「……どうやってあなたの悪事を証明しようかと悩んでいたのですが、その必要はなさそうですね」
廊下に続く血溜まりを追って行き着いた場所で、カイは溜め息混じりに呟いた。
それを聞いた男は行き止まりの壁を背に、荒い息をつきながら何か含むような笑みを浮かべる。
「ほう? 大した自信だな」
「当然でしょう。これだけの数の物的証拠があれば、誰だってあなたの犯した罪を否定することはできません」
その暗く湿った部屋の中を目だけでぐるりと見渡し、カイはその光景に眉をひそめた。
来る者を圧迫するようにずらりと並ぶ三メートル程の培養曹の中には、それぞれに形の異なる生物が浮かんでいた。猿に酷似した形状でありながら手が四本あったり、鳥とライオンを半分に切って継ぎ接ぎしたようなものであったり、はたまた実態がないらしい半透明の禁獣は呪文を埋め込まれて封じられている。そこはまるで異形の者の博覧会のようだった。
それを一瞥したしたソルが、無表情のまま――だが、紅い瞳に金の色を一瞬混じらせて笑った。
「よくもまあ、こんなに集めたもんだ」
揶揄るように発したその言葉に、男は薄く笑みを浮かべただけで、時折ごぽっと音を立てて空気の泡を吐き出す無数の生物に目を向ける。無言のまま、男は淡く光を発する培養曹の一つに近付き、嘲るように分厚いガラスの表面を手の甲で叩いた。
「ここにあるものは、実際に流通しているものの一部に過ぎんよ。こんな醜いものに喜んで大枚をはたく輩が五万といるのでな」
「うわ〜。皆さん悪趣味ですね〜……」
ブリジットがさも気味悪そうに正直な感想を言うと、男は声をあげて笑った。
「その通りだ。私にも何がいいのか分からんな。だが、高値で売れるのだから仕方ないさ」
男はふっと可笑しそうに笑い、身を翻して壁のスイッチに触れた。
「だから、商売の邪魔をされるのは困るんだよ。悪いが君達にはここで死んでもらう」
制止する暇もなく男の手によって起動させられたスイッチは、途端に全ての培養曹に影響を及ぼした。動きを封じるために掛けられていた法力が解除され、叱咤するように電流が浴びせられる。それに眠りを妨げられたその生物達は急な刺激に暴れ狂い、培養曹の厚いガラスを容易く割った。
「きゃーッッ!? ちょっとっ! 冗談じゃないですよ〜!」
がしゃがしゃと耳障りな音を立ててガラスの破片を踏み荒らしながらこちらへと近付いてくる無数の覚醒した生物に、ブリジットは自分の身を抱きながら心底嫌そうに悲鳴をあげた。
「あんなのにウチの大切なヨーヨーとロジャーはぶつけられませんっ! ここは先輩方に任せます☆」
「てンめぇ……」
「……」
勝手にそう言って押し付けるブリジットに、ソルは口許を引きつらせた。カイは諦めて、ひとり密やかに溜め息をつく。
一般的なギアは大抵、脳に組み込まれている破壊衝動によって無差別に周りの者を襲う。指令塔の役割を持つギアが身近にいればコントロールされて集団の動きを見せるが、そうでない場合はほとんど連携をすることはなかった。だが、そこにいるギアは「敵」が誰であるかしっかりと認識しているようだった。
異形の者達は迷いなく、三人を取り囲む。
「……うざってェ」
心底だるそうな呟きとは裏腹に、ソルは赤い瞳を鋭く光らせて狂喜を孕んだ笑みを浮かべた。その眼差しに晒されて一瞬怯んだ目の前のギアに向かって、ソルは音もなく足を踏み出し、距離を詰める。
動き出したソルに呼応するように、カイとブリジットの周辺のギアも躊躇いなく襲い掛かってきた。カイはブリジットを背後に庇い、突進してきた巨大な犬型ギアの牙を剣で受け止めるが、大きさが二メートル近いそのギアは並大抵の力ではなく、カイが全力で押し返しているにも関わらず二、三歩分退けられる。
「いや〜っ! なんか黄色の涎垂らしてますよ〜!!?」
「そういう緊張感のないコメントはやめてください!」
明らかな劣勢状態で腕が震え始めている後ろで危機感のない叫びをあげるブリジットに、カイは歯を食いしばりながら叫び返した。カイの視界の端には、左右から新たに襲い来る巨大ねずみと大鷲が映っている。犬型ギアを押し留める支点を微妙にずらしながら、カイは後ろを振り返る余裕のないまま言った。
「ブリジットさん! 右へ跳んで下さい!」
告げると同時に、カイは尚も押し続ける犬型ギアから剣を退く。しかしただ退いたのではなく、向かって右側だけに力を入れたままで緩めたので、犬型ギアは抵抗の少ない左側に軌道がずれ、ちょうどこちらに襲い掛かってきた巨大ねずみの胴体に頭から突っ込んだ。大きく開いていた口から出た無数の牙が、硬そうな毛に覆われた巨大ねずみの内蔵を串刺しにし、耳を塞ぎたくなるような断末魔を生み出す。本来の獲物に逃げられたと認識したらしい犬型ギアは血で濡れた口端をつり上げてこちらを睨付けたが、カイは崩れた態勢を一瞬で直し、犬型ギアの頭部に封雷剣を突き刺した。
「あなた方に罪はありませんが……」
カイはその言葉を呪文代わりに、法力を解放した。青白い閃光が空気中を走り、ピシッと音を立てる。そして一瞬の空白の後、腕一本分にも相当する太い雷撃が、封雷剣を中心に何本も発生した。直接脳髄に雷撃を叩き込まれた犬型ギアは、瞬時に炭化する。強大な法力の余波で、他のギアも幾つか発火あるいは感電し、痛みにのたうち回った。
封雷剣を引き抜きながらカイが右側を振り返ると、カイの指示通りにブリジットがそこにいた。法力のとばっちりも受けた様子はなく無事だったが、上から滑空してくる大鷲に慌てふためいていた。
「うわ〜んっ。翼から人間の手が生えてる〜!!」
確かによく見ると不自然に人間の手が翼に張り付いていた。だが、カイはそれをはっきり確認することなく、封雷剣を手元に引き戻すついでにそのギアの上に剣を叩き付け、綺麗に両断した。まるで西瓜でも地面に叩き付けたようなべしゃっという音とともにどす黒い血が肉片と共に辺りへ飛び散り、むっとするような血生臭い匂いが立ち込める。
「……カイさん、エグ〜い……」
「そ、そんなこと言われましても……」
さも嫌そうに口許を押さえたブリジットの一言に、カイは複雑な顔で困惑した。
ギアは基本的に弱点と呼べるところがないので、脳か心臓を再生不可能なくらいに破壊するという方法しかない。だから必然的に戦場は血の海と化す。血も流させずに決着がつくなら、カイも是非そうしたいものだが、現実的には難しい。
とはいえ一般的な感覚からいけば、かなり残虐に思えるのかもしれない。カイは周りにまだ残っているギアを雷撃で牽制しつつ、ソルの方を一瞥した。
「たぶんあっちの方がもっとすごいと思いますよ」
カイが法力を放つ合間にソルの方を指さすと、つられてそちらを振り返ったブリジットはそこに繰り広げられている光景に思い切り顔をしかめた。
「うわー…。さらにエグ〜い」
ブリジットのコメント通り、そこはカイの辺りよりも格段に恐ろしい状態になっていた。
周りの敵はほとんど倒したと言わんばかりに無造作に突き立てられた剣は、ギアの口から入って喉を貫通している。その横では強大な力で叩き付けられたように胴体の半分以上が原形を留めていないギアがいたり、一瞬にして高温で焼かれたらしいギアが壁に影だけを残していたりする。全体的に見れば、約三分の二がなんの原形も留めていない状態で、目玉や舌、内蔵のパーツを残してただの肉塊となっていた。
その光景を作り上げた本人は、ちょうど周辺にいる最後の一体の心臓を素手で掴み出しているところだった。
怖いもの見たさというやつなのか、嫌がりながらも目を離すことができないらしいブリジットの肩をカイは軽く叩き、意識をこちらに向けさせた。
「また奴に逃げられかねないので、ブリジットさんが奴を捕まえて下さい。突破口は私が開きますから」
襲い掛かってきた二体のギアを、法力を纏った剣で切り付け、地に叩き伏せながらそう頼むと、ブリジットはぱっと顔を輝かせた。
「分かりました! 任せて下さい!」
ギアに触れなくてもいい仕事を任されたせいか、ブリジットは自信満々の表情でヨーヨーを握りしめた。男はまだ壁際に立ったままで逃げられていないので、今なら間に合う。
ブリジットの返事を聞き、カイは大きく一歩踏み込んで、前方に立ち塞がる大トカゲのようなギアと、猿とライオンをでたらめに繋げたようなギアに雷撃とかまいたちを放った。光速で走った雷に打たれ、二体のギアが動きを止めた瞬間、かまいたちがそれをバラバラに切り刻む。
その合間を擦り抜けて走り出したブリジットの左右から飛び出してきた三体のギアを、後方からほとばしった炎が焼焦がした。それに驚いたカイが後ろを振り返ろうとする前に、背後にいつもの気配があった。
「坊や。奴の左側にある壁を狙え」
「え?」
「お前の雷なら届くだろ。コントロールパネルを破壊しろ」
後ろから唇を寄せて囁くソルの言葉が理解できず、カイは肩越しに振り返って戸惑った視線を返した。確かに男が立っている左側の壁は時折光っていて、何かの装置らしかった。だが、その割にはそこから法力が感じられない。現在エネルギー源として使われているのはいずれも魔法であり、法力使いはどんな微弱なものであれ、それを感知することができる。なのにその装置らしきものからは何も感じられず、なおかつそれが動いているということは……。
「まさか……旧技術<ブラックテック>!?」
「法力でギアを制御しようとしたら、相当強力なやつじゃねぇと反発されるからな。別次元のエネルギーで制御した方がよっぽど抵抗が少ないってことだろうよ」
あらかじめギアの脳に信号を受信する神経系支配の機械を埋め込んでおけば、ギアを操作することは可能だと、ソルは独り言のように言った。
ソルとカイはブリジットの後を追うように走りながら、次々と現れるギアを捌く。幾らでも代わりがあるらしいギアは、使い捨てのように覚醒させられてはこちらに襲い掛かってきた。気持ち悪いものに触るのはまっぴらごめんとばかりにブリジットは器用にギアとギアの間をぬって、男の方へと走っていく。
だが、なぜか男は特に危機感を抱いた様子もなく、コントロールパネルに触れたままこちらを平然と見つめていた。僅かに不安を抱いたカイは、すぐに態勢を整え、コントロールパネルに向けて法力を高めた。
男がパネルを操作するのと、カイが雷撃を放つのはほぼ同時だった。
「茶番はここまでだ」
不意に、三人は地面がなくなるのを感じた。男が仕掛けたことの方が早く効果を表したのだ。
「きゃーッッ!?」
「うわっ!」
「チッ」
いわゆる落とし穴というやつだと、嫌な落下感を味わってから気付く。部屋の半分を占める巨大な落とし穴は、壁際に立つ男と数体のギアを残してすべてを吸い込んでいった。
だが、視界の端で、コントロールパネルにカイが放った雷撃が被弾するのをソルとカイは見た。
「えーい! ロジャー!」
暗い闇に飲み込まれながら、ブリジットは上空にヨーヨーを投げ付けた。それはちょうど地上の辺りで、さきほどの熊のぬいぐるみに変形する。どういう仕組みかはさっぱり分からないが。
その、空中に停滞するロジャー目掛けて、ブリジットは二つ目のヨーヨーを投げ付けた。それはうまい具合に引っ掛かり、そこから伸びた長い紐でブリジットはそれ以上の落下を免れる。
だが、依然としてソルとカイは落下し続けているわけで……。
「邪魔するぜ」
「きゃーッッ!? 重い! 重いってば先輩!!」
ブリジットが掴まっているヨーヨーの紐に、ちゃっかり掴まるソル。熊のぬいぐるみのロジャーがその重さにガクンと高度を下げたために、悲鳴をあげるブリジット。……そしてまだ落下中のカイ。
「よっと」
「あ、ありがとうございます…っ…」
カイはソルに空中で腰をキャッチされ、頬を紅潮させながら礼を言った。しかしカイの重みが加わり、またロジャーの高度が落ちる。
空中を漂う熊のぬいぐるみに引っ掛けたヨーヨーの紐一本では、三人(うち二人は大の大人)を支えるにはあまりにつらいらしく、上昇しようとロジャーが踏ん張っていても徐々に高度が下がっていた。
「いやーっ! 落ちるぅぅ! 先輩方、今すぐ手を放してください!!」
「あーうっせぇ」
「す、すみません……」
一番下でぶら下がるブリジットが、ソルとカイを見上げてぎゃいぎゃい騒いだ。
片腕は紐に掴まり、もう片腕でカイを抱き抱えているソルは、耳を塞ぐこともできず、ブリジットの甲高い声に顔をしかめる。自分も非難の一端を担っているカイは謝ることしかできなかった。下に見えるのは暗闇だけで、一体どれほどの深さでそこに何があるのかは全然分からない。
しかしふとカイは思い付いて、ソルの方を見た。
「たばこ、今持ってるか?」
「あん? たばこ?」
「ああ。一本貸してほしいんだ」
「……内ポケットに入ってる。勝手に取ってくれ」
ソルはカイに何か考えがあるのだろうと理解してくれたらしく、すんなり了承してくれた。両手が塞がっているソルのジャケットを、カイは慎重に探り、たばこの箱を取り出す。慣れない手つきでそこからたばこを一本取り出すと、カイはそれに法力で火を着けた。そしてそれをそのまま下に落とす。小さな火がちらちらと光るたばこがカイの手から離れ、ブリジットの横を通り過ぎ、かなり下の方まで落ちていったところで、カイは手をかざして再び法力を送り込んだ。
瞬間、たばこの火は一気に燃え上がり、かなりの熱を吹き上げながら爆発した。
広がった炎は刹那の間、底を照らし、凄惨な光景を浮き彫りにする。
「ちょっとなにあれ〜!? 死体の山!!?」
ブリジットの言った通り、そこにはありとあらゆる死体が山のようにあった。実験動物やギアがほとんどだが、時々人間の死体もある。しかも大半が原形を留めておらず、腐り始めていた。おそらくこの穴は、差し詰め死体のダストシュートだったのだろう。
「下に降りる案はなしだな」
「そうですね……」
ソルの意見に、カイは力なく同意した。少しくらいの死体なら降りてみようかとも思うが、あまりに夥しい数のうえに腐敗しかけているので、おそらく着地したら体の重みで足は完全に肉塊の中に埋まるだろう。生命の危機はなくとも、絶対に避けたい事態である。そもそも、深さが地下三階分くらいはあるので、一度下に降りると上に戻る術がなくなる。
どうしたものかとカイがたばこの箱をソルのジャケットに戻しながら思案していると、突然地上の方で銃声が響いた。立て続けに何度も発砲する音が聞こえ、ギアの悲鳴があがる。だが、あくまで地上で撃っているらしく、こちらには何も被害はなかった。三人をぶら下げたまま空中を漂うロジャーも、特に狙われた様子はない。
「これ、何の音!?」
紐にしがみついたまま、ブリジットは不安気な様子で聞いてきた。カイは旧技術<ブラックテック>を使うツェップを知っていたし、少し特殊な場にも立場上居合わせていたりするので『銃』を知っていたが、一般市民のブリジットが『銃』を知るはずもない。
「今のは旧技術<ブラックテック>の武器です」
「え? それってもうずっと昔になくなったものなんじゃないんですか??」
不思議そうに純粋な質問を投げ掛けてきたブリジットに、カイは曖昧な笑みを返すことしかできなかった。実際にはそう単純な結末には至っておらず、未だに裏では出回っているところもある。
銃声はまだ続いていた。それに伴ってギアの悲鳴が聞こえてくる。それが意味することは……。
「ギアが制御を外れて暴れたみたいですね」
「ああ。コントロールパネルを破壊したからな」
ソルはカイの言葉に軽く頷て同意した。ギアが自分の意志に従っているならこれほどまでに心強い味方もいないだろうが、一度暴走すれば脅威以外の何者でもないのだ。
容赦なく撃たれたギアが鈍い音を立てながら次々倒れていく合間に、男の靴音が響いた。何か用事でもあったのか、徐々に遠ざかっていくのが分かる。
「……今のうちに上がっちまうか」
「え……?」
不意にソルがそう呟くと、カイは自分で紐に掴まるように促された。言われて紐にしがみついたカイの腰からソルの手が離れる。
「上に飛び上がるのに踏み台がいる。坊やの肩、少し借りるぜ」
「は、はい……っ」
カイは慌てて紐にぎゅっと掴まった。ソルの体重が反動をつけて自分の肩に乗るのか思うと、全力でしがみついてもまだ足りないような気はするが、これ以上対処のしようがない。
必死でしがみつくカイを見て、ソルはおかしそうに薄く笑うと、今度はブリジットの方を見た。
「おい、ガキ。あのぬいぐるみ、もうちっと端に寄せられねぇか?」
ロジャーを顎で指すソルに、ブリジットは「できますよ♪」と機嫌良く返事した。
「ロジャー、もうちょっと端に寄って! 一番重い先輩が退いてくれるみたいだから、それまでの辛抱だよ〜」
「一番重くて悪かったな」
ソルは悪態をつきながら、ロジャーの方に視線を向けた。ロジャーはブリジットの指示通り、落とし穴の端の方へ危なげながらも、ゆっくり移動し始める。これだけの人数を支えているせいか、少しふらついていた。それでも確実に端の方に近付いていく。
「いくぜ、坊や」
「はい……!」
ソルが事前に声を掛けてきたので、カイはずり落ちないようにしっかり紐に掴まった。ソルが空いている片手をカイの肩に置き、力を込める。その掛かった力が一瞬強まると同時にソルは手を離し、一足飛びにカイの肩へ足を掛けた。
「……!」
音はしなかった。そして、力もほとんど掛からなかった。強く肩を叩かれた程度の衝撃で、思っていたよりもひどく呆気なかった。ソルは本当にただ足掛かりにしただけのようだった。
強い衝撃を覚悟して固く閉じていた目を開け、カイが頭上を見上げると、ソルが地上に飛び移っている姿が見えた。ソルが離れたと同時に、ふらついていたロジャーが幾分安定を取り戻す。
すぐに穴の縁から顔を出したソルは、手を伸ばしてロジャーを自分の方へ引き寄せた。少し大ざっぱ気味のその動作に紐が激しく揺れ、ブリジットが悲鳴をあげて騒ぐ。だが、カイはそんなことなど気にもならず、ソルを食い入るように見上げていた。

ソルと熊のぬいぐるみ。なんて組合せだ……。

少々的外れな感想を、カイは抱かざるをえなかった。ロジャーに引っ掛けてある紐を引っ張ってくれているのは分かっているのだが、ソルが熊のぬいぐるみを抱きかかえている姿は、ある意味衝撃である。
「おい、坊や。何ぼーっとしてやがる」
「あ、いや、なんでもないっ」
いつの間にか地上付近まで引き上げられていたカイは、ソルに間近でそう言われ、慌てた。
ちょっと可愛いな、と思っていただなんて口が裂けても言えない。
カイはぎこちなく平静を装い、縁に手を掛けてなんとか穴から這い出る。最後に残ったブリジットを引き上げるため、カイも紐を掴んで手伝った。
「……全く。しぶといな、君達は」
酷薄な響きを含んだ声に、カイはハッと顔を上げた。見ると、先程まで自分達が落ちかけていた大きな穴のちょうど向こう側に、姿を消していたはずの男が立っている。
その手には、細長い黒い鋼の塊が握られていた。
カイがそれの正体を認識するより早く、それはこちらに向いて火を噴いていた。

ドンッ!

重い銃声が、静寂を破って響いた。思わず目を固く閉じたカイは、自分が撃たれたと思った。だが、体のどこにも痛みはない。
ゆっくりと瞼を上げ、カイは男の方を見た。いや、見ようとした。だが実際に目に飛び込んできたのは、赤いジャケットだった。
「ソ…ル…?」
銃口とカイの間を隔てるように、カイの体を包み込んでいるのがソルだと認識して、カイはどうして…という思いで名を呟いた。わざわざ自分を庇ったりしないで、男を倒しに行けば良かったのに、なぜソルはカイの上に覆い被さっているのか。
カイが驚愕に目を見開いていると、ソルはじっとこちらを見つめていた目を微かに細めて笑った。ソルの背はこちらから見えないが、生臭い血の匂いが漂っている。
「ソルッ!」
「その手は放すな」
カイがソルに触れようと手を伸ばしかけた瞬間、ソルに厳しい顔でぴしゃりと命令された。一瞬何のことを言っているのか分からなかったカイだったが、指にかかる重みに、ブリジットがまだぶら下がったままの紐を自分が支えていることに気が付いた。もしも誤って手を放してしまったら、ブリジットはあの地獄のような底へ真っ逆さまだ。
カイは改めて紐を強く握り直した。だが、それによってその場から動けなくなってしまい、複雑な顔で至近距離にいるソルを見つめた。いくらソルの体が丈夫であろうと、自分のせいで傷ついたという事実がカイを居たたまれなくする。せめて何かできることはないかと必死で考えを巡らすが、手が使えない状態ではソルの傷を癒すこともできない。手を使わずに法力を放出することは可能だが、治癒のような繊細さを要求される魔法は手をかざして力を一点に集中させる必要がある。
カイがそうして迷っている間に、男は下ろしたはずの銃口を再びこちらに向けた。
「君、邪魔だ。キスク君に当たらないだろう」
言い様、立て続けにソルの体に弾丸が撃ち込まれた。ソルの体が衝撃を受けるたびに揺れ、傷口から零れ落ちる血とともに肉片がびちゃっと音を立てて地面に張り付いていく。
カイはその光景に、頭が真っ白になった。呼吸が止まる。
「やめろーッ!!」
有らん限りの声で、叫んだ。たとえ喉が裂けようとも構わなかった。全身を支配する怒りに、カイは完全に我を忘れて法力を放っていた。
瞬間、鋭い稲妻が青白い蛇のように向こう側まで走り、男を吹き飛ばして壁に叩き付けた。くぐもった悲鳴が男の唇から漏れるが、その程度で気持ちの昂りが収まるはずもなく、カイは綺麗な目許を歪めたまま倒れた男を睨付けていた。その気持ちを表すように、カイの体の表面で殺傷能力を持つ青白い光が放電している。
「坊やが怒ってどうする」
驚きと呆れをない混ぜにしたソルの声が耳に届き、カイはハッとソルの方を見つめた。
「ソルっ! ソルっ!!」
カイは縋りつかんばかりにソルを見上げて叫んだ。かろうじて紐を支える両手は忘れていないくらいで、カイ自身でも制御できない取り乱し様に、ソルも驚いたようだった。
「おいおい、そんなに騒ぐんじゃねぇよ。こんな傷、すぐに治ることくらい分かってるだろ」
「関係ない! 私なんかのために傷ついて……馬鹿か、お前は!」
傷の痛みはギアであろうが人間であろうが変わらないというのに、何も感じなかったかのように平然としているソルに腹が立って、カイは怒鳴りつけた。痛いなら痛いと言ってくれればいいのに、ソルは絶対に口にしない。まるでそんなことを口にする資格はないのだというかのように。……自分はそんなにも頼りないだろうか。
「あの、なんだかすごい音が聞こえてきたんですけど……」
自力で紐を伝ってきたらしいブリジットが、縁からひょっこり顔を出した。しかしソルが血まみれになっているのに気付いて、ブリジットは目を見開く。
「うわわっ! ちょっとマズイですよッ。すぐ病院に行かないと……!」
慌てて穴から這い出たブリジットは、傷をよく診ようとソルの背に回り込もうとしたが、ソルはそれをさり気なくかわした。背中の傷は、早くも回復し始めているからだろう。
「……貴様ら、許さんぞ」
不意に響いた声は、怒りに満ちていた。そちらの方を見ると、足を引きずりながら立ち上がった男が、銃をこちらに向けている。だが、ソルとカイはそれを冷めた目で見つめていた。
「それはこっちのセリフだぜ」
ソルは男を鼻で笑う。紅い瞳がその嘲笑にともなって、金色に染まった。
GUUOOOOAAA……!
突然、何重奏もの雄叫びが部屋中に響いて、カイとブリジットは驚いた。周囲を見渡すと、男が撃ち殺したはずのギアが次々に起き上がり、興奮したように狂った声をあげている。ギアは回復力が尋常ではないので、銃のような急所を狙って一撃で仕留める武器は有効ではない。それこそ原形がなくなるくらいに原始的に剣でめった斬りにした方が二度と蘇ってこない。
殺意を剥き出しにして吠えるギアに、カイは思わず身構えた。制御装置は破壊してあるのでこちらを集中的に狙うことはないが、だからと言って狙われないわけではない。ギアは無差別に破壊を振り撒く。
しかし、構えたカイの肩にソルの大きな手がやんわりと置かれた。不思議に思って見上げると、ソルが瞳を金色に輝かせたまま口端をあげて凶悪な笑みを浮かべる。
「奴は生け捕りか? それとも息の根止めるか?」
「え。死んでもらったら困るんだが……」
この状況で何を言い出すんだ?と訝しみながらカイが答えると、ソルは皮肉げな口許に浮かぶ笑みを更に妖しく深めた。意味ありげに細められた金の瞳には光が差し込み、白銀の色が混ざる。
不意にソルはカイから視線を外し、吠えるギアを見渡した。
「その男を生け捕れ」
GAOOOOO!!
まるでソルの言葉に答えるように、ギアが咆哮をあげる。何十層もの声に部屋全体が震え、すぐ様険呑に光る無数の目が男を捉えた。
「! ど、どういうことだ……!?」
カイと同じくギアが無差別に暴れ回るものだと思い込んでいたらしい男は、自分だけに明らさまな敵意を向けられ、ひどく困惑した。カイもそれに驚き、説明を求めるようにソルを見つめる。
「……無理矢理捩伏せた」
「え……?」
ソルの呟いた言葉の意味が分からず、カイは聞き返した。ソルは何かに意識を集中しているのか、こちらを見ていない。
「ギアは大半が本能で動いてる。力で捩伏せりゃ多少は言うことを聞く」
強い者に従うのは自然界の鉄則。なるほどとカイは思った。実際に戦って力比べをする必要もないほどにソルとここのギアの実力は歴然としている。より動物の感覚に近いギアは、ソルがそこにいるだけで強さが分かるのだろう。
命令されたギアは、男を包囲し始める。
「く…来るなぁッ!!」
じりじりと間合を詰めてくるギアに、男は半狂乱で銃を乱射した。しかし撃たれたギアは、肉片が飛んでいくのも構わず、男の間近に集まってくる。それでも男は銃を撃ち続けていたが、すぐに弾丸はなくなり、カチカチと金属音を奏でるだけになった。
「ひ……っいいぃぃッッ!!」
だらしなく涎を垂らし続けるギアが近付いてくるのを、男は恐怖を露にして見ていることしかできなかった。所詮は生身の人間である男には、何の対処もしようがない。男は無駄と分かっているはずなのに狂ったようにトリガーを引き続けた。
その様子を静かに見つめていたカイは、男の耳に届くように声を張り上げた。
「大人しく捕まって下さい! そうすれば命だけは助けます」
「ほ…本当かっ!?」
男はすぐに話に食いついてきた。こういう自分勝手で欲に際限のない輩は、自分の身が何よりも大事だ。
カイはソルに目配せした。ソルも軽く頷く。

これで任務は完了した。







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