終わらない夜に舞え




「――ってことなんだ。できたらお前の力を借りたい」
「んなのは警察の仕事だろ。俺が口出すことじゃねぇ」
「今から動いたのでは遅すぎるんだ。上層部に案を通すだけで時間を喰ってしまう。迅速に行動できないのは、組織の欠点だとは思うけど……時間がないんだ」
「んじゃ他あたれ。俺でなくたって構わねぇだろ」
「いや……今回ばかりは私とお前が一番適任なんだ。なにしろ、アレは複雑だから」
「どういうことだ?」
「連中は偶然アレを手に入れたものの、なかなか完成させられずにまごついてる。だからそのために、強力な法力使いがほしくして仕方がないんだ」
「……みすみす完成させる気か?」
「ああ。だが、幾らか細工はさせてもらう。どのタイプの兵器か分からないから、その場で臨機応変に対処しなければならないけど……そういう意味でもソルと私が適任なんだ」
「面倒くせぇ。相手の首をぶった斬りゃいいってわけじゃねぇし、断る」
「そんなこと言わないで協力してくれ。正直、他に頼れる人がいないんだ」
「……成功報酬は?」
「報酬? 一応連中の首に掛かっている賞金を全部お前に譲るつもりだけど……」
「別に金なんかほしくねぇ。充分間に合ってるんでな。それ以外になんか気の利いたもんねぇのか」
「ええっ? うーん……何か考えておく」
「そうしてくれ」
「じゃあ、仕事を受けてくれるんだな?」
「坊やがそうまでして頼むんなら仕方ねぇだろ。……子守りも慣れちまえばそれまで、ってな」
「わ、私は子供じゃないぞ!」
「んなことでイチイチ怒ってる時点でガキだってんだよ。ボ・ウ・ヤ」
「……(怒)。」




そこは独逸のとある街だった。さして大きくはないが、交通の便が良く、様々な人種が行き交う。
訪れる人間が多ければ多いほど、より様々な職業が成り立つのも然り。堅気のものから、職種と言うべきか否か判断に窮する肩書きを持つものまで様々だ。しかしそれらは、互いに密接な関係にある。犯罪の範疇であっても欠かせないものというのは事実存在した。そしてそれらは暗黙の了解という形で守られ、街の奥深くに根強くあり続ける。その現象は表と裏が一体であることを示しているようでもあった。影の存在しないところに光りが存在しないのと同じように……。
かくいうブラウン=ベアもそうした裏社会の住人の一人だった。
この名は本名ではない。見た目から付けられた、ただのあざなにすぎない。だが、裏社会ではそれで充分だった。呼ぶための名があれば、それは本名でなくも構わないのである。
ただ、実力さえあればいい。完全なる実力主義の世界では、生まれも育ちも親の威光さえも役には立たない。自分の力だけが唯一にして、絶対。
だが、力を発揮する場とタイミングというものは重要だ。そしてそれに巡り会わせるための努力と運も重要だろう。
だからこそ、ブラウンはそこに居た。自分の持つ稀な才能を活かすには、そうした特殊な環境を要した。
「ねえ、ブラウンさん。そっちの魔法陣で問題あったやつ、解決しました?」
「いや、まだもう少し……。できたらあんまり急かさないもらいたいんだがね」
同じく雇われている身の眼鏡男がこちらの手元を覗き込みながら聞いてきたので、ブラウンは苦い顔をしながら答えた。とはいえ、ブラウンはあざなの通りもともと熊のような顔立ちなので、おそらく困った顔というよりは威嚇する熊に見えたことだろう。
しかしその眼鏡男は特にそれを気にすることもなく、ブラウンが担当している魔法陣をひょいと覗き込んだ。
「これ以外で解決方法が見つかったんなら是非とも教えてほしいんだが、どうだ?」
とりあえず行き詰まっていた問題の箇所を自分なりに繋いでみたのだが、どうにも効率が悪い出来になってしまっている。
ネズミに似た顔のその男は鼻に乗せている不釣り合いなほど大きな眼鏡をしきりに上げながら何やら考えている風なので、ブラウンは半ば投げやり気味に聞いてみた。仕事で手を抜くのは自分の流儀に反するが、どうせ報酬は皆同じだ。手を抜けるところは抜く。それが楽に生きるコツというものだろう。
だが、そうそう世の中は上手くできていないらしい。眼鏡男もしばらくすると渋面を作った。
「あー…。駄目ですね。ボクの知ってる範囲で最適な方法を選んでも、パワーバランスに問題が出てきちゃいます。下手をすると街ごとドカン」
「俺よりタチ悪いな、お前……」
ブラウンは呆れた目差しで眼鏡男を見つめたが、彼は悪びれた様子もなく、大袈裟な仕種で肩をすくめてみせた。
「こんな高位の兵器を制御しろって言う方が間違ってるんです。悪いですが、これは軍の最新兵器に匹敵しますよ」
「……いや、『最新』じゃないだろ。もう百年も前のものだ」
悪いのは自分じゃないと言わんばかりに文句を口にする眼鏡男に内心同意しつつも、ブラウンは微妙に話題を変えた。あまり悪態をついているところばかりみせると、見張りについている連中から睨まれる可能性があったからだ。
有難いことに、眼鏡男はこちらの話題に興味を示したようだった。
「これの出所を知ってる口振りですね」
「これでも普段は情報屋をやってるもんでな。……まあ、あんまり儲かってはいないが」
少しばかり愚痴を零してから、ブラウンは眼鏡男にさり気なく近づく。眼鏡男はこちらの意図に気が付いたらしく、僅かに体の向きを変えて耳を傾けてきた。
ブラウンは声をなるたけひそめて話し始める。
「これは、聖戦以前に軍事用として開発されていたギアに搭載するはずだった兵器だ。だから百年以上も前の代物ってことになる」
「ギアに兵器を搭載? それっておかしくありませんかね? ギアはそれそのものが兵器でしょう?」
眼鏡男は即座に疑問を投げ返してくる。その反応の早さに満足しながら、ブラウンは少し口端を上げて皮肉げに笑う。
「人間は貪欲だ。そして何より『楽』が好きな生き物だからな。命令一つで何から何まで複雑なことをやってくれる便利な武器がほしいと思うのは当然だろう?」
そうして様々な事態に自動的に対処するギアを作ったはいいが、それは後々暴走を起こすことになった。言うまでもなく、それが聖戦の始まりだ。
ジャスティス率いるギア達の反乱により、ギアの開発をしていた企業は解体され、ギアの製造技術や搭載用兵器は闇に葬られることになった。そしてそれは、長引く戦いのもとで確実に大半が消滅していった。
しかし何事も例外は付き物だ。僅かながらも難を逃れたものは、裏で取引されるようになる。
「バラバラになってた部品を繋げて、起動方法をギアとの連動ではなく手動に切り替えるのが今回の仕事になっているのは、そういう事情からだ。……全く、部品を全部回収するのにいくら注ぎ込んだのだか」
ブラウンは呆れたようにわざと溜め息をついてみせる。実際、馬鹿げていることだとは思うが、仕事なのだから仕方がない。
兵器の出所が分かった眼鏡男は、眉間に皺を寄せて唸った。
「まさかそんな危険なものだとは思いませんでしたねぇ。こんなシマ争いの小競り合いで使うべきものじゃあないと思うんですが……」
「シッ! そういうことは口に出すな」
ブラウンは素早く嗜め、眼鏡男を黙らせた。勢い良く熊のような手で口を塞がれ、眼鏡男は目を白黒させたが、きわどい発言をしたことに自覚はあるのか、それ以上何も言わなかった。
「報酬がほしいんなら、連中の機嫌は損ねさせない方がいい」
「……忠告、有難く受け取っておきますよ」
苦笑いで返す眼鏡男に、ブラウンは軽く頷いて見せた。
この兵器の部品を裏で買い集め、起動させようとしているのは、とある暗殺組織だ。いや、暗殺組織「だった」と言ってもいい。かつて組織の末端に位置していたそのグループは、リーダーであったザトー=ONEの投獄・失踪により、独自の組織として機能するようになった。仕事の内容も暗殺の請け負いなどというリスクの高いものではなくなり、せいぜいが便利屋というところに収まっている。
それだけならばさしたる問題はなかったのだろうが、運の悪いことにこちらの「ブラッドハウンド」グループの目と鼻の先に、同じく独自の性質を持った組織があったのだ。それとの対立が昨今激化し、現在睨み合いが続いている。
大した規模があるわけでもなく、影響力もそれほどあるわけでもない組織ではあるが、ほぼ同じ力を持つ二つの組織が隣接してしまったのは、やはり運が悪かったとしか言い様がない。よく似ているが故に険悪の仲で、互いが互いに出し抜こうと必死になっている。
そうしてその幾度となく繰り広げられた無駄な争いの結果、今は戦力争いとなっていた。つまりはどれだけの人材を獲得し、どれだけの兵器を手中に収められるかということだ。
子供の低次元な争いとなんら変わりないが、問題は扱うもののレベルが桁違いだということだろう。互いの勢力が真っ向からぶつかり合えば、街の一つや二つは容易く消えてなくなる。
そんな馬鹿げた騒ぎに荷担せざるをえない身のブラウンは、早々に仕事を終えてこの場を離れたかった。だが、生憎兵器の起動用魔法陣は依然として問題を抱えたままである。
「あー…結局どうすればいいんだ? これ」
ブラウンが魔法陣を無意味になぞりながら思わず呻くと、眼鏡男は少し首を巡らせた。
「他の人に聞いてみたらいいんじゃないですかね?」
「……無駄だな。あいつらの手元、よく見てみろよ」
ブラウンはげっそりした目差しで否定し、周りにいる数人の男達を顎でしゃくった。つられて眼鏡男がそちらに視線を向ける。
「……うわぁ。確かに無駄かもしれませんね。あの程度の魔法陣で行き詰まってますよ、あの人達」
「だろ?」
こちらの言いたいことがすぐに理解できたらしい眼鏡男に、ブラウンは乾いた笑いを投げ掛ける。どうやら「ブラッドハウンド」の連中がスカウトしてきた法力使いでまともに使えそうなのは、この眼鏡男とブラウンくらいのものらしい。
これ以上誰かの助けが望めないとなると、もはやどうしようもない。
「仕方ないな。ここは後回しにしよう。とりあえず他のところを繋げてから……」
「おい、そこの熊男」
突然掛けられた言葉に、ブラウンは驚いて背後を振り返った。横に居た眼鏡男も何事かとそちらに視線を移す。
偉そうな口調で言葉を掛けたのは、見張りについていた「ブラッドハウンド」の一人だった。しかし注目すべきはそちらではなく、いつの間にかその隣に現れた男の方だった。
奇妙な男だ、とブラウンは思った。ネグロイドのような黒い肌を持っているというのに、顔はどちらかというとまるきり欧米寄りで、更に不釣り合いなことに豊かな金髪を持ち合わせている。長く伸びたその金髪は腰まであり、高い位置で結わえられていた。伸び放題とも言えるその髪を、邪魔だと言わんばかりに押し上げ、髪を逆立てさせているのは黒いヘッドギア。その重々しい装備で作られた影から覗く瞳は血のように赤く、鋭い。全身に纏っている漆黒の服は、筋肉質な体のラインをはっきりと浮き立たせているにも関わらず、なぜか同時にしなやかな印象も与えていた。
一見アンバランスに思えるその色彩は奇妙に調和し合い、その男の存在をさり気なく周りに知らしめている。空気のように気配がないというのに、一度目を留めてしまうと視線を外すことができないほどに引き込まれる。明確に何ということはないはずなのに、不思議と興味をそそられる男だった。
眼鏡男も同じく目を離すことができないのか、その男にしばし魅入っている。それを横目でちらりと見たブラウンは、改めて声を掛けてきた「ブラッドハウンド」の一人に視線を移した。
「どうかしたか?」
ブラウンが慎重にそう問うと、その見張りの男は不機嫌を隠しもせずに他の法力使い達を一瞥した。
「あいつらが役立たずみてぇだから、使えそうな奴を新しく探してきた」
その言葉を聞いて、眼鏡男は「一応は気付いてたんですねぇ」と感心したように呟く。それには敢えてコメントせず、ブラウンはお情け程度の愛想笑いを浮かべてみせた。
「それは有難い。正直どうしようか困ってたところだから、頼もしい限りだな」
「でも彼が大した腕じゃなかったら意味がないんじゃ……」
隣で文句を言いかけた眼鏡男を裏拳で黙らせ、ブラウンはわざとらしく肩をすくめてみせる。幸い、見張りの男はその文句を特に気に止めなかったようだった。
「あっちの役立たずどもは今すぐクビにしちまうが、その分この新人が頑張るだろ。じゃあ、後は任せたぜ」
一方的に告げて、見張りの男は役立たずの連中の方へ向かっていった。宣言通り、サヨナラしてくるつもりらしい。
取り残される形となったその色黒の男に、ブラウンは再び視線を移して徐に手を差し出した。
「俺はブラウン=ベアって呼ばれてる。短い間だろうが、よろしく。……あんたのことは、なんて呼べばいい?」
必要なことをさっさと口にすると、その男は眉間に皺を寄せて僅かながら戸惑いを見せたが、すぐにまた無表情に戻り、低いビブラートの声でぽつりと言った。
「……ブレイズ」
それだけ言って、その男――ブレイズは再び沈黙する。口下手なのか、ただ話したくないだけなのか、それ以上しゃべる気配はない。
拒絶するように、差し出した手を無視するブレイズに、ブラウンは特に腹を立てたりはしなかった。だが代わりに、愛想笑いを浮かべたまましつこく握手を求めた。
「ふーん。なるほど、ブレイズか。よろしく」
ブラウンは言い様、更にぐっと手を伸ばす。途端にブレイズは嫌そうな顔をした。だが、生憎と諦める気はない。
数秒の間、奇妙な睨み合いは続いたが、不意に盛大な溜め息をついてブレイズが折れてくれた。面倒臭いと言わんばかりの乱暴な仕種で、ブレイズはこちらの手を取る。
瞬間、ブラウンは触れ合った部分からブレイズの持つ法力の強さを読み取った。
「! へぇ……」
「……?」
驚きから、思わず片眉を跳ね上げると、ブレイズが訝しげな目差しを向けてきた。怪しまれないうちにさり気なく手を離し、ブラウンは本心から歓喜の笑みを浮かべる。
「こりゃあは相当頼りになりそうだな」
思わぬ感激に踊り出しそうになる心を抑えながら、ブラウンは呟く。
先程の一瞬で計ったブレイズの法力の強さは、かなりの桁違いだった。恐ろしいまでに秘められたその力は、ともすれば冷汗を流してしまうような畏怖さえも与えてくる。それは、ブラウンが知りうる範囲を軽く越えていた。
だが、それを持つ張本人はブラウンが嬉しそうにしていることに釈然としないものを感じているのか、不審げな目差しを向けてくる。
胡麻化すように、ブラウンは慌てて魔法陣の方を指さした。
「行き詰まってるところがあって困ってるんだ。それを是非見てもらいたいんだが、構わないか?」
「……そのために俺は雇われたんだろ」
愛想もなく、ブレイズは一言漏らす。確かに言っていることは正しいが、なんというかもう少し声の調子が友好的であってもいいように思う。
かなり取っ付きが悪そうな男ではあるが、根は悪くない奴らしく、徐にブラウンの指し示した魔法陣へと近づいて呪文の羅列を検分するように眺め始めた。だが、数分もしないうちにブレイズは魔法陣に刻まれた呪文を読み解いたらしく、淡い光を放つ文字を見つめながら口を開いた。
「還元法を使ったのか。悪くない手だが、これだと本来の出力の三分の一が関の山だな」
「ああ。分かってはいるんだが、他に手が思い付かなかった」
ブレイズの言葉を受けて、ブラウンはそうなった理由を簡潔に答えた。使用者の安全と兵器の安定性を求めるなら、それが最も適切だろうと思ったからだ。とはいえ、兵器の威力が下がってしまっては本末転倒な気もしないではない。
先程の裏拳で吹っ飛んだ眼鏡をやっとこさ回収して定位置に収めた眼鏡男が遅ればせながら問題の魔法陣を覗き込んだとき、文字を指先でなぞっていたブレイズが微かに唇を動かして呪文を紡ぎ出し始めた。
法力の色というのは、使用者によって異なる。具体的な自然現象を起こした場合は個人の差異などほとんどなくなるが、純粋な魔法の力だけを放出した場合はそれぞれ独特の色が表れる。
浮かんでいた黄土色の文字が掻き消え、ブレイズが紡ぎ出した紅の文字が新たに描き出されていくのを、ブラウンは眼鏡男とともに見つめた。数分の間で魔法陣は次々に書き換えられ、最後には大半が燃えるような炎の色に染まっていた。
高潔とも言える鮮やかな赤が明確な目的を持ってそこに並び終わるのを見届け、眼鏡男は僅かに首を傾げる。
「その集積法はボクも考えました。でもそれだと出力が高すぎてオーバーヒートしちゃいますよ」
言葉を挟んだ眼鏡男と、ブラウンも同意見だった。ブレイズが書いた呪文は威力があっても安定性はない。いつ法力が暴走するか分からない状態だ。しかし何か考えがあってのことだろうと思い、ブラウンはブレイズが何か言い出すのを待った。眼鏡男も説明を求めるようにブレイズの顔を窺う。
大の男二人にじっと見つめられ、ブレイズはさも嫌そうに顔をしかめた。
「……これは兵器だからな。威力が落ちたら意味がねぇ。だからとりあえずここは出力を最大にする」
言い含めるように言葉を区切ってそう言ってから、ブレイズはその場を離れ、部屋一杯に敷き詰められた魔法陣を順繰りに見始めた。普通、呪文の内容を読み取るにはそれなりに時間が必要となるのだが、ブレイズは普通の速度で歩きながら幾つかの魔法陣の前を通り過ぎ、かなり離れた場所で突然足を止めた。
何事かと見つめていると、ブレイズは目の前の魔法陣に触れ、再び呪文を唱え始める。何をし始めたのか気になり、ブラウンと眼鏡男は吸い寄せられるようにブレイズの方へ近寄った。
美しくも発達して盛り上がったブレイズの背から、二人が手元を覗き込んだときには、呪文の書き換えが完了していた。
「こっちの魔法陣にまだ余裕があったから、出力を抑える妨害システムを書き加えておいた。これでバランスが取れるはずだ」
ヘッドギアから漏れた長い前髪を無造作に掻き揚げながら、ブレイズは事もなげにそう言う。その頭の回転の早さと能力の高さに、ブラウンは思わず舌を巻いた。ただ眺めているとしか思えない早さで呪文の内容を読み取り、なおかつ書き加える余裕があるかどうかを判断し、あっという間に呪文を施してしまったのだ。尋常ではない。
驚きを隠せず、ブラウンと眼鏡男が呆然とその魔法陣を見つめていると、ブレイズが微かに笑った。
「木を見て森を見ず、だな」
先程よりは幾分機嫌が良さそうな表情で、ブレイズは呟く。
目の前で起こったことがまだ俄かに信じられず、赤々と燃えるような色彩を放っている呪文を凝視していたブラウンの肩に、ブレイズの手が不意にぽんと乗せられ、もう用は済んだだろと言わんばかりに横を通り過ぎていく気配がした。
擦れ違い様に、不思議な響きを持つ低い声がブラウンの耳元を掠める。
「常に全体を意識しろ。要は帳尻が合えばいいんだからな」
はっと顔を上げると、そこには口端を釣り上げて楽しげに笑うブレイズの顔があった。




数日が過ぎ、兵器の起動用魔法陣が完成に近付いた頃、眼鏡男(未だに名前を聞いてない)が敵の偵察に出かけていくようになった。どうやら普段は諜報の仕事をしているらしく、随分慣れた様子で必要なことを調べ上げていた。それは別料金で頼まれた仕事だったようで、あまり蓄えのないブラウンとしては少し羨ましい。
魔法陣作成の作業が一段落して三人で休憩していると、眼鏡男は出されたお茶も飲まずにぺらぺらと忙しなく記録帳をめくりながら不意に呟いた。
「……ブレイズさんが来てからここ数日、随分早いスピードで完成に近付いているんですが、相手の組織もかなりの早さで兵器を完成させているようなんです」
調べた内容は他人に決して言わないはずなのだが、なぜか眼鏡男は自ら情報を喋って話題を振ってきた。
「ブラッドハウンド」と犬猿の仲にある相手の組織「バイオレットスコーピオン」もこちらと同じく、裏で取引されていた兵器の部品を回収して繋げる作業をしている。互いに睨み合って警戒しているせいなのか、この二つの組織は似たような行動を起こす。相手に過敏になっているからこそ、こんな馬鹿げた争いをするのかもしれないが、ブラウンには関係のないことだった。報酬さえ貰えれば、そういった内部事情に興味はない。
だから眼鏡男の話題に対してもあまり興味が湧かなかったのだが、隣で椅子に腰かけていたブレイズは違ったようだった。何日か経って幾分慣れたとはいえ、やはり口数が少なくほとんど無表情で過ごすこの男が、僅かに眉を動かして眼鏡男の方へ視線を投げたのだ。だが、何かを言うつもりはないらしく、眼鏡男が続きを言い出すのを待っているようだった。
その赤い瞳の視線には気付いていないのか、眼鏡男は写真の束を整理しながら先程と同じ調子で淡々と話し始めた。
「急に兵器の完成度が上がっているみたいなのでオカシイなぁと思って、先日ちょっと調べてみたんです。そしたら、どうやら相手さんの方も随分優秀な法力使いを雇ってたらしいんですよねぇ、これが」
そこでひょいと顔を上げて、眼鏡男はブラウンとブレイズの方を向いた。二人の関心が自分に向いていることを確認して気を良くしたのか、眼鏡男は勿体ぶった仕種で鼻の上に乗っている大きな眼鏡をちょっと上げて見せる。
話自体ではなく、ブレイズが興味を示すこととはなんだろうというただの好奇心から聞く姿勢になったブラウンは、眼鏡男の方を向いてはいるが横目でブレイズの様子を盗み見ていた。だが、口を引き結んで顎を引いたブレイズの目許は黒いヘッドギアから零れる金髪のせいで影になっていて、どういう表情で話に聞き入っているのかがよく分からなかった。
「その法力使いはちょうどブレイズさんが来た日の前日に雇われたようです。ついでだから素姓も調べてみようかと思ったんですが、これがなぜか全く分からないんですよね。おかしな話でしょう? 作業全体の速度を上げるほどの実力者なのに、それに該当する噂が見当たらないんです。評判になっていてもおかしくはないはずなのに……」
最後の方は本気で首を傾げている眼鏡男に、ブラウンはあまり気のない笑いを送った。
「経歴がないなんて、この世界では珍しいことでもないさ。だいたい、それを言ったらブレイズも同じだろう? あんなに腕がいいのに、俺は全然聞いたことないからな」
ちょいちょいと親指でブレイズの方を指しながら、ブラウンは軽い気持ちでそう言った。だが、改めて考えると奇妙な点はある。まがりなりにも情報屋を営んでいるブラウンが、ブレイズという名前どころか容姿についての特徴すら聞いたことがないというのは不思議だ。
しかし、そう言えば――。
「……なんか凄腕の賞金稼ぎに、ブレイズと同じような強面でヘッドギアを着けた長髪の奴が居たような気が……あちッ!?」
「ああ、悪い。コーヒーがかかっちまったみてぇだな」
突然熱い液体が腕にかかったことに驚き、ブラウンは声を上げた。それに対してブレイズは自分の不注意を即座に謝罪したのが、いつも通りの平坦な調子で言うので、ちっとも謝られている気がしなかった。
「ちょっと! なにやってるんですか、ブレイズさん。ボクの収集した資料が汚れるじゃないですか」
眼鏡男はブラウンの心配などせず、自分の前に広げていた資料を庇うように掻き集め始める。それに少々腹立たしいものを感じつつも、ブラウンがその資料に何気なく視線を移したとき、ある一枚の写真に目が止まった。
眼鏡男が大事そうに掻き集めているその横から、ブラウンはその写真を手に取った。
「この美人さん、一体誰なんだ?」
ブラウンが、コーヒーをかけられた方とは反対の手で取ったそれをぴらぴらと振って見せると、眼鏡男はハッと顔を上げてその写真を物凄い勢いで奪い返してきた。その尋常でない剣幕に驚き、ブラウンは視線で説明を求める。眼鏡男は冷静になってから、自分の突発的な行動に対して気まずそうに咳払いをした。
「……これがさっき話していた法力使いの男ですよ。『ヴォルト』と名乗ってます」
「男ォ!? 女にしか見えないんだが」
優秀な法力使いというから、どんな堅物の男かと思っていたのだが、まさか女に見間違うような優男だったとは……。流石に驚きで二の句が継げない。ちょっといいなと思ってしまっただけに、ショックが大きかった。
しかしすぐにブラウンは立ち直り、もう一度写真を見せてくれと眼鏡男に頼んだ。「むやみに触らないでくださいね」と念を押しながらも、眼鏡男は写真をテーブルの上に置いて、見ることを許可してくれた。
写真は隠し取りだったらしく(当然だろう)、ピントが合わされている中心の人物は誰かと話している最中だった。品の良い笑みを浮かべているその男は、短めに切られた黒髪に抜けるような白い肌を持っており、そのコントラストが持ち前の美しさを際立たせていた。裏の世界には珍しい、その優雅な雰囲気に加えて、完璧なまでに整っている顔の造作は、色気さえ漂わせる。相手に微笑みかける瞳はまるでルビーのような赤い色彩を放っていて、神秘的な雰囲気に拍車をかけていた。
全くもって、文句なしの美人だ。
「これ……本当に男、なのか?」
まだ信じられず、ブラウンは恐る恐る尋ねた。
「男だそうですよ。『バイオレットスコーピオン』の連中が、最初は売春婦が来たのかと思った、と笑いながら言ってたのを聞きましたしね」
「そりゃぁ誰だってそう思うよな。こんな美人が突然現れたら」
眼鏡男が話したエピソードに同意しながら、ブラウンはけらけら笑った。まさかこんな秀麗な男が法力使いだとは思うまい。
そういえばこの優男と同じように人を引き付ける不思議な魅力を持つ人間がこちら側にもいたなと思い、ブラウンはふと隣のブレイズの方に視線を移して――驚いた。
いつも無表情のブレイズが、何か非常に複雑な顔でその写真を見ていたのだ。怒りや憤り、嫉妬や慈しみ……負の感情も正の感情もごちゃまぜになった、なんとも言えない表情。この男の中に、こんなにも色々な感情があったのかと気付かされるものだった。
その、なんと表現していいのか分からない表情を浮かべているブレイズに、ブラウンは遠慮がちに思ったことを尋ねた。
「あんた、このキレイな兄チャンが気に喰わないのか?」
どこか腹立たしげな不機嫌さが感じ取れたので、ブラウンはそう思った。
だが、ブラウンの問いかけに、ブレイズは一瞬目を見開いて驚いた顔をした。まるで予想外なことを言われたかのように呆気に取られた表情をするブレイズに、ブラウンは改めてピンと来るものがあった。
「分かった、逆か! あんた、この兄チャンがかなり好みのタイプなんだろう?」
「……」
ブラウンが意気込んでそう聞くと、ブレイズは沈黙したまま眉根を寄せて視線を逸らせてしまう。その反応に、ブラウンはしてやったりと愉悦の笑みを浮かべた。
沈黙は肯定。この男の場合は特にそうだと、数日の付き合いで心得ている。何か悟られるとマズイことがあると、あらぬ方向を向いたりするが多かった。
能力においても普段の態度においてもどこか人間離れしているブレイズが人間らしい心の動きを見せるのが面白くて、ブラウンはさらに詰め寄った。
「別に隠さなくてもいいじゃないか。こんな美人なら男でも見惚れたって恥じじゃないさ」
「……うっせぇ」
身を乗り出したところで、ブラウンはがつんと頭を殴られた。容赦のない痛みに思わず頭を抱えたが、ブレイズがふて腐れたような態度を取っているのはやはり面白く、涙目になりながらも笑みをこぼしてしまう。
「見た目だけに惚れたつもりはねぇよ……」
「?」
不意に独り言のように発したブレイズの呟きに、ブラウンは訳が分からないと言うように目差しを向けたが、ブレイズは何も答えようとはしなかった。
ただ、テーブルの上に乗せられた写真を見つめるその目が、普段より随分優しげだったことが妙に印象的だった。






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