カイは鏡の前で襟元を開き、自分の首筋を見つめていた。
「……」
まだ消えていない。
白い肌に残る鬱血の跡に、カイは顔をしかめた。ヒリヒリするような痛みはなくなったが、目に見えて情痕がまだ残っているのは好ましくない事態である。誰かに見られては言い訳の仕様がないが、唯一の救いは聖騎士団の制服をきちんと着込めば隠れるということだった。
この長い詰襟なら、他の団員達に見られる心配はない。
カイは少し長めの金髪を手櫛で梳かし、開いていた襟をきちんと留め、他に服装の乱れがないか確認した。もうあの日から二日が経っているために体は怠くないが、紅い鬱血の跡は首筋に留まらず体中に散らばっているので、迂闊に素肌を晒すことはできない。
それもこれも、すべてアイツのせい。カイは鏡に映った自分の顔を睨付けながら、体に無数の跡を刻み込んだ男を恨んだ。そして同時に、女々しい自分の顔を憎んだ。
こんな顔だから、犯されるのだ。こんな女のような体付きだから、当然のように組み敷かれていたぶられるのだ。弱いから、抗うことも出来ずに蹂躙されるのだ。
脆弱で、容易く屈伏させられる自分が、次期団長? 笑わせる。
カイは洗面台の鏡を殴り付けた。自分を映し出していた像が、無数に走ったきれつに歪んで映る。砕けた鏡の破片で、握った拳は血にまみれた。
しかしカイは手首を伝って袖を染め上げる紅い液体に頓着せず、そのままじゃりじゃりと音を立てて拳を鏡に押し付けた。鋭い破片は柔らかな肌を突き破り、新たな傷を開いて血を溢れさせる。痛みはもちろんあったが、どうせ治癒の魔法を使えば治ってしまうものだ。もっと深く抉っても、傷は跡形もなく消え失せる。
大きな破片を一つ真っ赤に染まった手で握り、カイはそれを自分の顔に近付けた。
この顔が、完治できないくらいにぐちゃぐちゃになったら、誰も自分を犯したりなどしないだろうか? 本当の意味で自分の中身を見てくれるだろうか? こんな女みたいな奴が、と鼻で笑ったりしないだろうか?
カイはその破片の先を自分の頬に押し当てた。しかし血でぬるぬると滑るため、その破片をしっかりと握ることができない。もっと力を込めようと思ってそれを強く握り直すと、手の平に鋭い角が食い込んで沈んでいく。それで余計に噴き出した血がさらに手を滑らせたが、骨まで到達したことでそれ以上食い込むことはなくなった。
醜い顔になれば、きっと誰も自分を性欲処理の相手になんかしない。卑猥な視線を浴びることもない。なぜこの方法に今まで気が付かなかったのだろう。
昔、何人もの男に体を好きにされた。村の安全のために大人達から見捨てられた。顔は綺麗で体付きもまるで女の子のようでありながらも正真正銘の男であったから、妊娠することもなければ傷が付くこともないと、大人達は身勝手な理屈を吐いた。
傷つかないと、なんで言える。十人近い男達に体を次々に貫かれ、時には殴られて血と白濁の液にまみれて、傷ついていないとどうして言える。
聖騎士団に身を置くようになってから、カイは強くなることだけに全力を注いだ。誰にも蹂躙されることのないように、災いを撥ね除けるだけの力を得るために。
それは概ね実を結んだと、カイは今でも思う。幼少の頃のようなことはそれ以来一度もない。多少危ない場面はあったものの、すべて自力で切り抜けた。もちろん自分を狙う人ばかりではないので、他の人達とは仲良くし、それなりの人望も集めた。そうすることで最近は、自分を色眼鏡で見る人が多少いても行動に出るということはなくなった。
なのに、あの男は。
カイは先日自分の体を弄んだ男を思い出し、じりじりと胸を焼き焦がすような痛みと怒りを味わった。
まただ。また、あんな行為を許してしまった。抵抗しきれずに何度も体を貪られた。何もあの頃と変わっていない。
弱いままだ。何も変わっていない。昔と同じ、弱いままだ!
カイは頬に当てていた破片を白い肌にぶつりと突き立てた。血がどろどろと流れ出し、鋭い痛みが走る。
こんな顔は、いらない。女々しいだけで何の役にも立たない顔はいらない。醜くていい。それで誰かになめられるくらいなら、いっそ醜い方がいい。馬鹿にされずにきちんと部隊を統率できれば、死傷者だって減らせる。
こんな上っ面だけの顔なんかいらない。
突き立てたままの破片に力を込め、カイがそれを横一直線に引こうとしたその瞬間――。
「おいッ、何してやがる!」
突然ドアを蹴破るように男が現れ、怒号を発した。そしてそれにカイが驚く間もなく、血に濡れた腕をその男によって引き千切らんばかりの勢いで掴まれた。頬から破片が離れたことで、刺さっていた角が裂けた肉の間から抜け、ピッと血が飛び散った。
その様に余計驚いたらしい男は珍しく瞠目し、次の瞬間には人を射殺しそうなくらい凶悪な眼差しで不機嫌を露にした。
「てめェ、何してやがる」
唸るように詰問した男を、カイは徐に顔を上げて見上げた。
自分より遥かに高い背。骨張った手。首に凹凸を施す喉仏に相応しい低い声。浅黒く焼けた健康的な肌はくっきりと隆起して、堅苦しい聖騎士団の服に身を包んでいても形がはっきり分かる筋肉。無駄なく鍛えられたその体には、意外に整った彫りの深い顔がある。
この男に、カイは先日犯された。当然の如く組み敷かれ、雄を穿たれた。薬を飲まされて無理矢理、理性を引き剥がされた。
カイは何の感慨もなく、男を見つめて薄く笑った。
「虫を叩いたら鏡も一緒に割れてしまった。それだけだ」
騒がせてすまなかったな。そう言い、カイはいつもの微笑を浮かべた。
しかしなぜか、それを見た男の眉間に深く皺が刻まれる。澱みなく口にした言葉は嘘だったが、驚かしてしまったことを本心から謝ったというのに、男の不機嫌は尚更ひどくなったようだった。
「……ほォ? 虫か。なら、この手に握ってるもんは何なのか説明してもらおうか」
口端を上げてその隙間から鋭い八重歯を覗かせ、あくまで軽い口調で言った。同時に皮肉るような仕種で、血の乾きかけている――だが止まることなく新たな血がじわじわと溢れ出ているカイの腕をぶらぶらと振った。
カイはされるがままで、その掴まれた手を振り解こうとはしなかった。それは内心男に対して呆れていたせいもあった。見れば分かるようなことを、この男はなぜわざわざ言わせたいのか。
カイは一つため息をついてから、自分の腕を捕らえる男の大きな手に視線を移した。
「せっかくの白いグローブが血で汚れるから、離せ」
「はぐらかすな」
途端、男の鋭い視線が突き刺さる。しかしカイは気にも止めず、軽く肩を竦める仕種をした。
「はぐらかしてない。事実だ。……お前のグローブは白いから、汚れが目立つ」
「ざけてんじゃねぇ。坊やの方が血で制服汚してんだろ」
眉間の皺は一向に解く気配を見せないまま、男はカイを睨付けてきた。カイは指摘されて初めて制服の汚れに気付き、真っ赤に染まった袖に視線を移す。肘の辺りまで血をたっぷり吸ったそれは肌にぴったり張り付き、もはや胡麻化しの利かない状態になっていた。今日は礼拝の後に会議がある。
多少しくじったかなどと考えていたカイに、男の低く突き刺すような声が不意に降ってきた。
「自殺ごっこでもしてたってか? わりィがここではやめてもらおうか。一応半分は俺の部屋なんだからな。死体と寝るのはごめんだぜ」
「自、殺……?」
男が次いで言ったその言葉に、カイは瞠目した。全く検討外れなことを言われて驚いたが、直ぐ様その意見をカイは笑い飛ばした。
「ははは! そんな馬鹿なことをするわけないだろう」
やろうとしたのは、もっと有意義なこと。百害あって一理無しのこの顔を潰すのが目的であって、死のうなどとは決してしていない。なぜそんな怖い顔で怒るのか。
カイは疑問に思ったが、僅かに怪訝そうな顔でこちらを見つめる男に気付き、青い瞳に理解の色を浮かべた。
この男は、カイがこの顔だからセックスしたのだ。男であるにも関わらずそうしたのは、すべてこの顔のせいだ。だから傷が付くことを嫌って、止めようとするのだ。女に見間違うような顔だからこの男は自分を抱く気になったのだ。
そんなにこの顔が惜しいか。そんなに手近な奴で欲望の処理してしまいたいか。
そんなに一人よがりなセックスがしたいか。
ふざけるな。お前達のいいようにはさせない。
カイは、少し力が緩んでいた男の手を乱暴に振り解いた。一瞬自由になったその手を引き寄せ、カイは顔に目掛けて尖った破片を向けた。
こんな顔など、潰れればいい。外見で侮られるのは、もう沢山だ!
「やめろ、馬鹿ッ!」
初めて耳にする、切羽詰まった男の声。
そして肉の切れる感触。
新たに痛みが産まれた――……わけではない、自分の顔……?
さらに血で濡れた自分の腕の方へ、カイはゆるりと首を向けた。頬に触れる前で止まったその手は一回り大きな手に覆われていた。白いグローブに包まれたその手の甲から、鏡の破片が貫通している。
「…っ…!」
自分の手ではないそれに。
カイは目を見開いた。
包み込むように刃ごと握りしめるその手は、自分ではなかった。
「……ッッ!」
傷つけた、血を流させた、自分のせいで。
傷が。
傷が。
傷が。
血が、紅い。
「うわあぁぁぁ!」
カイは弾かれたようにそれから手を離した。激しく体が震えたために、大きな手に刺さっていた破片が衝撃でカランと抜け落ちる。紅い液体がそこから滴り落ちた。その光景に、カイは頭を殴られたような衝撃を受ける。
止めなくては。早く、血を止めなくては。その強い恐怖心で、カイは流れ出す血を止めようと、男の手を取って傷口を押さえた。しかし冷静な判断を失っていたので魔法による治癒は思い付かず、カイは近くにあったタオルをそこへ当てる。
今まで散々自分自身を傷つけていたカイが、男の怪我を見た途端に取り乱したのを、男は呆れたような顔で見ていた。
「ったく、自分のときは平気な顔してやがるくせに。だからガキだってんだ」
叱り付けるような、だがどこか苦笑を含んだ声音で言い、男は怪我をしていない方の手でカイの頬に触れてきた。切れた肌の合間から流れる血を、男の無骨な指が拭っていく。グローブが汚れると、カイはもう喚かなかった。ただ惚けた顔で、男を見つめる。
傷口に触れられているはずなのに、余計な痛みは感じなかった。それは、男が随分優しい手付きで触れているのだということを示す。まるで雛鳥か何かに手を伸ばしているようだった。
「じっとしてろ。今、治してやる」
男は低くそう囁くと、カイの頬に法力を送り込んできた。その、温かい力と傷が再生のために疼く感触に、カイは突然悲鳴に近い声をあげた。
「やめろッ! 治すな!!」
カイは途端に顔色を失い、男の手を払いのけた。だが、こちらの拒絶よりも遥かに強い力で、男はカイの両腕を掴んできた。
「おい、暴れるな」
「離せッ、離してくれ! こんな顔、治らなくていいんだ! 女々しいだけのこんな顔なんて……!」
男の手から逃れようと必死で身を捩りながら、カイは先程までの平静さを完全に失った、荒れた叫びをあげた。やっと自分を苛む呪縛から少しでも逃れられると思ったのに、また枷を付けられるのかと思うと、もはやそれは恐怖以外の何者でもない。
びくともしない男の手がまるで灼熱であるかのように、カイは怯えの走った表情で少しでも離れようと足掻いた。
「嫌だっ、嫌――」
「甘ったれてんじゃねぇッ!」
突然、男は一喝した。空気を震わすその怒号に、カイはびくりと体を跳ねさせて声を発するのをやめる。
そして降り下りた、不自然なまでの静寂。重い沈黙のなかで、カイはおずおずと顔を上げて男と視線を合わせた。男はカイの腕をしっかりと掴んだまま、ひどく真剣な表情でこちらを見ていた。ヘッドギアと前髪との合間から覗く紅い瞳が、鋭くカイを射抜く。
「顔が気に入らねぇからって、傷つけて目ェ逸らすってのか。……弱ェな」
「……!」
男の言葉に、カイは体を強張らせた。何もかも見抜いたようなその物言いに、カイは発する言葉を持たぬまま唇を震わせる。いつも圧倒的な力を見せ付けてきたこの男に、「弱い」と嘲笑われるのは何よりカイの精神を傷つけた。
この男は、入団したときから圧倒的だった。重い大剣を軽々振り回し、桁違いの法力を操る。その外見とは裏腹にどんな局面でも機敏に動き、その並外れた決断力を十二分に活かす。ひけらかすことはなくとも、経験と知識が豊富な彼に、周りにいる誰もが引き寄せられるのはもはや否定しえない事実だった。
男は、『希望』になれる要素を初めからすべて持っていた。努力し、時には犠牲を払って様々な強さを得てきたカイには、この男の完全さがどれほど妬ましかったことか。いっそこの男が次期団長になってしまえばいいのにと考えたのは一度や二度ではない。だが、この男は自分の好き勝手にしか動かない。人々を守れることができる力を持っていても、それはすべてギアを屠る力に変えられ、よほどのことでもない限り他人を顧みない。
『希望』足りえる力を持っているのはこの男であって、自分ではなかった。みんなを救いたいのに、それだけの力が自分にはない。
血が滲むほどきつく唇を噛み、カイはソルを睨付けた。
「お前に何が分かる。初めから全部持ってるお前に、何が分かる!」
私が死に物狂いで手に入れてきたものを、お前はすべて持っているではないか。
カイは男の手を振り解こうと、掴まれている手に力を込めた。だが、力の差は歴然で、男の手は揺らぎもしない。
弱い。自分は、弱い。
「……ハナっから全部持ってる奴なんかいねぇ」
不意に、男は呟いた。その重みのある言葉に、カイは目を見張る。男は片手を血濡れにしたままで、同じく紅く染まったカイの頬を両手で包み込んだ。
否応なしに視線が絡み合い、カイは目を逸らすことができなくなった。紅い瞳は、魔の力でも秘めているかのようにカイをそのまま縫い止めて放さなかった。
「それともてめぇはそうやって言い訳して、勝負する前からしっぽ巻いて逃げんのか?」
からかう口調で男が言ったその言葉は、ひどく真剣なものだった。こちらが怯んでしまいそうなくらいに、目が鋭く問い掛ける。
カイは圧倒的な強者に詰問され、僅かにしり込みした。この男より自分が弱いことは事実。どう足掻いても勝てやしないだろう。
だが何もしないうちに逃げ出すなど、できない。黙って相手に平伏でもしようものなら、自分は自分自身を許せないだろう。そして、この男に軽蔑されることだけはしたくない。誰よりも認めてもらいたいこの男の前で、みっともない真似ができようはずもない。
一瞬体を支配した怯えを消し去り、カイは強さを帯びた濃い青色の目を、男に向けた。
「誰が逃げるものか! たとえ力で劣ろうとも、志で負けるつもりはないッ!」
「……上等だ」
男は、カイの叫びに満足げな笑みを浮かべた。鋭さよりも温かさと力強さを感じるその表情にカイは僅かながら戸惑ったが、男はカイの頬を包み込んだまま、構わず続けた。
「なら、最後まで踏ん張れよ。いいもんも悪いもんも全部抱えたまま、耐えてみせろ。それが本当の強さってものじゃねぇのか」
「ソ…」
息が混じり合う近さで見つめ合い、カイは男の名を呼ぼうと唇を動かした。だが、それは発せられることなく、優しく触れた唇に封じられた。
「――!」
男の信じられない行動に、カイは目を剥いた。一瞬で頭の中が真っ白になり、思わず呆然とその口付けを受けたまま動けなくなってしまった。
二日前の出来事は、カイが「覚えていない」ということで収まったはずだった。
夜中に外出したいがためにカイを足止めしようと催淫剤を飲ましたこの男が数時間後に帰ってきて、薬の効力でまともな状態ではなかったカイを犯したことを、カイは覚えていないことにして知らぬ振りをした。何年ぶりもの男との交わりに、カイの体はガタガタだったが、それを理由にして聖騎士団から追い出しても意味はなかった。むしろこの厳しい戦況でこの男の戦力を失うのは惜しい。
――いや、それは言い訳だろうか。この男の強さに魅せられのは自分も例外ではなかった。
ただ強いだけでなく、精神的な強靱さをも合わせ持っていることで裏打ちされた真の圧倒。何にも捕らわれずに自分の思うままに振舞う姿は羨ましくもあった。
誰かの機嫌を取ることも、指図を受けることもない。鎖に繋がれることなく、自分の足や自分の判断で進んでいける己への自信。どれもがカイには羨ましかった。
この果てない聖戦がある限り自分に自由などありはしないけれど、せめて自分が認めた人が何物にも捕らわれずに歩く姿を見ていたい。だから、カイは忘れたふりをしてあの行為をなかったことにしたのに……。
なぜキスなんかするのだろう?
柔らかく唇を塞がれたまま、カイは呆然と間近にある彫りの深い顔を見つめた。
いつもならヘッドギアの影に隠れているその紅い双眸が僅かに細められたかと思うと、突然男はそのまま唇を強く押し当て、カイの唇の隙間に舌を割り込ませてきた。ぬるりとしたその感触にカイは肩をびくりと震わせ、反射的に逃げようと身を退いたが、男に腰を抱き寄せられて身動きが取れなくなってしまった。
「ん、ぅ……っ!」
器用に動く男の舌が、カイの小さく縮こまった舌を搦め取り、淫らな音を立てて強く吸ってきたので、カイはその生々しい感触に思わず声を漏らした。無遠慮で容赦のないその口付けから逃れようと顔を背けても、大きく骨張った手に顎を掴まれて引き戻される。今度は両腕で押し退けようと突っ張ってみるが、男にとってはほとんど障害にならないらしく、そのままきつく抱きしめられ、まだ成長途中で背の伸び切っていなかったカイは男の大きな腕の中にすっぽり収まってしまった。
「……ん…ぅ、あ」
完全に逃げる術を失って困惑するカイは、血の匂いが鼻につくなかで、思わず引き摺り込まれそうになる舌と口腔での淫らな愛撫に酔い始めた。暖かな腕に全身を包まれ、開かされた口では分厚い舌がまさぐるように歯列から歯茎、舌の裏を刺激して脳を蕩けさせる。同時にゆっくりと体に染み渡る法力は傷口を塞いでいった。それはカイの体の芯をゆるゆると揺さぶり、背筋を這い上がる緩いさざ波を生み出して、血の気の失せていたカイの頬を上気させる。言い様のない快楽に酔わされて力が抜け始めたカイは、突っ張っていたはずの手で男のマントをくっと掴んだ。
覚えのあるその感覚は、二重の意味でカイの意識をじわじわと犯していった。あの夜、男に何度も貫かれたとき、カイは混濁した意識のなかで自分の身が嫌悪や不快以外のものを感じ取ったことを、朧げながら思い出し始めていた。
男はなぜかよくキスをしてきた。ただ欲望のままに突っ込んでくるのではなく、朦朧としているカイに優しい愛撫を施し、快感に酔わせてくれていた。繋がった後にも、体重を掛けすぎないように気遣いながら首筋や胸、果ては指先にまで無数のキスを降らせてきた。それが、今まで味わった蹂躙の感覚とはまるで違ったため、カイは男の行動に戸惑った覚えがあった。
今でも、そうだ。傷を治すための法力を使っているにしろ、ここまで濃厚な口付けをする理由がどこにあるだろう。息継ぎの合間に混じり合う吐息は熱く、飲み切れずに溢れた唾液は顎を伝って滴り、舌は絡み合ったまま離れない。こちらの抵抗を封じるにしても、これほどの激しさは必要ない。
なのに、紅い瞳を携えたこの男はこの行為を楽しむように、カイの吐息まで貪って唇を重ねてくる。そしてそれを、自分は心地好く感じている。あれほど毛嫌いしていたはずの行為なのに……。
「っは! ぁ…ふ」
カイの頬と腕の傷が粗方消えた頃、やっと唇を解放されたので、カイは大きく息を吸い込んで足りない酸素を取り込んだ。しかしこんな激しいキスなど全く知らなかったカイは、強い快楽の余韻から簡単に抜け出せず、火照って弛緩した体は男の胸に寄りかかった。それを当然のように抱き寄せて体を支えたその男は、蜂蜜色の髪に顔を埋めて微かに笑った。
「坊や、そんなに気持ち良かったか?」
「……!」
からかうようなその口調に、カイは途端に朱をのぼらせた。慌てて身を離そうと腕を突っ張ると、男は予想に反してすんなりと腕を解いてカイを解放した。心臓に悪い密着状態からは逃れられたものの、一体どう反応していいのか分からず、カイは眉を情けなく八の字にしながら口元をごしごしと拭った。それを見た男は、呆れたような顔をする。
「なんだ、その態度。失礼なんじゃねぇか?」
「し、失礼はお前だ! いきなり何するんだッ」
噛みつくようにカイが叫ぶと、男は軽く見下すような視線で薄く笑った。
「ディープキス。上手かっただろ?」
「そ、そういう問題じゃないッ!」
大人の余裕で言い放つ男を、カイは怒りと羞恥で睨付ける。慌てている自分の方が滑稽な気がして、カイはどこか胸が痛むのを感じたが、それを表に出すことはもっと格好悪い気がして如何にも子供のような怒りをぶつけた。
「いつものように私がすることなんて無視してればよかったんだ。なのになんで……!」
「お前はこれから必要だ。聖騎士団にとって」
やけになって叫んだカイに降り注いだ、いやに冷たく無気質な声。
事務的に事実を述べたその男を、カイは呆然と見つめた。一瞬、何を言われたのか分からなかった。いや、理解したくなかっただけなのかもしれない。
思考を停止させる衝撃。当たり前のように言い放たれた言葉。表情のない男の顔。
自分が何に対してショックを受けたのかカイは理解し得なかったが、唇は無意識に言葉を紡いでいた。
「私が……次期、団長候補だから……?」
「……そうだな」
男は無表情のまま軽く顎を引いて頷いた。それを見て、カイは分からないくらいに少しだけ眉をひそめた。
なんだ、結局お前もか。
ひどく空しくなった胸中で、カイは呟いていた。最初に衝撃、次に決定打。ようやく分かった、この男の真意。そして改めて思い知らされた自分の孤独。
なんだ、やっぱり自分は駒でしかないのか。ギアを排除し、人間が生き残るための戦いを勝ち抜くための戦士。そこで必要とされるのは個人ではなく能力だけ。
そんなことは知っている。人間兵器だなんだと陰口を叩かれていることも、承知の上だ。それでも多くの人に生きて欲しい。その生をまっとうして欲しい。そしてできることなら、笑って生きていてほしい。
だから罵られることも利用されることも、苦痛ではない。より多くの人に幸せな未来を守れるのなら耐えられる。このちっぽけな命で何かできるのなら、喜んで役に立とう。
……でも。
誰か一人くらいには本当の自分を見てほしい。そう願うことは、贅沢だろうか。
「……怪我、治してくれてありがとう」
何か形をなそうとしていた思いがゆっくりと崩れていくのを感じながら、カイは無表情に微笑を張り付けて礼を述べた。そして徐に男の手を取り、カイは法力を注ぎ込んで傷を癒す。既に出血の止まっていたそこは、見る間に元の健康的な肌へを取り戻した。
しかし、白いグローブや肌はは紅く血で染まったままだったので、カイは先程止血に使ったタオルの綺麗な面で拭こうとした。が――、
「ちょ……!?」
「いいから貸せ。坊やの方が汚れてる」
そのタオルをいきなり取り上げられ、カイは困惑する。男は変わらず無表情のままではあるものの、先程口付けたときのようにあくまでも優しい手付きで、カイの頬に付いている血をタオルで拭った。冷ややかとさえ感じた紅い瞳はヘッドギアの奥で穏やかな色を放っている。
その態度に、カイはさらに目の前の男の真意が分からなくなった。
優しくして、突き放して……その繰り返しばかり。なぜこの男は相反した行動ばかり取るのだろうか? 気に入らないけれど仕方なく構っているというには、穏やかすぎる瞳。でも、本当にほしい言葉は決してくれない唇。二日前に自分の勝手で組み敷いてきた腕は、なぜか突然柔らかく体を抱きしめてきた。
分からない。この男の態度をどう捉えるべきなのだろう。
自分はこの男を信じても……良いのだろうか?
カイの頬を拭い終え、身を離そうとした男に、カイは疑問を口にしようとした。しかし、そこで第三者がドアを叩いた。
「大隊長カイ=キスク君、礼拝に遅れるとは何事だね」
「……スティング大隊長!?」
二人の様子に頓着することもなく割って入ってきた男は、カイと同じく大隊長のスティングだった。ドアをノックはしたものの、もともと開いていたらしい入り口から堂々と現れたスティングは、どこか皮肉げにつり上げたその口元に冷笑を浮かべてカイと男を見る。
「あなたもまた無断欠席ですか、ソル=バッドガイ」
「……」
如何にも鬱陶しそうに横目で見るスティングの揶揄に、男は何も答えなかった。日頃から無口で有名なこの男から言葉が返ってくるとは最初から期待していなかったらしいスティングは、そのままカイの方に視線を投げてきた。
「で、一体何をしているんだね。君は」
「え……」
一瞬聞かれた意味が分からず、カイは目を瞬かせた。そこから垣間見える幼い表情に、スティングは目を細めて口元を歪める。
「その血塗れの姿は何かと聞いているんだよ」
「……あ」
何を示唆されていたのかやっと理解し、カイは自分の腕に視線を移した。自分の頬は目の前の男が拭ってくれたので綺麗になってはいたが、腕の方は制服にまで血が染み込んでいるために誤魔化しようがない。傷は消えているが、その夥しい血で見るに耐えない色に染まっている袖についてどう言い逃れをするか、カイは悩んだ。
しかし咄嗟なことで良い案も思いつかないまま、カイはスティングの強い睨みに押されて重たい口を開いた。
「あの、これは……」
「俺が手を切った」
カイの言葉に重ねるように降ってきた男の声は、いやにはっきりとしていた。驚いてカイがそちらに視線を移すと、男はいつの間にかこちらに背を向けて立っている。肩からマントを流すその広い背はまるでカイをスティングの視線から隠すようにしていたが、男はカイに方には何も声を掛けず、スティングに見えるように自分の手を持ち上げてみせた。
「腹立って鏡殴ったら、怪我しちまってな。それをこの坊やがぶつぶつ言いながら治してくれてたってだけだ」
「……!」
さらりと嘘をついた男に、カイは瞠目した。本当は鏡を割ったのもそれで怪我をしたのもカイの方であるのに、男は敢えて自分がやったのだと言い張ったのだ。
思わず、一体何を考えているんだ!と叫びそうになった瞬間、スティングの冷ややかな声が響いた。
「全く、貴様という輩は……。お前は今日一日、そこで謹慎だ。せいぜいその軽い頭を冷やしていろ」
「……な!?」
突然処罰を与えたスティングに、カイは驚きの声をあげた。しかし言い渡された当の本人はすでに予想していたのか、何の躊躇いもなく「ああ」と頷く。
まさかこの男は、最初からこういう風に目の敵にされることを分かっていてわざわざ自分を庇ったのだろうか。
スティングはカイに対してもあまり好感的ではない。何か詰ることのできる要素を見つけると、喜々として嫌味を言い放つ輩である。あのまま先程の出来事を正直に話せば、危険人物だとか大隊長として不適任者だとか言われ、大げさに尾鰭を付けながら噂にされていただろう。
それを避けるために、わざと代わりに罪を被った?
庇うかのように立つ目の前の男を、カイは静かに見つめた。しかしその背中は何も語らず、カイの心を揺らがせるだけだった。
「カイ=キスク君。君は早く礼拝に行きたまえ。上に立つ者がそれでは示しがつかんだろう」
苛立ちを隠しもせずに発せられたスティングの言葉に、カイはハッと意識をそちらに向けた。言い方はひどく癇に障るねっとりとした口調だったが、言っていることは正論である。逆らいようがなかった。
だが、自分を庇って罪を被った男に対して心苦しく、カイはしばし迷った。ここで真実を口にすることは不利益しか被らないが、所詮は自分のしでかしたことなのだ。いっそ事実を話した方が、男もいらぬ濡れ衣を被らずに済む。自分としてもそんな不誠実を抱えるのは苦しい。例えそれほど大したことでなくても、仮にも自分の部下にあたる男に罪を着せてのうのうと一日過ごそうというのは自分の意志に反する。
表情を引き締めたカイは、本当のことを口にしようと男の背の影から出ようと足を踏み出した。だが、気配もなく伸びてきた太い腕に肩を押さえられた。
「馬鹿なこと考えてんじゃねぇ。黙って言うこと聞いとけ」
「! でも……っ」
小声で囁かれた言葉に、カイは顔を険しくする。その様子に、男は小さく舌打ちをした。
「最後まで踏ん張るんだろ。なら、こんなとこで躓くな」
「ソル……」
厳しい面持ちで、男は告げる。最後に立っていなければ意味がないのだと、時には不本意であっても目を瞑らなくてはならないのだと、こちらを射抜いた紅い双眸は語っていた。
カイはそれに呆然と男の名を呟き、次の瞬間には蒼い瞳に強い光を宿して表情を引き締める。
わかった、お前を信じよう。
カイはソルの手をやんわりと肩から外し、前に進み出た。
「すみません、失礼しました。スティング大隊長、早急に礼拝堂へ向かいましょう」
「君のせいで私まですっかり遅刻だがね。説明は君の口からしてもらうよ」
「はい、承知しました」
スティングのもとまで歩み寄り、カイは低い物腰で傲慢な言葉に対応する。授けられた地位こそ同等であるものの、貴族出身でカイよりも遙かに年長者のスティングは、カイに対して部下と同じような言葉遣いしかしないが、それを今更どうこう言っても仕方がない。
先に廊下へ出たスティングの後について出ようとしたカイは――一瞬だけ、ソルを見た。
その視線に気付き、ソルは口端を上げて不敵な笑みを浮かべてみせた。





「全く、あんな素行の悪い部下をよくも野放しにしていられるものだ」
「申し訳ございません」
礼拝堂に向かう廊下で、まだ文句を言い続けるスティングにカイは謝罪を述べる。しかし表面上は丁寧でも心は全くこもっていなかった。
「部下が部下なら、上司も上司。大隊長が聞いて呆れる。遅刻とはね」
「お詫びのしようもございません」
足早に靴音を響かせるスティングは、飽きたらずに尚も吐き捨てるように言う。
それを内心辟易しながらカイが頭を下げた――その瞬間、
「なに、詫びなどいらんよ」
唐突にスティングの口調が変わった。ハイエナが獲物を喰い漁るかのような、歓喜と愉悦に満ちたその雰囲気にガラリと変わり、カイの全身を本能的な嫌悪が駆けめぐった。
しかしその感覚は何かを警戒するには一歩足らず、足下から突き抜けるように走った衝撃にカイは成す術なく体を吹き飛ばされた。
「――ッ!?」
紙屑のように空中を舞ったカイは、二、三メートル離れた場所に弧を描いて落下し、全身を殴打した。床に顔を押し付けたまま、カイは悲鳴をあげる間もなく、意識が薄らぎ始めるのを感じた。
(魔法……陣……?)
淡く光る床に初めて気付き、カイはスティングが何故自分の様子を見に来て、尚かつ礼拝堂までの道のりを一緒に歩いたのかを理解した。
罠か……!
何かとスティングにとって邪魔な自分をはめるためだったのだと今更ながら気付いたカイは、床に爪を立てて抗いながらもそのまま気を失ってしまった。体を強かに打った痛みよりも何よりもカイを気絶させた要因は、意識に波動を送る特殊魔法陣だった。魔法陣は効果を発揮させない限り、微弱な法力しか発していないので、カイは見過ごしてしまっていたのだ。


「詫びの代わりに、君には二度とここへ戻れぬよう体になってもらう」
倒れたカイの頭を掴み上げながら、スティングは下卑た笑いを浮かべた。





















「――早く済ませちまおうぜ」
「つっても勿体ねぇじゃんよォ」
意識が覚醒し始めたカイの耳に、複数の男の声が聞こえた。反響するその声で、自分がいる部屋がそれほど広くない一室だと知れる。カイは瞼を閉じたまま、周りの気配を探った。
気配で察するに、五人いる。息遣いや動きから判断して、戦いにおいては素人に毛が生えた程度だろう。戦う術に長けた者は普段からそんなに無駄な息遣いをせず、常に静寂を保っている。それは周りの音をよく聞き、どんな事態にでも対処するためだが、その男達はそんな緊張感からは掛け離れていた。
今度は自分の状況を把握する。カイの両手は冷たい鎖で上方に固定されていた。両足にもそれぞれ何か付けられている。おそらく逃走防止用の重りだろう。
体勢は、床に足を投げ出して座っている状態だった。後ろは壁だ。男達には見えない位置で僅かに指を動かし、その壁をなぞると打ちっ放しのような剥き出しの石に触れる。これは聖騎士団の建物にはあまり見られないものなので、おそらくカイがいる場所は聖騎士団本部ではない。推測も交えて考えるなら、ここは聖騎士団からは遠い位置にあるだろう。
カイには、これから自分の身に起こることがなんとなく予想できていた。おそらくカイを再起不能なくらいに痛めつける気なのだろう、方法は無数にあって特定はできないが。
とはいえ、命を絶たれるということことはないだろうと思った。スティングにとって、カイが不可解な死を遂げれば真っ先に疑われかねないの自分自身だ。無難に手やら足やら、折ってしまう気だろう。
しかし気に食わない。スティングは自分の手を一切汚す気がないらしい。今この場で自分を取り囲む気配の中に、スティングはいない。だが、それは同時に馬鹿げたことでもある。カイがいくら体を拘束されていようとも、法力が使える限り素人が何人かかってこようと関係ない。スティングのような手練がいれば不利だが、そういうわけでもない今の状況はむしろカイにとって有利だった。
どれくらい自分が気を失っていたか分からないが、これ以上騒ぎが大きくなると厄介だ。早々にカタをつけるか。
カイは目を薄く開け、法力を込めようと拳に力を込めた。だが、その力は外に向かって発揮されず、何かにはね返ったかのように自分の魔法が何倍にも増幅してカイの体を叩いた。
「ぐ、あァッ!?」
全身を駆け巡った雷に、カイは思わず悲鳴をあげた。その声と青白い光に気が付いた男達が一斉にこちらへ視線を向ける。
「お、目が覚めたみたいだな」
ぞろぞろと周りに集まってきた男達を、カイは目を釣り上げて睨付けた。着ている制服はそのままだったため、法力に強いそれは先程のダメージを軽減してくれたが、カイの指先はまだ痺れたままで感覚がない。どうやら法力の作用に反応し、使用者に対して跳ね返す機能を持つ戒めが掛けられているらしい。迂闊に法力が使えないことが分かり、カイは胸中で舌打ちした。
「あんまり暴れるなよ、カワイ子ちゃん。おとなしくしてりゃ、足一本折るだけで済むんだからよ」
「……頼まれたんですか」
「あんたが団長様になるのは都合が悪いんだとさ。俺らも金をもらった以上はそれに見合った仕事をするからな、悪く思うなよ」
一人の男がカイの顎を取って薄く笑う。他の男もカイ細い体に手を伸ばしていた。それを冷めた目で見ながら、カイは男達には見えないように吊り上げられたままの手の指先を鋭い鎖の繋ぎ目でぷつりと切る。滲み出てきた血を、カイは気取られないように壁へと塗り付けていく。
その行動に気付くことなく、男達はカイの制服を引き裂き始めた。
「でもなァ、こんな上玉を足折って終わりってぇのは惜しい話だよな」
「思いっ切り突っ込んで、あんあん鳴かせてやるよ」
下卑た笑みを浮かべて男達は無数の手でカイの体を撫で回す。服の裂け目から露になった白い肌に蛞蝓のような舌が這い、カイを不快にさせた。
また幼少の頃の蹂躙と同じ気持ち悪さだ。愛撫のつもりか知らないが、中途半端な箇所を触られても吐き気を覚えるだけ。ソルの方が何倍気持ち良かったか……。
ふと引き合いに出した人物に、カイは驚いて目を見開いた。まさかよりによってあんな男に好きにされた出来事を気持ち良かっただなんて。一体何を考えているのか。
だが改めて思い返してみると、ソルはカイが痛がることを極力避けていたように思う。自分勝手ではあったが、どこかこちらに配慮しているようではあった。
ああ……、アイツの方が良かった。そんなことを思いながら、カイはさらけ出された自分の秘所に指をねじ込まれる痛みに顔をしかめた。いつの間にか服はほとんど裂かれ、全裸と大して変わらない姿にされていたが、カイはそれに怯む様子を全く見せなかった。
最後まで踏ん張ってみせるさ。
四肢を戒められ、法力も使えない状態で、カイは苦笑に似た笑みを浮かべて胸中で告げた。この場にいない男に、宣言してみせる。
カイは巧みに隠しながら壁に描いた小さな魔法陣を完成させた。血で描いたそれはカイの体内に秘めた法力を含み、じわりと効果を発揮し始める。
男達が猛ったものを取り出し、カイの足を掴んで固定したそのとき、唐突に部屋の中を突風が吹き荒れた。
「なんだ――!?」
一人の男が驚いて顔を上げる。それとほぼ同時に、今度は青白い稲妻が部屋の中を蛇のように駆けた。立て続けに起こった奇怪な現象に、流石に全員の間に動揺が走る。唯一慌てていないのはカイだけだった。
カイが描いた魔法陣は、自然現象を司る精霊を暴走させるものだった。魔法学の中に精霊の概念はあるものの、それらは既存の物語りに出てくるような形を持ったものではなく、力の塊として捉えられている。どの空間にも全ての属性要素があるため、それ故にそれらの均衡を崩すのは最も容易かった。
ただし、それらはあくまでも力を暴走させるだけであり、操作できるものでもこちらの意思に従うものでもない。全くの無差別で襲いくるものである。
人生で二度目の賭けだ。カイは、吹き荒れる部屋の中で静かに思った。
前に賭けたのは自分の命、勝ち取ったものは自分の人生だった。今回も同じく自分の命を賭ける。勝ち取るものは、地位とそれによって得られるかもしれない平和。
今度も賭けに勝つ。
雷どころか部屋のあちこちが発火し、時に鉄砲水のような鋭い水圧が押し寄せ、蒸気が発生する空間を、カイは静かに睨み付けた。
男達は法力を感知する能力はないらしく、その狂ったような自然現象の嵐に怯えをみせる。だが、一人がハッと気付いたようにカイを見た。
「てめぇがやってるんだな!? 今すぐやめろ! じゃねぇとぶッ殺すぞ!」
「私は引き金を引いただけだ。止めようがない。死にたくなかったらここから逃げるんだな」
カイが冷徹に言い放つと、男は顔を引きつらせた。ほんの僅か躊躇ったようだったが、所詮そこまで度胸があるわけでもない男達はそれを聞いて一目散に逃げ出した。それが懸命な判断だろう。
さて、これからどうしようか。部屋にただ一人残ったカイは、鎖につながれたまま、破壊されていく風景を見つめていた。とりあえず最初の危機は脱したが、代わりに新たな危機を招いた。これからが賭けだ。
カイは法力が空間に干渉し、現象が具現化するまでをじっと見極めようと目を凝らしていた。発生する場所こそ規則性はないものの、それが力を持って物体に作用するまでに僅かなタイムラグがある。それを見切ることができれば、この無差別な攻撃から逃れられるだろう。
「!」
神経を研ぎ澄ませていたカイは、自分のすぐ近くで法力の発生を感知して、顔を上げた。頭上に縫いとめられている自分の腕の辺りで、灼熱の法力が空間に干渉している。カイはそれが具体的な力を持つタイミングを計った。ほんの一瞬でもズレれば自分の両腕は灰になる。
カイは胸中で数をかぞえ、壁から離れるように前方へ跳んだ。もちろん両手足は鎖に繋がれたままだったが、鎖が可動範囲ぎりぎりまで伸び切った瞬間、背後から炎が吹き上がった。
「――!」
鮮烈なその炎はカイの周辺を煌煌と照らし、蛇のように壁を伝ってカイを繋ぐ鎖に絡んだ。高温のその熱は触れたそばから鎖を溶かし、勢いを増してその先にあるカイの手へと迫る。しかし跳んだ勢いを失っていなかったカイの体は、溶けた鎖に重みを掛けてそれを引きちぎり、間一髪でカイの腕には当たらなかった。
転がるように前方へと体を投げ出したカイは、受身を取り、すぐに身を起こした。手に掛けられていた鎖に目を落とすと、そこには何やら複雑な文字が刻まれている。おそらくこれが法力を使うことを邪魔していた呪だろう。スティングが掛けたものに違いない。
それが半分溶けた状態になっているのを確認したカイは、自分の足に嵌められた枷に手を当て、弱い繋ぎ目の一点を法力の熱で焼いた。刻まれた文字が崩れている以上、それはもう戒めの効果を持たなくなっていたため、カイは難なく足枷を外して走り出した。
賭けに勝った。
カイは均衡を崩した空間を修正しながら、その部屋を後にした。









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