HA-KA-I
破戒
その男は月もない夜に、千鳥足でパリの街中を歩いていた。
格好も別に変わったところなど何もない、ただの男だ。小さな工場であくせく働き、やっと貰った少ない給料から余裕を見つけては酒につぎ込む普通の男である。しかし今は相当酔いがまわっているのか、自宅へ向かう足もどこか危うい。
酔っ払いの言動というもはの、えてして信用されないものである。たとえ殺人現場を見たと警察に言い散らしたところで、あまり当てにされないであろう。おそらく絡まれた巡査はいい加減な生返事をしてから、面倒事が増えたと文句を言いながら一応確認のために現場へ出向くのだ。煙たく思われるだけで、毛ほども信用されない。そしてそれと同様に、本人でさえ酔っ払っていたときに見たものや聞いたことなど信用できないだろう。素面に戻ってから物事を思い出そうとしてもどうにもあやふやで、自分のことでありながらも確信が持てなくなるのだ。
その男もおそらくはそう考える者の一人であったろう。だがしかし、角を曲がった先であるものを見てしまってから、その男はこの定義にもう一つ大事なことを付け加えるべきだと痛感した。
たとえどんな状態であろうと強烈に印象に残ったことは、素面に戻ろうが長い月日が経とうが忘れはしないのだという、極々簡単な法則である。
その男は、まさにそれと当てはまる状況に直面していた。貴重な実体験ではあったかもしれないが、当然ながらそれを歓迎する気はこれっぽっちもない。できることならばそこで回れ右をして、再び仕事場まで全力疾走したかったくらいだったが、金縛りにあったように動かなくなってしまった体ではかなわなかった。
男の視線の先にいたものは、おそらくは人であった。とりあえず人の形はしていたそれは、血を浴びような紅い服を着ており、長く流れる茶色の髪をまるで生き物のようにざわめかせていた。そして禍々しい爪が生えた手で、まるで苦悩するかの如く頭を抱え、暗い目元からちらちらと金色に輝く瞳を覗かせている。
しかしそれらの凶悪さや異常を除くのであれば、他は普通の人間と変わりなかった。
ふと何気なくその全体を見たならば、大方の人がそれを人間だと思っただろう。
だが、男はそう思わなかった。写真に撮ったものを見せられたのなら人間だと思ったかもしれないが、生憎その男はそれを目の前で見ていた。せめてそれとの間に分厚いガラスでもあったなら少しはマシだったろう。
だが、それは容赦なく目の前に立っていた。男は魔法理論を仕事の範囲でしか知らず、法力を生身で扱えるわけでもなかったのだが、それがあらゆる生物にとって最大の敵であるとが分かってしまった。戦いなどという血生臭い物事とは縁遠い凡庸な人間でさえ気付いてしまうほどに、それは危険極まりない気配を放っていたのだ。
しばらくの間、男は顔を引きつらせたままそれを凝視していた。本当は顔を逸らせたかったが、恐怖で体が動かせなくなっていた。絶望的な気持ちで、男はその姿を脳裏に焼き付ける。
そんなとき、それはふとこちらの存在に気付いたかのように、男の方に顔を向けた。そしてそれと視線が合った瞬間、男は全身に熱風を浴びた。
GAAAAAA!
男は圧倒的なその力によって紙屑のように飛ばされた。だがそれは幸か不幸か、体の自由を取り戻すきっかけとなった。
「うわああぁぁぁ!」
男は痛む体もものともせずに跳ね起き、壊れた人形のように金切り声をあげた。
頭の中は真っ白だったが、帰巣本能というべきか、男は最短距離の道程を取って家へと無我夢中で走り出した。
そしてやっとのことで辿り着いた我が家で、男は長年連れ添った妻にその出来事を事細かに語ったが、やはり酔っ払いだということで信用してもらえなかった。
その日、カイは随分遅くに仕事を終えた。その日の仕事の分はいつも通り終えていたのだが、今まで溜まっていた書類の整理などに時間を取られていた。膨大な書類を一日で片付けるには流石に時間が足らず、とりあえず一区切りがついたところで帰ることにした。明日が休日ということもあってか、カイが職場を離れる頃には皆帰ったあとだった。
普通なら馬車を使ってもいいような道程を、カイはいつも歩いて帰っている。特に明確な理由はないが、カイは自分の足で歩くことを好んだ。強いてあげるなら交通費の無駄遣いを抑えるためかもしれない。自分に支払われる給料やその他諸々の雑費が国民の税金から出ているかと思うと心苦しく、出来るだけ節約しようとしてしまう。カイ自身そういうところは損な性分をしているなと思うが、税金で自分の私腹を肥やしたいとは思わなし、無駄な贅沢をしたいとも思わない。よってカイは給料の他に付いてくる馬車代や使用人の雇用費をすべて断り続けていた。そんな無駄金を使うくらいなら、自分よりももっと生活に困っている人の支援に回した方が数倍有意義だ。
カイにはただ、住む所と生きていけるだけの生活費があればそれで充分だった。
もしもそれ以外で何かを望むのだとしたら、それは――……。
「流石に……無理でしょうね、こんな願いは」
カイは自宅を目指して歩きながら、自分の愚かな考えに苦笑した。
彼といつも一緒にいたい。側にいてほしい。そう願うのは愚かなことだった。
彼はまさに自由な鳥だ。何にも捉われず、何にも影響されず、何者にも計られない。鳥は鳥でしかなく、他人の目を気にすることもない。ただ意志の赴くままに現れ、時が来れば音もなく消え去っていく。
だが、それでいいのだろうとカイは思う。その鳥が限り無く自由であるからこそ、自分は憧れたのだ。鳥籠に入れてしまっては何の意味もない。
「あいつ……今度はいつこっちに来るんだろう」
カイはなんとはなしに呟く。
彼は自由だからいつ訪れるかなんて分からない。もしかするともう来ないかもしれないし、明日にでも現れるかもしれない。だがいずれにせよ、自分は彼が再び現れることを信じるしかないのだろう。自分も彼も進む道がはっきりしているのだから、互いに依存し合ったりするのは傷を舐め合うだけで意味がない。寄りかかるのではなく、助けが必要なときに支え合える存在であればと、カイは密かに願う。……もっとも、彼が自分如きに助けを求めるとは考え難いが。
「だから『坊や』なんだろうな……」
まだまだ日々精進しなければと思いながら、カイは少し顔を引き締めた。せめて彼に釣り合うくらいにはならないと……。
「?」
カイはふと違和感を抱えて、その場に立ち止まった。目の前にはもう既に自分の家が見えているのだが、そこから何かただならぬ気配がしているのに気付いて、カイは足を止めた。
カイの家には当然ながら明かりはついていない。ざっと見た感じでは玄関が荒らされているわけでもないし、もちろん隣近所にも何か被害があるわけではない。
だが、カイは確信していた。
「……ギアだ」
気配の主をはっきり断定して、カイは再び歩を進めた。いつもなら真っ先に構えるはずの封雷剣は今、手元にない。手の中にあるのは、家に置いてきた愛用の剣とは程遠い、邪魔な仕事用のバッグだけである。
あまり自信のない体術や、過信するにもどこか危なかしい法力しかない状態で、カイは自分の家に近づいた。
「……」
気配を殺してドアの前に立ったカイは、まるで強引に引き剥がされたような形で地面に転がっている、ひしゃげたドアノブを見つめた。
もしもただのはぐれギアがこれをやったというのなら、わざわざ玄関前に来てからドアを壊すなどという面倒なことはしないだろう。外から窓なり壁なり、壊してから入ればいいだけだ。いや、そもそもカイの家などにギアが入る理由はない。仮に何かしら意図があったにしても、カイを殺そうと思うなら、周囲の家ごと焼き滅ぼしてしまえば済むことだった。
この明らかに矛盾を含んだ行動の痕跡が示すものは――…。
「ソル……」
人間の心とギアの肉体の狭間で苦しむ戦友の名を、カイは呟いた。そうと断定する要素があったわけではないが、カイにはそれ以外考えられなかった。自分が常に影響受け続けた、力強くて暖かい気配がまるで爆弾でも抱え込んでいるかのように神経をささくれ立たせているのがなぜか分かる気がする。
カイは無言のまま、壊れたドアに手を掛けた。無残に広げられた鍵穴に手を引っ掛けてから、ゆっくりと手前に引く。鍵はとっくに壊れているので、それは難無く開いた。
カイはできた隙間に体を滑り込ませ、暗闇に包まれた部屋を目で探る。とはいえ人間の目では見える範囲が自ずと限定されてくるので、もっぱら感覚を研ぎ澄ませて気配を読むことになった。
中にいる……でも、ここからは遠い。
カイは音も立てずにダイニングルームに入ると、とりあえずバッグをテーブルの上に置いた。身一つになったカイはそのままキッチンを素通りして、バスルームの前を通る。強大な気配はいよいよ強く感じられるようになったが、下手に強烈な印象を与えてくる気配なだけに、どことは断定しにくかった。
警戒しつつバスルームの中を覗いて確かめたカイは、求める姿がなかったことがなかったことを確認してから、今度は寝室へと足を向けた。カイの家はもともと大した作りではないので本当に必要な部屋しか揃っておらず、まだ確認していないのは残すところ寝室と書斎だけになっていた。
近い方にある寝室の前まで来たカイは、息を殺しながらドアに手を掛けた。
「ソル……?」
僅かに開けた隙間から中を覗いたカイは、小声で呼びかけてみる。だが、予想通りに返事はない。もしも普段のソルがそこにいたとしても、わざわざ返事をするとはあまり考えられなかったので、期待はしていなかった。
カイはドアを更に押し開いてから、音も立てずに中へ体を滑り込ませると、部屋の全体を見渡した。何の変哲もないその部屋は、ベッドとクローゼットが一つずつしか置かれていない殺風景なものだ。大きく切り開かれている窓の向こうには、星が妖しく輝いている。
月もない完全な闇中で、カイの目はもう随分慣れたのか、ベッドのシーツに刻まれている皺の一つ一つさえはっきり見え始めていた。小さな変化さえも見逃すまいと目をこらしていたカイは、部屋を見つめながら、カイは不意に眉根を寄せる。
「……?」
カイは唐突に違和感を覚えて訝った。カイが慣れ始めた目に頼っている間に、探していた気配がいつの間にか掻き消えてしまっていたのだ。
気配が……ない!?
カイは慌てて部屋の中に一歩踏み込んだ。そして首を巡らせて部屋を見渡す。
「一体どこに――」
思わずそう呟いた瞬間。
カイは横に吹き飛ばされた。
「ッ!」
軽々と飛んだカイは肩口から壁にぶつかり、衝撃に短く息を吐く。肩の骨を砕かれるかと思うような力だったが、カイは目を閉じるという愚行はしなかった。
痛みに顔をしかめたまま、カイは目の端に捉えた影に反応して体を捩る。
それとほぼ同時にとてつもない斬撃が、カイの右肩を掠めた。だがそれは、皮膚の表面を一枚だけ切るに留まり、目標を捉え損なったその力は勢いをそのままに壁へぶち当たった。発生した衝撃に、芯に石を使った壁は易々と抉られ、破片を辺りにまき散らす。
壁に押し当てていた背に冷汗が伝うのを感じながら、カイは目の前にいる相手を見つめた。
「ソル……」
闇に濃い影を落とす男の名を、カイは呟いた。その言葉を聞いて、らんらんと輝く金の瞳が一瞬細くなる。
カイに攻撃を仕掛けて今なお壁に拳を突き立てているその男は、見間違えようもなくソルだった。しかし、いつも着けているヘッドギアは額になく、代わりにギアの刻印がゆらゆらとたゆたうように鈍い光を放っていた。高めに結っているはずの髪も解けていて、赤いジャケットに惜しみなく流れており、時折唸り声を漏らす口からは長く伸びた牙が覗く。
ギアの細胞がソルの精神に勝ってしまったのか、完全にギアとして暴走したソルがそこにいた。
「ソル……私が分からないか?」
カイは真っ直ぐにソルを見つめて、静かに聞いた。できるだけこれ以上ソルが興奮状態に陥らないよう、カイは努めて冷静に言葉を発する。とはいえ、出会い頭に見境なく攻撃してくるくらいだから、もはや言葉の理解どころか人の認識もできていないかもしれない。普段のソルは戦うときでもない限り、自らカイに攻撃を仕掛けたりなどしない。つまりは……カイをカイだとは認識していないことになる。
獰猛な肉食獣の目でこちらを舐めるように見つめるソルにそれを感じながらも、カイは徐に手を伸ばした。
「どうした? お前がその程度のものに屈するなんて……らしくないじゃないか」
苦笑しながら、カイは優しくソルの頬に触れる。しかし触れた瞬間、壁に突き立てていた方とは反対の手で掴まれてしまった。
鋭い爪の生えたソルの手に鷲掴まれ、ぎりっと音を立てている自分の細腕には目もくれず、カイはソルの目から視線を逸らさないまま言った。
「正気にもどれ、ソル」
毅然とした呼び掛けに、ソルは何も答えないまま鼻に皺を寄せた。嘲笑うかのように口端を釣り上げながら、ソルは恐るべき力でもってカイの腕をますます締め上げてくる。
血管にほとんど血が通わない状態になっていたが、カイは表情一つ変えずにソルを見据えた。
「足掻きもせずに、このままギアになり果てる気か? こんなところで人の心を失うようなら、お前はもう私の好敵手に足りえないぞ」
カイがそう言い放ったと同時に、金色の目がくわっと見開かれた。そしてソルの鍛えた腕の筋肉が一瞬盛り上がったかと思うと、掴まれていた右腕がぼきりと嫌な音を立てて折れ曲がった。爪が食い込んで裂けた皮膚からは、とめどなく血が溢れ出し、肘まで生暖かく濡らしていく。だがカイは痛覚を意識から締め出していたので、悲鳴すらあげなかった。
普通なら痛みにのた打ち回るようなものを、カイは眉を一瞬ひそめるだけに留まり、間近にいるソルを哀しそうに見つめる。
「ソル……」
哀れを含んだその言葉にソルは気を害したのか、掴んだままの折れた腕を思い切り引っ張った。筋肉と神経だけで繋がった箇所が引き千切られかける痛みに、カイは流石に眉間の皺を増やしたが、全く抗う素振りを見せず、引きずられるまま体を床に打ち付ける。
ほとんど無抵抗で床に倒れたカイに、ソルはすぐさまのしかかってきた。獲物を前に悦ぶ肉食獣の如く、ソルは、ぺろりと紅い舌で下唇を舐めて危険な笑みを刻む。だが、カイは恐れもなくソルを見上げた。
「ソル、いい加減にしろ」
きっと睨み上げたカイは凄みのきいた低い声を出したが、ソルはむしろその好戦的な態度にどこか満足したらしく、にぃっと笑う。
不意にソルは掴んでいたカイの腕を手放し、身を乗り出すように顔を近付けてきた。その行動に至っても冷静に見ていたカイだったが、ソルがこちらの肩をぎりっと両手で押さえ付けて、首筋に噛みつこうとしてきたのに驚き、慌てて身を捩った。
「ソ……!」
頸動脈を傷つけられそうになって、カイは咄嗟に首を逸らせる。が、体を押さえ込まれているせいで避けきれず、左肩に歯を立てられた。
「ぐっ、ぅ……!」
鋭い牙が皮膚をぶつっと突き破る。途端にそこから紅い血が溢れ出し、カイは噛み締めた歯の間から苦悶の声を漏らした。痛みで血の気が引くような目眩に襲われながらも、カイはソルをどけようと腕を突っ張る。
だがソルはむしろ、組み敷かれながらも身を捩って儚い抵抗を続けるカイの行動を楽しむように、ますます牙を突き立ててきた。
「あぐっ! う…ふ、ぁは…っ…」
肉が裂かれ、細胞組織がぐずぐずに破壊される感触に冷汗を浮かべながら、カイは微妙に艶かしさの混じった声をあげた。本人は激痛で絶叫しそうになった声を必死に押し殺しただけにすぎなかったが、その苦痛に彩られてもなお涼やかな音色に、ソルは僅かに動きを鈍らせる。
「……?」
留めどなく流れ出す血とともに体温を奪われて意識をさらわれそうになりながらも、カイは微妙な変化に気付いて、肩口に顔を埋めているソルを横目で見つめた。なぜかソルは動きを膠着させている。
「ソル……?」
牙を突き立てたまま動かないソルを不審に思って、カイは弱々しく掠れた声で名を呼んだ。
そうしている間にも溢れ続けている血が、床を紅く染めていく。意識も半分遠のきかけている。しかしそれでもカイは、ソルに反撃する気が起こらなかった。
このまま死んでもいいと思ったわけではない。むしろ死ぬものかと思っているくらいだ。しかしだからといって、ソルをむやみに傷つけられるわけがない。理由がなんであれ、ソルが血を流すのは見たくないし、これ以上目に見えない心の傷を負わせたくなかった。しかしなによりこんな覚醒状態のソルにはおそらく何の攻撃も通じないだろう。普通に戦っても手加減されているくらいなのだから、今のソルに敵うはずもない。
結局は何もできずにただ見守るだけで、ソルの気が済むようにさせることしかできない自分が歯がゆかった。
「ソル……」
カイは穏やかな声音で呼び掛けながら、噛みつかれている側の腕を僅かに動かしてソルの頭をそっと撫でた。反対の腕は先程折られたので動かせない。
無駄と知りつつも、カイが宥めるように茶色の髪を梳いていると、血溜まりで濡れたカイの肩に噛み付いたままだったソルが、カイの言葉に一瞬身じろいだ。
「GA…WWW…ぅう、あ」
「!」
獣の唸り声の中にソルの本来の声が入り交じったのを聞いて、カイはハッと目を見開いた。どうやらギア特有の破壊衝動に侵食されながらも、ソルの自我はまだ残っていたようだ。確かにそれなら、カイをすぐに殺さなかった理由が分かる。
本当ならたった一薙ぎで充分絶命させられるはずだったのだ。
ソルは完全に支配されまいと、ずっと抗っていたのだろう。今はソルの自我がギア細胞に勝りつつあるようだった。
「ソル……ソル?」
カイは精一杯首を巡らせて、肩に食いついたまま葛藤するように唸っているソルを見つめた。
――が、突然カイは強い力で突き飛ばされた。
「……ッ!」
二、三歩離れたところに体を投げ出され、カイは再び床に倒れ込む。
「く……っ」
ろくに力の入らない体を心持ち起こして、カイが顔を上げると、両手で顔を覆ったソルが目の前に立っていた。溢れ出る狂暴な衝動をかろうじて抑え込んでいるのか、筋肉の盛り上がった体を時折震わせ、風もないのに髪をゆらゆらと揺らめかせている。
一見すると泣いているようにも見えるその姿にカイが目を見張っていると、ソルが指の間から紅い瞳を覗かせた。
「……げろ…。早、く…ッ」
絞り出すように、ソルが人の言葉を発する。だがその切羽詰まった声の忠告に、カイは即座に首を横に振った。もとの赤茶色に戻った瞳を見つめたまま、カイは叫ぶ。
「放っておけるわけないだろ……!」
「くっ…馬鹿…や、ろ…。も…ぅ…持たね……ぐ、あああAAAAAー!!」
ソルは目を見開いて、雄叫びをあげた。大きく開いた腕とともに反らせた体には、広がった髪と同様に波打つ炎が揺らめく。貫くように天を仰ぐ瞳は禍々しくも美しい金色に輝き、大きく開けた口からは鋭く生えた牙がぞろりと覗いた。
GAAAAAAA!
不意に大気を震わせるほどの咆哮をあげたかと思うと、ソルは周りを圧倒する殺気を放つ。爆発的に膨れ上がった力は、衝撃波さえ起こしてカイの体を襲った。
皮膚がぴりぴりするほどの強烈な気を叩きつけられ、カイは思わず身を震わせる。余波で壁にひびさえ走る、今までのものとは比べようもない力の大きさに、ソルの理性が完全に消し飛んでしまったのだと、カイは己ずと悟った。明らかにソルの身に纏う雰囲気が一変してしまっている。
おそらくソルは今度こそ手加減なしに本気でこちらを殺しにくるだろう。カイは静かにそう思った。もはやただの破壊衝動ではなく、明確な殺意をソルは宿している。無抵抗な態度を取って相手の戦意を少しでも剃ごうという悪足掻きさえできない。されるがままになれば、それこそ一瞬で命を奪われる。
反撃するしかないのか……。
カイは眉をひそめて苦悩した。それ以外、生き延びる可能性がある方法はない。
自分がこのまま殺されれば、おそらくソルは自らの手で人間を殺してしまったことに心の傷を負うだろう。それだけはなんとしても避けたい。
でも……一体どうすればいいんだ。
既に右腕は使えなくなっているので、剣は握れない。魔法も果たしてどこまで通用するのか分からない。なにより住宅地内で大きな魔法は使うのは危険だ。だが、だからといって加減した力でどうにかなる相手でもない……。
せめて何かソルの気を逸らせることができれば。
「……!」
そう考えたとき、カイの脳裏に一つの方法が浮かんだ。果たして本当に問題を解決できるのか甚だ疑わしいやり方ではあるが、今はそれくらいしか思い付かない。
つまり破壊衝動を別の「負の感情」に変えて発散させてやればいいのだ。それで本当にソルがもとに戻るのかは全く分からないし、たとえもとに戻れるにしても一体どれほどのエネルギーを消費すれば収まるのか、検討もつかない。
だが、やってみるしかない。可能性は限りなく低いだろうが、試してみる価値はある。このままソルにここ一帯を焼け野原にさせるわけにはいかない。
WWW…GAOOOOM!!
不意にソルが吠える。熱波を伴った威嚇が、カイの全身を叩いた。
夥しい血を流している肩の傷口が焼けるように痛かったが、カイは構わず体を起こして、構える。両腕はろくに動かせないのでだらりと下げたままだ。普段の構えとは程遠いが、体を瞬時に動かせるように筋肉を緊張させ、カイはソルを見据えた。
ソルは長く尾を引く雄叫びを終えると、ぎらぎらと光る金の瞳をこちらに向けた。そして手の動き具合をみるように、鋭い爪の生えた手を動かす。
全身に陽炎を立ち昇らせたソルは口の両端をつり上げて、にぃっと残忍な笑みを浮かべた。獲物を見つけた肉食獣の如く、狩りの楽しみに酔い痴れる笑みだ。
それを見つめながら、カイは思う。もしもこれが暴走というかたちでなく、ソルの意志によって発揮された力の解放だったならば、自分はむしろこの状況を喜んでいたことだろうと。唯一好敵手と目した男が全力で戦うのだ。これほど嬉しいことはない。しかし、今のこの状況ではとても喜べなかった。ソルの自我がもしかすると完全に無くなってしまったかもしれないと思うと、胸が痛い。
強い者を前にする高揚感と、大切なものを失うかもしれない恐怖とを感じて、カイは知らず身震いした。
「GAAAA――!!」
雄叫びとともに、ソルが目にも止まらぬ速さで突進してくる。サディスティックな笑みを張り付けた口許から、唾液を絡ませた紅い舌が覗いた。
「!」
カイが瞬きする間もなく、ソルは鼻先が触れ合うほどに近づく。一瞬にして距離を詰められた。
瞬間移動としか思えないその動きにカイが思わず目を見開くと、いつの間に振り上げたのか全く分からなかった右腕が振り下ろされるのが目に入った。本能的な恐怖が、カイの背筋を駆け抜ける。
「――ッ!」
かまいたちのような鋭い風が、カイの頭上を薙いだ。脳を容易く破壊するだろうと思われた長い爪は、金糸の髪を数本散らせただけで、空振る。どうやら命の危険を感じて、考えるよりも先に体が動いて攻撃を避けたらしい。カイはぎりぎりのところで体を傾けて、ソルの爪をかわしていた。
だが、それはほんの一瞬寿命が伸びただけにすぎない。不自然に避けたせいで、とても二撃目をかわせる態勢ではなかった。
ソルはすぐさま、払った腕を引き戻し、再びカイの胴に向かって右腕を振り下ろしてくる。咄嗟に倒れかけた体を支えるため、カイは折れた右腕一本に全体重をかけた。
「くぅ……ッ!」
更に腕があらぬ方向に曲がるのと引き換えに、カイは込めた力の反動で態勢を立て直す。急に体を起こしたせいで崩れたバランスを取るように右足を後ろに引きながら、カイは噛み締めていた唇から短い呪文を吐き出した。一瞬で具現化した魔法がソルを襲う。
「! GAッ!?」
目の前で火花を散らして発生した雷に、ソルが一瞬怯む。苦し紛れに使った魔法なので大した威力はなかったが、顔面で炸裂させられては如何に強い者でも隙を生んでしまうものだ。幸いその目論見は成功し、ソルの振り下ろした右腕はカイの脇腹を軽く引っ掻くだけに留まった。
標的を捉え損なったことで生じた一瞬の硬直を見逃さず、カイはソルの懐に飛び込む。途端、金色の瞳が驚きの色に染まった。
「ソル……!」
カイは倒れ込むような勢いでソルに抱き着く。そしてそのまま首に腕を絡みませ――口付けた。
「!」
ソルが目を見開いて、驚愕する。理解できないというように、瞳が揺れて戸惑いを露にした。
「ソル……」
カイは再度名を呼び、角度を変えて唇を押し付ける。自分からしたことなどないのでひどく不器用なキスしかできなかったが、それでもなんとかその気になってくれるよう、熱い口付けを何度も贈った。
しかし、ソルは唸り声を漏らしながらカイの肩に手をかけて、傷口を抉る。
「ッ! ソ…ル…っ」
痛みに顔をしかめながらも、カイはソルの唇を塞いだまま放さなかった。だが、首に回していた腕が痺れてきて、力が抜ける。
「う……」
再び溢れ出した血が背を生暖かく濡らし、床に紅い染みを作った頃、カイは大量の出血に耐えきれず、膝からがくんと崩れ落ちた。
――が、床に倒れ込む前に、逞しい腕に体を支えられる。
「え……」
驚いてカイが閉じかけた瞼を開くと、目の前に残忍な笑みを浮かべたソルが、ぺろりと自らの下唇を舐めるのが目に入った。その獣じみた金の瞳を見たとき、カイはソルが親切心で自分を助けたわけではないのだと悟る。
「んぅ…っ…!」
突然引き寄せられたかと思うと、噛みつくように口付けられ、カイは喉の奥で呻いた。体をしなるほどに抱きしめられ、強引に舌を入れられる。
「んんっ、ぅ…ふ、ん…っ」
侵入してきた厚みのある舌は歯茎をなぞり、逃げ腰になっていたカイの舌を搦め取って、きつく吸い上げた。唾液を含ませた舌に何度も擦り上げられる感触に、カイは痺れるような甘い快感を覚える。いつの間にかがっちりと後頭部を固定されていて、まともに息継ぎもできないままカイは貪るようなキスを受け止め続けた。
「ん…ふっ、ぅ」
荒々しい口付けに翻弄されながらも、カイはあまり力の入らない左手をそろそろとソルの下腹部に這わせた。そしてわざと追い上げるように、ソルのものを布越しに擦り上げる。
「G……!?」
ソルが驚いたように唇を離す。だが、抵抗する隙を与えないようにカイは強引にソルの唇を奪った。胡麻化すように何度も音をたてて口付けながら、カイはソルのものを性急に扱き上げる。
「……」
カイが懸命に稚拙な愛撫を与えると、次第に手の中のものが固くなり始めた。もうその頃にはソルも抵抗しようとはせず、むしろ主導権を奪うかのように激しく舌を絡めて吸い上げてくる。
「ソ、ル……」
互いに合わせた唇の合間から熱い吐息が漏れて、ぴったりと合わせた体が大きな鼓動で満たされたとき、カイは静かに唇を離してソルを見つめた。ソルは構わず唇を重ねてこようとしたが、それをやんわりと押し留めて、カイはソルの目の前で見せ付けるように自ら服を裂く。途端に白い胸が露になった。
「……私はお前に殺されてやるつもりはない。でも、それ以外なら何をされても構わない」
言い様、片手で引き剥がした服を床に落とし、カイは哀しさを含んだ笑みを浮かべる。
「私は女性じゃないから、お前をどこまで満足させられるか分からないけど……好きにしていいよ」
カイは誘うようにソルの手を取って、側にあるベッドの端に腰を下ろした。ソルは言葉が理解できたわけではなかっただろうが、暗に示した意味を察したらしく、カイの体をベッドに押し倒して覆い被さってくる。
なんとかこちらの策に乗ってきてくれたソルを見て、カイは少し表情を緩めた。
破壊衝動を性衝動に置き換えようというとんでもない心算は、一応うまくいったらしい。いつの間にかソルはカイを殺そうとするのではなく、犯そうと考えている。
カイの上にのしかかったソルは、徐に薄い胸に唇を寄せて、これ見よがしに伸ばした舌でつぅっと白磁の肌を舐めた。
「ぁ…っ…」
思わず声を漏らしてしまったカイは、慌てて口を閉じた。今は感じている場合ではない。
だが、カイがあげたその声に、ソルは満足そうな笑みを浮かべた。そして、唐突にカイのベルトを力任せに引き千切り、ズボンを下着ごと引き下ろす。
完全に裸体を晒すことになったカイは、あまりの恥ずかしさに今更ながら頬をかぁっと赤らめたが、ソルが足首を鷲掴んで無理矢理股を割り、いつの間にか取り出していた己のものを秘部に押し当ててきたのには驚き、思わず顔を青ざめさせた。
「ソ……いッ!!」
何の準備もなしに押し入ってきた異物に、カイはビクンッと体を跳ねさせる。潤滑油になるようなものも一切なくねじ入ってきたそれは、すでに固くそそり立っていて、カイが激痛に悲鳴をあげても構わず侵入してきた。
「ぐっ、ぁ……うッ」
滑りが悪い状態で埋め込まれるソルのものが内壁とこすれ合って、強烈な痛みを生み出す。隙間なく一杯に埋まっているせいで、徐々に侵入されるごとに皮膚が引っ張られ、カイの体は痛みでのけ反った。受け入れる側のカイはもちろんのこと、挿れる側のソルも痛くないはずはないのに、退こうという気配は全くない。それどころか、なかなか入りきらないことに痺れを切らせて、秘部を指で広げながら強引に押し進めてくる。
「あ、っくぅ! うぐ……あああッ!」
ソルが叩きつけるように腰を打ち付けてきた瞬間、皮膚がぱっと裂けて血が溢れ出した。激痛に脳を侵食されたカイは、悲鳴をあげる。
だが、ソルはその流れ出した血を潤滑油代わりにして、力任せに何度も突いてきた。
「…あっ…あ、あ、ぅ…」
ソルが押し入ってくるごとに傷口が広がり、新たな血が溢れ出す。たった数回続け様に穿たれただけで、シーツが真っ赤に染まった。
怒張したものが抜き差しされるたびに傷口が擦られて、肉を裂かれる痛みだけが体を侵食する。快感など微塵もなく、ソルだけが貪欲に求めてくるその交わりに、カイは蒼白になりながらも逃げようとはしなかった。ひたすらシーツを握りしめて、悲鳴を押し殺す。
もしもここで自分が逃げ出せば、ソルがまた暴走し出してしまうことが分かりきっていたので、カイはただひたすら揺さぶられ続けた。
飽きもせず幾度となく繰り返される挿入に痛覚が麻痺してきた頃、カイは意図的にソルを締め上げてみた。
「……W…」
そのきつい締まり具合に、ソルが僅かに呻く。そのままソルが退こうとした瞬間にもカイがわざと締め付けると、ソルは気持ちが良かったのか、満足そうに笑った。
それにつられてカイも薄く微笑んでみせたが、すぐにまた早いリズムで腰を打ち付けられ、すぐに苦渋の色に染まった。
「ぁああっ! くはっ……う」
カイが痛みに足を突っ張ってソルをぎゅっと銜え込んだ途端に、その張り詰めていたものが一気に弾けて、カイの中にどくどくと白濁の液を流し込んできた。
下腹部辺りの奥が生暖かいもので満たされる不快感に、カイは眉をひそめる。
だがソルのものは解放のあとにも関わらず、まだ固く張り詰めていて、ほとんど間も置かずに再び突き上げてきた。奥まで打ち付けられるたびにカイの体がしなり、ソルの放ったものが血と混ざり合って秘部から溢れ出す。ピンク色の体液が内股を濡らし、シーツに鮮やかな染みを作り出した。
「ぅ、ぐぁ……っはう! あっ…あ? んんっ…あ、ぁあんッ!」
自分の欲望を満たそうとするだけのソルに幾度も中を突かれているうちに、何度目かのものが偶然カイの弱い部分に当たった。全身を駆け抜けた快感に、カイは苦痛の声を一変させて甘い悲鳴をあげる。
その際にカイは思わずソルをぐっと締め付けてしまい、ソルは引き絞られる快楽に笑みを浮かべる。しかしふとその笑みを酷薄なものに変えると、ソルは突然カイの弱い部分ばかりを執拗に攻め始めた。
「あああっ、うッ! は、ぁん…っんぅ!」
感じるところを穿たれるたびにカイは体を波打たせて声をあげたが、それに伴う痛みの方が大きく、快感が得られるのはほんの一瞬だけでしかなかった。すぐに快楽を上回る激痛が走り、ろくに感じることさえできないまま萎えてしまう。
それでも煽られたカイが何度か締め付けると、ソルはまた達した。だがそれくらいでは足らないのか、ソルは休む間もなく腰を打ち付けてくる。
まるで底無しのようなその行為に、快楽と苦痛とを行き来しながら、それでもカイは意識を失うまいと断続的にソルを締め付けた。
最初に噛みつかれた肩からは今もじわじわと血が流れ続けていて、ただでさえこんな行為に慣れていないカイから余計に体力を奪っていく。
冷汗を浮かべながらも、カイはソルを見た。カイの足を肩にかけて貪欲に奥を目指してくるソルの瞳は、邪悪に輝いている。まだまだ力が有り余っているのが、嫌でも見て取れた。
その事実に半ば気を遠くさせながらも、カイは最後までソルを銜え込んだまま放さなかった。