礼拝を無断欠席し、その後の会議にも遅刻し、しかも制服を洗濯していて失くしたと言い張って私服で姿を現したカイは、次の遠征でメンバーから外されることになった。協調性を欠いた統率者では次の大事な戦いにおいて危険だと主張したスティングの意見を受け入れ、カイともどもカイの部隊全体をメンバーから外すことをクリフは決定した。
その寝耳に水のような知らせがソルの耳に届いたのは、意外に早かった。
ソル自身は進んで自室に篭り、謹慎という名の下で堂々とサボりをやってのけていたために部屋から出ることはなかったのだが、知らせを聞いた隊員達がなぜか真っ先にソルのところへ飛び込んできたのだった。あれよあれよと言う間に十人近い男が集まってしまい、それを見たソルは最初、自分がその原因として疑われているのかと思ったが、どうも普段から説教ばかりしてソルの周りをうろちょろするカイの姿を見て、ソルとカイは仲が良いのだと隊員達は勘違いしたらしく、「あのカイ様に限ってこんなことなどありえない! お前もそう思うだろ!?」だの「こんなことになった理由、実は知ってるんじゃないか!? お前っ」だの耳元で騒がれ、そのうちそれに耐え切れなくなったソルは「うるせぇッ!!」と一喝して全員を部屋から放り出してしまった……ということがあった。
遠征がなくなってむしろ万々歳だったソルはその知らせをさして気にせず、静かになった部屋で再び眠りに就き、日がすっかり沈みきるまで眠っていたのだが、誰かが部屋に入ってくる気配に目を覚ました。
「すみません……。起こしてしまいましたか」
「いや……」
のそりと身を起こしたソルに、暗闇の中でカイは柔らかい笑みを浮かべたまま謝った。金の髪がさらりと揺れ、闇の中でも映える白い肌に流れ落ちる様は相変わらず優美で、誰もが見惚れるその微笑みはいつもと変わらぬように見えたが、夜目の利くソルの目は誤魔化されなかった。
こいつ、笑ってねぇ。
ソルはその寂しい微笑を見て、目を細めた。どうやら自分が思っていたよりも随分と大事だったらしい。カイのもとから白かった肌は今や紙のように色を失っており、疲労の跡が色濃く出ていた。
しかし、それが分かってもソルにはどうしようもなかった。詳しいことは知らないし、もちろん真実がどうであったかも知らない。偽善的で有り触れた慰めの言葉を掛けたところで意味もない。
何より、カイに深く関わるのは禁忌だと自分の胸のうちで定めたばかりだった。きっかけは実にくだらないことだったが、カイを抱いて初めてこんなにもこの子供を気にかけていたのだと思い知らされたのだ。このままのめり込みそうになっている自分が分かるだけに、何が何でも突き放さなければならない。ひいてはそれがカイの安全に繋がる。
そう、分かっているはずだった。なのになぜ今朝、あんな風に接してしまったのだろう。
途中何度も冷たくあしらおうとした。だがそれも、いつものように上手くいかず、結局カイを守ろうとしてしまう自分が出てしまっていた。それではいけないのだということは百も承知だ。
それでも、カイはこんなにも近くにいる。冗談のような触れ合いならいいだろう、けれど決して愛情をもって接してはいけないというのは……どうにも難しい。特に弱っているカイを放っておくのはなんとも居心地が悪かった。
その髪に触れて、その体を抱き寄せて、柔らかい唇にキスを降らせたい。情欲も混じったそんな感情が自分のなかで捌け口を失くして巡っているのが分かる。それでもカイは人類の『希望』だ。身勝手な――特に自分のような罪にまみれた手で触れるべきではない。
ソルは軽いため息をついてから、ベッドから下りた。
「遠征、なくなったらしいな」
「……聞いたんですね」
ぐしゃぐしゃになった茶髪を更に掻き乱しながらソルが呟くと、カイは一段と無表情になり、一瞬だけ口元に自嘲の笑みが浮かんだ。そしてそれを引っ込めたかと思うと、何気なく横を通り過ぎるソルにカイは頭を下げる。
「本当に申し訳ございません。私の身勝手のせいで……」
「謝られてもな。俺はとしてはむしろサボれて感謝してるくらいだが」
「……ソル!」
ソルが軽い調子でそう言うと、カイは途端に眉を釣り上げていつもの説教顔になった。
そうだ、それくらいの元気がなければ面白くない。ソルはカイの怒った顔を見て満足げに笑った。
「そういや、坊や。遅刻がどうとかでジジィに処分受けたんだったか?」
「……ええ、まあそうですけれど」
ソルが改めて聞くと、カイは些か歯切れ悪そうに肯定した。どうやらその遅刻原因が人には言えないものらしい。微妙に納得のいかない顔をしているカイを見ればなんとなく分かる。
詳しいことには敢えて触れず、ソルは黒のTシャツを被り、ベッド端に引っ掛けていたライオットのジャケットを羽織った。聖騎士団に是非とも入ってくれと言ってきたクリフに、交換条件として制服の一部をライオットの製品にしてくれるよう頼んだため、マントの下に着ているジャケットはライオット製であったので、それだけを普通の服に羽織ってもおかしくはない。
「坊や、ついでだ。もう一個、規律破れ」
「……は?」
荷物から別の上着を引っ張り出しながら呟いたソルの言葉に、カイは間抜けな声を返した。意味が理解できずに突っ立っているカイに取り出した大きめの外套を無理矢理着せ、ソルは顔を寄せてにやりと笑う。
「ちょっと付き合え、いいな」
「へ??」
幼い顔で年相応のぽかんとした表情を浮かべたカイを、ソルは突然横抱きにして抱え上げた。やけに重みのないその細い体は簡単にソルの腕に収まり、当のカイは突然の事態に理解が追いつかずに目を白黒させる。
「な、な、何を……!?」
「無断外出。てめぇも共犯だ」
「はぁ!!? ちょっと待……っ!」
灰色の大きな外套に包まれたカイはソルの腕の中でわたわたと暴れ始めたが、ソルは気にも留めずに、塞がった両手の代わりに長い足を使って窓を開けてベランダに出た。
「大人しくしてな。でねぇと、おっこちて死ぬぞ」
「え、ええ!? ソ……ひあぁぁぁぁぁぁ!??」
ソルはカイを抱えたまま、軽々と四階から飛び降りた。
死ぬかと思った……。
カイは本気でぐったりしながら、こちらの二の腕を掴んだまま逃げることを許さない男の横顔を呆れたように見つめた。いや、まさかあの高さから本当に降りてしまうとは思わなかったのだ。この男がなぜ無断外出ばかりやってのけるのか、謎が一つ解けた気はするが。
それにしても、一体どういうつもりなのだろう。カイは疑問の視線をソルに投げかけた。そうしたところでこの男が答えるとは微塵も思っていないが、何か表情から読み取れないだろうかと考えてしまう。
今ソルとカイは、聖騎士団の本部に一番近い街を歩いていた。日が沈み、夜ならではの賑やかさを宿した街並みを、カイは目を細めて見つめる。こんな時刻にこうして街を歩くのは何年振りだろうか。聖騎士団に入ってから規則正しく過ごしていたカイには、目の前に広がる光景が奇異にさえ見える。だが、これが普通の風景なのだろう。
今朝の騒動で気持ちが沈んだままのカイは、いつものように「無断外出は駄目だ!」と怒鳴る気力はなかった。しかしその分だけ、ソルに連れられて街の様子をじっくり眺めることができたので、これはこれで良かったのかもしれないと思った。
ソルは一体どういうつもりで自分を連れ出したのだろう。カイは改めて不思議に思いながらソルを見上げ――二の腕を掴む太い腕に、自分の空いている手を添えた。するとソルはこちらを見はしなかったが、カイの腕を掴んでいた手を離し、髪をくしゃくしゃと撫でた。
これはどういう意味で受け取ればいいのだろうか。カイはソルの反応に、しばし悩む。ただ単に子供扱いだろうか? それとも別の意味でもあるのだろうか……。
感情には些か乏しい生き方をしてきたカイはいまいち分からず、無意識にソルの腕を掴みながら考えていた。だが、ソルが何かの店に入ったので、カイは慌てて顔を上げて目の前の建物を見つめ――思い切り白けた眼差しをソルに送った。
「もしかして、酒を飲む相手がほしかっただけか?」
「そうとも言うかもな」
ククッとわざとらしく笑ったソルは、少し洒落たそのバーに入っていった。それを見て、カイは思わず回れ右をして帰ろうとしたが、素早く伸びた太い腕に二の腕を取られてしまい、無理矢理中へと引きずり込まれてしまった。
その店の中は、特に荒れている風でもなく、いかがわしい雰囲気でもなかった。ホテルのバーなどと大きな違いがない質を保ったその内装は、シンプルではあったが要所要所のポイントはしっかりと押さえた品の良いデザインが施されていた。
飲み屋でいい思い出のないカイには、少し珍しい類の雰囲気を持った店で、思わず目を見張っていると、ソルは慣れた様子でカイの腕を引いてカウンターに座った。ここまで連れてこられて逃げ出すのも店の人に失礼かと思い、カイは観念してソルの隣に座った。だが、そこではたと気付いて慌てた。
「ソルっ。私はお金を持ってきてないんだが……!」
「オヤジ、俺はジンのストレート。この坊やには適当にカクテルを見繕ってやってくれ」
カイの焦りを綺麗に無視して、ソルはカウンターに立つ若いマスターにそう告げた。仕切って注文したところをみると、奢りだと暗に言いたいのかも知れない。けれど、カイは余計に困ったようにソルを見た。
「あ、あの……お酒、飲んだことがないんだけれどっ」
「はン、道理でガキなわけだ」
「な……!?」
ソルがくっと笑って紅い瞳でこちらを流し見たので、カイは一気に顔を紅潮させた。如何にも馬鹿にしたその嘲笑が、かなり頭にくる。今までずっと戦場ばかり駆けずり回っていたのだから、お酒などの嗜好品の類を口にしたこなどなくて当然である。なのに鼻で笑われ、カイは怒りを込めてソルを睨み付けた。
その視線の気付いていながらも、ソルはマスターからグラスを受け取ってカイの方を見ずに呟く。
「飲んだことねぇなら、今飲めばいーじゃねぇか。恥でもなんでもねぇよ」
「え……」
「ガキはガキらしくていいだろ。無理に背伸びしても潰れるだけだ」
グラスを見つめながら独り言のように囁いたソルは、それを一気に煽り、それを飲み干した。さり気なく重い言葉を言われたような気がしたカイは、その彫り深い横顔を静かに見つめる。
今でもそうだが、今朝もソルはカイを色々な意味で支えてくれた。この無口な男の言葉は一つ一つがいやに重く、カイの心の奥に沈んで定着していく。今まではただの規律を破る問題児としか思えなかったが、その持っている中身がどれだけ深いものか。そしてその言葉に自分はどれだけ助けられたろうか。改めてソルの凄さを感じた気がしたが、カイの理解し得る範囲に彼がいないような気がしたことだけが、少し寂しかった。
「カクテル、お待たせいたしました」
不意に掛けられた言葉に、カイはマスターの方へ視線を向けた。いつの間にか目の前に置かれていたそのカクテルグラスには、鮮やかな青と僅かに緑の混ざったなんとも深い色合いの液体が満たされており、グラスの端には輪切りのレモンが刺さっている。
「お前のだ、飲めよ」
「え……でも」
顎を癪ってグラスを示すソルに、カイは戸惑う。本当に奢って貰って良いのか、いやそれ以前に未成年の飲酒は法律で禁止されている。駄目だ、でも折角作って貰ったものをはね除けるのも失礼だし……。
お酒に対する好奇心も手伝って、カイのお堅い考えがぐらぐら揺らぐ。心底困った様子を見せるカイに、ソルは呆れたような視線を送り、若いマスターは少し可笑しそうに笑った。
「そのカクテル、お客様をイメージして作ったんですよ」
「え……?」
突然そう言われ、カイはぽかんとマスターを見つめた。そんなことがその場で出来るのだと全く知らなかった。
何とはなしに興味を示したらしいソルが、そのカクテルを見つめて聞いた。
「タイトルは?」
「『英雄』です」
「……!」
にっこりと人なつっこい笑みを浮かべたマスターの言った言葉に、カイは体を強張らせた。つい先程まで、ただ綺麗だと思って見つめていたそのカクテルが、突然重いもののように思えて、カイは表情を消して呟く。
「やはり、結構です。私が飲むには相応しくない」
「相応しいかどうかは後の連中が決めることだ」
堅い表情で目を逸らしたカイに、隣のソルが不意に芯の強い口調で囁いた。
俄に意味の理解しがたかったその言葉に、カイは視線を向けた。するとソルは口端を上げて楽しげに笑い、この店に入ってから初めてこちらをまともに見た。
「お前は今、自分のやれることをやればいいだけだ。それをどう評価するかは後の連中が決めることだろ。お前はお前だ、カイ」
「ソル……」
カイは大きな青い瞳を零れんばかりに見開き、ソルを見つめた。意外に顔立ちの整ったその顔が、穏やかな紅い光をたたえて静かに笑っている。
それにどきりとしたカイは、なぜか火照ってきた顔を誤魔化すように、カクテルを手にとって口を付けた。
その深い青の水面には、細かな金箔が振り掛けられていた。