
「ロック……!!」
遠くに見えた姿に、思わず叫ぶ。金髪に赤いジャケット、そして黒いパンツを身に纏う人影が、炎の向こう側に見えた。外に出ると言っていた彼は、辛うじてここから見える位置で佇んでいた。
ロックは炎に巻き込まれてはいないようだが、逃げ惑う人々の流れの中、茫然としていた。何に気を取られているのか分からないが、燃え崩れかけたショーウィンドーを見つめている。俯き加減のその表情は、ここからでは窺い知れない。
声をかけて聞こえる距離ではないので呼びに行こうかとテリーが思った矢先、空が明るく光り、今度は遠くの方で鋭い爆発音が響いた。二度目の爆発に思わず表情を険しくしたテリーは乗り出していた身を退き、隣の窓に視線を向ける。
そこから見えた一際高い高層ビルの頂上から、煙が上がっていた。前の爆発のように甚大な被害や火災は起きていないようだが、それでもビルの一部が爆破されるなど異常な事態だ。しかも距離が離れているとはいえ、立て続けに爆破されるなど、何かが目に見えないところで暗躍しているとしか思えない。
だが何よりも、頂上で爆発が起こったビルがいわくつきのものだったことに、テリーは驚いた。今は殆ど機能していないであろうそのビルは、かつてギースタワーと呼ばれていた。今は亡き最高権力者ギースの城であり、墓標でもある。紛れも無く、テリーが彼にトドメを刺した場所だった。
それがギースタワーだと分かった瞬間、不意にあの男の顔が脳裏をよぎった。高らかに嘲笑い、自ら手を振り払って闇へと落ちていく姿が蘇り、テリーは反射的に目を閉じる。瞼の裏に焼き付いた光景を断ち切ろうとしたのだが、逆にそれは真っ暗な中で鮮明に浮かび上がってきた。忘れようとすればするほど、忘れることを許さないとでも言うようにそれは記憶に深く潜り込んで来る。
だが、その嘲笑う男の顔は徐々に別のものへと変貌していった。柔らかな金髪に、丸みのある輪郭、抜けるように白い肌とそこに色付く桜色の唇。そして、鮮やかに輝く紅い両の瞳。
いつの間にか、それはロックの顔にすり替えられていた。嘲笑に歪む唇と、蔑む眼差しはそのままに。
「――ッ!」
テリーは、それらを振り払うように固く握った拳で自分の額を思い切り殴り付けた。骨の当たる鈍い音とともに、視界も白む激痛が頭と拳に響く。脳まで揺さ振る衝撃に、顔をしかめた。しかし全ての悪夢が、一瞬で跡形もなく消え失せていた。
詰めていた息を吐き、テリーは再び遠くのビルへと視線を向ける。最初の爆発とは違って、そちらは煙を伴いながらも喧騒とは無縁に、静かに見えた。それを見つめ、テリーは緩く顔をしかめて視線を外した。
しかしその逸らした視線の端に、見知った姿が映り込んだことに眉を跳ね上げる。後ろ背に描かれた星と羽根の模様から、その人物がロックであることに気付き、テリーは眼を剥いた。こちらに背を向けるロックは、火災から逃げるでもなく、何故かギースタワーを目指して走っていたのだ。
「ロック……!?」
まさか見間違いではと思い、テリーは窓に張り付いて下の通りを駆ける青年の姿を食い入るように見つめたが、それは紛れも無くロック自身だった。テリーの目が離れていた間に、ロックはこちらに戻ってくることもなく、ギースタワーへと向かっていた。
彼は誰よりも、あの場所を嫌っていたはず。なのに、何故?
忌むべき場所のようにロックはサウスタウンそのものを快く思っておらず、その中でも特にギースタワーは視界に入れることさえ苦痛であるかのような素振りをしていた。だから、倒壊ならまだしも多少の爆発くらいで、わざわざ駆け付けようとは思わないはずである。
理由を問おうにも既に遠くなった背に声が届くはずもなく、テリーは暫く首を捻って考え込んでいたのだが、不意に思い出される言葉があった。
『あそこには……母さんの絵があるんだ』
いつであったかもはや分からないが、ロックはギースタワーを指して確かそんなことを言っていた。油絵を趣味としていた彼女は、愛する夫に宛てて何枚も絵を描いて贈っていたのだという。しかしその贈り物の数々に対して、正当な対価だと言って後から金が送りつけられてきた事実も、ロックは苦々しく語っていた。
メッセージもないそれらは、贈り物に込められた気持ちを蔑ろにしているのか、それとも遠回しに生活を援助しようとしていたのか、ギースの真意は全く分からなかったが、子供の頃に助けを求めてギースタワーへ訪れた際に、廊下で母の絵を確かに見掛けたそうだ。飾った場所が自室でなかったことからギースにとってメアリーがどういう位置付けだったのか判断できなかったが、絵を捨てずに持っていたことだけは事実だとロックは言っていた。
特殊な生い立ちのせいだろうか。ロックにとって母という存在は『特別』だった。テリーと出会うまでは、間違いなく彼の世界にはメアリーしかいなかったのだ。唯一、愛を与えてくれる存在であり、同時に守るべき存在だった。
両親の記憶を持たないテリーには母の存在の重大さは分からないが、幼い頃に大した力もないのに必死で弟を守ろうとしていた我が身を振り返れば、いかに心の支えとなっていたかは分かる。自分一人ならば、どこかで生きることを諦めていたかもしれない。『家族』がいると思うから、頑張れるのだ。
それを考えれば、ロックが母の絵を守る為にギースタワーへ向かったとしても不思議ではない。自分の力で、大切なものを守りに行ったのだろう。もう彼は誰かに庇護されなければならない、無力な子供ではないのだから。
……だが、何故か悪い予感がする。ざわざわと、胸の辺りで何かがわだかまっている、嫌な感触がした。
さっきあんな夢を見たから、そんな気がするだけだ。そう思いたい反面、この手の勘が外れたことがないため、どうしても思い過ごしでは収まらなかった。
もう遠くに消えてしまったロックの背にどうしようもない焦りを覚えて、テリーは暫くの逡巡の後、やはり居ても立ってもいられずに部屋を飛び出した。アパートの周囲は謎の火災で燃え続けている。だが、早くも住人が消火活動に動き出していた。
とりあえず、ロックを追わなくては。そんな脅迫観念にも似た思いに駆られ、テリーは燃え盛る炎を尻目にギースタワーへと向かって走った。
暗い夜空に浮かび上がる、頂上だけが明かりを燈しているす巨大ビル。その足元まで駆け付け、テリーは一度足を止めて見上げた。
上にのしかかってきそうな大きな影に、ぶるりと身を震わせる。圧迫感を携えたそれは主人を失って尚、見る者に畏怖を抱かせた。昔の面影をそのままに。
無意識に力の入った自分の拳に気付き、十年前もこうしてこのビルを見上げたことをテリーは思い出した。今度こそヤツを倒すのだと、今度こそ越えなければならないのだと、そう言い聞かせて恐怖に竦みそうになる足を叱咤していた、あの頃の自分。復讐にたぎる思いとは別に、力も地位も存在も大きすぎる相手は、ちっぽけな自分には恐ろしさも抱かせたものだった。
……だが、今は違う。
テリーは固く握った己の拳を引き寄せ、唇を当てた。筋張ってかさついた手は長い年月の経過を感じさせ、この手で引いてきた存在を思い起こさせる。
あれから、十年だ。辛いことも悲しいことも、沢山あった。だがそれ以上に楽しいことも嬉しいことも、沢山あった。そしてその時間を他の誰でもない、彼と共に過ごした。最初に連れ立った理由は気まぐれだったのか同情だったのか自分でも分からない、けれど築き上げた絆は確かなものだった。
今はただ、大切な人のために、この手を使いたい。復讐や争いのためではなくて、守るために。
養父に手を引かれて育った孤児の自分が、戸惑いながらも今度は大人として少年の手を引いて成長を見守ってきた。彼が誰の子供であるかは、問題ではない。
彼が自分を好いてくれて、自分もまた彼を好いている、そのことが重要なのだ。
かけがえのない、自分の愛する『家族』。
「……さて、そろそろ迎えに行かなきゃな」
重い空気を払うように、テリーは軽い口調で呟いた。自分の手の甲に景気よく音を立ててキスしてから、気合いを入れるように両手を打ち鳴らす。
この温かい手が好きだと言って、ロックはいつも戯れのようにテリーの手に唇を寄せていた。そのくすぐったい感触と体を寄せるロックの体温を思い出すと、自然と心は穏やかになっていく。
強がって、背伸びして。けれど彼は時々、猫のように身を寄せてテリーに甘える。そこに何か言葉があるわけではないし、特別何かするわけでもない。ただ、たまにある緩やかなひとときに、身を寄せ合って過ごすのだ。
腕に触れ、肩に触れ、髪を弄び、時々頬を撫で、首を擽り、笑う口元に唇を寄せる。日だまりの中、何か語るわけでもなく、ソファに体を投げ出してまどろむ時間がとても好きだった。触れ合う肌を通して互いの存在がじんわりと、染み込んでいく。それはひどく心地の良いものだった。
守りたいから、手放せないから。今更、彼を失うことなど考えられない。
だから、彼の大切なものも守りたいと思う。そうすることで心の絆が保たれる、あるいは強くなるのなら、自分は何だってするだろう。
ロックといるとき、自分はとても穏やかでいられるのだ。復讐がすべての自分が初めて出会ったぬくもりだった。
「……」
意を固めたテリーは、その重苦しいビルへと一歩を踏み出した。革靴の底がアスファルトと擦れ、無音の中にじゃりっと音を響かせたが、不安な心地はなかった。先にこのビルへ足を踏み入れた存在を思うと、力の入った肩は自然と軽くなる。
昔ここへ訪れたときと同じガラス張りの重々しい扉を開け、あまり人の気配が感じられない建物の中へと入ったテリーは、明かりのない廊下を進んだ。
心許ない視界の中、早足のまま鮮やかな金髪を求めて周囲に目を走らせる。長い間使われなかったのであろうビルの内部は閑散としており、障害物もあまりなかった。
しかし暗いが見通しのいいそこに、探し求める姿はない。
上の階だろうか。そう思って視線を走らせたとき、視界の端に青いランプが映った。暗やみにぽつんと浮かび上がるそれは、エレベーターの最上階の番号を表していた。
そこに誰が乗って最上階まで上がっていったかは、考えるまでもなかった。
テリーは闇に慣れ始めた目で、『down』のボタンを見つけて押した。それにより、淡く光る数字はカウントダウンしながら横に動きだす。
徐々にこちらへと下りてくる無機質な番号の点滅を、テリーは急く気持ちを抑えながら見つめた。しかし、いつも以上にエレベーターの速度を遅く感じて苛立つのとは裏腹に、得体の知れない恐怖が身を焦がす。
それは、彼の男に刻み込まれた恐怖心だった。この場所に立っている、ただそれだけであの頃に引き戻されていくようだ。
何もかもが敵で、自分の拳と数少ない仲間だけが頼りだった。周りのものすべてを睨めつけるギラついた心は、必然的にすべての感覚を鋭くさせていく。確かにあのときほど、貪欲で力に漲っていたときはなかった。
その感覚が甦るように、テリーはランプの点滅を見つめる間、遠くで騒ぐ声や火事で家屋が焼け落ちる音が鮮明に捉えられる。この階に近づいてくるエレベーターの振動音さえ逐一聞こえた。
己の呼吸も心音も、不気味なほど溶け込むように平静。だが、全身の筋肉は緊張にピンと張り詰めている。そう、まるで……決闘にでも赴くかのように。
だが、あのときとは違うのだと、確かめるようにテリーは自分の髪に手を伸ばした。少し芯のあるブロンドの毛先が、肩口で指に触れる。そこには、復讐を誓ってから伸ばし続けていた長い髪はなかった。
予想外のギースの死に、切る機会を逸していたそれを断ったのは、他でもないロックだった。さり気なく散髪を申し出たが、こんな髪型はどうだと雑誌などを沢山引っ張り出してきた事実を思えば、随分前から考えていたことなのだろう。実際、ロックの手は実に器用で、一番似合う今の髪型にしてくれた。
あの頃とは、何もかもが変わったのだ。確かに昔に比べれば自分の体は重くなって動きづらくはなったし、あの時ほどの飢えた気持ちはなくなった。けれどこうして誰かを守るために生きようする心は、復讐に取り憑かれていた時には決してなかったものだ。
それはかつて、あの男が甘さだと称したもの。しかし自分がずっと憧れてきた養父の姿そのものだった。
ぬるい心持ちだと笑われても構わない。自分は守りたいものを守るために、全力を尽くすだけ。そして、それはロックも同じだ。待つことしか出来ない身に歯痒い思いをしていた頃とは違い、自分で何かが出来る力を持つようになった。
ギースの生き方を間違っているとは言わない。けれど、確実に自分達は彼とは違う道を生きている。別の選択をし、別の思いを持ったのだ。
……だから、見てみたい。自分の行き着く先を、そしてロックの行く未来を。
握った拳を開き、テリーが顔を上げたと同時に、チン…と音を立ててエレベーターの扉が開いた。ぼんやりとした明かりに照らされた箱が、ぽっかりと口を開けて待っている。
テリーはそこへしっかりとした足取りで踏み込んだ。体は今だに緊張で力が入るが、それを振り払うように最上階のボタンを叩いた。
外界とを遮断するように、扉はゆっくりと閉まる。そして二人目の来訪者を迎え入れたそれは、ほとんど音を立てずに上昇し始めた。
体が浮遊する独特の感覚を感じながら、テリーは狭い空間の中で壁に身を預ける。しばらくの間、心許ないライトだけで照らされたそれは滑るように上を行った。そうして、何階かを行ったところで周りの景色ががらりと変わり、壁がガラスであったことを知る。
一面だけがガラス張りにされたそれは、無数の明かりを灯す夜の街を眼下に映し出していた。
高度を上げ続ける視界の中で、そのネオンに満ちた街を眺め、あの頃よりは随分と明かりが増えたことに気付く。この十年の歳月で、サウスタウンもまた変わったらしい。
そんな宝石箱を引っ繰り返したような夜景に、先程の火事で立ち上った煙が添えられ、異様な光景だった。一見煌びやかに見えて、中では何かが起き始めている。
吸い寄せられるように地上に目を向けていたテリーだったが、エレベーターの動きが止まったことに気付き、視線をドアに向けた。
ゆっくりと開くドアの向こう側を油断なく警戒していたが、特に何事も起こらず、誰の気配もなかった。
相変わらず明かりもない薄暗い中、テリーはエレベーターから降りて殺風景な廊下に立った。扉が自動的に閉まる気配を背後に感じながら、目を眇めて周囲を探る。しかし変わらず誰の姿も見かけないことに、テリーは眉根を寄せた。
今は使われていないとはいえ……警備が全くないというのも奇妙だ。
この建物の中に入る時も鍵は掛かっていなかった。だが内部は荒れた様子もなく整然としている。そしてどの階も明かりはついていないのに、エレベーターは正常に動いていた。
薄く積もった埃を見れば使われていないことは確かなのに、必要最低限なものは生きている。……まるで、誰かが定期的に管理しているようだった。
「いや……まるで、じゃなくて……そうなんだろうな」
この街でこれほど象徴的なものはない。おいそれと潰せるものでもないだろう。
ギース亡き後で誰がこの土地と建物を所有しているかは分からないが、権威を振りかざす材料として残しておいて損はないはずだ。
だが問題はそこではなく、このビルのセキュリティをこじ開けた者がいるということだった。
最上階で起きた謎の爆発もそうだが、それを追ったロックもテリーもすんなり中に侵入できていることがおかしい。妨害どころか防衛すらなっていないのは、恐らく一連の騒動の犯人が開錠していったからだろう。
誰が? 何のために?
浮かぶ疑問と不安を抱えながらテリーが辺りを見回していると、何かを隔てて頭上で物音が聞こえた。反射的にハッと顔を上げる。この階の上――つまり、屋上からだ。
テリーは近くの階段に目を走らせ、それが上に続いていると分かってそちらへ向かった。鉄の階段を駆け上がり、一枚の重い扉を開けると、途端に外気が流れ込んでくる。
その風とともにテリーの耳に届いたのは、聞き覚えのある男の声だった。
「……この女は、殺し屋さ」
何年ぶりかに聞いたその声に、テリーは思わず目を瞠る。
ビリー・カーン……!?
咄嗟に思い浮かんだ人物に、まさかそんなはずは……と思わず自分で否定する。彼は仕えるべき主人を失い、確か田舎に帰って妹と暮らしていたはず。
聞き間違いだと思いながらも不安に駆られ、テリーは階段の影に身を潜めて屋上の様子を盗み見た。高層ビルには不自然な日本テイストの舞台の上で、二人の男が対峙している。
すぐ近くでこちらに背を向けているのは、ロックだった。だが、遠く向こうにいるのは紛れもなくビリーだ。
その事実に驚愕し、テリーは思わず息を呑む。
なぜこんなところに! しかも今頃になって現われた……!?
二人が対峙しているのを見ながらも、テリーには彼がこの場にいることが信じられなかった。なぜなら、ビリーが忠誠を誓ったただ一人の男は既にこの世にいないからだ。
しかしテリーの気配に気付いていないビリーは、威勢よく睨みつけるロックに、嘲笑を投げつけた。
「この女は、俺を殺し……あの御方の血を引くお前も始末しようとしているのさ」
ビリーはそう言い、三節棍を揺らす。一本の棒に変形したその獲物の先に引っ掛けられていた女が、その振動に呻いた。
(誰だ……?)
ビリーに宙吊りにされている見知らぬ女の存在に気付き、テリーは目を細める。しかしビリーの言い分では、その女こそがこのビルに最初に侵入した暗殺者らしい。ビリーとロックを狙っていることから恐らく、未だに残るギースの力を疎ましく思う者からの差し金だろう。
闇の帝王の根深い影響を取り払おうとする動きは、正直今更珍しくはない。テリーが十年前、ロックを連れ立ってサウスタウンを後にしたのは、心の整理のためということもあったが、実際に命が狙われていて危険だというのもあった。
テリーは、ギースを破った強者として。ロックはギースの後継者として。
だから十年経っていようと、何かしら面倒ごとが起きる可能性は高いだろうと思っていたので、さして驚きはなかった。
それよりも気になるのは、ロックの態度だ。
ビリーだけならまだしもロックの命も狙っている暗殺者を助けようとしている。
確かに目の前で死なれては寝覚めが悪いが、自分にも危害を及ぼすであろう相手を救い出そうとする理由が分からない。
知り合いだったのだろうか? 可能性は否定できないが、ロックがここに来た理由が母親の絵のためならば、こんな事態になっているとは知らなかったはずだ。
何故…と、ロックの方に視線を投げたとき、ロックが顔を歪めてビリーに叫んだ。
「俺は、あいつの息子なんかじゃない……!」
その言葉に、テリーは驚いた。誰よりも父親が誰であるかを知っているロックが、ムキになったように真っ向からビリーの言葉を否定したのだ。だがそれを聞いて、テリーはロックの言動に合点がいった。
このギースタワーで誰かが傷付くこと、そして目の前で女性が死ぬことを、ロックは無意識に恐れている。父親と母親の死は、それぞれにロックの心に抜けないトゲとして刺さったままなのだ。
だから、誰かがギースタワーから落ちるのは、ロックにとってあの日の再現に他ならないのだろう。たとえその相手が自分にとって敵だったとしても。
それに思い至り、テリーもまた、うたた寝で見た悪夢を思い出す。ロックの死が、どれほど恐ろしかったことか。ギースのときのような空しさだけでは済まされない、絶望だった。
ありえないことだと分かっていながらも、ロックが嘲笑って自分の手を振り払う悪夢は脳裏に焼き付いている。
テリーがそうして不安に駆られるように、ロックもまた何かを恐れるように顔を強ばらせていた。
「ハッ! ……いくら否定しようが、この女にとってお前があの御方の息子であることには変わらない」
睨むロックをものともせず、ビリーは鋭利な眼差しでロックを見た。そこには軽蔑と、少しの嫉妬が見え隠れする。ギースの息子というだけで、ロックに良い感情を持っているわけではないのだろう。
ギースとロックは、決して同じ存在ではありえないのだから。
(そうか……、そうなんだな)
テリーは少し目が覚めたような心地で、ビリーを見つめた。この男は、ひどくシンプルに物事を考えている。ギースだから忠誠を誓っただけで、そうでないなら関係ないと、はっきりしていた。
ロックが違う道を歩み、時として自分の行く手を阻むなら、ビリーにとっては邪魔者でしかないのだ。面影を追おうとはしないその態度は、いっそ潔い。
そのことに驚きながらも、それはテリーの揺らぐ心を叱咤してくれた。何を恐れる必要があるのだろう、と。
生意気で格好付けで、でも真面目で繊細なロック。彼は自分を裏切ったりは、決してしない。不安に思うことが馬鹿馬鹿しいくらい、この十年で培った絆は強かったはずだ。
俺が信じてやらないで、どうするよ?
唇を噛み締めるように引き結び――だが口端は釣り上げて、テリーは苦笑した。
ロックは強い。ちゃんと自分で恐怖とも戦えるし、大きな壁も乗り越えてゆける。もし挫けそうになったときは、その背を自分が支えてやればいいだけだ。
「お前は、無限の可能性を秘めてるんだからな……!」
万感を込めてそう呟き、テリーはその場で背を向けた。
自分の力で、ロックは困難に立ち向かっていける。信じているからこそ、余計な手出しはしないで任せたいと思った。
後ろで二人が言い争う気配に後ろ髪を引かれながらも、テリーは来た道を引き返した。ここでビリーに敗れるようなら、まだまだ鍛え方が足りなかったということだろう。残酷なようだが、それが自分やロックが選んだ世界だ。
だから今は、無事に帰ってくるのを信じたい。
テリーはビル内に戻り、辺りを見回した。ロックがあそこでビリーと対峙している以上、母親の絵を取りに行くことはできないだろうから、そちらを確保しようと思う。自分がジェフを特別に思うように、ロックにとって母親の存在は特別だ。その思い出の品は、手元に置きたいはずだろう。
戦いに持ち込んだのか、屋上の方で激しい打撃音が響き渡るが、テリーはそれらの音を意識の外に押しやり、絵がありそうな部屋を探して廊下を走った。
このビルの構造は未だによく分からないし、絵心もいまひとつなので、どこにあるのか検討もつかない。だが、過去に訪れたときに目にした社長室の前で、テリーは足を止めた。
結局ギースはロックを正式に息子とは認めなかったが、それでもビリーを通して気に掛けていたような態度が垣間見えていた。妻のメアリーを見殺しにしたのは事実だが、それをギース本人が心底望んでいたことかどうかも定かではない。現に、メアリーの絵がここにあるのをロックは見ている。
ならば……全部ではないにしろ、大切な絵は一枚くらい、自室に残しているのではないだろうか? 公には飾らず、どこかにひっそりと置いていたりはしないだろうか。
そう思い当たり、テリーはその皮張りの厚い扉に手を掛けた。押してみると、鍵も掛かっていなかったらしく簡単に開く。
だが足を踏み入れてみると、その中は半分煙に覆われていた。大きくはないが、そこかしこにちろちろと火が出ており、だだっ広い部屋にある数少ない調度品を燃やしていた。どうやら、アパートの方で見た爆発の余波がこちらに及んでいたようだ。
大きなデスクと革製の大仰な椅子が煙をあげているのを見、思わずテリーは何か消火できるものはないかと辺りを見回した。火の回りが格別早いわけではないが、このまま放っておいて良いものでもない。しかし生憎、周りに水もなければ消火器もなかった。
仕方なくテリーは近くにあった本棚から大きめのファイルを選んで引き抜き、それで燻る火を叩いて消しにかかった。そうして地道な消火活動をしていると、今度は背後の本棚が軋みをあげる。
咄嗟にテリーがその場を飛び退くと、一瞬前まで立っていたところに重厚な本棚が倒れこんできた。どうやら爆発で衝撃を受けていた天井が崩れて、その反動で棚が倒れたらしい。
危ねぇな〜とぼやきながら、半壊の天井とひしゃげた棚を交互に見たテリーは――散乱した蔵書の間から滑り出した一つの額に目を止めた。
「これは……」
テリーが屈んで手に取り、表を返してみると、それは一枚の油絵だった。無造作に本と本の間に挟まれていたらしいその、どこかの風景を描いた絵は、よく見ると右下にサインが入れられている。
あった……! これだ!
滑らかな筆記体で書かれたメアリーの綴りを認め、テリーは内心で歓喜の声をあげた。もしかしたらとは思っていたが、本当にロックの母の絵がギースの部屋から出てくるとは思わなかった。
やはりギースはメアリーを嫌っていたわけではなかったのかもしれない。しかしそうはいっても、メアリーの死は変わらないのだが……。真相は本人のみぞ知る、といったところか。
だが、細かいことは後だ。この他にまだあるだろうかと、テリーは周辺の本を引っ繰り返してみるが、その一枚以外は見当たらない。
やはり大半の絵は、倉庫のようなところで眠っているのかもしれない。
そう思い、テリーは腰を上げて部屋を出ることにした。焦げ痕や家具の倒壊で惨々たる状態だが、とりあえず火だけは消してやったことには感謝してほしい。
「Good-by,Geese……!」
テリーは絵を片手に抱えたまま、去り際に振り返り、そう呟いた。少し焦げ付いた皮張りの椅子に向かって、眼を細めて苦笑を張りつける。
かつてそこに君臨した者に、最後の言葉を投げ掛けて。
テリーはその部屋を後にした。







何度かハズレに当たりながらも、比較的早くにテリーは倉庫らしい部屋に辿り着いた。
そこにはずらりと棚が並んでおり、書物だけでなく陶器や絵画など芸術品の類も多く見られる。しかし頭上まで埋め尽くすそれらに統一感はまるでなく、ギースの多趣味さが垣間見えた。
感心しながらも半ば呆れつつ中を見回し、テリーはそこに踏み込んだ。ここならばメアリーの油絵を見つけられそうだ。
「――!?」
だがそう思った矢先、突然目の前で爆発が起こった。閃光で視界が白むと同時に、巻き上がった爆風が全身を叩く。
咄嗟にかばったものの、テリーの頑丈な体躯は容易く廊下まで弾き飛ばされ、背中から突き当たりの壁に叩きつけられた。苦悶の息を吐きつつ、テリーは何が起こったのかを確認しようと焦げ臭いが漂う中で顔を上げる。
視界は半ば以上、煙で真っ白だった。しかし倉庫部屋の奥の方で炎があがっているのが、煙の向こう側に見える。どうやらこちらとは反対側の、外に面した方に爆発は起きたらしかった。
自分の体が無事なのを確認したテリーはその場で態勢を立て直し、恐る恐る部屋の方へと近付いた。今の爆撃は、屋上での争いが階下にまで影響が出たものだろう。しかし探し求めた部屋が突然半壊してしまったことには、驚きは隠せない。
だがそこでハッと絵のことを思い出したテリーは、自分の足元を見回した。メアリーの油絵はちゃんと持っていたはずだが、吹き飛ばされたときに手から放れてしまっていた。
自分の失態に舌打ちしつつ、テリーは灰と細かな瓦礫でざらついた廊下を見渡した。視界を妨げる煙を払いながら、探してしばし、幾らか離れた廊下の先に四角いものが落ちているのを発見する。
駆け寄ったテリーは焦りながら絵を手に取り、無事かどうかを確かめた。鮮やかな青い空を背景にした、どこかの水辺の風景画を、じっと見つめては引っ繰り返し、かぶった灰や埃を払い落としていく。
見たところ、絵は無事だった。多少の汚れはあるものの、損傷していることもなく、テリーはほっと息をつく。これを傷付けてしまっては、ロックを追ってここまで来た意味がなくなってしまう。
絵画を改めて見つめたテリーは、思いついたように上着を脱いで、そのフライトジャケットを絵画に巻き付けた。
「これでよし……、と!」
汚れないように、そしてまた万が一衝撃を受けたときのためのクッション代わりにそうしたテリーは、満足の笑みをこぼしてそれを小脇に抱え直した。
この部屋の惨状を見る限り、もしも中に他の絵があったとしたら無事では済まないだろう。そうなると、ギースの部屋から発見したこれだけが、唯一難を免れた絵になる。
しかし他の絵がまだあったとしたら、できるだけ救い出したいところなのだが……。そう思い、Tシャツ一枚の姿でテリーが部屋の中へと近付くと、ぱちぱちと火がはぜる音とともに、水が流れ落ちるような音が聞こえてきた。
「?」
相変わらず煤が舞い上がる中、徐々に視界が開けてくると、その音の正体が露になった。それは屋上の水が、崩れた壁を伝って滝のように流れ落ちてくる音だった。天井からとめどなく流れるその水量に、屋上の日本庭園の池がどれほど広大かを知らしめる。
しかしそのおかげで、火災は弱まっていた。焦げた匂いだけが鼻孔の奥に残り、テリーは鼻頭を擦って天井の方を見上げる。
「ロック……大丈夫かな」
大きく亀裂の入った壁から覗く外界――既に夜明け前にまでなっていたのか、地平線の辺り明るくなり始めた空を見やり、テリーは屋上で戦うロックを思った。
この爆撃に巻き込まれていなければ良いのだが……。
安否が心配なことに変わりはないが、ロックのことだ、きっと上手くやっているはず。そう信じ、テリーは目を細めた。
この分ならば火災も、いずれ収まるだろう。しかし安心して一息ついたテリーは、改めて地面を見やり、ぎょっとした。
絵画らしきものが何枚も、見るも無残な状態で散らばっていた。
「うわ! おいおい、洒落にならないだろこれ……!」
テリーは片手で絵を抱えたまま、その場に膝を付いてそれらに手を伸ばす。特に関係のない絵ならば問題ないが……と思ったが、最悪なことにそれらにはすべてメアリーのサインが入っていた。
焦げ付いたもの、水浸しのもの、修復しようがないほど真っ二つに破損しているもの。もはやどれ一つとして、まともな状態のものはなかった。
「あーあ……」
思わずため息をつき、テリーはかぶりを振る。元が素晴らしい出来のものでも、これほどダメージを受けてしまっていては意味がない。
モナリザのように手を添えた女性の自画像は、顔を含む大半が欠けてしまっていた。恐らくこの女性がロックの母親であるメアリーなのだろう。
顔も伺えないそれに、テリーは微笑みかけた。
「あんたが、ロックを産んでくれたんだな……。ありがとう」
少し照れくさいと思いながらも、感謝しているのは本当だったので、テリーはその場で軽く頭を下げた。生きているときに礼が言えていれば一番良かったのは承知だが、ちゃんと言葉にしておきたかった。
この巡り合わせに、とても幸せを感じているのだということを。
「さて……帰るかな」
崩れた壁から覗く空が、太陽の光で白み始めている。眼下に見えるサウスタウンも、いつの間にか火災が収まり、幾らか静けさを取り戻していた。
白から赤へ、色を変えていく空と街並に目を細めたテリーは、荷物を抱え直して踵を返した。
どこへ行っても所詮は根無し草。けれど、ロックが帰ってくる場所が、自分の帰る場所だということは変わらない。
先にアパートへ帰って、珍しく朝帰りになるであろう息子をからかってやるのも一興だろう。
ちらりと天井を仰ぎ見つつもロックが無事であることを信じ、テリーはギースタワーを後にした。





























――ギースと似ていると言われるのが、嫌いだった。あの男の息子だと知られると、何もしていないのに恐れられ、憐れまれ……うんざりだった。
なのに。
ギースを一番知っている男に、似ていないと、遠く及ばないと失望されたとき、どうしようもなく腹立たしかった。本当ならば、似ていないと言われて喜ぶべきなのに、なぜか怒りが込み上げた。
その理由を、ロックはアパートに帰る道すがら考える。
自分が本当に目指しているところは、どこなのだろうか。
ギースのようではなく、しかしギースよりも強くなることだろうか? それともそれ以上に強いテリーを追い越すことだろうか?
だが街のヒーローになるのも、悪の帝王になるのも、自分は全く器ではない。
「……」
どうすればいいのだろう?
日の出が多くを照らす中、ロックは火事のなごりを色濃く残すサウスタウンの一角を、重い足取りで歩いていた。









いつもなら「ただいま」の一言が聞こえてきたはずだろう。
しかしロックは視線を足元に落としたまま階段を上がってくるだけで、何も言わなかった。もしかするとテリーが居間のソファに陣取っていることも、起きていることも気付かなかったのかもしれない。
テリーは酔い覚ましに飲んでいたオレンジジュースをテーブルに置き、顔を上げた。
「あ?」
試しにテリーは、廊下を素通りしようとしたロックに今気が付きましたと言わんばかりの声をかけてみた。途端、驚いたようにロックは途中で足を止め、こちらを見る。気配にも気付かなかったところをみると、かなり落ち込んでいるのだろう。
特に目立った外傷もなくロックが無事であることをさり気なく確認し、安堵しながらもテリーはそれを表情には出さず、体を起こしてソファに座り直した。
「夜中じゅう、どこ行ってたんだ?」
パシッと膝を拳で打ちながら、テリーは少し厳しい表情でロックに聞いてみる。わざと咎めるような口調でそう言うと、案の定ロックは僅かに不機嫌そうな顔で「別に」と呟いて視線を逸らせた。
「ふーん…」
こちらから聞いていながら深く追求することもなく、テリーは気のない風に返事をして立ち上がる。
本当は答えなど分かっている。朝方まで、ロックは母の絵を探し回っていたのだろう。そして結局は破損している絵を見つけて、諦めて帰ってきたのだ。
分かっていながら、とぼけるのは少し意地悪かな?
そう思いながらも、ロックが無事であることを確認して途端に安心して眠気が襲ってきたので、テリーは二度寝でもするかと言葉を漏らし、部屋を出た。
今はロックの表情も曇っているが、いずれ母親の絵が無事だと知れば、きっと晴れた笑みを見せてくれるだろう。
「メシが出来たら、呼んでくれ」
緊張から緩んだ気持ちがそのまま欠伸に表れ、テリーは盛大に口を開けながらそう告げる。走り回って何かと疲れたが、ロックの美味い料理を食べればきっと簡単に治るだろう。
ロックの横を通り、自分の部屋へと向かう間、訝しげな視線が背中に向けられるのをテリーは感じた。ロックからすれば、どこにも行かずに朝まで起きていたということに疑問を持っているのだろう。
しかし部屋に置いてきたメアリーの絵に気付けば、その疑問も解けるはず。
そしてまた、照れたような怒ったような顔で、お節介だと文句の一つでも言ってくれればいい。
ロックが笑っていてくれれば、何だって構わない。そんな風に思ってしまうのだから、つくづく自分はこの青年にやられてしまっているなと思いながらも、テリーにはそれが誇らしく思えた。







テリーが寝室へ入った後、ロックは居間の片隅に置かれたそれを手に取った。
星型をあしらった大きなフライトジャケットは少し焦げくさい匂いを纏っているが、その下に大切に包まれている絵の存在を思うと、ロックの顔は困ったように、はにかんだ。
「なんだよ。…ったく、とぼけやがって」
ピンと指でジャケットを弾き、ロックは今ここにいない男に文句を言ってみる。だが、どう言ったところで顔が緩んでしまうのは抑えられない。
母がいつも大切にしていた、故郷の風景を描いた絵。そしてそれを守ってくれた、テリー。
(そうだよな……)
母さんも、テリーも、自分をギースの代わりだなんて思っていない。
ロックはロックだと。そうやって、いつも接してくれていた。
それを一時でも忘れてしまっていたなんて……。
「俺ってバカだなぁ……」
苦笑いを零しながら、ロックはジャケットと絵を胸に抱き、朝日が差し込む窓を眩しげに見やった。





END




以上、KOFアニメ第2話の「ACCED」のテリー視点、勝手に妄想話でした(笑)。
ギースタワーに踏み込んだテリーは、やっぱり何か思うのではと考えたので、踏ん切りつけさせる意味も兼ねました。
なんで取ってきた絵が一枚だけだったのかというのも、自分なりにあれこれ考えた結果こうしたのですが……ま、解釈の一つとして軽く受け取っていただければと思います。