月酔い


草薙家だとか宿命だとか。
そういうくだらないものを全部ぶち壊してやりたいと思うことがある。
狂暴とも言えるその衝動を紛らわせるように、時々女をナンパしてみる。肩書きのないままの自分で女に接し、楽しくおしゃべりをして時間を過ごす。しかしそうして会話をしているうちに、そのうっとりとした目が自分を通り越して誰か別の奴を見ていることにふと気付いてしまう。好きだった恋人とか片思い中の誰かに少し似ているとか、はたまたただ単に顔が好みだっただけとか。そういうことだけで計られている。見ているのは外見と物腰くらいのもの。一時を楽しむのならそれで充分、他はいらない。鬱陶しいだけ、所詮その程度。
しかしそれは自分も同じことだと、今更気付く。本当の自分を出しているつもりのようで結局繕った「偽者」になり果て、相手にもどこか諦めに似た感情で外見だけを見ている。女の胸がどうだったとかは覚えていても、顔は全くと言っていいほど覚えていない。ありのままの自分であるつもりでも、実は仮面を被っているだけに過ぎない。
……なのに何故だろう。
「また、お前か……」
徐に後ろへ振り返り、京は闇の中に立つその人物を見つめた。
今日もふらふらと紅丸と街を歩き、適当に遊んできた帰りだった。日はとっぷり暮れ、すでにいつもの帰り道は暗い闇の中に沈んでしまっている。月もない新月の今宵は、星の光も雲に隠されてしまって地上に届くことはなく、漆黒が辺りを支配する。
光あるところに陰あり。よく言われるその言葉は絶えることのない悪を指して言うが、純粋に現象としての光と闇だけを見るのならば、光の方が異質に思える。その場を日が照らすことさえなければ、そこは常に闇の世界だ。光の入る余地などどこにもない。
本来の王者である漆黒の闇が目の前の男を半ば覆い隠し、その身に溶け込ませているその様は、狂気に呑まれたかのように見えて実は人間の本性を体現しているかのように見えた。欲にどこまでも忠実であり、その心を駆り立てる狂暴な衝動を真っ向から受け止める、ありのままの人間。自分とはきっと遠い存在なのだろう、と思う。
「今度こそ、お前を……殺す」
低音の声が、闇の中の男から零れ落ちる。紅い髪に着崩した服装は目立つ出で立ちであるはずだが、不思議と闇に溶け込んでいた。その全身から放たれる暗く不気味な気配のせいかもしれない。
それは凶々しいとも表現できる殺気ではあったが、なぜか京にはそれが何よりも純粋なものに見えた。よく分からない感情をごちゃごちゃと抱えた自分よりもよっぽど真っ直ぐに思える。
「……なあ。前から聞きたかったことがあるんだけどよ」
完全に体ごと向き直り、京は男を正面から捉えた。それに男は紅い髪の間から覗く深紅の眼を僅かに細め、「……なんだ」と聞き取りづらいほどに低い声音でこちらを促した。
京は表情を変えぬまま、口を開いた。
「お前がなんでいっつも俺ばっかり付け回すのか、すげー不思議なんだけど」
「フンッ、何を今更。積年の恨みを晴らすために決まっているだろう」
吐き捨てるようにそう言い、男は人でも容易く殺しそうな視線でこちらを射抜いた。普通ならばこの鋭い眼差しだけで他の人は竦み上がってしまうのだろうなと漠然と思いながら、京はそれを平然と受ける。恐れを感じないわけでは決してない、ただその恐怖と緊張の中で言い様のない高揚と快感がすべてを凌ぎ、負の感覚を打ち消してしまっていた。
一つの言葉では言い表せない奇妙な昂り。それを内心で抑え、京はわざと唇を尖らせて詰るように言った。
「八神家としての恨みを草薙家に晴らしたいっていうんなら、敵は俺だけじゃねぇだろ? お袋も親父も同じ『草薙』じゃねぇか」
京がそう言うと、男は言い終わるか否かのところで鼻で笑った。
「つまらんことを言う。俺は貴様を殺したいだけだ。他の奴など、どうでもいい」
殺気を乗せながらもこちらを真っ直ぐに射抜くその琥珀の瞳。なぜだろう、これがひどく心地好い。自分だけがその瞳に映っているという、この瞬間がとてつもなく気持ちいい。
月もないはずなのに月の魔力に魅せられてしまったかのような、くらくらと酔いそうな不思議な感覚。目の前の『月』がそうさせるのかもしれない。
それに京は僅かに目を細め、薄く笑った。
「じゃあ、なんで俺だけを狙うんだよ? お前に殺されなきゃなんねぇほど、俺って何かした?」
からかう、というよりは遥かに妖しい微笑をたたえて京が聞くと、男は暗がりの中で澱んだ光を瞳に映した。
「血が、騒ぐ。草薙家当主のお前でなければならん、老いぼれ連中に用はない」
その唇から漏らされた答えに、京は不機嫌に眉を寄せる。そういうことが聞きたいわけではなかった。京は幾分拗ねたような調子で、男を軽く睨付ける。
「それだけかよ?」
「……何が言いたい」
コツコツと靴先をアスファルトに当てながら京が腕を組むと、男は整った眉を僅かにひそめた。
こんなに自分だけを追いかけてくるくせに、今更とぼけるなんて。何を言わせたいかくらいは分かるだろう?
たとえそれが甘ったるい感情からでなく、この身を切り刻むような憎悪だとしても構わない。
京は軽く右手を振り、指先に炎を灯した。
「なんで俺だけ追うの?」
少しだけ、無邪気に首を傾げる。目の前の男はその涼しげな顔のまま、身を焦がすような視線をこちらに向けた。
「お前以外では満足できん」
その一瞬だけ、その瞳は月よりも強く金色に輝く。
たとえそれが憎悪だとしても――。
「上等だぜ。俺も手加減なしで燃やしてやるからな!?」
体の芯まで焦がして、跡がいつまでも消えることのないように――刻みつけてやる。
指先の炎を払い、京は再び辺りが闇に包まれる前に地を蹴った。それに呼応するように、男もその長い足で踏み出す。
「お前でなければ俺は満たされん。いくぞ、京!」
「来いよ、相手してやるぜ! 八神ッ!」
とっぷり日の沈んだ闇の中で京と庵は叫び、紅連の炎と蒼晃の炎を迸らせた。その場の温度が急激に上がり、総毛立つようなピリリとした緊張が生まれるのを、京は笑みを浮かべて悦んだ。身を支配する昂揚は何にも変えがたい。
庵が目も逸らさずに自分を見ている、そして躊躇いも手加減もなく拳を交えてくる。
そうして自分だけを見ている奴や自分をすべて見てくれる奴は実は少ない。そのままの自分はユキや紅丸がよく知っている。だが、『草薙家』として背負うものまでは知らない。
お前は俺を嫌いだときっと言うのだろう。だけど俺はお前を嫌いだとは思わない。だって、家のことも背負うものも闘いの快感も、そして俺自身のこともお前はすべて見てくれる。嫌いとは思わない。
だが何の因果か、こうして拳を突き合わせる。まあ、楽しいのだからそれでいい。
朝までストリートファイトだ、いいな? 庵!




END