まだ痛み続ける胸を押さえながら、カイは何度も止まりそうになる足を懸命に前に出していた。右、左、また右…と単調な動きを意識し、混濁した心を落ち着けようと必死になる。だが、思いは後から後から込み上げてきた。
どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。当て付けのように嫌味を言って、それで自分の気が晴れるとでも思ったのだろうか。余計に惨めになるということに、どうして気付かなかったのか。あんな風に誰かの存在を意識して吐露するなど、ただの負け惜しみでしかないではないか。
カイは唇を噛み締めた。その隙間から漏れる息が、鼓動と呼応するように荒く乱れる。
視界はぼやけていた。何も見えない。だが、自分の心は思わず目を逸らしたくなるほどに見通せてしまう。自分が傷つかないように言い訳をし続ける、狡い心……。
ソルが複数の相手と平気で付き合うことへの怒り(だが裏を返せば、ソルを本気にさせられないのは私のせい)、誰かの代わりに抱いていた事実に対する非難(それに今まで気付かなかったのは誰だ?)、所詮は男だから女のような真剣な関係にはなりえないという諦念(負けることへの恐れから同じ土台に上がることができないだけの憶病者が)。
カイは思わず顔を歪めて耳を塞いだ。足はまだ歩き続ける。しかし頭の中で叫ぶ無数の声は消えなかった。反響するその声は、自分の内なる声だから。
自分が憶病であったことがすべての要因だった。誰が相手でも恐れずに胸を張って、ソルを愛していると言えるか。生い立ちの違いをただ諦めて目を逸らせてはいないか。ソルに良く見てもらおうと、ただのいい子を演じていないか。
結局は自分が招いた事態だと、カイは痛感した。ソルが複数と付き合っていようが、別の誰を見ていようが、自分の想いとは関係がなかったのだ。負けるとか勝つとかそういうことではない。ただ自分がどうあるべきか、ただそれだけのことだった。しかしなぜすぐにそれに気付かなかったのか。今更遅いのではないか?
ソルを言葉と暴力で傷つけた。お門違いなことをわめき散らした。……そのまま別れを告げた。
だって。
自分の心に嘘はつけない。
事実を知って傷つかないはずがない。自信を失わないはずがない。代わりで抱かれることに平気な振りなどできるはずがない。
次第に収まっていく鼓動を感じながら、カイは静かに澄んだ空を見つめた。もうこの世界は日が昇っている。自分は未だ、月の支配する暗闇に埋もれたまま。
諦められないのだ。でも割り切ることもできない。用済みになって捨てられる前に自分から離れた方がきっといい。
そう、狡い心が言った。


仕事はいつも通り進んでいた。カイは書類に目を通し、許可の与えられるものにサインをする。真偽の分かりにくいものは自分で、あるいは部下を使って調べ、判断を誤らないように細心の注意を払う。経費の全体も見直して、無駄はどんどん省いていく。所詮人の事だ、人の金だと思っていると人はその本来の価値を忘れ、おざなりに扱うのである。怠惰のない出来た人間などいるはずもない。だから常に監視し合い、規制しなければならない。
廊下で擦れ違う部下に、カイは丁寧に頭を下げた。そこに伴う笑顔はいつもの柔らかな微笑みで、見事に心の内を隠したものだった。それゆえに誰もカイの異変に気付かなかった。
だが、ただ一人はカイがいつもと違うことに気付いていた。
「カイ様」
カイの秘書を勤める老人・ベルナルドはデスクで忙しくペンを走らせるカイに、落ち着いた口調で話掛けた。何か報告だろうかと思ったカイは一旦手を止めて顔を上げる。
「なんですか?」
「カイ様、少し休憩でもなされたらどうですか」
至って柔らかな物腰でベルナルドは言ったが、カイは僅かに眉を寄せた。平然な顔をしていたはずなのに、流石というかベルナルドには見抜かれてしまっているのだと分かり、カイは居心地が悪くなる。
その動揺も見越してか、ベルナルドはあくまで穏やかに勧めた。
「顔色が少々お悪いようですし……。休憩なされてはいかがですか」
「……いいえ。その必要はありません」
カイは目を伏せ、ベルナルドの気遣いを退けた。カイがこうと決めると頑として動かないことをよく知っているベルナルドは聞こえよがしに溜め息をついてから、徐に持っていた書類をカイの前に差し出した。それに視線を向けてから、カイは怪訝な顔をして目の前の秘書を見つめる。
「今カイ様がなさっている仕事の続きは私が引き受けますので、こちらの件を片付けてはくれませんか?」
微笑んでそう言うベルナルドから、カイはその書類を静かに受け取った。休めと言ってから仕事を渡してくるのだから、またどこかの社交会の誘いではあるまいかと懸念したが、カイは内容に目を通して驚愕する。
「これは一体……!?」
「今朝、ギルドから発行された手配書です」
内容には触れず、ベルナルドはしれっと答えた。少々的外れなその言い方に、カイはこの書類が上層部の画策によるものだと察する。上の者には煙たがれているきらいのあるカイは、迂闊に声に出して非難するのは危険だった。
その書類には、ギルド発行の手配書のコピーにベルナルドが赤の丸を書き込んだだけのものだった。だが、それだけで何が言いたいかが分かる。丸で囲まれた箇所には、見覚えのある名前が複数あったからだ。
『御津 闇慈』『梅喧』『蔵土緑 紗夢』『チップ=ザナフ』。カイにとってはいずれも見知った人物ばかりが、なぜか賞金首としてリストアップされていた。それに加えて、ジョニー率いる快賊団にかけられている賞金額が十倍に跳ね上がっている。このいずれの人も並外れた腕の持ち主ではあるが、カイが個人的に知っていることも含めて、ここに提示されているような賞金をかけられる人物ではなかった。その賞金額が重罪犯と同等以上であることも、ますます奇妙だ。
明らかに何者かの意図が働いていることが窺えるその書類から視線を上げ、カイはベルナルドを見つめた。
「この件、是非とも私に調査させてください」
カイが強い意志を覗かせて願いを申し出ると、ベルナルドはいつもの事務的な表情に苦笑をのせた。
「そう言うだろうと思っていました。他の仕事は私達に任せて、カイ様は調査にあたってください」
「すみません。手間を掛けます」
カイは深く頭を下げ、椅子から腰を浮かせた。早々にハンガーに掛けていたコートを手に取り、それを羽織ると、ベルナルドは口許を微笑ませたままで無気質な感のある細い目を更に細めた。
「こちらの方はお任せください。こういう事柄の方が、普通の犯罪よりもよっぽどタチが悪いですから」
決して笑ってはいないその目でいうベルナルドに、カイは顎を軽く引いて答えた。
「同感ですね」
何かよからぬことを企む輩を睨付けるように、カイは青く光彩を放つ瞳を細める。平和に過ごす市民を日夜脅かす犯罪も許されざるものだが、こういった内部の腐敗は、市民を守るシステム自体を脅かす。これほど可愛げのない犯罪もないだろう。
カイは書類を折りたたみ、コートのポケットに入れた。ついで、デスクからバックルを取り出す。聖騎士団の制服についていた腰ベルトなのだが、これにはカイ自身が施した特殊な術が掛けられている。本来かなり高度であるはずの空間歪曲の魔法を短時間且つ最小限の力で行える補助法陣が編み込まれており、それは予め設定してある物質に対してだけに有効である。
『封雷剣』。カイが操るその神器を手元に呼び寄せるためだけに、その力は発揮される。鞘もなく、自分の身長の何割かは占めるであろうその並みでない長さに、封雷剣は持ち運びに不便であるため、空間をねじ曲げて距離をゼロにし、別の場所にあるそれを手にする方が都合がいいのである。しかし如何に天才と呼ばれたカイでも、空間歪曲や空間転移などは得意とするところではない故に補助が必要となる。
『HOPE』と刻まれたバックルの付いたそのベルトを、カイは太股に巻き付けた。とりあえずどこかに付けておけば、それは役割を果たす。
コートの内ポケットに書類を押し込んで、カイはそのまま足早に扉へと向かったが、ベルナルドがふとこちらへ振り返って言った。
「色々と思い悩むのは良いことですよ。特に、カイ様はまだお若いのですから」
まるですべて事情を知っているかのような、重みのある言葉を投げ掛けられ、カイは僅かに顔を強張らせてそちらに視線向けた。胸の辺りが少し痛んだような気がしたのは、気のせいか。
悩むのは良いというけれど、それで身動きが取れなくなってしまうのは本末転倒ではなかろうかとカイは思う。何事にも限度というものがあり、特に今カイが抱え込んでいる問題は、自分がどうしたいかということだけだ。愛や恋に理論も法則もない。
すべては、思うままに。理屈で考えて最善の道を選んでも、結局は大なり小なり何か自分の想いを犠牲にしなければならない。それなら、もう……何も考えまい。
カイは扉を開けたところで、丁寧に頭を下げた。
「ご心配、ありがとうごさいます。ですが、私には悩みと呼ぶほどの大層なものはありませんので、気にする必要はありませんよ」
至って柔和にそう言い、カイはその部屋を後にした。
その向こうでベルナルドが顔を僅かにしかめたことを、カイは気付かなかった。


手配書に明記された名前の中で、もっとも居場所がはっきりしている者を選び、カイは飛空艇でそこへと急いだ。
闇慈、梅喧はジャパニーズであるが脱走中の身とも言えるので、どこにいるのか確定はできない。日夜修行に励むチップも同様に、どこにいるか特定するのは至難の技であった。そうなると、唯一店を構えている紗夢がもっともコンタクトを取りやすいと思われた。
調達できる最高の船で急ぎ、四時間後に目的地へと到着した。カイは飛空艇の運転手と情報を集めてくれた部下に礼を言い、地図を片手に船を降りた。
どこか生暖かい空気が全身を包み、カイは反射的に眉をひそめた。微妙に澱みのある風が蜂蜜色の髪を掻き乱す。その風の中に蒸せ返るような焦げ臭さを感じ、カイは周りを見渡した。
「火事……?」
木々と建物の合間で見え隠れする紅い灯を見つけ、カイは顔をしかめた。それほど遠くない場所で炎をあげるそれと、その周辺で騒ぐ東洋系の人々の様子からして、火事で間違いないようだった。そうと分かって、カイはとりあえず紗夢の捜索を後回しにし、そちらの現場に急いだ。これだけの騒ぎを起こしているのだからおそらく消防署への連絡はいっているだろうが、もしもまだその場に人が残っていた場合は助け出さなくてはならない。
そうして駆け寄った先で、カイは意外な事実に驚いた。なんと、火事の被害に遭って怒りを露にしてるのはこちらが探していた紗夢だったのである。細い肩をめい一杯あげ、燃え盛る屋台に向かって何度も水を掛けている。しかし、その火は収まるどころかますます強さを増しているようだった。
「あの放火魔、絶対に許さないアルッ!!」
周りの者にも手伝ってもらいながら、紗夢は腹立たしげに叫びながら消火活動を続けている。どうやら紗夢は犯人を目撃しているらしい。それを聞いて、カイは咄嗟に彼女の方に駆け寄ろうとしたが、到着した消火士に「道を開けて下さい!」と叫ばれ、思わず身を引いてしまった。
「やっと来たアルか!? 遅すぎアルよ!」
「す、すみません!」
「もういいからさっさと手伝うネ!」
紗夢は消防士を豪快に叱り飛ばし、てきぱきと消火作業を手伝わせ始める。近くの川から引いてきたらしい水が勢い良く屋台に掛かり、炎をみるみる弱めていった。それでも火が完全に回ってしまった後での鎮火はなかなか難しく、広範囲に広がっている火をすべて消し止めるにはまだ時間が掛かりそうだった。
紗夢の屋台に火を放ったらしい輩を捕まえるために彼女から犯人のことを詳しく聞きたかったが、この状態ではそういうわけにもいかず、カイは野次馬に混ざって困惑するばかりだった。しかし、こんな風に判断に迷っているときでも、カイの優れた感覚は鈍っていなかった。騒ぎで集まる人々のなかに、異質な気配を嗅ぎ取って、カイはバッと背後を振り返る。
「……!」
果たして、そこに気配の原因を見た。咄嗟に身を翻したその人物の後ろ姿がカイの脳裏に焼き付く。
聖騎士団の服……!?
すぐに角を曲がって行ったために顔の辺りは建物の影で分からなかったが、その身に纏っていたのは間違いなく聖騎士団の制服であった。あの法衣は本人の扱う術の系統によってラインの色が決まっているので、先程見た後ろ姿でその人物が自分と同じく雷の属性を扱うことが分かる。
だが……なぜ今頃聖騎士団の服なのだろうか。聖騎士団は聖戦の終結と同時に解体され、その役割と要素を受け継いだ国際警察機構が現在は組織されている。今のカイのような警察の服を着て攪乱させるならまだしも、聖騎士団の服を着るのはかえって目立つ。
疑問を抱いたまま、カイは素早くその人物を追跡した。だが、あまり大きな街ではないそこは住宅地で非常に入り組んでいたために、何度目かの角を曲がったとき、その気配を見失った。
「くっ……! どこだ!?」
相手が動いている以上は気配を捉え損なうなどそうそうないカイは、撒かれたことに苛立ちを隠せぬまま、その場で足を止めて周囲を見渡した。緊張状態のカイの知覚から気配を消し去るなど、ソルやクリフくらいなものである。
あれだけ全力で追いかけられていて気配を消す余裕があるとは、相手はかなりの手練なのだろうか……?
そう思い、カイはふとある可能性に思い当たった。
カイは少々弾んだ呼吸を素早く整えると、意識を太もものバックルに集中させた。青白い光を放ちながらそれは魔方陣を展開し、歪みを帯びた空間から封雷剣を現出させる。長く繊細なその剣が重力に従って傾ぐよりも先にカイはそれを掴み取り、静かに後ろ手に持ち替えて気配を殺す。そしてそのまま音を立てずに、相手の気配を見失った辺りにまで移動した。一枚の崩れかけた壁の前に立ち、カイは殺気を押し殺して徐に封雷剣を振りかぶった。
「そこだッ!」
「……ッ!?」
轟音と共に、カイの細腕から繰り出された斬撃がその壁を打ち破った。その向こうで潜む気配が息を飲み、崩れる瓦礫と雷を帯びる剣先から逃れるためにそこから転がり出る。気配が消えたと感じていたのは、なんのことはない、相手が途中で息を殺して隠れていたからだった。
危うげなく受け身を取ったその人物に、カイは体ごとそちらに振り返って切っ先を向けた。出てくるであろうことは予想済みである。
だが、舞い上がった煙の晴れ間で露になった相手の全貌を見つめ、カイは目を剥いた。
地面に片膝を付いたそれは――聖騎士団の服を纏った金髪の機械人形だった。
「な……ッ!」
カイが驚愕に思わず声を漏らすと、それがゆっくりと顔を上げた。澱んだ濃緑色に染まった鉄の顔に嵌め込まれた黄色のガラスが鈍く光を放ち、耳の代わりに刺さっている両左右のゼンマイが反回転して、どこかこちらを馬鹿にして笑っているような印象を与える。
「何ヲ驚クコトガアル、かい=きすく」
切り込みを入れたように開閉する四角い口から、潰れてはいるがカイと同じ声が流れ出た。抑揚のない機械音とその姿に、カイはなんともいえない不快感を覚える。
その人形の顔はとても人間とは言い難く、旧技術の産物である『機械』であると一目で分かるが、それの姿形はカイとほぼ同一であった。身に纏っている聖騎士団の服はカイが持っているそれと寸分違わず、それに隠れる全体の骨格も身長も同じ。鉄の塊から生えている金髪は違和感を覚えるが、その人工の髪さえも色はほぼ同じで、多少くすんでいる程度の違いしか見られない。
それがカイを模して造られたことは、一目瞭然だった。そうと気付いて脳が理解した途端に、カイは吐き気に見舞われ、口許を押さえた。
「……ソノ態度ハ、ナンダァ? 我ガ輩ハオ前ヲ元ニ造ラレタノダゾ」
不意にそれは立ち上がって、妙に人間臭い仕種で両腕を開いてみせた。まるで自分を見てみろと言わんばかりのその仕種と感情のこもらないその声とが気味悪いくらいに合い、舞台の上に立つ吟遊詩人のようにどこか他人事めいた調子でそう言っているように思えた。
頭が、軋むように痛んだ。どこが似ているものか、と怒りが込み上げる。その顔も耳も髪も服も声もすべて偽物のくせに。模しているはずが、全く別のものになっているではないか。一体どこが似ているというのだ。
カイは再びそれに切っ先を向けた。
「ふざけるな! 私とは違い過ぎている」
カイは鋭い眼光を宿して、あと数ミリで喉を突くというところまで剣先を持っていった。しかし機械人形にとってそこは急所に成りえないからか、埃で汚れたガラスの目を鈍く点滅させてこちらを見つめているだけだった。
「……誰に造られた」
怯む様子も見せないそれに、カイは努めて冷静に聞いた。黒幕は誰かと聞いているも同然の質問に、突っ撥ねられることを予想していたが、意外にもそれはあっさり口を割った。
「終戦管理局、ダ」
「……なに?」
カイは思わず聞き返した。聞こえなかったのではなく、その言葉の意味が理解できなかった。なにしろ、初めて聞く単語である。どう記憶を引っ張ってきても、聞き覚えがない。
目を点滅させることと耳のゼンマイを回転させること以外動きを見せないそれは、カイの戸惑いを見透かしているようだった。
「……聖戦ハ終ワッテイナイ」
「なんだと……?」
耳障りな口の開閉音とともに零れたその言葉に、カイは眉をひそめた。
聖戦は……終わっていない? あれだけの犠牲者を出して、百年もの間続いた戦いが? 指令塔のジャスティスは封印し、その後機能停止にしたというのに……。
「まさか……お前の主人は『あの男』か?」
ジャスティスを裏で操っているとなると、ソルが追っている『あの男』だ。ジャスティスもその男の画策で聖戦を始めたような節があるので、もっとも聖戦に関係して思われる。だからこの機械人形も『あの男』の手先なのではと、カイは考えた。
しかし機械人形は、突然壊れたように笑い出した。
「ハハハハハハ! 何モ知ラナイ奴ハ、オメデタイナ! ……アンナ男ト同類ニ見ラレルトハ、心外ダ」
最後は吐き捨てるように言い、それは大袈裟な身振りで肩を竦めてみせた。その妙に人間臭い仕種と物言いに、カイはまた頭痛の度合いを強め、顔をしかめたままグッと剣先で機械人形の喉を押す。だが、ソレガドウシタ?というようにそれは首を傾げてみせるだけだった。
「イズレ、奴モ潰ス」
鈍く光る鋼鉄の顔で不気味に嘲笑いながら、機械人形は宣言した。そして唐突に手を背後に回したかと思うと、音もなく長身の剣を取り出した。その手に握られた見覚えのある形状の剣に、カイは目を見開く。
「そんなものまで模倣するとは……! 神をも恐れぬ行為だぞ!」
「神ダト? 馬鹿馬鹿シイ。オ前達ガ神器ト呼ブソレノ元ヲ作ッタノハ、一人ノ男ダ。神ナドデハナイ」
何を勝手に妄想しているのだ。
そう言いたげに、機械人形は封雷剣に酷似したそれで、カイが突き付けていた剣先を弾いた。長い剣である分だけ衝撃はきつく、カイは一瞬重心が不安定になる。
「何モ知ラナイトハイエ、貴様ハ邪魔ダ。ココデ消エルガイイ!」
よろめいた隙を見逃すはずもなく、機械人形は白い光沢を持つ長剣を横一直線にないだ。追ってくるそれに合わせて、カイは体を滑らせた。剣の動きに追い付かれないよう、足を大きく開いて上体を移動させ、ぐるりと機械人形の周りを半周する。斬撃をかわしきり、必然的に機械人形の左肩辺りに迫ったカイは、神器を構えた。
「……ッ!」
焦る様子をみせたそれに、カイは両手で握った剣を下から打ち上げるように走らせ、機械人形の左脇から右肩を突き抜ける線で逆袈裟斬りを狙った。咄嗟の判断でできうる限り回避することを選択したらしい機械人形は、切っ先を避けるように倒れ込んでそれをかわす。
が、それを予想していたカイは回避される前から剣を振り上げる力を弱め、返した刃で背を晒した機械人形を斬りつけた。しかし、鉄鋼の体を持つそれは衝撃で背を曲げながらも耐える。決定的なダメージは与えられなかったものの、カイは一瞬硬直状態に陥った機械人形の足を払い、横転させた。
咄嗟に受け身を取りかけた機械人形を地に縫い付けるように、カイは封雷剣をそれの胴に突き立てて右足を踏み付けた。
「まがい者如きが私に喧嘩を売るから、こうなるのです」
ギギ…と不明瞭な音を立てる機械人形を冷たく見下ろして、カイは言い放った。
だが、それは恐れた様子も見せず、表情のない鋼の顔で四角い口を開く。
「マガイ者? 何ヲ言ッテイル。オ前ト我ガ輩ノドコガ違ウ? 同ジ、タダノ捨テ駒デハナイカ」
我等は同じ。誰かの捨て駒。
嘲笑うように、人形はそう囁いた。途端、頭がきりりと痛み、剣を突き立てたままでカイは空いた片手で頭を押さえた。
その様子をレンズに映し出した機械人形は、微かに笑ったかのように見えた。剣が刺さったところからパチパチと火花が散り、故障を知らせているにも関わらず、どこかそれは余裕の笑みに近かった。
「貴様ト我ガ輩ニ違イナドナイ。イクラデモ代ワリノ利ク存在ニ変ワリハナイ。ソウダロウ? 『英雄と呼ばれただけの、誰でもいい男』!」
無視しようとしたのに。
頭がびきりと軋んだ。沸騰して駆けのぼった血は意識を紅く染め上げ、カイの目を釣り上げさせる。反射的に、青い瞳は突き刺さるような鋭い光を放って機械人形を睨みつけた。
それこそ、人を殺しかねない凶悪な意思を持って。
そのドロドロとした憎悪を垣間見たように、機械人形は笑った。もとはカイと同じ、その潰れた声で笑う。
「ハハ…ハ、ハ、ハ…! 何ガ、英雄…ダ。都合良ク、利用サレタダケ、ノ、分際デ――」
「黙れッ!」
鋭い声とともに、封雷剣がうなった。石畳ごと削り取るように刃が走り、機械人形の首を跳ね飛ばす。綺麗に切断されたそれは、まるで石を転がしたような重圧な音をさせて、地面に何度もバウンドしながら遠くへ転がった。
しかし、植え付けられた長い人工毛がまとわり付いたその顔が、それでもなお切れ切れに言葉を紡いだ。
「無、様ナ…奴…」
「うるさいッ! 黙れッ! 貴様に何が分かる!!」
怒りに震える手で軋むほどに剣を握り、カイは雷撃を放った。空間を切り裂くようにほとばしった青白い閃光は、その忌ま忌ましい鉄の塊を一瞬で粉々にする。
余波で瓦礫が崩れ、埃が舞った。
しばらくして、辺りは静寂に包まれた。誰の気配もなく、何の雑音もない。だが、カイは激しくなった頭痛に膝を折った。
力不足のために多くの部下を死に至らしめた。死ぬだろうと分かっていて命令を下した。なのに、どうだ。結局ジャスティスの動きを鈍らせたのは、ソルだった。そしてそれをあたかも自分の手柄のように封印を施した。何も知らない市民からは尊敬の眼差しと英雄という称号を受けた。第二次聖騎士団選抜大会ではジャスティスの復活を許し、またもそれにソルがとどめを刺した。クリフ老はその激戦の中で死に至った。
「っ……!」
それらを、自分はただ眺めているだけだった。何の力にもなれなかった。結局は何もしていない。自分は果たして、そこにいる意味はあっただろうか。どこかで必要とされただろうか。
「ぐ…ぉ…あ、あッ!」
体から罪を吐き出したくて、カイは喉に爪を立てて呻いた。
なんだ。所詮はただのお飾りか。誰が代わりをやっても構わなかった。自分である必要性などどこにもなかった。
突き立てた爪は色素の薄い肌をツプリと突き破り、紅い鮮血が流れ出した。
頂きに登りきることができるほどに力はなく、誰を助けることもできない。自分の代わりに一体何人が死に、その未来を絶たれただろう。そんな価値がどこにあったのか。ただの飾りの分際で。
最初から、いなければ良かった。誰かを死に追いやるくらいならば生まれてこなければ良かった。
「ど……し、て」
握った剣は冷たい。ゆるゆると持ち上げる。突き立てた。転がった機械人形の胴に、墓ができる。
これは、自分だ。この人形に自分の顔の仮面を付けてやれば、『カイ=キスク』ができあがる。同じように、自分の顔を剥げば下からはこの醜い顔が現れる。一体どこに違いがある?
突き刺した神器をゆっくりと引き抜き、カイはもう一度それに先端を叩き付けた。ネジが飛ぶ。導線が切れる。基盤が砕ける。バラバラになっていく。
「は……はは…っ」
なんて醜いのだろう。なんて無様なのだろう。役立たずでクズで。無意味な。
見たくもない。
「は、はははははッッ!!」
何度も何度も何度も。
引き抜いては突き刺し、叩き付けては振り上げ、狂ったように繰り返した。刃と鉄の塊が当たるごとに甲高い悲鳴をあげ、砕け散る。
一分一秒でも、それが存在することが許せなかった。それがあることは、いくらでも自分の身代わりが居るのだという証しだから。
「はは……っ!」
笑い続ける。風で埃の舞う瓦礫の中で、笑い続ける。乾いた喉は声をあげ続けて止まらない。
「は…ははっ、馬鹿みたいだ……!」
本当に。なんと愚かなことか。
衝動的に、機械人形の動力部を掴み出す。放出した法力で、まだ放電するそれをさらなる電圧で捩伏せ、黒焦げにして破壊した。澱んだ煙をあげるそれを見つめ、口端を皮肉げに釣り上げる。
これでもうこいつは死んだ。確実に死んだ。消滅した。自分を脅かす者は消え失せた。
――でも。
姿形とは関係なく、自分の代わりは数え切れぬほどいるだろう。市民が敬う対象も、部下が心酔する上司も、歴史に名を刻む英雄も。そして……性欲処理の相手も。
「どう、して……」
誰でもいいくせに。性別も年齢も気にしないくせに。なんで私に手を出した?
いつも追いかける紅い男の背を思い出し、口汚くなじる。しかし、それがお門違いな文句だと気付いて首を横に振った。
「違う…っ…。何を、言ってるんだ…私は…!」
そう、全然違う。手を出してきたんじゃない。自分がそういう風に彼を求めたのだ。そうしてほしいと泣き付いたのだ。今更人のせいにするなど……なんて浅ましい。
――でも、でも。
あの男は、泣き付いたときにこの手を取ってくれた。時々優しくしてくれた。穏やかな顔で笑いかけてくれた。
あれが全部嘘だったとは、思いたくない。
「……馬鹿、だな……」
今朝知ったばかりなのに。本当は誰かの代わりなのだと。あの男は自分は見ていない、別の誰かを見ているのだと。
期待して、自惚れた私が馬鹿だった。愚かだった。夢など見ていた私が悪い。
「死ねば……良かった」
縋り付いて泣いて叫んだあのとき、死ねば良かった。抱いてくれなどと言わず、目の前で舌でも噛み切れば良かった。そうしたらきっと、あの男は一生覚えていていてくれる。自分という存在がいたことを覚えていてくれる。あの男は、根が優しいから。
飽きて捨てられて忘れ去られるよりずっとよかったろう。その他大勢にならずに済んで、自分の存在が男の胸に刻まれる。なんと甘美なことか。
「死ねば良かった……」
今更悔いても。
薄く笑いながら砂利を掴む。小刻みに震える手を開くと砂が零れ落ちた。まるで流れゆく時間を示すかのようで、自虐的な笑みは深くなる。
――と、不意に背後から声が聞こえた。
「死ニタイカ? ナラバ、望ミ通リニシテヤロウ」
「――……!」
耳障りな電子音が響くと同時に、腹部に痛みが走った。ゆるゆると視線を下げ、焦点の定まらない目で自分の腹を見る。白く長い刃が鮮血を滴らせ、腹から突き出ていた。
「……?」
痛みは最初の一瞬だけ。後は何も感じなかった。そのままゆっくりと後ろを振り返る。視線を向けた先には、自分の模倣品がずらりと並んでいた。一様に不気味な光を目から放ち、少し前屈みの態勢でこちらを覗き込むように立っている。気付かなかったが、いつの間にかカイは機械人形達に囲まれていた。
しかしそれを認めたカイは、薄く微笑んだだけだった。何者かに作られた無数の機械人形達はカイ=キスクの模倣品。なんとも哀れな人形達。こんな惨めな男を模して造られたなど、むなしくて仕様がないだろう。
量産型のそれらは聖騎士団の服をはためかせ、腹部からとめどなく血を流す虚ろな様子のカイを、ぼんやりと光るガラスの目で見下ろした。
「アワレナおりじなるニ、死ヲ」
「死ヲ」
「死ヲ」
口々に紡がれる電子音。ただ淡々と、それらは死を宣告する。
目の前に突き付けられる十数本の白刃を、カイはただ見つめるだけだった。どうでも良かったのだ、止まらない血も自分の死も何もかも。唯一渇望するのは、この穴の空いた空虚な胸を埋めるものだけ。
でも、それは決して手に入らない。
「死ネ」
一つの言葉とともに、空が落ちた。
体を貫く無数の穴を心地好く感じながら、微かに自嘲の笑みを浮かべ、カイは誘惑のままに死への闇へと沈む。






死とは、なんと蠱惑なものか……。









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