コンクリ


俺は帰るべき場所を失った。しかし、不思議と「悲しい」とは思わなかった。
自分がいずれ処分されるであろうことは分かっていた。そんな組織に従う理由はどこにもなかった。今思うと、脳を弄られていなくて助かったと思う。脱走することで自由を手に入れた。
誰の命令などでもない、己の思うままに行動できる。未完成だとかそんな他人の基準ではない、独立をものにした。その代わり、自分の安全は自分で確保しなくてはならない。組織のものに追われる不自由さは常にあったが、「自由」を肌で知った俺には大したことでもなかった。
世界は、美しい。大きくて、圧倒されそうだった。輝く太陽とそれに対を為す月が妖しく照る世界は、知識で得たものとは別物と言わんばかりに俺の脳に衝撃を与えた。洪水でも起きたような、壮絶な革命だった。
どんな言葉にも表し難い「real」。それと当たり前のように接してきたオリジナルに嫉妬し、籠に押し込んで今まで触れさせてくれなかった組織を憎んだ。
だが、その感情さえ薄らぐほどに、それらは俺の五感を虜にした。
人間の社会も不思議でいっぱいだった。小さな金属のコインや紙っぺらを得る為にあくせく働く人々。試しにそれを人から脅し取ってまじまじと見てみたが、それが「お金」と頭で分かっていても、とてもそれが食料や服と交換できる価値あるものには見えなかった。あと、組織で与えられた服のせいで入れなかった場所があったり、オリジナルと同じこの顔のせいで人に道を阻まれたりと、理解できない厄介ごとも多かった。
一番驚いたのは、「人を殺してはいけない」ことだった。組織では相手を滅ぼすことは最大の目的だと言われ、当たり前だと思っていたのに本当の人間社会では違った。
血で地を染め、屍の山を積み上げる「戦争」は最も悪いことらしい。「テレビ」と呼ばれる箱から得た情報だ。
戦争は、俺にとって最大のエクスタシーだった。拳を唸らせて炎を巻き上げ、相手を次々に倒していくのは爽快だった。自分の身が傷つくのもまた、快感だった。
自分は生きている。ここに存在している。そんな崖っぷちの自己確認は最高だった。
だが、戦争は普通の人間にとっては悲しいことらしい。憎しみが憎しみを呼び、被害は拡大し、関係のない人間も巻き込まれるとか。確かに戦闘能力の低い子供や老人は不利だ。勝機のない闘いはしたくあるまい。憎しみという感情はよく分からないが、自分の近しい者が殺されると相手に殺意を抱くのは、いつぞやの八神庵の襲撃で自分と同じクローンが大量に殺されるのを見て胸がむかついた感情に似ているのかもしれない。
どちらにせよ、「外」の世界を知ってからの俺にとっては、組織などちっぽけなものでしかなかった。帰るつもりも毛頭なかった。
なのに、なぜだろうか。今更こんなところに来ているのは。
「……ふんっ。すっかり廃墟だな」
湿った地に転がる瓦礫を蹴り、俺は唾を吐いた。辺り一面、以前に何かあったと思われる痕跡だけを残してすべて崩れ去っている。コンクリートを踏みにじりながらも、俺はいい気味だと笑うことさえも馬鹿馬鹿しいと感じた。
今なら分かる。いかに了見の狭い連中の言いなりになっていたのか。飼い犬になっていた期間と脱走してからの期間はさして大きな違いはないはずだが、前者はまるで時間の無駄だったろう。
百聞は一見にしかず。そんな諺を聞いたが、まさにその通りだと思った。知識など幾らかき集めても現実に勝るものなどない。この手で触れて、この耳で聴いて、この足で踏み締めた感触が真実だ。
だからだろうか。頭で言葉を並べ立てる前に、ここに来たのは。理由など、後から付いてくるものだ。
「組織はなくなったぞ」
「……アンタか」
背後からの声に、俺は口端を上げた。自分の勘は外れていなかった。この瓦礫の山より意味のあるものが、あった。
「八神庵……」
俺は後ろを振り返った。思った通り、そこには赤毛の男が立っている。
端正な顔に飾られた紅い瞳は鋭く、目の前のものを切り刻むような威圧感を備えていた。だが、その視線を正面から受け止めて胸が踊るのを感じた。
これは「草薙京」の遺伝子のせいだろうと思う。闘いが好きでしょうがなかったり、炎を見ると気分が高揚するのと同じように、予め組み込まれているものだ。
条件さえ満たされればどんな状況であろうと関係ない、衝動に突き動かされるのみ。
俺はこちらを静かに見据える八神に、皮肉な笑みを送った。
「組織? そんなの俺の知ったことじゃねぇよ。縛られんのは性に合わねぇんでな」
「なら、なぜクローンの貴様がここにいる」
「さァ……? 墓参りかな? とりあえずアンタに会うとは思わなかったけど」
肩を竦めて俺が言うと、八神はそれ以上その話題に触れるのをやめ、口をつぐんだ。
確かに八神と会うことを俺は予想していなかった。だが、何かがあると確信はしていた。
それが自分の存在にピリオドを打つものだと、分かっていた。
「……で? アンタはこのまま俺を見逃してくれんのか」
「寝言は寝てから言うんだな。見逃すわけなかろう」
そう言って独特の構えを取り、八神は姿勢を低くした。逃してくれる気は本当に全くないようだ。
組織の連中と同じだ。いらないから、邪魔だから、殺す。しかもそれは物を壊す感覚に似てる。クローンだろうが、人間であることに違いはないのに。人権を認めるどころか、存在自体が人権侵害だと言わんばかりに周りから冷たい目を向けられる。
自然だろうが人工だろうが、生まれてしまったものは仕方がないのに! ここにいることは確かなのに!
……アンタも否定するのか。
俺は八神をただ冷たい目で見ていた。
「ま、俺としてもアンタと草薙京は邪魔だからな」
言って、俺も構えを取る。オリジナルと同じその動作は、皮肉にも体に馴染んでいた。
空気がぴりりと張り詰める。その緊張で沸き立つような高揚感に駆られ、俺は笑いながら下唇を舐めた。
先に動いたのは八神の方だった。つかの間の静寂を破るような駿足の突進に、俺は拳を固める。半瞬で間合いに踏み込んできた八神は、肘打ちを繰り出してきた。
半身をよじってそれを避けた俺は、踏み込みながら掌を突き出した。
「ボディがぁ……!」
甘ぇぜッ!
と、叫んで八神の胴をえぐるつもりだった掌は、八神が下から跳ね上げた腕によって弾かれる。先程の肘打ちは囮のつもりの浅い攻撃だったからか、八神の立ち回りは早かった。
長い手が懐に入ったと思った瞬間、俺は鋭い爪に引き裂かれながら空を舞っていた。
「ぐ……ッ!」
背中からしたたかに打ち、俺が痛みに顔をしかめながら体を起こすと、目の前に八神がいた。
「おぉぉぉッ!」
獣のような叫びとともに、八神は低い態勢をさらに低くし、鋭い斬撃を繰り出してきた。
この構えは禁千二百十一式・八稚女。今まで何人ものクローンを葬ってきた技だ。
それをふと思い出したせいだろうか。俺はその瞬間、ガードも構えもすべて解いていた。
結局俺は自分のパーソナルで生きることはできない。いかに身を隠そうが注意を払おうが、この顔では「普通」の生活などできるわけがなかった。「自分」というものも、「草薙京」と違うのか同じなのか、自分自身でも判別できず、果たして今動いているのは本当に自分の意志なのかさえ分からなくなっていた。
俺は「草薙京」じゃない。俺は俺だ、と思おうとしても、遺伝子情報が同じである以上、同じ一個体であることに変わりない。違うのは脳内に蓄積された記憶だけだ。
ならば、初めから「自分」などないのかもしれない。いつしかそう思うようになっていた。自分を証明するためのものを一切持たないことを人間社会で痛感し、「普通」に生きることが叶わないと分かってから、俺はどこかでもう諦めていた。
それでも、何も知らずに死んでいったクローン達よりも遥かに自分は恵まれている。多くのものを見、多くのことを知った。
だから……もういいと、思ったのかもしれない。
「――!」
突風が吹き抜けた。体を突き破る衝撃、舞う血の生臭い匂い、感覚がゼロになる喪失感、すべてが一瞬で起こった。痛いとは感じない。怖いとも感じない。ただ、殻が砕かれて自分というものをやっと感じた気がした。
引き裂かれて壊されてボロ布のように空へ飛ばされてやっと、最後に残った「自分」を俺自身として手に入れたように思ったことを、地に叩きつけられながら、俺は皮肉なものだと思った。
「……なぜ、避けなかった」
たっぷりと間を置いてから、八神は俺を見下ろしながら言った。それは平坦さの中にどこか憂いを感じさせる声音だった。
八神は決して草薙京のクローンという存在を許してはいない。だが、自らも歩んできた忌まわしい過去があったことで、クローンの酷な立場が分からないわけではなかった。ただ、八神の中で「草薙京を自分の手で殺す」ことが最優先だったというだけだ。
同じく草薙京を屠らんとするクローンやネスツは八神にとって邪魔だったから消したと、そういうことなのだろう。
それでも草薙京と同じ姿をした俺が無防備なまま技を受けたのは、八神に少なからず動揺を与えたようだった。いや、動揺というよりは迷いかもしれない。長年待ち望んだ草薙京の死を間近に見て、本当にそれが正しいことなのかどうか、分からなくなったのかもしれない。
遺伝子が同じだけの別人物を通してまで見る、八神の草薙に対する執着心を、俺は羨ましいと思った。草薙京に対してそこまで貪欲になれる八神庵、そしてそれを受け止めて楽しんでいる草薙京、どちらもが俺にとっては焦がれる対象だった。
敵だ味方だと、そんな陳腐な言葉では到底表せない、魂と魂をぶつけ合う相手。
そういう存在がいる二人に憧れ、嫉妬し、最後には苦笑いを零し、俺は瞼を閉じた。
「一瞬でも、アンタにそういう顔をさせてやれたのが……最高の手土産だな」
クッと笑った瞬間、俺は込み上げてきた血溜まりに喉を塞がれた。咳き込む俺を静かに見据える八神はいつもの冷めた表情に戻っていたが、動揺した表情を見れただけでも良かった方だろう。
四肢から力が抜け落ちる感覚に、俺は笑みを浮かべたままで意識を闇へと帰した。






そこは深く、暗く、何もなかった。
だが、暖かな母胎のようでもあった。

俺は安心して、泣いた。







END













「コンクリ」という言葉で思いついたのは、なぜかクローン京でした。庵と京の関係を客観的に、でも離れすぎずに見るにはクローンの立場が一番いいような気がしたので、こんな感じに…。