日焦がれ



三種の神器としての八神家、そして脈々と受け継がれてきたオロチの血。
見えない鎖に雁じ絡めにされることにはもう慣れていた。いや、諦めたともいうだろうか。
日の当たる場所に立つ人間を羨ましいと思い、闇の中から這い出ようと足掻いていたのはいつのことだったか。もうその気持ちすら薄れ消えてしまって久しい。そうすることで渇望など、どこにもありはしなかった。
未来に期待しなければ絶望することはない。失うものがなければ何も恐れるものもない。ただ暗澹たる闇の中で息をし続けれて生き延びる。オロチを体内に迎え入れてから一転して人間でもオロチでもないものとなり果てたこの身は、ただ成り行きを眺めるしかなかった。今までそうだったようにこれから先、ずっと。
血縁者はもういない。腹を痛めて自分を産んだ母も八神の技を教えた父も、この手で殺して血の海に沈めた。恨み言一つ言わずに死んでいった彼らは、ただ何も言う暇がなかっただけなのか、血に狂いのたうつ運命を持つ我が子を哀れんだのか、その辺りは窺い知れない。ただ一つ確かなのは、結局自分は一人だということだった。
誰かと他愛のない話で楽しんでいた時期もあった。だがいつの間にか周りは血の海だった。女と付き合っても、いつの間にかその首をへし折っている。自分自身が恐ろしくなった。この体内に流れる血が何よりも自分を恐怖に陥れる。
自分の体が自分の意思を離れて衝動のままに暴れ狂う。それはいくら足掻いても自分では止められず、当然周りも止めようがなかった。その場にいるすべての生物が肉塊に変わらなければ収まらない。
整えた長い爪には引き裂いた肉がまとわりつき、地面を踏み付ける靴底にはべちゃべちゃと紅い液体が跳ねる。
ああ、またか。
とっくに諦めていたせいか、どうでも良くなってそんなことを淡々と思う。別に他人の生死など所詮知ったことではなかった。
「フッ……ククク……」
もはや笑いしか込み上げてこない。自分の所業を今更後悔したところでこの血まみれの手は変わらず、これからも誰かの血で紅く染まり続けるのだろう。今更頭を下げたところで誰も帰ってはこない。一体何ができる、こんな血に飢えた狂人に!
――また、目の前が真っ赤に染まる――。
体中の血が沸騰するような、えも言えぬ快感に支配されて意識が白んだその瞬間、
「八神ィーッ!」
「――!?」
掠れるほどに腹の底から叫ぶその鋭い声が耳に届いたのとほぼ同時に、頬に衝撃が走った。次いで体が僅かに浮き、血に濡れた地に全身を叩き付けられる。頭を庇う暇もなく、ざらざらとしたコンクリートに顔をぶつけた。
地に爪を立て、抗うように叩き伏せられた体を起こそうと力を入れた。途端に舞い戻った自分の五感は左頬の激しい痛みを真っ先に知らせてくる。そうしてようやく、自分が殴られたことに気付いた。
口の中に溜まった血を吐き出し、庵は体を起こした。強かに打ったためにぼやけている視界に眉を潜めながらも、庵は僅かに距離を開けて立っている人物を流し見る。そこには、拳を固く握りしめて立つ男がいた。
「お前、は……」
「こんなとこで何やってんだよお前はッ! 人の帰り道でバイオレンスしてんじゃねぇよ!」
腰に手を当て、ふんぞり返るように言い放つその男を、庵は無言のまま見つめた。
体格からすれば何かしら格闘をこなしていることは読み取れる。しかし今までに何度か血に狂ったとき、複数の人間に私刑にされても屍を積み上げてきたほどの庵が、一発殴られたくらいで正気に返るなどそうない。
何者だ? この男。
庵は訝しげに眉をひそめながら見つめ――その男の瞳に視線を止めた。
太陽だ、と思った。なぜかは分からないがその黒い瞳に熱を感じ、庵は目を見開いたままその男に釘付けになった。
黒い髪に黒い瞳という典型的な日本人の特徴、着ているのはなんの変哲もない学生服。年の頃は自分と同じ十三、四の中学生で、何か特別なところがあるようには思えない。だが、その意志の強そうな表情と感情の昂りで輝く瞳が自分とはあまりに対称的で、知らず眩しさに目を細めていた。
自分が最も望む光。しかし触れれば忽ち汚れた自らの体が灰と化す聖域。
それを認めた瞬間、庵はとてつもない渇望を味わった。今まで封印してきた本能が暴れ狂うように意識を占める。いつもならばまた呪われた血に狂って暴走するだけだっただろうが、この時は違い、溢れ出た純粋な欲求に自分でただただ驚いてしまっていた。血も騒ぐことなく頭が冴え冴えとしていたのは、恐らくそれがオロチでなく自分自身から生み出された欲求だったからだろう。
「……おい、大丈夫か?」
ふと掛けられた声に、庵は我に返った。改めて現実を見るように、目の前の男へ焦点合わせる。
男はこちらが意識を向けたことに気付いたのか、僅かにきつい目を和らげた。そうして一瞬安堵のような表情を見せたのだが、すぐに眉間に皺を寄せてこちらを睨み付けてきた。
「ああもうッ、イッちゃった目で人なんか殴ってんじゃねぇよ! ここ、仮にも往来だぜ? しかも相手はシロートなんだからよっ」
地に這いつくばったままで顔を上げるこちらの眉間に人差し指をビシッと当て、男は怒った表情のまま見下ろしてくる。庵はそれを黙って見つめたままその男の動作と言葉を一度反芻し、ゆっくりと瞬きをした。光に当てられて一瞬で焼け付いてしまった脳にはつい今し方の自分の行動は記憶になく、庵は言われた意味が分からないというように首を下にして振ろうとし――自らが手を付いている地が真っ赤に染まっていることに気付いた。
反射的に顔をしかめ、ふと周りを見る。そこは何か薄暗い路地で少しは大通りから外れていたが、確かに人の目が届かないところとは言えない。そんな場に、血を飛び散らせて倒れる人間が一人、二人……。
その現象自体は既に驚くことでもなかった。親を手に掛けてからずっと付き纏い、呪いと恨みを吐き続けてきた怨念達に前よりも頻繁に自我を持って行かれていたせいで、今更とも言えるものだ。いつの間にか死体を鷲掴みしていることも少なくなかった。
だが、なぜかひどく狼狽えてしまった。責めるようにこちらを見るその男の目から視線を逸らすように思わず下の方を見て、口許を引き結ぶ。
血にまみれた手だと、呪われた性だと、責められているように思えたのだ。自分が憧れた「光」そのものである目の前の男に――。
「ま、いっか。そこでノビてる奴等、普段やりたい放題やってる連中だし。とりあえず死んでなけりゃいいだろ」
「……」
意外にあっさりとそう言い放って小生意気に笑う男に、庵は呆気にとられた。しかしその驚きに気付いた様子もなく、男はこちらの顔を覗き込んでくる。
「なあ! お前って確か、八神…だったよな?」
「……? なぜ、知っている」
名前を言い当てられ、庵は警戒して問い返した。庵の記憶の中に、目の前の男はなかったのだ。
怪訝な顔をする庵に、男は確信を得たようにポンと手を打ち、こちらの背を指さした。
「ガキの頃にちょっと遊んだきりで正直、悪ィんだけど顔は全然覚えてねぇ。でもその背中の月の家紋、『八神』だろ?」
「……!」
上着に織り込まれた月の模様。庵の背にあるそれを一般人が見れば、普通はただのファッションと思うだろう。なのにそれを「家紋」と判断して「八神」と即座に分かったということは、この目の前の男が八神家としての自分に近しい存在であることを示していた。
――草薙。
ふと思い当たった名に、庵は目を限界まで見開いた。
草薙。オロチを払う者。六六〇年前の確執で歩む道が別れた、かつての同胞。
「まさか、貴様が――」
『草薙ィぃぃいィィ……!』
突然、地獄から這い上がってきたかのような声が頭の中で響き、庵は思わず呻いて頭を抱えた。
「! 八神!?」
蹲った庵に驚いたらしく、目の前の男はこちらを気遣うように手を伸ばしてくる。しかしその手が触れそうになると、途端に先程の呪姐めいた暗い声が庵の脳内に直接轟いた。
『憎いィィぃイイ……ッ!』
『殺ぉォォろせぇエエ……ッ!』
暗黒をのたうつ怨念の声が何の遠慮もなしにそれぞれの叫びをあげる。恨みごとを次々に言い募るそれらに、いつもの庵ならばまた体の自由を持っていかれていただろう。
しかしなぜかこのときばかりは、纏わり付く怨念のことなど、どうでも良かった。目の前の男が草薙家の関係者だと知って昔からの怨念どもが今まで以上に騒ぎ立てるのは分かるが、庵にとってはどうでも良いことだった。
じくじくと痛むこめかみを押さえ、庵は好き好きに恨み言を叫ぶ怨念どもに一喝した。
「黙れッ! 死に損ないにとやかく言われなどないわッッ!!」
叫ぶと同時に、固く握りしめた拳を地に叩き付ける。地にこびり付いていた誰とも分からない紅い液体が跳ね、庵の節張った長い指から血が新たに噴き出た。
その形相と突然の叫びに驚いたらしいその男は、思わず一歩遠のき――だが完全に庵から離れるでもなく、訝しげな表情でこちらを見ていた。
「お、俺は問題が起きたら面倒だと思って止めに入っただけだぜ!? 何も、んなキレることねぇーじゃん……っ!」
自分に対して庵が怒鳴ったのだと勘違いしたらしい目の前の男は、些か気後れしつつも反論してくる。それが耳に届くよりも先に、庵の脳内は再び騒ぎ始めた怨念の声によって占められた。
『恨めしぃぃいいィィ!』
『草薙をォォ滅ぼせェぇえェ!』
『我らの飲んだ苦汁を味あわせろォォおぉぉ!』
考えようとする力まで奪うように、怨念の声が次々と頭の中で響く。脳内を直接掻き回されるような耐え難い苦痛と不快感に、庵は額に汗を浮かべてぎりりと歯を食いしばった。
「黙れ貴様等ッ! これ以上口出しするなら、俺の手で地獄へ送り付けてやるぞ……!」
鬼のような形相のまま氷のように冷たい光を剣呑にたたえて、庵は残忍な笑みを張り付けた。庵の体内に住み着いているが故に、それが本気であることを悟った怨念達は、途端に押し黙る。
同様に押し黙ってしまった同い年の男は、こちらの剣幕に怯えたように顔を引きつらせていた。やっと静かになったことでふと顔を上げた庵は、その男を静かに見つめた。
「……思い出した。確か、草薙 京と言ったか」
「え? あ、オ…オウ! そ、そうだよっ。草薙 京だよ、俺は!」
記憶を手繰って思い出した名を言うと、男――草薙 京は少々挙動不審ながらも大きく頷いた。
『草薙は――殺せ』
じんわりと脳内で囁かれたその言葉は、怨念達のものというよりは、体に染み込んだものが滲み出てきたように思えた。そう錯覚するのは、怨念達どころか両親さえもが、幼い頃からずっと刷り込んできた言葉だったせいかもしれない。『草薙家は宿敵。滅ぼさねばならない』と言われ続け、草薙家を憎むように仕向けられてきた。
意図的に感情を操作されている自覚はある。それを腹立たしいと思い、心の奥底では抵抗し続けてきた。だから、実際に草薙家の者を殺すものかと思っていた。呪われた家訓など知ったことか。
……だが、今はその恨みつらみに従おうと思った。いや、従うのではなく利用する。草薙 京を殺すための言い訳に使える。
太陽のような京。幼い頃の記憶にはないが、今こうして目の前にして、自分の求めていたものが何だったのかが分かった。
自分とは対照的な家柄に生まれ、何の苦労も疑問もなく日の下で過ごしている京を、自らの手で落としめてやりたい。譬え火傷しようと天から引きずり下ろして、自分の下で跪かせてやりたい。この呪われた手で、自らの意志によって。
「ク、クックックッ……」
庵は笑いながら、ゆらりとその場に立った。俯いたまま不気味に笑う庵に驚いたのか、少し気味悪げにこちらを見つつ京は一歩退く。
その反応に気付き、庵は静かに笑みを収めて周りを一瞥した。
「……そこに這いつくばっている連中、まだ息があるうちに病院でもなんでも連れていけ」
少々面倒臭そうにそう告げると、京は途端に眉を跳ね上げた。
「なんで俺がそんなことわざわざしなくちゃなんねーんだッ!」
「俺はそいつらが死のうが何だろうが関係ない。嫌ならお前も見殺しにすればいいだけのことだ」
「お、おまえなぁーッ!」
何か言いたそうに大声をあげる京を尻目に、庵はその横を素通りする。
「あ、待ちやがれテメェッ。逃げる気か……!」
「この俺が逃げるだと? フンッ、今回は貴様を見逃してやるだけに過ぎん」
「何だと……!?」
庵が鼻で笑うと、京は意志の強そうな眉をきりきりと釣り上げて睨付けてくる。それを肩越しに振り返ってしばし見つめ、ふと庵はクッと口端を上げた。
「今度会った時が貴様の最後だ。……お前は俺が殺す」
「……!」
見るものを凍り付かせる、鋭く澱んだ目で京を射抜く。憎悪ではない、純粋な殺意。理由は問わせない。
ただこの屈託のない本当に極普通の少年である京を、自分の手で壊したかった。皮肉にも初めて自らの意志で願ったこと。
それはいつか叶える。……時が満ちたときに。
「それまで精々首を洗って待っているがいい」
「あッ、オイ!」
京が何か言いたげに叫ぶのを無視して、庵は長い足でさっさとその場を後にした。京の言い分は聞かない。聞く意味もない。これは自分の独り善がりの欲望であり、それ以上でも以下でもなかった。
今は殺さない。だが、いずれ必ず殺す。
この手で。
「クックックッ……」
望むものどころか望む気力さえなく生きてきた自分の中で初めて芽生えた欲求は強烈だった。もう、雑音のような怨念達の声は耳に届かない。今まで人形のようにただ生きてきただけの自分が意志を持った瞬間、それらは遠い存在となった。
干渉は受け付けない。これは自分の意志だ。
「草薙 京……この手で殺してやろう」
強い光沢を帯びた鋭い目を細め、庵は実に楽しげに笑った。





END