次に目覚めたとき、そこは地獄だろうと思っていた。
多くの人を殺した。その人達の遺族に何もしてあげられなかった。誰よりもその償いのために生きなければならないのに死を願った。
弱い心。許されない罪。間違いなく地獄行きだろう。そう思った。
けれど、カイが目を覚ましたとき、そこは地獄ではなかった。いや違う意味でそこには確かに地獄だったかもしれない。死ぬにはまだ早い、決して楽にはさせない。そういう意味で、自分が生きていた事実は地獄の苦しみだった。
ぼんやりとした視界に映ったのは、木製の天井。しばらくそれを眺め続け、カイは自分が生きているという事実を苦々しく味わった。
どうして死んでいない。なぜ自分はしぶとく生きている。
憎しみに近い疑問を抱きながら、カイは意識を失う直前のことを思い出した。自分を模倣した機械人形に体を貫かれたところまで覚えているが、それ以降は覚えていない。その記憶が正しければ、今自分は重症のはずである。心臓を貫かれたわけではなかったが、いくつかの臓器は間違いなく傷つけられているだろう。つまり、大量出血は免れなかった。
それなのに生きていて、尚且つベッドのようなものに寝かしつけられている今の状態は、あの後誰かに助けられたと考えるべきだろう。その事自体は感謝すべきなのかどうかは分からないが。
大分意識が覚醒してきたカイは、とりあえず今の自分の状況を知ろうと体を起こした。だが、太い針で全身を貫かれたような痛みが走り、あえなく再びシーツに沈んだ。傷の全く治っていないヤワな自分の体に顔をしかめながら、カイは傷を確認するように自分の体に触れる。すると、みぞおち辺りから下腹部にかけて包帯が巻かれていることが分かった。背中にも腕にも同様に巻かれていて、まさに満身創痍という状態である。
骨は……折れていない。腱も切れていない。神経の方も大丈夫そうだ。けれど、さっき動いたせいでまた出血し始めている。施された治療は、本当に普通の手当だったらしい。
カイは静かに息を吐き、ささくれ立った意識をなんとか落ち着かせた。
そして下腹部辺りに手を当て、ゆっくりと法力を送り込む。カイが掠れた声で呪文を呟くと、その暖かい力は在り方を変え、細胞一つ一つに作用していった。
痛みが和らぎ、傷が癒えていく。失った血は元に戻らないが、それ以上の出血は抑えられる。しばらく魔法で治療を続け、とりあえず傷口を塞いだ。
魔法で完全に外傷の跡は消え失せる。しかし一度崩れた細胞組織は簡単には戻らない。強引に繋ぎ止めて整えただけなので、少しの衝撃でもまた傷ができる。こればかりは、自分の治癒能力に頼るしかない。
内蔵が痛んだり筋肉が引きつったりはするが、なんとか体を動かせるようになったカイは、慎重に上半身を起こした。まだ少しふらつく頭を押さえ、部屋を見渡す。
そこは特になんの変哲もない普通の部屋だった。バス・トイレもきちんと付いているようだが、ホテルのような装いでもなく、至って簡素なものである。物が極端に少ないことを加味すれば、そこは客室と判断すべきだったが、ふと左の壁を見てみると、ずらりとギターが飾られてあった。デザインや色合い、素材などが微妙に違うそれらは、同じものが二つとしてないようだ。こういう細かいこだわりはコレクターの持つ心理そのもので、どうやらこの部屋が誰かの個室であることが分かる。
しかしそれ以外にこの部屋の主を示す物はなく、何かないかと首を巡らせたカイは、枕許に一つだけ写真立てがあることに気が付いた。
「え――」
そこに写っている複数の人物が誰であるか分かったカイが驚くのとほぼ同時に、部屋のドアが開いた。
「よぉ、気分はどうだ?」
「あなたは……」
そこから軽快に現れた黒ずくめの男に、カイは目を見開いた。飾られていた写真の真ん中に写っていた人物その人だ。
堂々とした体躯のその男は靴の音を響かせながら部屋に入ってくると、ベッド際に立ってこちらを見下ろしてきた。
「もう体は動かして平気なのか?」
「ええ、まあなんとか……」
大人の男の余裕というのか、その男はサングラスの奥で親しみやすく頼もしい笑みを浮かべて聞いてきたので、カイは戸惑いながらも頷いた。だが、すぐに最も聞かなければならないことに思い当たり、カイは表情を消して男を仰ぎ見た。
「なぜ、あなたが私を助けたんですか……ジョニーさん」
名を呼び、カイは男の真意を探ろうと微かに目を細める。
黒のコートに黒のズボン、そのうえ黒の帽子をかぶるという黒ずくめの格好をしたこの長身の男は、レジスタンス組織の中でもトップクラスの実力と影響力を持つジェリーフィッシュ快賊団のリーダー、ジョニーであった。貧しい人の徹底した味方である心優しい義賊だが、その行為の多くは犯罪であるため、カイとは対立関係にある。だが、犯罪者だという事実はあるものの、カイはこの空賊達を憎むことはできなかった。彼らは、カイが何よりやりたかった人々への救済を代わりにやってくれている。その志しも誇り高く、とても伸び伸びとしている。法の不自由さや人の醜い争いにうんざりしていたカイにとって、まさに彼らは憧れの対象だった。
内心ではそうした感情を抱いているものの、カイは彼らと対峙する度に捕まえると口癖のように言ってきた。そのため、ジョニーはカイの事を警戒していたはずである。互いの心の内は何にせよ、二人は立場上で敵対関係だった。放っておけば死にそうな都合の悪い相手をわざわざ助ける必要もなかったはずである。
カイの疑わしげな鋭い視線に、ジョニーは軽く肩をすくめて苦笑を零した。
「たまたま立ち寄ったところでアンタが倒れて死にかけてたから助けた。それだけぜ、ボーイ?」
「でも、わざわざここまでして助ける必要もなかった。私が何者か分かっていないはずはないでしょう」
軽い調子だが慈悲に溢れたその言葉を、カイは冷たい物言いで突き放した。今はそういう明るい態度が妙に腹立たしく、かけらも信用する気にはなれない。下手に信じて、後で馬鹿をみるのはもう沢山だ。
視線を逸らし、眉間に皺を寄せて遠くを見つめるカイに、ジョニーは少し困ったような笑みを浮かべて帽子の縁を人差し指で押し上げた。
「なんだ、この状況で逮捕するとか言い出すんじゃないだろうなぁ?」
おどけて聞いてくるジョニーに一瞥もくれず、カイは遠くをぼんやり見つめながら薄く笑みを浮かべる。自虐的な、ただそれだけの笑いだった。
「別に。あなた達は結果的に人の役に立ってるんだからわざわざ捕まえる必要もないでしょう」
彼らの活躍を待ち望む人達がいるのは、揺るぎない事実。本当の意味で必要とされているのは彼らなのだから。
自分との違いを改めて思い知らされ、カイは心に伸し掛かる重みに目を伏せた。
常日頃から法、法と口喧しく言っていたカイが突然今までの発言を覆すようなことを言ったことが余程驚きだったのか、ジョニーはサングラスの奥で目を丸くした。そのまま何か言おうと口を開くが、一度躊躇ったように口を閉じ、しばらくしてから微かに眉を寄せてまた口を開いた。
「……何か、あったか?」
「何もない」
「いや、何もないってことはないだろう」
愛想もないカイの返答に、逆に何かあると確信したらしいジョニーは強い口調で追求をしてきた。だが、カイにはもう何かを考える気力は残っていなかった。すべてのことが、どうでもよく感じていた。
何もない遠方を凝視したまま、カイは口を閉ざした。その様子に、ジョニーは少し眉を釣り上げる。
「何があった。いつものアンタらしくないじゃねぇかぁ、おい?」
「そんなこと知りませんよ。あなたが気にすることでもないでしょう」
執拗な追求に、カイはうんざりする。ああ、できることなら耳を塞いでしまいたい。目は簡単に閉じられても耳はそうではないから、すべての音を遮断するのは難しい。
「知らないって、お前さんなぁ。いい加減にし……」
「何もないって言ってるだろ! 私のことは放っておいてくれッ!!」
僅かに苛立ったジョニーの声に、カイはとうとう悲鳴をあげた。小刻みに震える両手で耳を塞ぎ、シーツに額がつくほど身を曲げて頭を抱える。もう自分の馬鹿さ加減を吐露するのはうんざりだ。これ以上、追い詰めてほしくなんかない。
突然大声で叫んだカイに驚いたのか呆れたのかは分からないが、ジョニーは口を閉ざして沈黙した。うるさく何か言われるのもひどい苦痛だが、不自然な沈黙もまた重苦しく、カイは静かになったことへの安堵と見放されたであろう事実への絶望に、苦い痛みを味わった。
「別に俺はアンタの事情にどうこう口出す気は全くないんだが……話して楽になるってことはあるんじゃないかと思ってな」
しばらくの沈黙のあと、ジョニーは不意にそう呟いた。耳を塞いでいたカイにもそれはかろうじて聞こえたが、何も反応は返さなかった。
だって、話しても楽にんかならない。自分が必要ないものだという事実はなんら変わらない。結局自分は代わりとしてしか見てもらえないのだ。事実を話すことは苦痛でしかなかった。
ジョニーが早く諦めてどこかへ行ってはくれまいかと願っていたカイの頭に、ふと何かが触れた。髪が緩やかに掻き乱されるその感触に、それがジョニーの手だと分かったが、ソルの手の感触と錯覚しそうになり、カイは反射的にびくっと肩を震わせた。その過剰な反応に、ジョニーはそれ以上触れることなく、手を離す。
「お前を囲んでたロボット、数は多かったが大した強さでもなかった。……なんで抵抗しなかったんだ?」
詰問というよりはただの世間話でもするような穏やかな口調で聞かれ、カイは耳を塞いでいた手をそろそろと下ろした。完全に手を下げることはしなかったが、カイは真っ白のシーツを見つめながら口を開いた。
「死にたかった……」
唇をほとんど動かさず、カイは溜め息とともに言葉を零した。片膝をついてこちらに目線を合わせていたジョニーが、微かに眉をひそめる気配がする。だが、カイはそちらを見ることもなく、自嘲の笑みを浮かべた。
「どうして助けたんですか。こんなくだらない人間、生きる価値もないのに」
折角楽になれると思ったのに、引き戻されて。全くいい迷惑だ。
思わずカイがクッと笑いを漏らすと、突然大きな手に顎を掴まれ、無理矢理顔をジョニーの方に向けさせられた。否応なしに視線が絡んだカイは、いつもならば余裕を感じさせるその目がサングラスの奥で怒りを含んでいることに気付き、戸惑って視線をさ迷わせた。
「簡単に死ぬとか口にするな。不本意で死んだ人達に失礼だ」
激情を押し殺したような低く真剣な呟きに、カイは目を見開いた。
平和を願って戦い、そのまま戦場の土へと還った騎士達。救助が間に合わずに死んでいった街の人達。多くの人達が不本意なまま死んだ。自ら死にたいと思うのは、なんて贅沢なことなのだろう。生きなくてはならない。どうあっても生きなくてはならない。死ぬことは許されない。
けれど――、
「……おい?」
生きていくのも苦しくて。
「おい、どうした……」
苦しくて苦しくてつらい。
一体どうすればいい? この、身を切るような痛みを。
カイはぼやけた感覚に埋もれながら、涙を流していた。泣きたかったわけではないけれど、涙はとめどなく溢れた。今まで泣けなかった分がすべて押し寄せてきたように、止まらなかった。
それを見て驚いたのは、もちろん隣にいるジョニーだった。女の子相手なら何か良い対処法が思い付いただろうが、男に対する慰めの言葉は咄嗟に出てこなかったようだ。瞬きもせずに大きな青い目から涙を零すカイに、ジョニーは気まずげに帽子を直しながら、思ったことを言った。
「……悪い。そういうことはお前さんが一番分かってることだったな」
それは理解を示すような言葉だった。しかしカイは力なく首を横に振った。ジョニーがいったことは正論なのだ。それに間違いはない。
カイは静かに目に閉じ、涙を収めた。これ以上感情を露にしてもジョニーを困らせるだけだ。こんな状態ではいつまでも問題は解決しない。
涙をぬぐい、カイが意志を宿した目でジョニーを見ると、男は少し安堵したように息を吐いた。
「……くだらない人間だと、アンタはさっき言ったが……本当にくだらないかどうかは他人の評価も含めるべきじゃないか?」
ジョニーの不意な発言に、カイは目をぱちくりと瞬かせる。意図を分かりかねて続きの言葉を大人しく待っていると、ジョニーは眩しいほどの爽やかな笑みを浮かべてみせた。
「俺としてはまあ、世の中に一人くらいお前さんほど馬鹿正直でナチュラルな人間がいてもいいと思うんだがなぁ」
ジョニーはサングラスの奥で穏やかな目を作る。
気を使っているとかおだてているとかそういうわけではなく、本心で語っているのが分かり、カイも涙の後を残した頬を緩めて静かに微笑んだ。
ありがとう。そう言ってくれて、本当にありがとう。あなたの言葉がとても、胸に染みる。
カイはその感謝の気持ちを口には出さなかったが、それよりも雄弁に語る瞳を柔らかい笑みにのせてジョニーに向けた。それに気付いて照れ臭そうに帽子を直すジョニーを、カイはくすっと笑って見つめる。
「口うるさい警察を復活させてしまっていいんですか?」
「なーに、たまには追いかけられるのもいいもんさ」
大仰に肩を竦めて、ジョニーは軽く冗談を受け流した。そのやり取りに、カイはもう一度微笑を零す。涙はいつの間にか跡形もなくすっかり消え失せていた。
自分でも現金なものだとは思う。生きてていいと言ってもらえたら、少し胸に掛かる重圧から解放された。絶対に生きろと言われたら負担にしかならないけれど、生きててほしいと言われたら重苦しく受け止めなくて済んだ。言葉とはつくづく不思議なものだと思う。
大分頭がまともに働くようになってきたカイが現状を整理し始めようとしたとき、不意にジョニーが真顔になった。
「……改めて聞くが、一体何があったんだ? いや、嫌なら答えなくて構わないんだ。単に俺が気になってるだけだしな」
言い訳はしつつもストレートに好奇心を表すジョニーを、カイは静かに見つめた。今度は闇雲に怒鳴りはせず、しばらく思案する。
別に話すこと自体はもう前ほどの苦痛を味わうものでもなくなっているだろう。
しかし自分が男との恋愛で悩んでいますと言ったら、ジョニーは恐らく嫌な顔をするだろうと思った。無類の女好きの彼に、分かれと言ってもおそらく分かるまい。
カイは悩んだ末、適当に話を濁すことにした。
「話しても構いませんが……とても個人的なことで、果たして理解していただけるかどうか――」
「それでも構わないさ。どうせソルとのことだろう?」
「……え」
いきなりずばりのことを言われ、カイは硬直した。何も言っていないうちにソルの名が出てくるなど、全く予想していなかった。
困惑するカイに対して、ジョニーは至って平静なままで更に言葉を重ねた。
「あの男のことだ。アンタを差し置いて、他の女にふらふら行っちまったりしたんじゃないか?」
「えぇ…っ!? なんで知って――あ。」
「やっぱりな」
赤くなったり青くなったりですっかり混乱してしまったカイに、ジョニーは得意げに笑う。そんな陽気なジョニーに、カイは困惑の眼差しを向けた。
「あの、えっと、どうしてそのことを……?」
「アンタらのことを注意深く見てれば誰だって分かることさ。お前さん達、そういう仲なんだろう?」
「えっとまあ、そうですけれど……」
何もかもお見通しらしいジョニーに、カイは事実を認めた。しかしジョニーがある程度自分達の関係を知っていると分かって、カイは申し訳ない思いで表情を曇らせた。それに気付いたジョニーが「ん?」と視線で尋ねてきたので、カイは少し迷ってから躊躇いがちに口を開く。
「気持ち悪いとか……思ったりしないんですか。私達のこと……」
「いや、別にそこまで思わねぇなぁ。ノーマルの俺には理解できないもんもあるが……どんな種類であれ好きになるってぇのはいいことだろう?」
笑いながら偏見のない意見を言うジョニー。人の嗜好などそれぞれだとあっさりいう彼は、流石に空賊の長だけあって懐が広い。
しかし、カイは眉根を寄せて俯いた。
「人を好きになることは……いいことばかりではありませんよ」
「そりゃまあ、いいことばかりとは言えねぇな。でも楽しいときもあるだろう?」
寂しく笑うカイを、ジョニーは明るく励ます。その前向きな考えに思わず頬を緩めながらも、カイは苦痛に耐えるように目を伏せた。
「……正直、もう無理です。アイツのことを考えても、楽しくなんかない。悲しい、だけです……」
ソルのことを考えると暖かくなったはずのこの胸は、もう痛みしか感じなくなっていた。
怖い。自分を見ていたと思っていたその目は、一体どこを見ていたのだろう?
考えるだけで怖い。自分が自分として見てもらえていなかった。誰かの身代わりにあたる何人かのうちの一人。代わりはいくらでも、掃いて捨てるほどいる。いずれ飽きて捨てられるであろう自分。
恐ろしくて悲しくて、苦しい。自分はこんなにも彼を刻み込まれているのに、彼はただ忘れていくだけ。
必死の努力も無駄なのだろうか? 人の心を動かすのはこんなにも難しい……。
「浮気くらいで、そんなに深刻にならなくてもいいんじゃないか? アイツにとっちゃ、他のレディとはその場限りだろうし」
完全に表情を消して無表情と化したカイに、ジョニーは軽い調子で言う。それをカイは薄く笑って受け止めから、不意に眉根を寄せてきゅっと唇を噛み締めた。
「浮気は随分前からありましたし、もうそれ自体は気にするのも馬鹿馬鹿しくて……とっくに諦めてます。でも――」
息継ぎをするように一度言葉を切り、カイは窓から差し込む眩い光から目を逸らした。今の自分に太陽の光は、痛い。
「でも、ソルは……私を誰かの代わりに抱いていただけだったんです」
自分で事実を告げて。初めて口に出したその真実の重みに、全身を押し潰されそうだった。抵抗などとうに消え失せた体は、それらを全部受け止めて悲鳴をあげる。
血がすべて抜けてしまったような蒼白のカイの細い手が小刻みに震えていることに気付いたジョニーは、真剣な面持ちでカイを見つめた。
「思い過ごしってぇことはないのか?」
「寝ぼけていたとはいえ、違う名前で私を呼んで抱き締めて……。それが、ただの思い過ごしだと?」
「……そうか……」
目を逸らしたままそう言ったカイの横で、ジョニーもまた渋面を作った。しばらく、重苦しい沈黙がその場を支配する。
無関係のジョニーにまでこんな暗い話をしてしまったことに、カイは今更ながら後悔した。でも、この痛みをずっと内側に閉じ込めていられるほど自分は強くもなかったから、本当は聞いてくれて感謝している。
ソルを嫌いになれたら、こんな思いもしなかっただろうに。本人に怒鳴り散らして詰問して、謝らせたりでもできればこんなにも負担にはならなかっただろう。
いつまでも未練たらしく彼を好いているから、自分も苦しくてジョニーにも迷惑を掛けるのだ。いっそ諦めてしまえたら……。
カイはそう思い当たって、静かに決意を固めた。今まで散々迷ったけれど、やはり自分にはこの道しか残されていない。
「もう、ソルのことは忘れます。それですべてが丸く収まる」
「……なんだって?」
突然の宣言に、ジョニーは目を剥いた。その驚きぶりに、カイは口端を僅かに上げて笑みを作る。
もう決めたこと。逃げてるだけだと言われるかもしれないけれど、自分にはするべきことがまだある。
何をするにおいても自分の代わりは、それこそ無数にいるだろう。けれど、だからといって自分が死んだところでそれは解決しない。死ねばすべてが終わってしまうだけだ。
自分は自分らしく生きる。確かに捨て駒かもしれないけれど、自分の納得できるような生き方をすれば、それは本物になるのだ。
だから――、
「私が生きていくうえで、この感情は邪魔なんです」
「ちょっと待て、お前さん。それは――」
カイの言葉に、ジョニーが咄嗟に何か言い掛けた。だがそれは、突然ドアを開けて現れた少女によって遮られた。
「ジョニー! ディズィーが見つかったよ!!」
オレンジ色の服と帽子が特徴的な少女メイは、喜びをめいいっぱい表して、部屋に響き渡るほどの大声で叫んだ。唐突に現れたメイにカイは驚いたが、ジョニーは至極落ち着いてその報告を聞き入れ、メイの方に向き直った。
「どこにいるんだ?」
「ここからかなり離れてる森の中なの。イギリスだってエイプリルが言ってた!」
「分かった。とりあえず無事そうでよかったぜ……」
興奮した様子で話すメイに、ジョニーは安堵の吐息を漏らす。カイには二人の会話がいまいち見えないが、なんとなくわかったことはあった。
「ディズィーさん、行方不明だったのですか?」
「そうなの! あの紅くてケバい女がディズィーを飛空艇から突き落としたりなんかしたから……!」
カイの質問に、メイは噛みつくような勢いで言い募った。何か一悶着あったのか、メイは悔しそうに地団駄を踏む。
しかし随分と穏やかではない話である。ディズィーが半分ギアで羽根が生えていなかったら無事では済まなかっただろう。上空何千メートルの高さで落とされれば、人間など一巻の終わりだ。だがそれよりも、あのディズィーに手を出せる者がいたことが正直驚きだった。カイは以前の事件でディズィーに負けている。戦いたくないと思っている彼女だが、自分のその身が危険に晒されたとき、彼女の意思とは全く別に背中に生えた二枚の羽根が変形して攻撃する。その力はまさに圧倒的で、一度避け損なえば、瀕死は免れない。そのディズィーを攻撃して無事でいるとなると、余程の手練れなのだろう、その紅い女というのは。
しかし……。
「犯罪者でもないのに賞金首に掛けられたり、私の偽物が現れたり、ディズィーさんが突然襲われたり……。一体どういうことなのでしょう、これは。こんなにも奇妙な事件が一度に起こるものでしょうか」
ふと渋面を作って、カイは呟いた。何かこれらに繋がりがあるような気はするが、抜け落ちている穴が多すぎてまだよく分からない。
カイの疑問を聞いていたらしいジョニーも、何やら思案し始める。
「確かに妙なことばかり起こってるな。……アンタを襲ったあのロボットは一体何者だったんだ?」
「終戦管理局の者だと名乗っていました」
「終戦管理局? 聞いたことがあるような気がするな……」
「え!? 知ってるんですか!」
難しい顔で言葉を漏らしたジョニーに、カイは思わず身を乗り出した。けれどジョニーは困ったように笑う。
「いや、流石にパーフェクトの俺でも名前を知ってるだけさ」
「そうですか……」
何か手掛かりが得られるだろうかと思ったが、そう簡単にはいかなかったようだ。
関係があるかどうかは分からないが新しい情報を得ることのできたジョニーは、今度はメイの方へ顔を向けた。
「ところで、メイ。なんでディズィーがそこにいるって分かったんだ?」
もっともな疑問である。ディズィーはジョニーにとって大事なクルーの一人であって危険人物ではないのだから発信機を付けさせているということはありえない。ギアとして位置を特定するにも、彼女がギアの力を使っている時でしか装置は反応しない。そもそもそのような装置を空賊であるジェリーフィッシュ快賊団は持っていないだろう。つまり、行方不明になった彼女を短時間で捜すのはほとんど不可能に近いのである。
ジョニーと同じくカイも疑問の眼差しをメイに向けると、メイは何か思い出したように「あ!」と叫んだ。
「忘れるところだった。なんだかいきなり通信が入ってきて、ディズィーの居場所を教えてくれたの」
大きな目をくりくりさせてにっこり笑って、メイはとんでもない事実を告げる。
カイとジョニーはそれを聞いた途端に、一様にして呆れた顔をした。
「おいおい、メイ! そんな怪しい通信の情報をまさか鵜呑みにしたわけじゃないだろうな? ……全く、アンビリーバブルだぜ」
大袈裟に肩を竦めてから頭を押さえるジョニーに、メイはぷうっと頬を膨らませて馬鹿にされた怒りを表した。
「怪しい通信じゃないもん! 『ソル』って名乗ったし、ちゃんと本人の声だったよ!?」
「――!」
意外な人物の名前に、カイは顔を強張らせた。落ち着いたはずの震えがまた再発して、自分の手がシーツを握りしめたまま小刻みに震えているのが分かる。少し気遣わしげに、ジョニーがこちらへ視線を投げた。
「……本当にそうだったのか? メイ」
「もちろんだよ。ボクがジョニーに嘘つくはずないじゃないか」
カイの方を見ながらも、ジョニーはメイに再度確認を取った。メイが嘘偽りを言うとは全く思えないが、俄かに信じ難い事実だった。
凍り付いたまま動かなくなってしまったカイに、ジョニーは驚かせないように努めて静かに聞いた。
「その通信がソル本人である可能性は……あるのか?」
周りの空気を乱さないくらいの声を発したジョニーに、カイはそろそろと顔を向け、ゆっくりと目を伏せた。冷静に、と自分に言い聞かせながら、カイは落ち着いた口調で言葉を紡ぎ出す。
「……私がアイツを最後に見たのが今朝ですから、可能性はあります。いえ、それどころか十中八九本人だと思われます」
「根拠は?」
「ソル=バッドガイを名乗って得られる得られるメリットが少ない点です。もしも本当にあなた達を担ごうと思うなら、もっと有効な名前を使うでしょう」
「なるほど」
澱みもなく的確に分析するカイに、ジョニーは理解を示して頷いた。それを聞いてから、カイはふと他に気になることがあってメイの方を見る。
「一つお聞きしてよろしいでしょうか? メイさん」
「え? 何、何?」
「その通信、どこから発信されたものでしたか?」
カイの突然の質問に、メイは指を顎に当てて小首を傾げる。大きな瞳を斜め上に動かして考えるメイを、ジョニーは静かに見守っていた。
「え…っと、そのディズィーがいるところだと思うよ? 保護しとくって言ってたから」
「やはりそうですか……。たぶんアイツは私の仕事用の通信メダルを使ったのだと思います」
幾分血の気の引いた顔のまま、カイは息を吐いた。諦めとも落胆ともつかない気持ちが、吐き出した空気の代わりに染み渡っていく。
それでもカイが普通を装うからか、ジョニーも普通に聞いてきた。
「アイツに貸してたのか?」
「いえ、私が忘れていったものを勝手に使ったのでしょう。……それが本当に私の通信メダルか、確かめてみてもいいですか? それぞれ与えられている固有の番号が受信履歴に残っているはずですから」
「ああ、構わないさ。こちらとしても有難いしな」
カイの申し出に、ジョニーは快く承諾してくれた。当然だろう、彼らも不透明な情報の出所を洗う手間が省ける。
そうすることでカイ自身がメリットを得られるかどうかというと……それは分からない。むしろソルと何かしら接触があって自分の精神が不安定になるデメリットの方が大きいだろう。
それでも、自分が愛した男が何をしようとしているのか、知りたかった。これがきっと……最後だから。
「すみませんが、ジョニーさん。肩を貸してくれませんか」
「オーケイ。無理はするなよ」
「はい。ありがとうございます」
慎重に身を起こしたカイは、ジョニーの肩を借りて歩き出した。常の身軽さはないが、全く動けないわけではなかったので、普段より少し遅めの速度で足を運ぶ。
身長差を考慮して身を少し屈めてくれるジョニー。躓かないように注意を促しながら船内の道案内をしてくれるメイ。自分にはこんなにも心優しい友がいる。
だがらもう、大丈夫。私には頼もしい友人達だけで充分だ。
アイツはいらない。
カイの内なる決意は、静かなものだった。







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