ゴッドファーザー




今日はバイトもないからゆっくりできる。そんなことを思いながらも体を動かしていないと気が済まない。この気質は父親の血のせいか、それとも育ててくれた男のせいか。どちらにせよ、ロックにとっては困ったことでもなかった。
ウォーミングアップをしてから走り込み、基本的な動きの型を取っての基礎トレーニング。それらが終わって体が温まってからは、息が上がるまで技を磨き、イメージトレーニングをする。そしてテリーに相手をしてもらって実践を行う。
そんないつものメニューをこなそうとロックは基礎トレーニングまでしたのだが、腕を振り抜いた瞬間、トレードマークの赤いジャケットが裂けてしまった。脇のところがぱっくりと空いてしまったそれにロックはショックを受けてしばし呆然とする。ただのシャツなら裂けようが汚れようが対して気にしないのだが、お気に入りのジャケットが裂けたのはいい気分ではなかった。
やる気も削がれてしまい、ロックは仕方なくトレーニングを中断して、部屋に戻った。携帯用に持っていたソーイングセットをカバンの奥から引っ張り出し、それとジャケットを持って床に腰を降ろすと、やっと眠りから覚めたらしいテリーが部屋に入ってきた。
「Good morning…Rock」
「Good morning.…っていうより、Bad morningだね。もう昼すぎなんだけど」
壁の時計を見ながらロックが言うと、テリーが目を擦りながら苦笑いを浮かべた。
「文句言うくらいなら、起こしてくれればいいのに」
「俺はてっきり、昨日張り切り過ぎて疲れてるのかと思ったんでね」
なんとなく胸に溜まっていた不快感のせいか、ロックは床に足を投げ出したままで針に糸を通しながら、突っ掛かるようにやゆを投げ掛けた。案に昨夜、テリーが友人達と飲みに行って朝まで帰って来なかったことを詰っていたが、更にその裏にそんな遅くまで何をしていたんだという刺も含まれていた。
心当たりがあるのかないのか分からないが、テリーはロックのその言葉の意味に気付き、愛想笑いを引っ込める。眉の角度を微かにきつくして、座り込むロックを見下ろした。
「昨日は本当に飲みに行っただけだって、帰ったときに言っただろ」
「それはもう聞いた。本当かどうか知らないけどさ」
テリーがどこで何をしてたかなど確かめる術があるはずもなく、ましてや邪魔なんてできない。交友関係が広く、知名度の高いテリーは男の友達も多いが憧れて群がってくる女性も多い。不安になるなと言う方が無理だ。
だが、自分の勝手な感情を押し付けているだけだという自覚はあり、ロックは言うだけ言って、口を閉じた。ジャケットの裂け目に針を入れていく作業に没頭することで、それ以上見苦しい言葉を吐きたくなかった。
だが、テリーは珍しく機嫌を明らさまに悪くしたらしく、キッチンの方へ足を運びながら苦々しく言葉を零した。
「そんなに俺の言葉が信用できないのか。……だいたい、そこまで干渉するなんて……」
「なに、それ」
テリーの言葉を耳にし、ロックは不機嫌をあらわにした。かろうじてテリーを睨みつけることは踏み止まったが、手元に視線を落としたまま発した声は、普段では有り得ないほどに固く暗かった。
「やっと休みが取れたから、今日は一緒に買い物に行こうって言っただろ」
「今からでも行けるじゃないか」
「今から? もう二時だぜ。目玉商品、とっくになくなってる」
「それなら、朝のうちに一人で行けばいいだろ。子供じゃないんだから」
溜息とともに呆れたような声音で突き放され、ロックは耐えきれずに顔を上げた。
「俺は、アンタと行きたかったんだッ!」
睨み付けた先で視線がぶつかり合った瞬間、ロックは振り返ったことを後悔した。自分の視界が潤んでいることに気付いたからだ。
何をこんなことで泣いているのだろう。ロックはすぐに視線を外し、目を擦って手元にあったジャケットとソーイングセットを掴み上げた。
同じ部屋にいることに抵抗を感じ、ロックが寝室の方に行こうと立ち上がると、テリーに肩を押さえられた。
「何も泣くことないだろ! 昨日は久しぶりに会った知り合いといただけで、何もなかったんだからッ」
「うるせぇよッ、そんなこと俺が知るか! 電話一本も寄越さないで朝帰りしやがって!」
放せよ!とロックが腕を振ると、テリーの腕に持っていたジャケットが当たり、僅かに肌がピッと切れた。通していた針の方が当たってしまったらしい。
顔をしかめたテリーに胸が痛んだが、ロックは緩みかけた顔を厳しく引き締め、押さえられていた手から逃れた。
「……俺に何か言う権利がないことくらい、分かってる。だから……放っておいてくれよ。これ以上文句なんか言いたくない」
「だから! 盛り上がっちまって遅くなったのは悪かったけど、何も……って、ロック! どこ行くんだ!」
もう聞きたくない。苛立ったロックは、言い募るテリーに耳も貸さず、部屋を出ようとした。
「どこだっていいだろ。ここよりもっとマシなところでジャケット直すんだよ、放っておいてくれ」
顔をしかめながらそう言って、ロックは乱暴にドアを開けた。反動でソーイングセットから待ち針が一、二本零れ落ち、フローリングの上に散らばる。
それを気にもせず、テリーは厳しい表情でロックの肩に手を伸ばした。
「話は終わってない。文句があるならはっきり言え! だいたい、そんな古いジャケットなんか、さっさと捨てて買い替えればいいだろっ」
「!」
勢いでそう口走ったテリーを前に、ロックは足を止め、限界まで目を見開いた。
咄嗟に振り返り、信じられない、と呆然と見つめる。
今までで一番聞きたくない言葉だった。テリーの口から聞かされたことが、ロックの心臓をえぐった。
震えそうになった唇を噛み締め、ロックは軋みそうになる声を絞り出した。
「忘れちゃったのかよ……。サイズ直してまで着てるのは、アンタからもらったからなのに……!」
「……あ……」
忘れられたていたことが悲しくて、自分だけが馬鹿みたいに喜んで大切にしてたことが悔しくて、ロックは涙が滲みそうになるのを必死で抑えて詰った。思い出したのか、テリーは言葉を失って視線をさ迷わせる。普通はあげた方が覚えていて貰った方が忘れているということは多いだろうに。
固まったまま、気の利いた言葉どころか聴き苦しい言い訳すらも出てこないらしいテリーに嘆息し、ロックは背を向けた。
「……もういい。アンタなんか知らねぇ」
テリーを残して、ロックは部屋を飛び出した。寝室に行こうかと思っていた足は自然に玄関へ向き、そのままマンションの階段を駆け降りる。
しばらくテリーの顔は見たくないと思った。だが、一番嫌いなのは自分だった。
なんであんなくだらないことにいちいち突っ掛かってしまったのか。自分の苛立ちを抑えきれずにテリーに不躾な言葉をぶつけてしまったことを、ロックは後悔していた。
ただ、一緒にいたいだけなのに。テリーの傍にいて、いつも同じ時間を過ごしていたいだけなのに。なぜ自分はいつも文句ばかりつけてテリーを困らせてしまうのだろう。どんどん嫌われていくだけではないか。
……それとも、一緒にいたいと思うのはおかしいことなのだろうか。テリーはロックのように思ったりはしないのだろうか。たまには必要だと……思ってくれたことはないのだろうか。
やっぱり、自分はまだ子供なのだ。ロックは階段を降りながら、自嘲の笑みを浮かべた。きっとテリーには手の掛かる子供、あくまでも息子としてしか映っていないのだ。
「強く……なりたいな」
テリーに認めてもらえるように。そしてなにより、自分が自分を信じられるように。
ロックの望む強さは、なにも格闘だけに限ったことではない。内面の強さも含んでいる。意志の弱い拳は何も貫けない。立ち塞がる壁も自分で壊すことのできないのでは意味がない。しかしうわべだけの強さは人を傷付ける。心ない言葉は暴力よりも相手を深く傷つけてゆく。
闘う強さと思いやる優しさ、どちらが欠けてもいけない。ロックには、どちらもまだ欠けていた。
一緒に闘いたい人がいる。一緒に笑っていたい人がいる。対等に肩を並べていたい人がいる。
だから、強くなりたい。ロックは拳を握り締め、そう思った。
「……なら、大会に出てみないか?」
「!?」
突然背後から掛かった声に、ロックは拳を固めて振り返った。耳に届いたそれは自分の知っているどの声音にも当て嵌まらなかったからだ。
階段で身構えたロックの視線の先には、フード付きのマントで全身を覆った人物が立っていた。明らさまに怪しいその姿に、ロックは眉根を寄せて睨み据える。
気配も感じなかったその人物は、ロックが警戒の眼差しを肩を竦めてかわし、泰然と腕を組んだ。
「とある人達から頼まれて来たんでな。別に怪しい者じゃない」
「その恰好で怪しくないってのは説得力に欠けるぜ」
「じゃあ、言い方を変えようか。危害を加える気はない」
「……」
言ったことに偽りはないというように、その人物は腕を組んだきり、動く気配を見せなかった。声と身長から察するに男であるらしいその人物を見つめ、ロックはしばらく思案した。相手の様子ではそこから動く気はないようだが、それが真実かどうかは分からない。考えごとをしていたとはいえロックが気配に気付かなかったということはかなりの手練であることは確かだろう。
警戒を解かないまま、ロックは階段の上部に立っているその男に向けて口を開いた。
「……頼まれた、ということは何か用があるってことだよな。大会がどうとかも言ってたし」
「お、忘れてなかったか。有り難ぇな」
男は肩を揺らして楽しげに笑う。フードとマントで顔も体も全く見えないが、言動から察するにそのまま感情が態度に表れるタイプらしい。とはいえ演技という可能性もあるので油断はならない。
ロックが押し黙ったまま待っていると、男は笑いを収めてから再び口を開いた。
「ある二つの大きな組織の力で、実現した最大級の大会『ミリオネアファイティング』。文化や国どころか、過去も未来も跨いで強者を選りすぐったから、相手に不足はないはずだ」
男はすらすらと言い終えると、こちらの反応をじっと待った。内容は聞き取れたが意味がいまいち呑み込めなかったロックは、戸惑いながらも慎重に言葉を選ぶ。
「……それをなぜ、俺に言うんだ」
「もちろん、お前がこの大会に招待されてるからだ、ロック・ハワード」
名前を言い当てられて一瞬驚いたが、その大会とやらにわざわざ招待されているとなると、こちらの素性は調べられていると考えるべきだろう。
闘う機会があるのは確かにロックにとって有り難いが、突然現れた男に招待されているからと言われても、すんなり頷けるわけもなく、更に警戒をあらわにして男を見つめた。
「有り難い話だけど、そんなよく分からない大会にまで出る気はない」
「まあ……訳が分からんって辺りは否定しねぇな。俺も実際に出場するわけじゃねぇから、いまいち分かんねぇんだ」
男は困ったようにぼりぼりと頭を掻く。それを、ロックは呆れたように見つめた。遣いの者さえ把握していないとは一体どんな大会なのだか。最初の推察通り、男は上手く嘘がつけない直情型のようで、よく分からないという言葉は真実のように思われた。
うろんげに見るロックの眼差しに気付き、男は慌てて言い繕う。
「ああ、えっとだなッ。分かんねぇっつっても、詳しい仕組みが分からねぇって意味なんだよ。過去にいた猛者、未来にいる猛者、次元の違う世界にいる猛者、それを全部一箇所に集めるわけだから、そんなとんでもないことを誰がやってるのかってのは知らねぇ」
「……」
「だけど、そこにそいつらがいて、実際に大会が存在していることは確かだ」
男はそう言い切ると、こちらの厳しい眼差しを恐れもしないで封筒を差し出してきた。
「強くなりたいんなら、絶好のチャンスだと思うぜ。どうだよ? ……お前がこの招待状を受け取れば、大会への出場は決定する。よーく考えるんだな」
男はひらひらと封筒を振って、笑う。表情は窺えないが、声の調子には「せっかくのチャンスを逃すなんて勿体ないよなぁー」とからかいが半分入っているようだった。
ロックにはなんとなくその男が嘘をついているようには思えなかった。だが、何分話が突拍子もなさすぎる。そんな時空を捩曲げたような大会、本来ならありえるはずもない。
とはいえ、強い者と闘えるというのは魅力的だった。色々なファイターと闘って経験を積むことが何よりも腕を磨くための近道だからだ。
一度テリーに相談した方がいいだろうか。そう思ったロックは、先程テリーといさかいを起こしたばかりだったことを思い出した。相談以前にテリーと仲直りする必要がある。
自分が口煩くしたことが悪かったのだと、分かっている。だが、こちらの気持ちも少しは察してほしい。そんな気持ちがまだロックの心を占めていた。
だからなのか、ロックは意地でもしばらくテリーのところへ帰るものかと思ってしまった。
「……その大会、どれくらいの期間あるんだ?」
「大会自体は二日。ただし、現地で登録とかがあるから前日には行かなきゃならねぇから、実質三日かかる」
説明を聞いて、三日くらいならちょうどいいかとロックは思った。自分の頭も少しは整理されて、この苛立ちが収まってくれるかもしれない。
次いで、ロックは質問を重ねた。
「大会の開始はいつからだ?」
「ん。だからさっき言ったろ。時空を渡って参加者が集まるから、その開始日に飛ぶ<ワープする>だけだ。お前のいるこの時間自体がすでに<未来>だからな」
「え……」
男の言葉に、ロックは目を見張る。その説明は分かったが、ロックが生きている時代が「未来」だと言われて驚いたのだ。
何を基準にして未来だというのか、疑問を口にしようとすると、ちょうど男に遮られた。
「ともかく! どうするかさっさと決めてくれ。俺だって暇じゃないんだ」
「……いいよ。行こう」
ロックは、静かに答えた。今、テリーのところに帰る気がない以上、大会に参加することに不都合はない。むしろ少しでも早く強くなって、テリーと対等になりたかった。自分でも信じられる自分になって、テリーに相応しい人間になりたかった。
そしてもう一つ。もしもこのまま黙って消えたら、少しは心配してくれるだろうか。そんな身勝手な願いがあったことも確かだった。いつも帰りが遅いテリーを待つロックの気持ちを少しでも分かってほしいと思った。……もしかすると、心配など何もしてもらえないかもしれないけれど。
いずれにしてもその大会に出る意思は固まっていた。真っすぐな瞳で見るロックに、男は封筒を突き出しながら笑った。
「いい眼だ。覚悟は決まったみたいだな」
「ああ」
ロックはその封筒を受け取った。



「……っ痛……」
いつの間に倒れてしまっていたのか分からないが、ロックは体を起こしてぼんやりとする頭を振った。
非常に不可解なことだが、受け取った封筒を開けたところでロックは気を失った。遣いの男に殴られたわけでもなく、怪しい薬を嗅がされたわけでもなく、突然意識が薄れてしまい、耐えきれずに倒れてしまったのだ。
一体どういうことだと男に問おうとロックは顔を上げた……が、眼の前に広がっていた光景は、暮らしていたマンションの階段ではなく、どこかの一室の中だった。
「え……?」
咄嗟に状況が把握できず、ロックは慌てて周りを見渡した。
何の変哲もない部屋。ホテルほどに上等ではないが、テリーとロックが住んでいたマンションほどに古くはなく、置かれているものも最低限必要なベッドや小さなテーブルと椅子などがあるだけだった。向こうにドアが一つあるのでそちらにも部屋があることは窺えたが、小じんまりとした部屋の構造から察するに、大したものがあるようには思えなかった。
それよりもはたと気が付いて、ロックは遣いの男を探した。説明を求めようと思ったのだが、辺りを見回しても男の姿は全く見当たらない。
眠らせられていた間にこの部屋に連れてこられた?
何かとんでもない選択ミスをしたのではないだろうかと急に不安になったロックは、とりあえず状況を把握しようと、自分の恰好を確認した。気を失う前と同様の黒のシャツに黒のスラックスという出で立ちは変わらず、足元にはマンションから飛び出したときに持っていた赤のジャケットとソーイングセットが落ちていた。受け取った封筒も同じく床に落ちており、特に変化はなかった。
拾い上げたソーイングセットと封筒をスラックスのポケットに突っ込み、ジャケットは手に持って、ロックは部屋から出るためのドアを探した。万が一のために武器となるものがほしかったところだが、活用できそうなものはその部屋になかった。
「とりあえず、出ないと……」
ちょうど後ろにあった扉が、外に続いているようだ。構造からそう判断したロックはドアに手を掛けようとして――咄嗟に身を退いた。
誰か、向こう側にいる……!
廊下を歩く靴音と気配に、ロックはドアから離れ、息をひそめる。ここがどこか分からない以上、見知らぬ人間は疑ってかからなければならない。敵か味方か知れないのだ。
しかしその廊下にいる相手がこの部屋に入ってくるとは限らない。捕まえて情報を聞き出すという手段もあるが、今はひとまずやり過ごすのが無難だろう。
そう思ったロックだったのだが、壁一枚挟んで向こうにいる相手がこちらの気配に気付いて足を止めたことに、心臓が跳ね上がった。子供の頃と違ってストリートファイトでも活躍するようになったロックは、普通の人に比べれば遥かに身体能力が発達しているはずである。そのロックが気配を消してなお、存在を感づかれるということは、相手は自分と実力が同等かそれ以上と思うべきだろう。
相手がどう出るか分からないので、ロックは静かに持っていたジャケットを床に置き、気配を殺しながら擦り足で後ろへと下がった。行動が予測できないかぎり、距離を空けて時間を稼ぐしかない。
何があってもいいようにと構えを取り、呼吸を整えたロックが何の変哲もないドアを睨み付けていると、向こう側の気配が突如動きを見せた。
「!」
ドアがガンッと音を立てて開かれ、人影が踊り出る。それに最速で反応したはずのロックだったが、自分よりも一回り大きい図体の持ち主の輪郭しか視界に捕らえられず、一瞬で間合いに踏み込まれていた。
ロックの眼にその男の顔はブレて見えたのだが、ゾッとするほど鋭い眼光だけが鮮明に映り、その様が脳裏に焼き付いた。
「……ぐッ!」
見た者を奈落の底に引きずり込むような青い瞳に気を取られ、ロックはその男が繰り出してきた拳を間一髪で受け止めた。しかし焦って攻撃を骨でもろに受けてしまい、感覚が消失するような痺れが肘まで伝わってくる。
このまま耐えても確実に力で押され負けると咄嗟に判断したロックは、ブロックしていた左腕を外側にずらしながら体を屈めた。力の流れる方向が逸れて、男の重心が浮わついた瞬間、ロックは床に這いそうなほどの低姿勢で相手の片足を掬った。
「――!?」
腕の円運動で相手の力の向きを変えてやり、ロックは自分よりも一回り体の大きい男を軽々と空中へ放り投げた。まさか投げられるとは思わなかったのか、男が驚愕する気配が窺える。
だが、床へ叩き付けられる寸前に男は受け身を取っていた。腕に受けた一撃が思ったよりも響いていて力加減を誤ったらしい。
投げる前に防がれることはあっても投げた後で受け身を取られたことなど初めてで、その動揺がロックの反応を鈍らせた。
地に足を着いたと同時に、男が拳を突き出す。
「バーンナックル!」
「うわぁあッ!?」
その体躯では考えられない素早さの突進を、ロックはガードしようとして間に合わず、体をよじった態勢でもろに喰らった。いや、それよりも男の叫んだ声、発した言葉、そしてなによりも過去に何度も身に受けた馴染み深い技が、ロックの思考を痛みよりも混乱へと陥れた。
テリー!?
できることなら今もっとも会いたくない、しかし誰よりも愛しいその人だと分かり、ロックは受け身を取るのも忘れて背中を強打する。一瞬、息が詰まり、ロックは酸素を求めて喘いだ。
そのロックを見下ろすように、男はすぐ傍に立つ。痛みに閉じてしまっていた眼を開けて見上げると、そこには見慣れた顔があった。
「Who are you?」
「……!」
だが、男の口から発せられた言葉とともに、ロックは違和感に気が付いた。
こちらを厳しい目付きで見つめる男は紛れもなくテリー・ボガードでありながら、それはロックの知らない姿だった。いや、知らないというわけではない。幼い頃に憧れた、そのときの姿だ。はっきりと今でも自分の脳裏に焼き付いている。
しかしそれは十年も昔のテリー・ボガード。
トレードマークの赤い帽子に赤い上着とジーンズ。なびく髪は腰まで伸び、面倒くさがりな彼らしく、おおざっぱに二カ所で留められている。
「な…なんで……」
十年前の姿をしたテリーに当惑し、ロックはのろのろと上体をお越しながら譫言のように呟いた。幽霊でも見たように凝視するロックにテリーも僅かに表情を変える。
「もう一度聞く。アンタ、何者だ?」
「俺、は……」
警戒は解かないままだが落ち着いた声音で再度問い掛けてきたテリーに、ロックは動揺を隠せないまま無意味に言葉を紡いだ。
いつでも自分を見守って笑っていたくれたヒーロー。父親であり師匠であり恋人である人。闘いのときは厳しかったが、普段は優しく、どんなときでも楽しかった。
自分の唯一の味方だと、依りどころだと、そう思っていたせいかもしれない。警戒心を剥き出しにして敵を見るような目付きでテリーに見下ろされたことが、ロックの心臓をきりりと痛めた。闘いのときに見せる厳しい眼差しが、これほど怖いとは思わなかった。どんなに怒っていても瞳の奥に愛情が感じられたからこそ、今までロックはテリーを恐ろしいとは思わなかったのだ。
それが、今は体が震えるほどの恐怖を覚えていた。歯の根が合わなくなりそうになるのを耐えるのがやっとだった。それは単純な恐怖以外に、テリーに見捨てられたような痛みが入り交じっていたせいかもしれない。ロックにとって最大の悪夢を見させられたような心地だった。
「テ、リー…。本物…の……?」
どこか、悪ふざけでテリーが昔の恰好をしているのではと思った。それがただの幻想だと分かってはいた、誰よりも彼の十年間の変化を間近で見ていたのが外ならぬ自分自身だったからだ。
冷たい視線に晒された事実を否定したくてそう聞いてみたロックに、テリーは心底訝しげな顔をした。
「なんだ、俺がテリー・ボガードだって知らなかったのか」
「じゃあやっぱり……本物……?」
「ああ、俺は正真正銘のテリー・ボガードだぜ?」
こちらに闘う意思がないとみたテリーは、表情を緩めて笑った。それでもそれ以上近付こうとはしないテリーに、ロックは尻餅をついたまま唇を噛んだ。
「……でも、俺のことは知らないんだろ?」
「え? あー…もしかしてどこかで会ってたのか?」
ロックの呟きにテリーは驚いた顔をしてから、困ったように帽子のつばを弄った。ロックは無駄だと知りつつも、期待をかけてテリーが何か言い出すのを待った。
しかし、テリーはなんとなく組んでいた腕を解き、こちらを気まずそうに見る。
「悪い、思い出せねぇんだけど……」
「……そう……」
予想はしていた、悲しくなんかない。そう思っても、ロックは表情を歪めて俯いてしまった。どうしても落胆は拭いきれなかった。
その反応に、テリーは驚いて慌てた。
「お、おいっ。何も泣くことないじゃないか」
「……別に、泣いてない」
「そんな顔してたら同じようなもんだろ」
よっぽど子供っぽく見たのか、テリーは今までの警戒とは裏腹に、しゃがみ込んでロックの頭をわしゃわしゃと撫でた。子供に対するようなその扱いに余計に腹は立ったが、それでもテリーの大きな手が温かくて、泣きたいわけでもないのに涙が零れた。
一つ、二つと俯いたまま雫を落とすロックに、テリーは尚更慌てる。
「ほら、泣き止めって。思い出せなくて悪かったよ、今度はちゃんと覚えるから、な?」
そう言って、気さくに抱き締めてきたテリーに驚いたが、同時にロックはその温もりに安堵した。
なぜテリーが十年前の姿なのか、そしてロックのことをなぜ覚えていないのか、全く分からなかったが、テリーはどんなときでも優しいのだと思ったら、不思議と心が穏やかになった。涙の収まったロックは、宥めるように大きな腕で包み込んでくれているテリーの引き締まった背に手を回そうとして……やめた。廊下の方に人の気配を感じたからだ。
しばらくと経たず、開きっ放しだったドアの向こう側から一人の小柄な少年が顔を覗かせた。
「……テリー?」
「!」
何か奇妙な、自分の根底が揺さぶられるような不安感に襲われて顔を上げたロックは、その先で少年と視線を合わせ、驚愕した。心細げにこちらを見るその少年が誰であるか、一目で察してしまった。
半分ドアに体を隠したままの少年は、煌めく金髪に血のような赤い瞳を持っていた。少しきつめに目尻の上がったその瞳は大きくつぶらで、顔の造作は子供ながらにして驚くほど整っている。オレンジ色のTシャツを着たその少年は、おそらく六、七歳――いや、ロックの予想が当たっているならこの少年は七歳のはずだろう。
向こうもこちらを驚きとともに見つめており、視線を絡めたままだったが、半瞬遅れて少年の存在に気付いたテリーは、ロックの存在など忘れたように慌てて立ち上がり、少年のもとに駆け寄った。
「ロック! なんでこんなところにいるんだっ」
ああ……やっぱり。
テリーの発した言葉に、ロックはすべてのつじつまが合うのを感じた。
少年の正体は、十年前の自分自身だ。写真が残っているわけでもなかったので、一目見たときに確信は出来なかったが、金髪はともかく赤い眼の人間などそういない。ロックの知る限り、自分と母親くらいのものだった。
そして七歳の自分をテリーが知っているということで、テリーがなぜ昔の姿をしているのかが分かった。
自分の目の前にいるテリー・ボガードとロック・ハワードは、十年前の二人なのだ。遣いの男の言っていた言葉を真に受けるなら、自分の方が昔に来てしまったということなのだろう。ロックの生きる時間を指して未来だと言わしめたのは、この十年前の彼等を基準にしていたからだ。
『未来の猛者、過去の猛者、異次元の猛者、それらが皆この大会に集う』
その言葉に偽りはなかったのだろう。目の前の現実を見れば信じざるを得ない。確かなぬくもりを持ち、話し掛けてきたテリーは幻などではない。
しかし、まさか過去の自分とテリーに突き合わされるとは思わなかった。ロックは苦笑いを零し、立ち上がって保護者と子供を見つめた。
「ロビーで案内係のお姉さんと遊んで待ってろって言っただろ?」
「うん……。でも、テリーが心配になって……」
「俺はお前の方が心配で預けて行ったんだぞ? いくら大会用のホテルでも、ガラの悪い連中がいないとは限らないんだからな。まず安全かどうか確かめてからって、いつも言ってるだろ?」
「うん……。ごめんなさい」
膝を折って小さな少年に言い聞かせるテリーは、闘いのときとはまた違う真剣な表情だった。思わずうなだれた少年は、泣きそうな顔でそれを聞く。その光景を、ロックは不思議な面持ちで見ていた。
確かあの頃はテリーに置いていかれないように必死だった。父親には見捨てられ、母親には先立たれ、生きる術はかろうじてあっても生きる目的が見出だせなかったあのとき、テリーの存在は自分のすべてだった。思いがけず世話をしてもらえるようになってから、ロックはテリーに捨てられないように、役に立てるように、自分の出来ることはなんでもした。反面、子供の身で出来ることは少なく、ただ庇護されるばかりの自分に情けなくもなった。無力感を噛み締めてテリーの無事を祈ることしかできなかったあの頃は、今思い出してもつらい。しかしだからといって今でもテリーの隣にいる資格があるとは自分でも思えない。幼い頃よりはできる選択肢が増えたというくらいだ。
テリーのお荷物にだけはなるまいと、おそらく必死で思っている少年は、下唇を噛みしめながらこちらをちらりと見た。
「あの人は……?」
「え、ああ…」
少年の視線につられてロックを見たテリーは、言われて曖昧な言葉を漏らした。
ロックから見れば二人の正体は分かりきっていたが、テリーや少年からすればこちらは充分に怪しい人物だ。二人は未来のロックが自分だとは微塵も思っていないだろうから。
だが、ふとこちらを見るテリーの目が変わった。
「……あれ? なんか誰かに似て――」
「いやー悪い! 来るのが遅くなっちまったな」
テリーが何か言いかけた瞬間、開け放されていたドアから、黒いローブを頭から被った男が馬鹿でかい声を張り上げて現れた。その姿を認めて、ロックは思わず「あ!」と声をあげる。
「おい、アンタ! ここ、どこだよ!? 説明もなしに飛ばすんじゃねぇ!」
「いや、悪ィ悪ィ! 他の連中の対応に手間ァ取られてたもんでな」
遣いの男はいまいち悪いとも思っていなさそうな軽い口調で、まくし立てるロックに謝った。その態度に尚も文句を言ってやろうかと口を開きかけたロックだったが、そのやり取りにテリーが驚いたような表情で口を挟んだ。
「おい。もしかして、そいつも大会の選手だったのか?」
ロックを指して、テリーが遣いの男にそう聞くと、男は覗く口元だけで笑った。
「そうだぜ。ついでに言うなら、コイツはお前のチームメイトさ」
「なんだって? そんなこと勝手に決めるなんて、どういうつもり……」
「んー? おかしいーなー。コイツで不満に思うなんて、あるはずないんだけどなー」
男は確信犯の笑みを浮かべ、ロックの肩を抱いた。そしてそのまま有無を言わせず強引にテリーの正面まで引きずっていく。不意打ちでされるがままに、こちらをじっと見つめるテリーの目の前につれて行かれ、ロックはえも言えない居心地の悪さと恥ずかしさで視線を泳がせた。
当のなぞなぞを出されたテリーは眉間に皺を寄せて怪訝な顔でこちらを見る。
「どういう意味だ……?」
「あれ、本気でわかんないのか? まったく、ホント薄情な父親だよなー。……なぁ?」
「お、おい……っ」
男がにんまりと笑って同意を求めてきたので、ロックは思わず上擦った声で窘めた。
男の話によれば、初めからロックを昔のテリーとチームを組ませる気であったことは分かるが、目の前の若いテリーに「自分がそこにいる子供の成長した姿です」とはどうしても開き直って告げることができない。正体を明かして、こんな奴になってしまうのか…などと思われたりでもしたら、恐らく自分は深く傷付くだろうから。知ってほしいと思う気持ちは確かにあるが、それ以上の不安感が心をに覆っていた。
しかしそんなロックの不安など露知らず、テリーは男の言葉に心底驚いたようだった。
「ち、父親……!?」
口をぱっくり開けて声をあげるテリーに、遣いの男は機嫌良さそうに頷く。
「ああ、そうだ。……もう分かるだろ? コイツは、わざわざ空間を渡って未来から連れてきた、スペシャルカードなんだからな」
未来と聞いて、やはりここは過去なのだな、とロックは呆然と思う。今でも夢なのではと思ってしまうが、自分の意思がここにある以上、たとえ夢や幻だとしても突き進むしかない。
闘いたいから、ここへ来た。何を不安に思うことがあるだろう。サウスタウンの餓えた狼と言われたその時のテリーがいるというのに。これ以上のコンディションはどこにもないではないか。
じわりと皮膚に滲む汗と、奇妙な気分の高ぶりを抑えながら、ロックは帽子に手をやって考えこむテリーに向き直った。
「テリー。俺は……」
「分かったッ!!」
「え?」
自分から正体を明かそうと思った矢先、テリーが突然手を打って叫んだ。何事かと、ロックと遣いの男が視線を投げると、テリーは晴々とこう宣ってくれた。
「パオパオカフェで知り合ったリサちゃんとの子供じゃないか!? あの晩はいつになく激しかったから、きっとそうに違いな……」
「死にクサレこのろくでなしィィィィーッッ!!」
みなまで言わせず、ロックが怒りMAXでテリーに向けて突進技を繰り出し、きっちりライジングタックルまで決めるのを、遣いの男は止めようなどとは一切思わなかった……。



「……メシの用意どころか掃除洗濯もやらなくちゃ、まともな生活できねぇし」
「うん」
「そのうえ年中根無し草で、野宿なんかざらだし」
「うん」
「おまけに収入は俺のバイトの給料くらいだし……いや、これはテリーが自分の収入をボランティアに使ってるせいだから別にまあいいけど」
「うん」
「とにかく! こっちが節約しようと頑張ってんのにバクバク食いまくりやがるから、家計は火の車になりかけるわ、当の本人は太り気味だわ」
「うん」
「……だから、あんなプー太郎に付き合ってたらまともな人生歩めねぇぜ?」
「うん。でも、もう遅いんじゃないかな」
「……そうだな……」
あっさりそう言った少年の前で、ロックは力なく項垂れた。少年はこちらの落ち込む姿にきょとんとして、紅い瞳を瞬かせる。
そんな幼い頃の自分に、あー不憫だなーカワイソウになーなどと言いながら、ロックがその金髪を撫で撫でしてやっていると、シャワーから上がってきたテリーが慌てて駆け寄ってきた。
「おい、頼むから変なこと吹き込まないでくれよ」
「変なことじゃない。全部事実だ!」
とりあえずは叫び返してみるが、横槍が入っておもしろくなくなったロックは、清潔だが質素なベッドに仰向けで寝転がる。それを溜息交じりに見たテリーは、小さいロック少年の方に向き直って言った。
「ほら、ロック。楽しいのは分かるけど、早くシャワー浴びてきてベッドに入っちまいな」
「はーい」
元気良く返事をし、少年はパジャマを持ってバスルームに駆けて行く。それを目で追っていたテリーは、少年が視界から消えてからゆっくりとこちらへ振り返ってきた。
「うちのロックはあんなに素直なのになー……」
「アンタが馬鹿なこと言って俺を怒らせるからだろ。自業自得だぜ」
「いや、だからあれはちょっとしたジョークだって! 俺が息子を見間違えるはずないだろ」
「どうだかね」
テリーの言葉に全く取りあわず、ロックは仰向けのままジャケットとソーイングセットを手元引き寄せ、縫う作業に入る。テリーの発言にキレたロックはあの後、自分の正体を明かしたのだが、小さなロック少年はその状況がいまひとつ飲み込めなかったために根気のいる説明を必要とされ、今まで時間がかかってしまって服を直す時間がなかったのだ。とはいえ、小さなロックは子供にしては頭の回転が早い方なので、意味が飲み込めなくとも状況を受け入れるのは容易く、すぐにロックの存在を受け入れていた。それなのになぜ時間がかかったかというと、ロック自身も少年自身も言いようのない違和感を感じていたせいだ。同じ空間に同じ人間が存在しているためなのか、奇妙な感覚だった。
それでも次第に慣れた二人のロックは短時間で親睦を深めた。ロックにしてみれば昔の自分の思考や感情など手に取るように分かる。実父に対する怒りとか、テリーに対する信頼と不審とか……時々見ていて自分でもあまり思い出したくないものまで引きずり出されてしまうくらいに、はっきりとシンクロしていた。
だからよく分かる。なぜ小さなロックが大人しくて聞き分けが良いのか。
「……まだあの頃は、テリーを信じきれてなかったんだ」
上半身を起こしてベッドの上であぐらをかいて座ったロックは、針に糸を通しながら呟いた。それを聞いたテリーが、訝しげにこちらを見る。しかし顔は上げず、あくまでも裁縫に意識を向けながらロックは微かに苦笑を漏らした。
「母さんが死んで、親父に見捨てられた後だったから……まさか憧れてたテリーに面倒見てもらえるだなんて思わなかったんだ。テリーを疑ってるわけじゃないよ、でもいつかまた見捨てられたりするんじゃないかって不安に思ってた……」
「! 俺はそんなこと絶対にしないぞ。ロックといると、まるで毎日がびっくり箱みたいで楽しくて仕方ないんだ。手放せって言われたって、無理だぜ」
最後の方は驚くほど無邪気に笑って、テリーは言った。年齢が近付いたせいだろうか、ロックにはそれが子供のような幼い表情に見える。自分の知っているテリーでありながら、別人のような若いテリー。どちらかというと今のロックは、若いパパを始めたテリーと少年を温かく見守るアンディやジョー東、舞などのような立場にあった。近いようで遠い、一歩退いた位置関係であり、目の前のテリーが愛してやまないのは、あくまでも小さいロックだ。自分ではない。
どうなることでもないことはよく分かっているが、今ここにいない、自分とずっと一緒にいてくれた三十五歳のテリーに会いたいと無性に思った。それがまだ彼に甘え続けている証拠でもあるのだろうが、今までの人生は彼から貰ったようなものなのだからやはり欠くことなどできない。
……ごめん、ホント俺は我が儘で生意気だったね……。
ケンカをして黙って出て来てしまったことを、ロックは今更ながら悔いた。毎日のように小言を言って偉そうな態度を取るロックに、テリーもいい加減うんざりだったろう。嫌われてしまったとしたら、きっと自分は生きていけないのに、馬鹿なことをしたものだ。
今、どうしてるだろう。そんなことを思い始めたロックに、いつの間にか近付いて来ていた髪の長いテリーが、隣のベッドに腰掛けてこちらの顔を覗き込んでいた。
「……今は、俺を信用できているのか? あ、いやお前にしたら今の俺じゃなくて、未来の俺になるんだろうけどさ」
子供の頃は信用できてなかったのだと言ったことが、テリーには少なからずショックだったのだろう。言葉を選びながら、テリーが真顔で尋ねてきた。十年後もやはり同じままなのか、気になったのかもしれない。
テリーでもそういうことを気にするんだなぁと妙な感心を抱きながら、ロックは声を立てて笑った。なんだろう、テリーという人物がより身近に感じられた。
「信用してるさ。当たり前だろ? 頼むから馬鹿なこと聞くなよ、笑えてくるから」
「なんだよソレ」
釈然としない様子で、テリーはこちらを見る。その視線が若い男の見せる青臭さが交じったものだったので、余計にロックは腹を抱えて笑った。おそらく元の時代ではそうそうお目に掛かれるものではないだろう。どんなに「恋人」だと言ってもテリーはロックを「息子」と思う意識がなくならない。十年近く親子として生きてきたのだから、もはやそれは条件反射と言えるだろう。
だが、若いテリーはまだロックとの親子関係が浅く、そのうえ予想だにしなかった未来のロックを目の前にして、父親らしくなどそう簡単にできるはずがない。どちらかというと友達のような感覚が強い。
裁縫もいつの間にか放り出して笑うロックに、テリーは憮然として頬杖を付いた。
「何がそんなにオカシイんだ」
「はは…。だって、そんなこと気にする神経があったなんて思わなかったからさ」
「お前、俺のことをお養父さんと思ってないな……?」
ひくりと口元を引き攣らせ、テリーが半眼になる。ギラつく光を湛えるその瞳を軽く受け流して、ロックは意地悪く笑った。
「思えるわけないだろ? いっつも世話してんのは俺なんだから。放浪癖のある、ぐーたらオヤジを保護者に持つと大変だぜ全く」
「あ、コイツ。言いやがったな! ホント可愛くねぇっ」
「うわッ! ちょ…、止めろよっ。くすぐった……はは!」
軽口を叩いていたら突然テリーが伸し掛かってきて脇腹をくすぐってきたので、ロックはベッドの上でひっくり返って笑い声を上げた。いつものテリーともじゃれ合いは多いが、積極的にノってくるほどではないのが常だったせいでロックはその行動に驚いたが、まさに「陽気な兄ちゃん」然としたテリーにはすぐに馴染み、髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す大きな手をぎゃーぎゃー言いながら押しのけたり、逆に押さえ付けられたりと、しばらく騒いだ。
しかしひとしきり小突き合うと、ふとテリーはロックの手を握りしめてじっと見つめた。
「……こんなにでかくなっちまうんだな」
「え……?」
静かに落とされた不意の呟きに、ロックは顔を上げた。部屋の照明を背負ってこちらを見下ろすテリーの青い瞳と視線が絡み合い、思わずドキリとする。その瞳には嬉しさや寂しさ、誇らしさや純粋な驚きなど、びっくりするほど複雑で混沌とした感情がすべて内混ぜになっていた。様々な色を得た碧眼が、湖面に光を映したような輝かしさと静けさを持っているのを、垂れた長い前髪が掛かるような距離で見せられ、ロックは狼狽る。しかしテリーはそれには気付いていないのか、ロックの手を凝視してから、こちらの前髪を掻き上げて額に触れてきた。
「なんか、せっかく楽しみにしてた子供の成長を見せられちまって残念な気はするけど……思いもよらないくらい立派になってて、正直驚いた」
「と、突然何を言い出すんだよっ! そんなことないってッ。テリーの方がよっぽど凄いじゃないか! 俺なんかまだまだ……」
「でも、あんなにまともに闘えるようになってるなんてなぁ」
緩やかな逆光の中で、テリーは目を細めて笑った。微かに目尻が下がる、その笑い方がまるで今も昔も変わっていなかったことに、ロックの心臓は跳ね上がりそうになる。皆に愛され、仇の息子である自分でさえ惚れ込んだだけあって、テリーのこういう笑顔は見惚れてしまう。性別など関係なく、魅了された人間は自分以外に沢山いたことだろう。
出合い頭に互いの正体が分からないまま拳を交えたときのことを褒められて嬉しいことは嬉しいが、押し倒されたままのこの状況と心臓に悪い笑顔から逃れたくて、ロックは頬が熱くなるのを自覚しながら、視線を泳がせた。この目の前のテリーが何かしてくるなどとは全く思っていない。自分の方が抱き着いてしまいたい衝動に駆られるのだ。
大好きだ、とか。変な意味ではなく、大きな声で叫びたかった。親子関係の枠から少し外れているからだろうか、そう言ったらこのテリーにはストレートに言葉が届きそうだった。自分と目の前のテリーの直接的な関係は厳密に言うと、話し始めて一日も経っていない間柄なので、親子としてか恋人としてかあるいは他の何かとしてか、「好き」の意味を分類する必要がなく、「好き」の言葉は則ち「テリーを丸ごと全て好き」ということになる。複雑に絡み過ぎて自分でも分からないテリーへの感情を、伝えたくても伝わりきらない純粋な好意を、一言に集約できるというのは信用に欠けるかもしれないが、それでも取り違えられるずにそのまま受け取ってもらえるとしたら、これほどの誘惑は他にないだろう。
親としてじゃない。憧れとも違う。ただ、アンタが好きなんだ。理屈なんかない。たとえ年齢がもっと離れてようが、ファイターでなかろうが、性別さえ違ったとしても、アンタがアンタである限り俺は好きなんだ。
「っ……」
ロックはこちらを静かに見つめるテリーに言葉を放とうとして、寸でで思い留まり、開きかけた唇を噛んだ。
(……なのに、どうしてッ!)
アンタは分かってくれないんだ。もう俺は後をついて回ってた子供じゃない。自力で火の粉も振り払える。愛を与えられるばかりの弱い存在じゃない。
俺だってアンタを守りたいし、何かを与えたいって思うんだ! なのにいつも、守ろうとするアンタの大きな腕に阻まれてしまう。俺の小さな腕は、全然アンタに届かない。
せめてこの思いだけでも伝えたいのに……!
「どうした……? ロック?」
不意にテリーが驚いたような表情でこちらを覗き込んだ。ロックが無意識のうちに顔を歪めてしまっていたからだろう。そこには心配げな表情も伺えた。
子供を労り、慈しむ親としての顔。そう思った途端に、目の前の若いテリーが三十五歳のテリーとダブって見えた。
後の行動は、完全に無意識だった。
「……ってェッッ!!」
「あ……」
気が付くと、景気のイイ殴打音とともにテリーが床に転がっていた。驚いたロックがのろのろと自分の手に視線を移すと、それはしっかりと握り拳になっている。どうやら反射的に殴ってしまったらしい。
頬を押さえて呻くテリーに、ロックは慌てて謝った。
「ご、ごめん! 大丈夫か!?」
「あのなー…。一体どういうつもりなんだ、いきなり」
明らかに怒りを押し殺した目で、テリーが睨み付けてくる。無理もない、テリーにしたら何の前触れもなかったのだから。ロックはどうしていいやら分からず、とりあえず頭を下げた。
「ごめん……悪かった。本当に腹立ってたのは今のアンタじゃないのに……思わず殴っちまって……」
「……それは……未来の方の俺にムカついたって、ことか?」
意外に鋭くテリーに言い当てられ、ロックは尚更動揺した。それを見たテリーの瞳が一瞬、温度を下げて暗い光を帯びる。怒った、というよりは嫌われたのでは?と思ったロックは、胸に氷を押し当てられたような圧迫を受け、思わず押し黙った。
……が、次の瞬間。テリーは突然吹き出した。
「HAHA…! 未来の俺はそんなに怨み買ってるのか!? ケッサクだな、全く!」
「え……」
なぜか朗らかに笑い出したテリーに、ロックは困惑した。どういうところで笑いのツボに入ってしまったのか、こちらにはさっぱり分からない。
腹を押さえて豪快に笑っているテリーは、ついていけずにぽかんと見つめるロックに、笑いながらで軽くウインクを寄越した。
「優しくするだけじゃ、それは家族って言わないだろ? 遠慮なく当たれるくらい仲がいいのかと思ったら、安心したのさ」
「……!」
正直、驚いた。この人はそんな風に考えるのか。ロックは笑みを浮かべるテリーを凝視した。
確かに、表面上でいさかいを避ければ人間関係は円滑にいくかもしれない。しかしそれは同時に腹を割って話すことがないということだ。そんな仮面を被るくらいなら殴り合って全部吐き出してる方が断然いい。
だが、素直にそう思って笑うことができる人間も多くはないだろう。それを当然のことのように言うテリーが、ロックには眩しく思えた。そして、そういう人物に十年間育ててもらった事実を、甘い意味でも苦い意味でも改めて噛み締めた。
また、自分は甘ったれたことをしてしまった。ずっと隣にいて信頼もしてくれるテリーがまだ子供扱いする原因が、自分自身にあることに気付かないふりをしていた。私生活においては確かにロックは自立していると言えるだろうけれど、問題はそこではなく、いつまでも他人に依存したこの心だ。自分の非は認めずに胡麻化し、都合が悪くなれば外に要因を求める。それでも思い通りにいかなければ、理不尽な怒りをぶつけるだけ。自分はいつも安全なままだ。
何が足りない? 簡単だ、真実を見つめる強靭な精神力。一番肝心なものが自分には全く足りていない。
ロックはテリーの頬に手を伸ばし、誤って殴った箇所をそっと撫でた。
「ごめんな、テリー。八つ当たりしちまって。……大会が終わったら、向こうのテリーとちゃんと話し合うよ」
「ああ、そうだな。納得いくまで話せばいい。たぶん……未来の俺もそれを望んでるさ」
テリーは軽く笑った。頬は特に痣になるほどでもなく、すでに赤みも引き始めている。少し安堵して表情を緩めたロックの手を、テリーは不意に取って甲に唇を押し当てた。
「いい眼だな」
「え?」
「やっと何かふっ切れたって感じだ。明日の試合が楽しみだな」
軽薄とも脳天気とも取れる笑みを浮かべているというのに、瞳だけは真摯なままでテリーはそう言った。やはりテリーはテリーだ、ロックの心情などお見通しのようだった。
取られた手を握り返し、ロックも笑った。
「ああ、俺の実力を見せてやるぜ。出遅れて、足引っ張るなよ?」
「お、言うねぇ。俺がサウスタウンでなんて呼ばれてるか、忘れたわけじゃないだろうな?」
互いにニヤリと笑いながら、確かめるように手を握り合う。
――と、そこへ。
「ねぇ。僕は明日、留守番? それとも見学してていい?」
いつの間にかシャワーから上がってきた小さな少年が、真横で二人を見比べながらそう聞いてきた。
邪気がないせいかもしれないが、近付かれたことに気付くこともできなかった二人は、この少年が一番凄いのではと、なんとなく思った……。









――前編――END






バトルに入れなかった…(泣)