うしろの正面だあれ




あまり質が良いとは言えない部屋の中で明かりもつけないまま、女は寝そべった状態でベッド端に座る男を見上げた。
「あなた、すごかったわ……」
女は汗で濡れた自分のふくよかな体を抱くようにして、いつもの決まり文句を言う。買われる身である女には客を選ぶことはできない。だからいつも一戦終わった後に必ず言う科白である。
しかしその時はいつもより熱っぽくその言葉を口にした。お世辞も何もなく、本当に称賛に値するものだったからだ。
鷲掴んで余りある大きな胸を揺らし、女はこちらに背を向けてたばこをふかしている男に、うつ伏せのまま這うように近づいた。
「ねぇ、本当にすごかったのよ。私、こんなに興奮したの初めて」
「……」
潤んだ瞳を作り、女は溜め息混じりに蕩けるような声を唇から紡ぎ出し、男に熱い視線を向けた。さり気なく伸ばした手で、誇らしげにくっきりと浮かび上がる男の筋肉質な腕にも触れる。しかし男は背を向けたまま何も反応を返さなかった。
その素っ気ない態度に女はむしろ楽しそうに目を細め、体を起こした。彫像のようなその背に身を寄せ、女は男の首に艶かしい仕種で腕を絡める。
「ねぇ、もう一回しましょう。その分の料金は取らないから」
男の耳元で、女は甘い言葉を囁いた。まだ先程の行為で熱を持つ体をわざと擦り付け、豊かな胸の感触を伝える。
「……」
だが、男はやはり何の反応も返さなかった。女は少し不安になり、後ろから男の顔を覗き込む。情事のときもなぜか外さなかったヘッドギアの奥で、紅い瞳が少し暗い光を放っていた。
「もしかして……私、下手だった?」
女は自分の体にもテクニックにも自信があったが、男が無言のままでいることに戸惑った。客に満足してもらわなければ、女は生活の糧が得られない。
男はその言葉にやっと反応し、顔を上げた。
「……いや。よかったぜ」
セックスの最中にもまとも口を開かなかった男が、少し苦笑混じりに呟く。ほんの僅か目許が緩んだだけで、近づき難い雰囲気が和らいだ。
それに女が目を見張ると同時に、男は徐に立ち上がる。床に散らばった服を拾い上げ、さっさと帰り支度を始めた男に驚き、女は一糸纏わぬ姿のまま慌ててベッドから下りた。
「もう帰るの? サービスしてあげるのに」
「もう充分だ」
女が拗ねた口調でそう言うと、ズボンにジャケットを羽織っただけの男は端的に答えを返し、部屋の隅に置かれていた荷物を担ぎ上げた。久々に熱くなれた相手が名残惜しく、女がその後ろをついていくと、それに気付いた男はこちらを振り返る。
「こんなもんでいいだろ」
無造作にジャケットから数枚の紙幣を出し、男は女に渡した。自分の誘いが無視されたことには落胆したが、女は渡された金額を確認して笑みを浮かべる。最初に交渉して決めた金額の二倍はあったからだ。
「そんなにヨかった?」
上目遣いで女が聞くと、男は無言のまま少し口端を上げた。それを肯定と取って、女は申し訳程度にシーツ一枚だけを羽織り、男を見送った。
「また来てちょうだいよ。次はもっとサービスするから」
「さァな。約束はしない主義だ」
淡々とそう言って去っていった男の背を、女はしばらく名残惜しげに見つめていた。
















時間が足りなくて持ち帰った書類に目を通し終え、カイはやっと一息ついた。職場で残業しても良かったのだが、そうすると周りの人も気を遣って、家に帰り難くなる。
夕食は、いつものようにパンケーキと紅茶で済ませた。人が訪ねてでも来ない限り、カイは食事を適当にしか取らない。別にものぐさではないが、料理に手間を割いているのが勿体なかっただけだ。そもそも自分一人だけの分に、凝ったものが作れようか。
……そういえば、最近見ないな。
忙しかった最近のことをぼんやり思い返していたカイは、ふとそんなことを思った。唯一といってもいいくらい、カイはソルが来たときくらいしかまともな食事を作っていない。前に出した食事がなんであったかもはや思い出せないが、自分が時間を掛けて手料理を作っていたのは少なくとも三ヵ月以上前の話だった。
そうか、もう三ヵ月も会ってないのか。
ソルが三ヵ月以上顔を出さないのは、別に珍しいことでもなかった。長いときは半年近く、間を空けることもある。賞金首を捕まえるために各国を飛び回っているのだろう。
カイは一つ溜め息をついてから、けだるい体を立たせてシャワールームへ足を運んだ。連日仕事仕事で溜まった疲れを落とすように体を洗い流し、すぐに寝間着を着てベッドへ向かう。まだやらなければならないことは沢山残っているが、とりあえず今は保留にして体を休めることに専念しなければ、明日の仕事に支障が出る。
カイがシーツの合間に体を滑り込ませると、すぐに睡魔が襲ってきた。それに身を任せ、意識が暗闇の中に沈んでいった瞬間――、
覚えのある気配がした。
「……」
呑み込まれそうになっていた意識が、ゆっくりと浮上する。だが、眠気を纏ったままの体は動かなかった。重い瞼は、さっきまで寝ようとしていた意思に同調して、開くことができない。
眠い。けれど彼が来ているのなら起きなければ。
生理的な欲求と意識的な欲求との狭間でカイはしばらく葛藤したが、結局は意識が勝ち、重い瞼を上げた。まだ慣れない暗闇の中を探るように見つめると、いつの間にか気配もなく自分の上に覆い被さっているソルと目が合う。
「よぉ。久し振りだな、坊や」
「……態度のでかい不法侵入者ですね」
こちらを身動き取れない状態にしながら、不貞不貞しくのんきな挨拶をするソルを、カイは呆れた眼差しで見つめた。会いたいと思っていたのは事実だが、こんな情緒の欠片もない顔の突き合わせ方はしたくなかった気がする。
カイはソルの下から逃れようと緩慢な動作で身を捩った。
「ソル、重い。どいて」
「おいおい、なんだそりゃ。それが三ヵ月ぶりに会った奴に言う言葉かぁ?」
ソルは不機嫌を露にして呆れたような口調で非難したが、カイは無視してその重みから逃れようとした。たまにソルは怪我を伴って現れることがあるが、今回は特にそうでもないらしく、元気そうだったので、眠りを妨げられたことへの不満が先に立っていたのだ。
いくら身を捩っても解放してくれそうにないソルの様子に溜め息をつき、カイは瞼を閉じた。
「悪いが疲れてるんだ。食べるものなら冷蔵庫にあるから、適当に食べてくれ」
「マジで言ってのか、坊や。俺が何しに来たのか分からねぇわけじゃねぇだろ」
ソルはからかうような口調でそう言い、唐突にこちらのシーツを乱暴に剥いだ。ぶ厚い手がいたずらに体をまさぐる感触に、カイはびくっと体を跳ねさせる。
「っ! 何を……ッ」
「分かりきってんだろうが。今更カマトトぶってんじゃねぇよ」
ソルは心底可笑しそうに嘲笑った。その言い方にカイは眉根を寄せるが、何か言う前に唇をキスで封じられてしまう。
……?
カイは何か違和感を感じて、訝った。そのキスの仕方はいつも通り。自分勝手な振舞いもいつも通り。だが、何かがいつもと違う。
疑問が明確に分からないままカイが戸惑っていると、ソルは器用に服の合わせ目を解きながら唇を割って舌を差し入れきた。たばこの味を残した舌が無遠慮に絡んでくる。
その瞬間、カイは違和感がなんだったのかに気付いた。
――甘ったるい香水の香り。
それが指し示す意味を理解して、カイは気付かなければ良かったと思った。知らなければ、きっと幸せだった。
それはラベンダーの香りだった。詳しくは知らないのではっきり確信はないが、おそらく高級な部類のものだろう。ソルは体を洗うときに面倒だと言っていつもシャワーを被るだけで、ましてや香水をつける習慣などない。
前にソルが身に纏ってきたのは動物性の挑発的な香りだった。その前は淡い鈴蘭の香り。もっと前は……なんだったか忘れた。もう何度目かのことなのに、またショックを受けている自身に、カイは呆れた。
三ヵ月以上間を空けて訪れるとき、ソルは必ずと言っていいほど何かしらの匂いを身に纏って現れた。最初それに気付いた時はひどく狼狽したのを覚えている。しかしソル自身はその『特有の香り』に気付かず、青ざめたカイを怪訝そうに見ていた。
その何でもない態度に、カイは自分がひどくお門違いなことで傷ついていることに気が付いた。ソルがどこで何をしようと、それはソルの勝手なのだ。それに口を挟む権利はどこにもない。
だって。
『愛している』なんて言われたことも、
『お前だけ』なんて言われたこともない。
ソルがそれなりに自分を気に入ってくれていることはカイも分かっている。他の人達とは違う扱いをしてくれるのは嬉しい。だが、それが自分だけに限られたことではないのだと今更ながら気が付いた。カイと肉体関係を持つ前にだって、もちろん多くの相手がいたわけだから、そのまま関係が継続していても何等おかしくない。
ただ一つカイを救っているのは、ソルが『自分の所へ何度も訪れてくれている』ということだけだった。ソルが時々訪れる『他の誰か』は香水の種類に統一性がないことから、特定の誰かというよりは多数の相手であるように思う。もちろんそうだという確固たる証拠があるわけではないが、あそこまでバラバラな種類だと、同一人物とは考えにくい。
だから、『必ずまた来てくれる』という事実がカイにとって唯一の自信であった。少なくとも自分は他の人よりは好かれているはずだと思うことができる。
カイは不意に瞼を開け、ソルを見つめた。抗議するのも億劫になり、投げやりな気分で上に伸し掛かっている男を静かに見上げる。
急に大人しくなったカイに、ソルは機嫌を良くしたようだった。
「そうだ、そうしてりゃいいんだよ。気持ち良くしてやるぜ、坊や」
「……んっ」
ソルの手が下腹部辺りに触れてきたために、思わず声が漏れる。しかし自分の過敏なその反応に驚き、カイは我に返った。明日も仕事があることを思い出し、ソルの手を押し留め、きつい眼差しで睨み上げる。
「ソルっ、駄目だ! 悪いけど、明日にしてくれ。今日は本当に疲れてて……」
「てめぇの都合なんざ知ったことか」
ソルはカイの願いを一笑に伏して、行為を再開し始めた。普通の戦いならまだしも、純粋な力比べでソルに勝てるはずもなく、抑え込んでいたはずのカイの手は逆に搦め取られ、一瞬で頭上に縫い留められてしまう。その有無を言わせない強引なやり方に、カイは強姦されている女の気分を味わった。
ソルと繋がるのは嫌ではない。でも、こちらが本当にそんな気がないときに押し切られてしまうのは……嫌だ。まるでカイの心は無用だ、性欲処理の代わりでしかないと言われているようで、悲しい。
カイの抵抗などいとも容易くいなして、ソルは性急にカイの体を求めた。寝間着はほとんどがはだけられ、裸でいるのとさして変わらない状態になっていたが、カイは無視して抵抗を続けた。本気で嫌だと言ってもやめてくれないことが余計に不安を駆り立てる。
だが、ソルはいつまでも抵抗するその態度に、ひどく機嫌を損ねたようだった。比較的穏やかだった紅い瞳が苛立ったように剣呑な光を放ち、カイを竦み上がらせる。
「いい加減にしろ。坊やとヤりたくてわざわざこんなとこまで足運んだんだぜ」
唸るように呟いたその威圧的な言葉に、カイは顔を強張らせた。何が何でも行為をやめる気のない、ソルの恐いほどの気迫に、カイは僅かに眉を寄せてから目を伏せる。
あなたは私に会いに来てくれたのではなくて、ただセックスがしたくてここへ来たのですか?
喉まで出かかった疑問を、カイは唇を薄く開いただけで押し留めた。言葉に出して聞いてしまえば、何て答えが返ってくるか分からない。面と向かって肯定されてしまったら、きっと自分は立ち直れないだろう。
結局言葉を紡ぎ出せなかった唇を静かに閉じ、カイはソルを見上げて微笑んだ。
「全く、しょうがないな。明日も仕事だから手加減はして下さいよ?」
「……ま、努力はしてみる」
カイが苦笑混じりにそう言うと、ソルは機嫌を直したのか、楽しそうな響きを滲ませてあまり信用には足らない返事を返した。躊躇いがちに伸ばしたカイの手をソルは痛いほど握りしめ、貪るように口付けてくる。肌を重ね合わせたところからも意識を侵食する悦びが染み渡り、カイは執拗に絡んでくるソルの舌に口腔を犯されながら、その快楽に酔いしれた。ソルの長い前髪がこちらの額にかかり、体に掛けられる重みが増すと、それに比例するように分厚い舌がまさぐるように深く絡み付き、胸に触れていた手が腰骨まで滑り下りていく。焼けるように熱いこの体が紛れもなく自分を求めていることに、カイは薄く笑みを浮かべてその首に腕を回した。
体を暴かれていく行為は羞恥心を極限まで煽るが、それによって過敏になった体は悶えるような快感を得て蠢く。唇から大胆に漏れ出した喘ぎと同様に溢れ始めた蜜を掬い取られ、それを柔らかな箇所にねじ込まれると、自らの白い喉から誘いの溜め息が零れた。その音色に最後の理性を奪い取られた獣に乱暴な所作で自身を穿たれ、まだ慣れぬ蕾は痛みと快楽をない混ぜに味わう。それでも組み敷かれ蹂躙される自身は悦びに震えて一層高い嬌声を響かせた。

何にも勝る快楽に溺れ、まともな意識を失っていく中で残ったものは――たばことラベンダーの香りだった。



『誰かに触れた』その手で、私に触れて。

『誰かと重ねた』その唇で、私にキスして。

『誰かと繋がった』その部分で、私を貫いて。

そうしたら私はあなたの名前を呼んで縋り付くから。

そのときはあなたも私の名前を呼んで。

『誰かの名前を呼んだ』その唇で。















どうしよう。

心が、壊れていく……












その夜、カイは狂ったように乱れた。



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