以前から、何かがオカシイと彼女は言っていた。
分かってはいた。何かが彼女に接触しようと、共鳴しようとしていることは。
だが、いくら法力を読み解いてもその痕跡は判然としない。
胸騒ぎか体調不良か、彼女も夜はよく眠れていないようだった。それをなだめながら、カイは世界で起こる瑣末な異変でも知らせるようにと部下に命じた。
そして判明したのは、ギアの消失。封印されていた各地のギアが、忽然と姿を消す現象だった。
しかも原因不明のまま、事件の件数は加速度的に増すばかり。
――恐ろしかった。
日に日にギアが消えていく。それは嫌が応にも、身近な人達の最悪の事態を思い描かせた。
抱きしめる腕の中で毎晩うなされる、自分の妻。今はどこを旅しているのかさえ分からない、自分の子。そして――いつも心を占める、最愛の人。


誰も、失いたくない。


しかし……昔からのこの願いが、カイの人生において叶えられた試しはなかった。







アップサイド・ダウン







……――リィィィィン――……!
会議中に、カイの通信機が鈴の音を立てた。
いつも耳にするものより高音であったことに、カイは反射的に椅子を蹴るようにして立ち上がった。常に落ち着いた態度を見せる連王が、会議中に突然腰を浮かせたことに、周囲が驚く。
だがこの時ばかりはカイも、周りのことを構っていられる状態ではなかった。
通信機が高い音を奏でるのは――『木陰の君』が助けを求めている時の合図だった。
いつ『万が一』が起こるか分からないからと、カイは彼女に通信機を渡していたのだ。どんな時でも必ず助けに行くからと、約束して……。
音を立て続ける通信機を握りしめ、カイは迷わず身を翻した。
「すみません。急用ができましたので、早退させていただきます」
「……えっ?」
驚く他の王や部下を放って、カイは足早にその場を後にする。カイが欠けてはまとまらない会議と分かっていても、今この時ばかりは譲れなかった。
戦士として鍛えた俊足で後を追う者すら撒き、カイは妻の部屋へと急いだ。
そうして、そこで見た光景は――予感していた、最悪の事態だった。
「ディズィー……ッ!」
普段は呼ぶことの出来ない本当の名を思わず叫び、カイは彼女のもとに駆け寄る。
木陰の君は、その体を半ば空間に溶かしていた。半透明に透けた体が、向こう側の景色を映している。
今にも消え失せそうな、陽炎のような彼女の白く細い手を、カイは両手で握りしめた。
まだ温かい手の感触は失われておらず、カイはすがりつくように彼女の手を引く。真っ青になりながらも、カイの訪れに彼女は安堵の色を見せて微笑んだ。
「やっぱり……こうなっちゃったね」
困ったように微笑む彼女に、カイは顔を歪ませて首を振った。この結末が必然であるなど、絶対に認めたくなかった。
「まだ間に合う! 何か、方法があるはずだ…ッ!」
「でも……、もう……」
叫ぶカイに、彼女は大きな赤い瞳をにじませる。うつむきながら浮かべる笑みは強張り、普段の穏やかな表情はどこにも見受けられなかった。
どうして自分はいつも、彼女に悲しい思いばかりさせているのだろう。どうして彼女の笑顔すら、守れないのだろう。
信じてついて来てくれた彼女に報いるどころか、仇で返してしまっている自分に、本当に嫌気が差す。
カイは奥歯をかみしめ、全身から法力を発し始めた。
「諦めない……! 私より先に逝くことなど……許しません!」
腹の奥底から叫び、カイは地に浮かびあがった法陣を起動させる。立ち昇った光の柱は、彼女の体を包み込んで輝いた。
逆流する光の滝に呑まれ、彼女の青い髪がなびく。白磁のような肌がまばゆく輝いた。体にまとわりつくように流れる法力の渦に、彼女は目を見張って驚く。
その法陣は、カイが万が一のために以前から編み上げていたものだった。緻密に作られたそれは、一時的に力を何倍にも増幅させる効果を持つ。どういった事態になるか検討がつかなかった故に、補助効果しか付与できなかったのだが、それはカイにとって大きな助けとなった。
意識まで持って行かれそうなほどの法力の放出に、奥歯を噛みしめながら、カイは長い呪文の羅列を紡いでいく。まずはこの現象の原理を探るために、力の出現先へと手を伸ばした。
「――!」
だが、辿った法力の先には何もなかった。いや、力が途中でふっつりと消え失せているというべきか。それはあたかも、何もないところから力が湧き上がっているかのようだった。
普通は法力を使う術者なり、発生源となる場所なりへと辿り着くものなのだが、そういった手応えが一切ない。まるで空中から生えた見えない無数の手が、彼女を捉えて引きずり込んでいるかのようだった。
トレースが途切れたのを感じて、カイの項に冷や汗が伝った。発生源が分からなくては、対処の仕様がないからだ。
そうしている間にもこく一刻と、木陰の君の体は透けていく。カイは口元を引き結び、苦渋の表情で法力の流れを変えた。この短い時間では原因究明までに、彼女が手遅れの事態になりかねない。
カイは青ざめる彼女を見つめて、叫んだ。
「必ず……必ず、助けます! だから……少しの間、我慢してください!」
「!」
彼女の周辺の空間に、カイは有りっ丈の法力で強引に干渉する。力の流れが変わったことに、彼女が目を見開いた。
一部の空間を圧縮し、切り離す。そうすることで、事態が解決はするわけではないが、とりあえず現状維持が可能なはずだった。
原因が分かるまで――凍結するしかない、とカイは判断した。
力の方向性を決めたカイは、迷わず全力で空間を停止させるために法力を流し込んだ。結晶のような法力の柱が、彼女の足下から発生し、それは急成長していく。
彼女の素足を呑み込んで全身を覆っていくそれは、取り込んだものを極めて静止に近い状態で維持する。時間が止まっているのとほぼ同じだった。
今はこれしかない。そう思って、カイは莫大な法力をそそぎ込んで緻密な構成を編み込んでいく。
薄れゆく彼女を是が非にでも引き留めたくて、カイは寒気を覚えるほどに力を根こそぎ使った。体温さえ奪われて冷え切る体とは裏腹に、額からは汗がにじみ出る。
祈るように手を合わせてカイの魔法に身を任せる彼女の姿に、焦る気持ちと自分の出力できる法力量の限界をひしひしと感じた。
足りない。自分の力だけでは、この奇妙な事象ごと彼女の時を止めるには足りない。
力を増幅させるための何かが必要だと考えた瞬間、カイの脳裏に神器が思い浮かんだ。
躊躇うことなく、カイは右手で空に法陣を描く。迷う間もなかった。召還した封雷剣を青白く光る輪から引きずり出し、カイは彼女の前に張った魔法陣に突き立てる。
アウトレイジのひとつの封雷剣は、超高密で12法階を編み込まれた、いわば力を発現させるための計算式の塊。その計算式が導き出す答えの方向性を、カイは瞬時に書き換えていった。
式の効力が実行され、封雷剣はその細長い形状を崩して、硬質な鎖へと姿を変えていく。空に溶けていく彼女をつなぎ止めるように、式で編まれた鎖が彼女を包む法力の光柱ごと絡め取った。
彼女をしっかりと捕らえた感触を得て、カイは顔を上げる。
「助けます。必ず――絶対にッ!」
「……うん、待ってるわ」
叫びに、こくりと頷いて彼女が答えた。額に汗を浮かべ、カイは鎖と法陣を凍らせていく。持てる力をすべて注ぎ、凍結用の甲殻結界で、一気に全体を包み込む。
パキパキと、まるで霜が降りたように足下から硬質化していく最中、彼女は天に昇る光の滝の中で羽根をはためかせ、微笑んだ。大きな赤い瞳に滲んだ涙も散り、発光する文字の波に呑まれていく。
「――!」
彼女の美しい肌も、鮮やかな瞳も、純白と漆黒に染まった羽根も。
――すべてが冷たく青い、甲殻結界に包まれて停止した。
膨大な計算式の実行を終えた法力の流れは、砂嵐がピタリと止まるように、あたかも何もなかったかのように動きを止めて静まり返った。力の残滓と、震えの止まらぬ己の体だけが、現実を突きつけるように名残を残す。
「……っ…!」
カイはその場にくず折れ、赤い絨毯にうずくまった。額を地面にこすりつけ、滅多に流さぬ涙を壊れたように流し、カイは嗚咽を漏らす。
こんな方法しか取れなかった己に、そしてどこまでも『幸せ』を手にできない彼女に、カイはひとしきり独りで泣き続けた。



GEARを屠る目的で作られたアウトレイジ。
そこから分かれ、聖戦の最中弱冠16歳で団長の座に就いた男の手に渡った神器『封雷剣』。
この日――GEARを救うためにその一生を終えた。
















いつの間にか、ソルはそこに立っていた。
暗い夜空に視線を向けると、雲のヴェールの向こうでぼんやりと月が光っているのが見える。星もなく、辺りに他の光源もないそこは深い闇に落ちていた。
だが、不思議と空気が澄んでいるように感じる。周囲に生い茂る木々が、まるで浄化しているかのようだ。整え過ぎず、生命力のままに伸ばした木々や花は、広い中庭を秘密の園と思わせた。水音を立てる中央の噴水は、月光を反射して時折きらめく。
(ここは……)
暗い闇に身を沈めたまま、ソルは周囲に目を走らせて戸惑った。キンと冷えた夜風は、寒さよりも意識を冴えさせていくが、それでもどこか頭の隅に霧がかかっているように思える。
この場所は、どこだっただろうか。知っているはずなのに、何故か思い出せない。喉に言葉が引っ掛かって出てこない。
「……!」
困惑したまま視線を動かしていたソルの目に、白く発光した何かが映り込んだ。闇夜に浮かび上がる白いそれも、同じくこちらに気付いたらしく、身動いた。
「……ソル……?」
微かな呟きは、驚くほど鮮明にソルの耳へ届いた。視線を向けた先で、白い人影がゆっくりと顔を上げる。
金の髪が揺れ、白磁の頬を伝ってこぼれ落ちた。アクアブルーの瞳がこちらへ向けられ、水気を帯びて揺れる。
纏ったいつもの白い衣装は境界線が溶けたような、曖昧な形で風になびいていた。
「……カイ?」
その人物が誰であるかに気付いて、ソルは思わず信じられない面持ちで呟いた。
彼がこんなところにいるなんて思いもしなかった。
……そうだ。ここはイリュリア城の中庭だ。
ずっと引っ掛かっていた疑問の答えを導き出し、ソルは納得する。だが、すぐに新たな疑問が湧いた。
何故、自分はここにいるのか? そして、いつもは玉座を前にしているはずのカイが、どうしてこんな所にいる?
違和感を抱きながら――しかし吸い寄せられるようにソルはカイに近付いた。
「どうした……」
淡く、溶けるような白さを放つカイを改めて見たソルは、その宝石のような双眸に涙が溜まっていることに気付く。頬を流れ、零れ落ちる様さえ、この闇夜の庭では幻想的に映った。
嗚咽もなく、ただ静かに涙を流すカイに動揺しながらもソルが手を伸ばすと、震える薄紅の唇が開いた。
「ソル……!」
「!」
何があったのだろう。悲痛な声で名を呼び、唐突にカイがソルに抱きついてきた。強い力で首に腕を回され、ソルは僅かによろめくが、すぐにその細い体を抱きしめ返した。
肩口に顔を埋め、震えるその細い体に腕を回すと、確かに感触がある。抱き慣れたその温もりは、カイに他ならなかった。
闇の中に白く浮き上がって見えるカイの背を見下ろしながら、ソルはこれが幻でなく現実だと認識した。触れる箇所から、布越しに温もりが伝わる。
「……何があった、坊や」
困惑したように肩を震わすカイを宥めるように抱きしめ、ソルは静かに囁いた。
いつもどこか凛とした――特に一国の王となってからは、滅多に表情を崩さなくなったカイが、幼い子供のようにただ泣き続け、震えている。
「……ったく」
すがり付く体をやんわり押して密着を緩めてから、ソルはカイの顎を掬い上げた。こちらへ強引に視線を合わさせたカイは、暗い闇の中で濡れ光る蒼い瞳を驚きに見開く。
「泣かれても、理由が分からん。……どうした?」
はらはらと幾筋もの涙を流すカイを紅い瞳で捉え、ソルは再び問うた。
しかし努めて穏やかに聞いたつもりだったが、カイはそれを聞くや否や、端正な顔を歪めた。
「!」
そして、細い手に頭を強く引き寄せられたかと思うと、ソルはカイに唇を押し付けられていた。熱い吐息を溢れ、湿った唇が触れ合う。
カイはあまり、自分からキスはしない。最近は発作持ちの体に罪悪感を抱いてか、無理に積極性を見せているが、あまり得意でないのはぎこちない動きに表れている。
しかし今のカイはソルの温もりを得ようと、水を欲する魚のように本能のままだった。硬直するこちらに構うことなく、カイはソルの熱を追うように、口腔内へと舌を侵入させて貪ってくる。
不得手であるため、固い動きはあるものの、自分の求めるまま舌を絡めるカイはどこか淘然としており、涙に濡れた眼とは違和感を感じる。
……これは、何かの罠だろうか。
ちらりとそんな疑問が脳裏を過るが、あまり普段から触れ合うことが許されないため、カイからの催促は魅惑的で抗いがたい。薄い舌が唇を割って潜り込んでくるのを見計らい、ソルはそれを絡め取った。
「! …っ、ん……ふ」
体を擦り寄せてくるカイを抱きしめ、ソルは逆にカイの口腔内へと侵入する。冷えた外気とは裏腹に熱い中を探り、喉の奥まで入り込む勢いで舌を進めると、カイの体がびくりと強張った。
それを溶かすように腰骨を撫で、ソルはカイを引き寄せて下肢を密着させる。すると、その疼く箇所に熱と恥じらいを感じてか、細い指で服に皺を寄せていたカイが、さっきより血色の良くなった顔でこちらを見上げてきた。
まだ濡れた眼差しは変わらないが、その瞳には悲しみ以外の色が見て取れる。肌を触れ合わせて、少し安心したのだろう。
年を重ねるごとに、カイは少しずつ蝕まれてきている。何に、と明確には言えないが、生きることや信念を貫くことに疲れを見せ始めていた。
ただ繰り返し同じ日々を長く生き続けてきた自分とは違う。カイの人生で平穏だったことは、あまりない。まだ三十路前でありながら、その経緯は筆舌し難かった。それでいて退路のない今の厳しい状況下は、強い精神を持つ彼ですら追い詰めている。
「もう少しだ……」
「……?」
唇を離し、ソルはカイを強く掻き抱いた。細いが骨格のはっきりした体を抱きしめ、ソルは溜め息に似た熱い息を吐く。
「もう少しの辛抱だ、坊や……」
「……ソル」
肩に乗せた金髪を後ろ頭を撫で、ソルは励ますように反対の手で背を軽く叩いた。幼子にするようなその所作は、普段の彼なら怒るか拗ねるかの反応を示しただろうが、今は薄く笑って返すのみだった。
「……ありがとう」
その感謝の意は、いつもの――涼やかだが芯のある声音で発せられて、ソルの耳に残った。










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