朝の目覚めは重かった。眠りの足りない脳は瞼が開くことを拒否し、多大な疲労を蓄積した体は意思に反してぴくりとも動かない。
起きることを嫌がる意識に流されそうになりがらも、カイはしばらく白濁とした感覚の中でもがき、やっと覚悟が決まってから重い瞼を持ち上げた。薄く目を開いた先には何かがあったが、まだ覚醒しきっていないカイの視界にはぼんやりとしか映らない。石のように固まっている体をどこから動かそうかと考えながら目の前のものをぼんやり眺めていると、それは次第に輪郭をはっきりさせていった。
骨格のはっきりした顎のライン、少し無防備に開いた薄い唇、彫りの深い目許、伏せられたことで改めて気付かされる長い睫、そして焦げ茶の前髪の合間から覗く紅いギアの刻印。
よく見知っているはずの彼が間近で寝顔を晒していることに、カイは少なからず驚いた。カイはソルの寝顔を見たことがないわけではないが、こんなにも熟睡しているのは初めて見る。
いかにも寝ていますといった感じで長い髪をぼさぼさに乱し、薄く開いた唇は近寄りがたい雰囲気を見事に消し去っていた。例えるなら、授業中に居眠りをしている学生といった感じかもしれない。
どことなく愛嬌があり、邪気を感じさせないソルの寝顔を認め、カイは思わず顔をほころばせる。自分の隣でソルが安心しきって熟睡しているということが、カイの心から幾分疲れを拭い去った。自分が少し特別な存在であるような気がして体の奥が熱くなる。幸せな気持ちに浸りながら、カイはその珍しい寝顔をもっとよく見ようと、寝こけているソルに近付いた。もともとこちらの腰にソルの手が掛かっていたのでほとんど密着しているのと変わらなかったが、鼻先が触れ合うほどに顔を近づけ、カイはソルの顔を覗き込んだ。
――が、突然ソルの腕に力がこもり、身動きが取れないほどの強い力で抱き締められ、カイは驚いた。まさか起きていたのだろうかとカイは身を強張らせたが、ソルは眠ったままなのか、目を閉じた状態でカイの背がしなるほど抱き締め、耳元に唇を寄せた。
吐息が薄く耳に掛かり、カイは反射的にぞくっと身を震わせる。しかし、ソルが耳元で囁いた言葉に、カイは顔色を失った。
「――…」
それは甘い響きを持った、誰かの名だった。カイの知りえない、誰かの名――。
カイは一瞬何がなんだか分からなかった。いや、分かりたくなかったのかもしれない。
誰か分からない名。それを愛しそうに呼ぶソルの声。放すまいとする腕。
聞いたこともない名で……自分は呼ばれた?
薄ぼんやりとした意識の中で、カイは認識した。ソルは眠りの中でカイをその誰かと勘違いし――抱き締めた。
カイは目を見開いた。青緑の瞳は一瞬でガラス玉と化して、何も映さなくなった。
目の前が真っ暗になった。体の大部分がぽっかりなくなってしまったような喪失感と冷えていく自分の体と思考を感じた。
この自分を抱き締める腕も熱も何もかも――ただの幻だった?
カイはソルに触れていた手をゆっくり離しながら自問した。
否。ここにあるのは幻ではない。
目の前の確固たる存在に、カイはゆるりと首を横に振った。これは紛れもない現実なのだ。
ならば。
幻なのは、一体……何?
カイは震える手でソルの腕を自分から引き剥がした。抵抗はそれほどなかった。ソルも……起きなかった。
幻なのは、一体誰?
カイは後ずさるようにソルから身を離した。シーツの擦れる音にも、ソルは目を覚まさなかった。
幻なのは、一体誰?
幻なのは、一体誰?
そんなもの、分かりきっている。
私だ。私が……幻だ。その誰かの幻だ。
顔も知らない、誰かの幻だ。
「……っ……!」
カイは引きつった声を漏らして、ベットから這い出た。ガタガタと震える体は、それでもソルから遠ざかるために全力で機能した。
無意識のうちにカイは部屋を飛び出して、キッチンまで来ていた。何も着ていないままで、その場で崩れるようにしゃがみ込む。
胸が軋むように痛かった。だが、涙も嗚咽も漏れなかった。ただ全身を蝕む脱力感とともに、妙に鮮明になった思考が事実を把握して、カイを納得させた。
自分は誰かの代わりだった。顔も知らないその人とどこに共通点があったのかは分からないが、ソルはカイの中にその人を見ていたのだろう。
だからソルはカイに会いに来た。そして男であるはずのカイを抱いた。すべてはカイを通して見た誰かに向けた行為だった。
「は…はは……」
薄い唇から、乾いた笑いが漏れた。痛む胸を押さえ、カイは引き付けでも起こしたように不自然な笑い声をあげた。
これが笑わずにいられようか。自分はなんて滑稽なのだろう。ソルの態度をそのまま受け入れて、自分は少しでも愛されているのだと思い込んでいた。
しかし実際はなんのことはない。自分はただの身代わりだった。ソルは「カイ=キスク」を見てなどいない。誰かを重ねて見ているだけ。

自分の後ろに、誰かがいる。ソルが唯一愛する誰かが……。



かごめ かごめ

かごの中の鳥は いついつ出やる

夜明けの晩に 鶴と亀がすべった

うしろの正面だあれ

















うしろの正面 だ あ れ











ソルが目を覚ましたとき、いつも隣にあるはずの気配はなかった。
思わず癖で、カイを抱き寄せようとしたソルの手が空振り、空しくシーツの合間を滑る。まだ半分睡魔にやられた頭で、ソルはのそりと半身を起こした。
「……?」
も抜けの空であった隣の空白から視線を移し、ソルは寝室を見渡した。だが、そこにも自分の求める姿はない。
昨日の夜、ソルはどうしてもカイが抱きたくて強引に事に及んだが、カイがそれを嫌がっていたことには気が付いていた。しかしどうせまた仕事だからだろうと思ったソルは、それを無視した。カイは元々仕事ばかりしているのだから、たまに休んだところで大した支障もないだろう。
だが、ここにいないとなるとカイはそれでも出勤するつもりらしい。全くもって律儀過ぎる。昨晩、あんなにも乱れてよがっていたのだから、相当体に負担があったはすだ。
「難儀な坊やだ……」
放っておくと倒れかねないと思い、ソルは床に散らばったままの服を適当に着込んで、キッチンの方へと足を向けた。数歩も歩かないうちに何か香ばしい匂いが漂い、ソルの鼻腔をくすぐって家主の行動を伝える。
そのまま歩を進め、ソルは辿り着いたキッチンに足を踏み入れた。そこでは案の定、カイが朝食を作っていた。
「……今日も仕事か?」
壁に寄りかかりながら、ソルは呆れたような口調で聞いた。それは、最近はどうもソルに抱かれ慣れてきたらしいカイが余韻に浸ることもなく、普通に朝早くに起きていることへの多少の嫌味も含めている。カイとのセックスはもちろん好きだが、ちょっとしたスキンシップもそれなりにソルは好きだった。
しかし、ソルの意に反してカイの反応はなかった。聞こえていないはずはないだろうに、あたかも何も聞こえていないかのように、カイは黙々と料理をしていた。
その態度に、ソルは眉根を寄せて溜め息をついた。意向に沿わないことをしたソルに怒っているのだろうが、怒鳴るならまだしも無視という態度は少し可愛げがない。ソルは無言のままカイに近付き、背後に立った。
「おい、聞いてんのか坊……」
言い掛けたところで、突然カイに皿を突き付けられた。思わず言葉を途切れさせたソルは、目の前に差し出された皿を反射的に見つめる。そこにはスクランブルエッグとベーコンサラダ、ソーセージにサンドウィッチと豪華に盛られていた。
それをカイは無理矢理押し付けてきたので、ソルは反射的に受け取る。
「すぐに家を出るから、さっさと食べてくれ。洗いものが済ませられない」
カイはこちらを見ようともせずにそう言うと、自分の分の朝食を持ってテーブルの方へと足を向けた。表情は見えなかったが、声はかたく、静かに怒っているのが分かる。火が着いたように怒鳴り散らしてでもくれれば対処のしようもあるが、こんな風に機嫌を損ねられてはどうしようもない。
困ったソルは、どうでもいいことを言うくらいしかできなかった。
「朝から忙しいやつだな」
「お前と違って、私には仕事があるんだ。無駄口叩いてないで、さっさと食べろ」
にべもなく冷たく言い返され、ソルは一旦口を閉じる。どうやら本格的に怒らせてしまったようだ。取りつく島もない。
突っ立ったままのソルには一瞥もくれず、カイは先に席について朝食を食べ始めた。その、怒るにしては随分可愛げのない態度にソルは流石に腹立たしいものを感じ始める。
こういう関係を特に強く望んだのはカイの方だ。ソルはぎりぎりまで突き放そうともがいたが、それを上回る強さでカイはソルを求めてきて今に至っているのだから、多少の無茶は容認してもらいたいものだ。無茶といってもセックスの回数が多いくらいのもので、ソルはそれ以上をカイに要求したことはない。そのセックスすら回数を減らせというのはソルも流石に納得しかねる。
折角カイに触れられて満足していたのに、そういう態度でいられるとこちらも気分が悪くなる。苛立ちも手伝って、ソルは席に着いているカイの後ろを通るときに、思わず揶揄るように呟いた。
「ったく、淡白な坊やだぜ。昨日あれだけすごい声でよがってたくせに……」
ソルが聞こえよがしにそう言った途端、ガタンッと音を立ててカイが立ち上がった。過剰ではあるがやっと反応らしい反応が返ってきて、ソルは一瞬満足しかけたが――こちらに背を向けたまま立っているカイの肩が震えていることに気付き、驚いた。
尋常でない様子に、ソルは困惑してカイの方に手を伸ばしかけたが、その手はカイに触れることはなかった。唐突にこちらへ振り返ったカイに、ソルは左頬を殴られていた。
「……ッ!」
手加減も何もなく、露骨に骨と骨がぶつかる音が響いた。頬に鋭い痛みが走る。
視界の端に繊細なカイの拳が赤く腫れているのが見えた。こちらと同様に無事では済まなかったらしい。
突然のことで一瞬思考が停止していたソルは、殴られたのだと認識し、衝撃で逸らされた顔を上げた。
「何しやが……」
「私をこれ以上惨めにさせるなあッッ!!」
ソルの言葉を消し飛ばす勢いで、カイは叫んだ。その、子供わめき散らすかのような――だが身を裂くような悲愴な叫びと、今朝初めてこちらに顔を向けたカイの表情に、ソルは目を見開く。
こちらを鋭く射抜いていたカイの青とも緑ともつかない宝石のような瞳は、涙に濡れて揺れていた。零れ落ちた雫は白い頬に幾筋もの跡を残して、カイの悲痛な気持ちを如実に表していた。
ソルはその表情に、ひどく狼狽えた。自分の何に原因があってカイをそうさせてしまったのか全く分からない。混乱する頭で考えを巡らせてみるが、思い当たることはなかった。
『これ以上惨めにさせるな』とカイは訴えた。だが、ソルには一度としてカイを軽く扱ったことはない。全く身に覚えのないことで怒りをぶつけられ、ソルはどうしていいか分からなくなった。
カイはソルを殴ったことで多少の興奮は収まったのか、涙を止め、それを乱暴に拭った。しかしそのままカイは顔を背け、椅子に置かれていた仕事用の鞄を取り上げた。
「おいッ、坊や!?」
怒りをぶつけるだけぶつけて出勤するつもりらしいカイに、ソルは驚いてその白い腕を捕らえようとした。だが、まるで恐ろしいものにでも触れたかのように、カイはこちらの手を払った。
「……私になんか構わないで、本当に好きな人の所へでも行けばいいだろう?」
カイは目を細め、嫌悪と苦痛をない混ぜにした表情で呟く。その言葉に、ソルは怪訝な顔をすることしかできなかった。
「なんだと……?」
「無理しなくていいよ。……今まで私の我儘に付き合ってくれてありがとう」
口端を僅かに歪めたまま、カイは柔らかく微笑んだ。明らかに無理に笑っているその顔は、見ていて痛々しい。なぜそんな顔をしてそんなことを言うのか、疑問を口にしようとソルが口を開きかけ瞬間、カイは身を翻してその場から逃げるように駆け出していた。






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