なぜカイがあんなことを言ったのか、ソルには全く分からなかった。
突然怒り出したこと、そして涙を流したこと、最後に言った言葉の意味……すべてが分からなかった。
ただ一つ分かることは、カイが相当何かを思い詰めているのだということだけだった。そして、その原因が恐らく自分にあるのだということもなんとなく察しがついた。
『本当に好きな人のところへ行けばいい』
無理に笑いながらカイはそう言った。なぜそんな発言に至ったか分からないが、ソルにとってカイ以上に気にかける存在はなかった。女に対する愛情や保護欲などとはやはり少々違うが、失いたくない大切な相手に変わりない。時々で構わないから同じ時間を共有したい、そう正直に思う相手。他の奴は別にいらなかった。カイだけで構わない。
なのに、なぜかカイは別のところへ行けという。カイ自身がソルに飽きて、あるいは興味が失せてそう言っているのなら、仕方がないだろう。もともとはカイを一生突き放し続けて生きていくつもりだったのだから、その意見は有難かったはずだった。多少の敵ならカイを背に庇って火の粉を払うこともできる。だが、ソルが宿敵とする連中は誰かを庇いながら戦うことのできる相手ではない。自分の身さえ、正直危ういのだ。
だからカイに、一緒にいろとは言わない。むしろ、カイを本当に危険から遠ざけるなら突き放して関わりを断つのが一番良い方法だろう。さっさと目の前から消えてカイが生き絶えるまで姿を隠し続ければ、カイは自分がこれから起こすであろう騒動に巻き込まれることもない。
それが分かっていても。あの、五年ぶりの再開で自分が感じた感情は言い訳のしようがなかった。
第二次聖騎士団選抜大会で颯爽と現れたカイ。決勝の相手があの、少年の幼さを残していた若き団長の成長した姿だと知って、思わず自分は口許に笑みをのぼらせた。すっかり大人びて可愛げはなくなったが、いい感じになったと心から思った。そしてその青年がこちらの正体に気付いて驚いた顔をしたその後、すぐに表情を引き締めて真っ直ぐにこちらを挑むような眼差しで射抜いたことがたまらなく嬉しかった。昔と全く変わらないその強い意志を秘めた瞳に触発されて色褪せかけた記憶が蘇り、眠っていた感情が沸き立った。
ああ、覚えていやがった。こいつはまだ俺のことを覚えていやがった。これっぽっちも、忘れてなんかいなかった。
今まで焦がれていたものをやっと手に入れたように、血のたぎるその歓喜を、その瞬間確かに感じた。女との恋愛ごっこなどとは全く違う、貪欲で純粋な本能からの渇望。体だけを繋げて得るのではなく、心もどろどろに溶け合ってしまいたいと思うくらいに狂暴で身勝手なその衝動は、おそらく他の者では感じえなかった。お手てつないで一緒に歩きましょうなんていう生ぬるい感情ではない。傷つけ合ってでも互いを求め、ほしいものを遠慮なく奪い合い、文句を言われようがいざというときには手を貸して守ってやる。そんな欲望に忠実な関係。
こんなにも野蛮で本能的な感情をぶつけたいと思うのはカイだけだ。他の誰でもない。
「……」
ソルは、テーブルの上に残された朝食と紅茶を見つめた。結局家主に口をつけてもらえることなく放り出されたままのそれは、すっかり冷め切っている。ソルが渡されたものも、食べる気が失せたために手を付けられていなかった。
何を思い詰めていたか知らないが、それでも律儀に朝食を作ってくれたのだということが嬉しい反面、申し訳ない気がした。
自分のような不誠実な人間に付き合わせて悪いと、そう思う。
そういえば――、
「あいつにも悪いことをしたな」
窓の外に広がる空を眺めながら、ソルはふと別の人物を思い出した。普段はあの男に関する事件でも起きない限り封印されている記憶がなぜか浮上してくる。今朝、久し振りに彼女の夢を見たせいだろうか。
カイではないその人物は、かつて自分が最も大切にしていた存在だった。
ソルと名乗る前の自分は、大学院に通いながら彼女と多くの時間を過ごし、思い出とともに様々な感情をもらった。日夜、大量の資料とレポート、微生物の管理に追われ、疲れきって目の下にクマを作っていた無愛想な学生の自分に、暖かいコーヒーと夜食を持ってきて、笑顔で励ましてくれたのは彼女だった。彼女自身も研究員でそれなりに忙しかったはずだが、彼女はそれを微塵も感じさせない明るさで、表情をくるくる変えながら色んな話をしてくれた。人当たりも良かったことで周りの人間からも気に入られていて、いつか他の男に取られやしないかと内心ひやひやしていたことをよく覚えている。研究以外、本当に取り柄のない男だったからだ。その情けない感情を正直に話すと、彼女は一瞬きょとんとしてから盛大に笑ったものだった。何を言ってるの、そんなことあるはずないでしょと軽く笑い飛ばす彼女は本当にいい人だった。
だが、その人の良さが災いした。被験者が一人足りないというあの男に、彼女は気を使って自ら名乗りをあげたのだ。危険だからと必死で説得したが、彼女は平気だと笑ってあの男の計画に付き合ってしまった。
いい人ほど早死にする。まるでそれを体現したかのように彼女は死んだ。あれを生きているとは言えまい。彼女としての人格も記憶もすべて崩壊して、姿も変わってしまったなら、それは死んだことと同じだ。
失ったものの大きさを確かめるように、ソルは日の光りに自分の手をかざした。
傷はないが骨張った自分の手に、彼女の手を重ねて思い描く。細くて白いその手は、いつでも自分をぐいぐい引っ張っていった手には思えないような繊細なものだった。その細い腕を上に辿っていくと、鎖骨の浮き出た細い上半身に辿り着く。あまり丸みはないが、抱き締めるとすっぽり腕の中に収まる肩はとても好きだった。長い金髪は光を受けてきらめき、思わず誘われるように鼻先を埋めると微かに花の香りが漂う。透き通るような白い肌に包まれた首筋に戯れで唇を滑らせると、彼女はくすぐったそうに笑い、こちらを見上げてくる。
その瞳のなんと青いことか。海と空の両方を内包したその色は、見る者を引き込む。
まるでカイと同じ深い青――。
「――」
そこで夢想は中断した。いや、中断せざるをえなかった。ソルは目を見開いて愕然としながら、かざしていた自分の手を下ろした。
今更ながら、気が付いた。もっと早くに気付くべきことを、今更ながら彼女の姿を思い出してやっと気付いた。カイはあまりに彼女と似ている点が多すぎるということに。まるで狙ったかのようにそっくりだ。
まさか……無意識に彼女の代わりを探していた?
そう思った途端、自分が恐ろしくなった。ただでさえカイに手を出したことを後ろめたく思っていたのに、さらに欺くような真似を自分はしていたのだ。カイが自分にだけに特別な表情を見せてくれることに優越を感じていたが、その素直な青年に無意識とはいえ昔の恋人を重ねて見ていただなんて……罪深いにもほどがある。真っ直ぐに感情をぶつけてくる、誠実で人望も厚いカイなだけに、騙していたのだという事実は重く伸し掛かった。そしてそのことをカイは知りもしない。
ギアを抹殺する理由もあの男を追う動機も、昔の恋人の死が関わっていることもカイは全く知らない。当然だ、自分がそのことについて話しもしなかったからだ。カイ自身も気を遣ってか、そのことには一切触れなかった。気にならないはずはなかっただろうに。なのに自分は当たり前のような顔でその優しさに甘えてしまっていた。
何も言わなくても伝わっていると、当然のように思っていた。カイが彼女に似ていたから、彼女のときと同じように扱っていた。昔と状況は異なり、なによりカイは彼女と同一ではない。なのに、無意識に同じように扱っていた。
カイを愛しく思う気持ちは、実は違ったのだろうか。わざわざ金髪碧眼であるカイを選んだのは、その先にいる彼女を重ねて見ていたからだろうか。彼女を想っていたからカイを想うようになったのだろうか。
「くそ……っ」
分からなくなっていた。自分が誰を大切に思っていたのか、分からなくなっていた。
喉を埋める妙な不快感に耐え切れず、ソルは冷めきったコーヒーを一気に煽った。だが、泥のように澱んだそれは喉に絡まり、余計に気分を悪くさせた。空になったカップを乱暴な所作でソーサーに戻し、ソルはこめかみを押さえて俯く。
ちょうどその時、来客を告げるベルが鳴った。
「……誰だ」
頭を抱える格好のまま、ソルは呻くように声を絞り出した。それを家主の応答と判断したのか、家のセキュリティーシステムがその言葉をそのまま来客に伝えたようだった。家主とは違う者の声に、来客が戸惑う気配がする。
「……もしかして旦那?」
「てめぇか……」
ドアの向こう側にいる相手の声が魔法装置を介して部屋に響き渡り、ソルは詰めていた息を吐きながら呟いた。普段ならこのイギリス人は歓迎すべき人物ではないが、今は別だ。正直、このまま一人でいたら悪い方向にしか考えが及ばない。
難しい理論や数式を考えるのは好きだが、こういう風に自分の心理を分析するのは苦手だった。
とはいえ、この邪魔そうな男を素直に招き入れる気にはならず、ソルは一言事実を告げる。
「言っておくが、坊やは出勤中だぜ」
「あちゃ〜。やっぱりそう?」
軽い調子でアクセルはまいったなぁと呟きをもらした。それもそうだろう。アクセルはソルに会いに来たのではなく、カイに会いに来たのだ。
そのまま引き下がるかと思われたが、アクセルはしばし迷ってからもう一度口を開いた。
「旦那、悪いけど中に入れてくんないかな?」
「坊やに無断でか?」
「……あとで謝るからってことじゃ、駄目かな?」
困りながらも珍しく食い下がってくるアクセルに、ソルは少し不審に思って眉をひそめる。
「なんかあったか?」
ソルがそう問うと、アクセルは一瞬言葉を詰まらせ、曖昧に笑いを漏らした。
「う〜ん。ちょっとね、しくじっちゃってさ」
言いにくそうにそう言ったアクセルに、ソルは何を、とは聞かなかった。代わりに、天井を見上げてセキュリティシステムにドアを開けるよう命令する。カイのように自分でわざわざ開けに行ったりする気はさらさらない。
しばらくもしないうちに玄関の方から鍵の開く音がし、続いて一人の人間がドアをくぐる気配がした。そして居間にひょっこりと顔を出したアクセルに、ソルは頬杖をついたままで、ちらりと視線だけを投げた。
「随分派手にやったな」
「旦那〜っ。この状況見て、それだけ?」
部屋に踏み込んできたアクセルが、ソルの素っ気ない態度に情けない声を出す。アクセルは肩から左胸にかけて傷を負い、自慢のユニオンジャックを真っ赤に染め上げていたが、ソルは微塵も心配する気が起きなかった。
「あっちの洗面所にタオルがあるから、それでさっさと止血でもしろ。頼むから床は汚すなよ」
「ひで〜! 俺のことより床の心配?」
「坊やは綺麗好きだからな。ごちゃごちゃ言われんのは俺だ」
もしかすると今後カイがまともに顔を合わせてくれないかもしれないということは言わずにおいて、ソルは茶化すようにアクセルを追い払う仕種をした。邪魔者扱いをされたアクセルは、溜め息をつきつつも諦めて洗面所の方へ歩いていく。
だが、はたと足を止め、アクセルはソルの方に向き直った。
「そういや、旦那に伝言があったんだけど」
「伝言?」
不意に真面目な顔でこちらを見たアクセルに、ソルは視線を向けた。まさかその伝言の主はカイではないだろうなと一抹の不安を感じる。もしもそうならば……正直どんな顔でそれを聞いたらいいのか分からない。カイに対する気持ちがひどく曖昧になってしまっている。
しかし、ソルのその心配は杞憂に終わった。いや、むしろもっと別の意味でソルの精神を揺るがすに充分足りる最悪のものだった。
「紅い楽師のナイスバディなお姉さんと一戦やって、そのとき頼まれたんだ」
「!」
ソルは弾かれたように身を起こし、一瞬でアクセルの胸倉を掴み上げていた。あまりに過敏なその反応に、アクセルが目を剥いたまま硬直する。
硬く冷たいヘッドギアの下から、らんらんと光る朱金の瞳を覗かせ、ソルはアクセルを半分宙吊りにしながら唸るように言葉を絞り出した。
「そいつは今どこにいる」
「え……? いや、それは流石に俺様にも分かんないけど。とりあえず伝言頼まれたし、それ聞いてほしいなって……」
「どこにいんのかって聞いてんだ」
冷汗を流しながらもなんとか落ち着かせようと柔らかい物言いで言葉を繰り返すアクセルに、ソルは抑揚のない低い声で同じ質問を重ねた。
人間にしては強い部類に入るアクセルに傷を負わせることができる、紅い楽師の女ときたら。もはや疑うべくもなく、ソルが追う『あの男』の部下であるイノだろう。見目はいいかもしれないが、誰であろうと自分の快楽の糧にし、そしてその罪悪感をどこにも持ち合わせていない本物の悪魔。そのうえ時空を自在に移動できるという特殊能力を合わせ持つ。自分の欲望に忠実に行動するため、下手をすれば『あの男』さえもあの女の行動を把握しきれていないかもしれない。まさに、鎖を繋いでいない狂犬同様だ。そんな奴の伝言など聞いたところで無意味。
おそらくまた何か企んでいるだけに違いない。
「あのさ、旦那。俺様、怪我してるんだからもうちょっと労るとかなんか……」
「てめぇのそれは致命傷じゃねぇ。いいから知ってること全部吐きな」
情けない顔で半泣きになっているアクセルに、ソルは問答無用で詰め寄る。イノは思い付いたら即実行の快楽主義者なだけに、少しも時間は無駄にできない。早めに叩かなければ被害は拡大する一方だ。そしてなにより、イノを叩きのめせば『あの男』の手掛かりを何か掴めるかもしれない。
頑として自分の主張を聞き入れてくれないソルに、アクセルは首元を絞められながら降参のポーズを取った。
「一戦やった場所はここからそんなに離れてないところ。まあ、そうは言っても結構時間掛かったけど。で、あのお姉さんの行き先は知らない」
「……使えねぇ野郎だな」
「ただ、伝言は頼まれた。なんでも、『怪物の羽をむしりに行くから、その後で遊んであげる』って」
「!」
その伝言の内容に、ソルは目を見開いた。
怪物。羽の生えた怪物。まさか……。
硬直したままのソルに、アクセルは不安げな顔をして言った。
「まさかとは思ってたけど、これってディズィーちゃんのこと?」
ギアに深く関わる者には、怪物という表現にピンとくるものがある。特に『羽根の生えた』と形容されれば、思い付く人物はただ一人。
ギアと人間のハーフとして生まれた少女、ディズィー。前の事件で莫大な賞金を掛けられたギアである。ただし、人を傷つけることを嫌ったため、今は快賊団に身を置いている。
ただ普通に暮らしたい。それだけを望む少女に、持って生まれた強大な力はそれすら容易に叶えさせなかった。そんな悲劇の少女に、あの悪女は一体何をしようというのか。
怒りが先に立った。させるものかと思った。自分も少女の不幸の一因であるだけに、見過ごすことなどできない。
そしてそれは、おそらくイノの思惑通りなのだろう。そうでなければわざわざ伝言など頼まない。黙ってディズィーを襲えばいいだけだ。明らかにこちらを挑発している。
「上等だ。消し炭にしてやる」
「あ。ちょっとっ、旦那!?」
凶悪に顔を歪めたソルは、アクセルを掴み上げていた手を放し、壁に立て掛けてあった封炎剣を掴み上げた。その剣幕に驚いたアクセルが何か騒ぐが、耳に入らない。ソルは部屋に視線を走らせ、目的のものを見つけて手に取った。
カイが忘れていった通信メダル。警察機構のものだけに、これを使ってハッキングでもすれば何か新しい情報が得られるかもしれない。あの女は何事も派手にやりたがるから、おそらく目立った行動を取っているはずだ。
叩きのめしてやる。
そう決意するソルの頭の中に、カイのことなどすでになかった。
― No.1 END ―
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ええっと……非難ごーごー、承知の助でございます。批判は有り難く受けさせていただく所存です。
それ以降もこの話を引きずりますので、完全に解決するのはもっと先かもしれません。けれど、私はハッピーエンド至上主義者なので……(ごにょごにょ)……。
最後までお付き合い願えたら、と思います。
余談ですが、一部オフィシャルにツッコミを入れてみました。カイが未だに聖騎士団の服着たままで往来を歩いてるのは可笑しいだろ、ということで、ロボがあの恰好であることにカイ自身がツッコミを入れる……というものにしてみました。でも、どうでもいいことだね。うん。