帰りゃんせ









それは、今振り返れば遠い昔のことのようで、しかし時間にしてはさほど久しいわけではない時のこと。
戦争しか知らず、ギアを殺す術だけを磨き、白い法衣を血に染めて過ごす自分がいた。平和の姿を想像することすら出来なかった幼い戦士は、ただがむしゃらに生き、剣を振るうのみで他のことなど目には留まらなかった。
それが――紅い男に心を囚われるまでの日常だった。



紅い、紅い、炎が揺らめく。
一面を染める鮮やかな赤は陽炎を生み、晒された肌を舐め這っていく。熱で煽られた白い制服はてらてらと炎を映してたゆたい、身を焦がしていく。
皮膚と服との間に滑り込む熱気に意識をじりじりと焼かれながら、カイは一度ゆっくりと瞬きをした。
「それを……返してください」
溜め息の合間に押し出すように、カイは言葉を吐き出す。しかし見据える先の紅い男は肩越しに振り返った姿勢のまま、こちらを流し見るだけだった。
周囲を踊る炎の爆ぜる音や鼓膜を覆う熱気に聴覚は鈍く遠いが、聞こえていないわけではないだろう。文字通り、火中の男を見つめながら、カイはもう一度口を開いた。
「返してください、それを」
「………断る」
二度目の問いに男はやっと答えたが、予想通りにそれは否だった。
男が左手で携える無骨な剣に目をやり、カイは徐に長剣の柄を握りなおして半身を開く。目の前の男が生み出した炎の海に浸かったまま、カイは詰めた息を吐き出して剣を構えた。
「ならば……覚悟は出来ていますね」
焼けた木材の臭い、上がり続ける周囲の温度、網膜を焼きそうな煌々たる炎。火の海と化した部屋で、二人は対峙していた。
それ以上進むのなら、背後からでも斬りかかる。
剣の先にいる標的を細めた眼で見据え、カイは言外にそう意味を込めた。
長い後ろ髪を炎に泳がせていた男は、しばらくの沈黙の後、緩慢な動きでこちらに体を向ける。カイの紛れもない殺気に、避けて通れないことを察したのだろう。
無表情のままこちらを見る赤い眼は、暗い色を孕んでいた。それを静かに認め、カイもまた、無表情で対峙する。
いつもなら何かしら適当な言い訳をして、こちらを煙に巻くのに。だるそうに、もしくはからかうように「気まぐれだ」とか言うものを。
冗談で済ませてほしいときに限って、だんまりだなんて。
この行動に深い理由があることを、嫌でも察してしまうではないか。
「最初から……それが目当てでここに居たんですね」
「……」
「沈黙は肯定とみなしますよ」
カイの問いかけに、やはりソルは反応を示さない。白い法衣を照り返しで赤く染めたソルは、ヘッドギアの奥で無機質な視線を送るだけだった。
いつもあなたは、大切なことは何も言わないのですね。
胸中で呟き、カイは口端を歪める。何も明かさないソルへの苛立ちか、言うに値しないと思われる自分への憤りか。
いずれにせよ、神器である封炎剣を返す意思がないならば、力ずくで止めるしかない。
「計画的な神器の強奪により、現行犯で逮捕します」
告げて、カイは剣を構えたまま駆け出す。派手な宝物庫の炎上は、他の団員も当然ながら呼び寄せることになる。一対一で剣を交えられるのは僅かな時間だけだ。
そう。本当は、カイは神器の強奪そのものには腹を立てていない。むしろ神器を手に入れたソルを見て、納得したくらいだ。嫌々聖騎士団にいたのは、このためだったのか、と。
それよりも何よりも。ソルがいなくなることの方が、カイを焦燥に駆り立てた。
あの大きな背が見えなくなる。ぞんざいだが大切な言葉をくれる声はもう聞こえない。いつも気安く頭を撫でていく手も触れることはない。
あなたが、去っていく。
それが耐え難い、だから行く手を阻むのだと。そう自覚したのは、つい今しがたで、あまりに遅かったが――。
「ハァァーッ!」
間合いに踏み込むと同時に、カイは細身の長剣を薙ぎ払った。切っ先だけを当てる牽制に、ソルは半歩退くだけでかわす。逃げ遅れたソルの前髪が、数本散った。
更に踏み込むカイに、ソルはやっと封炎剣を握り直して構える。いつもの逆手持ちに刃渡りの長さを足し、瞬時に距離を掴んだカイは、ソルの反撃を後ろに跳んで避けた。リーチは短めだが振りの小さいその剣は、カイが再び剣を構える暇を与えずに追撃を加えてくる。
二撃は避け、続く斬撃をカイは長剣の刃で弾き、返した剣の柄を突き出してみぞ落ちを狙った。それを景気良くぱあぁん!と掌で阻んだソルは、急に姿勢を低くして、カイの振り上げた脇をすり抜けるように走る。
「!?」
瞬間、理由のない直感が、カイの脳内で警告を発した。見開く視界が、己が身の危険に赤一色で染まる。
「悪ィな……」
申し訳程度の謝罪を聴覚が捉えると同時に、カイは地面から吹き上げる法力の塊を感じた。まるで樹脈のように一瞬で足元に張り巡らされた文字の羅列が、力を持って形と成し、強固な鎖の如くカイを呪縛する。
これは――殺界。
気付いたときには、地表を走り抜ける炎の波に飲み込まれた。驚愕に開いた口も目も埋め尽くすように、熱が体を焼く。
「――ッ!!」
悲鳴さえ声にならず、カイは上空に吹き飛ばされた。あまりの熱量に麻痺した体は、受け身を取ることもままならずに木の葉のように舞い、その勢いのまま地面に叩きつけられる。
頭をかばう暇さえ与えられなかったカイは、頭をもろに打ちつけ、一瞬意識が飛んだ。
「普通の剣で、神器は止められねぇよ……」
呆れたような、憐れむようなソルの呟きを、遠い意識の中でカイは聞く。混濁した思考で、訳もなく湧き上がった悔しさと怒りに、体を起こそうとするがぴくりとも動かなかった。
カイは体を舐めるように焼き続ける炎を感じながら、たった一撃で地面に伏された己に、喉の奥で不明瞭な唸り声をあげた。
武器の性能には確かに差があった。しかしそれ以上に、桁違いの法力はカイの及ぶ領域ではなかった。防御も回避も間に合わない爆発的な力の放出は、カイの体では負荷が掛かり過ぎる。しかし、ソルはそれを行って尚、カイを余裕の態で見下ろしていた。
ああ、どうして彼と私の距離はこんなにも遠い……?
歯をくいしばったまま、カイは霞む視界で赤い男を睨み上げる。頭から血を流しながらも眼光の鋭さが失われないカイを見つめ、男は目を細めた。
「……全く。ガキのする目じゃねぇな」
「う…、さ…い」
悪態に悪態で返し、カイは喉から声を絞り出す。それに口元だけで笑い、ソルは徐に背を向けた。
「じゃあな。あばよ……」
素っ気ない、別れの言葉。
……たった、それだけなのか。捨て置くのに、たったそれだけの言葉で済ませられてしまうのか。
お前にとって所詮、私はその程度か……!
「ぁああぁ――ッ!」
地面に這いつくばったまま、カイは遠ざかろうとする足を憤怒の眼差しで射抜いた。そして、どこにそんな力が残っていたのだと自分でも思うような勢いで、よじった上半身を跳ね上げてソルの足首を鷲掴んだ。
伸ばした手で男の足首をギリリと絞めて睨み上げると、驚いたように振り返ったソルの眼差しとぶつかった。
「許さない……。勝ち逃げなんて……!」
額から流れる血が、熱い。未だくすぶり続ける炎が白い制服をじわじわと焦がす。だが、そんなのはどうでもいい。
あなたが、いなくなる。ただそれだけのことが、淡く色づき始めた白いキャンバスが黒く塗りつぶされていくような重苦しさを与える。
理由? それも、どうでもいい。だって、この思いの訳が分かるほどに自分は、男と共に時間を過ごしていない。もう少し、もう少しだけ……。
「坊や、勝負は着いてる」
「うるさい……!! こんなの、納得できないッ」
冷静なソルの声に、カイは叫ぶ。だだをこねる子供のようだと思いながらも、止められない。
ろくに動かない体を意地だけで無理矢理引きずり、カイはもう片方の手も伸ばしてソルの左足を両手で掴んだ。噛みしめ過ぎた口端からは血がにじむ。
その様を見下ろすソルの赤い瞳に、一瞬悲しげな色が混じる。いつもならばヘッドギアと前髪に邪魔されて見えないそれが、地べたに這っていたカイには捉えられた。
こんなにも苦しそうな表情を、この男はしていたのか。新たな発見に、カイは内心で驚愕する。
勘違いかもしれない、だが眼は口ほどに物を言うという。哀れな子供に対する同情? それともつきまとわれる己の不幸を嘆いて? あるいは――。
「坊や……。もう俺のことは、忘れろ」
「……何故」
唐突な、その静かな忠告に、カイはうめくように問う。一方的に押しつけられた言葉に、訳もなく嫌な予感を抱いた。見えない手が背を這いずるような不安に、視線が揺らぐ。
ソルが、致命的な何かに触れようとしている。
辛そうな、悲しそうな色を帯びる眼差しが、その確信を強めていく。
「これを、見ろ」
そう言って、ソルはカイから視線を逸らさぬまま、ヘッドギアの止め具に手を掛けた。入浴場ですら肌身放ず付けていたそれを、徐に自ら解き始める。
パチリと音を立ててゆっくりと剥がされるそれが、まるでパンドラの箱を開けるかのような底知れぬ不安を膨れ上がらせた。
「やめろ…駄目、だ……」
震える唇で、うわ言のように拒絶する。直感でしかないのに、何故かそれが自分の望まないものだという確信があった。
駄目だ。いやだ……いやだ、見たくない……!
カイは胸中で必死に制止を叫ぶ。だが実際に口から発せられたのは、か細く不明瞭な声だけだった。震え、怯える眼差しを向けても、ソルの動作は淀みなく進む。
見てはいけない。そう確信しているのに、カイの視線はソルのヘッドギアに釘付けになったまま剥がれなかった。
理性は拒絶しても、本能が求めていたのかもしれない。――そこにある真実を。
「これが……見えるな? 坊や」
「……ぁ、あ……あ…」
底冷えしたような平坦な問いに、カイは壊れたように呻いた。ベルトを掴んだままだらりと下げたソルの手から、カツンと音を立ててヘッドギアが滑り落ちる。
本来ならば、周囲の喧騒と炎の爆ぜる音に掻き消されるはずのそれが、いやに耳についた。
クセの強い茶色の髪の合間から覗く、露わになったソルの額には赤い傷跡があった。……いや、本当はそれが決して傷跡などではないことは分かっていたのだが、認めたくなかったのかもしれない。
あのジャスティスと同じ刻印が、ソルの額に描かれている意味を。
カイは現実を拒むように緩慢に首を横に振り、視線を逸らせた。しかし体はそれを認めるように、怖がってソルの足から手を離してしまう。
解放された己の足を見、ソルは音もなく身を退いた。
「これで分かっただろう。……ハナっから、坊やとは次元が違う生きもンなんだよ」
嘲笑を噛み殺すような、歪められたソルの顔がひどく苦しげに見えたのは錯覚だったろうか。
しばらく呆然とその様を見上げていたカイだったが、不意に湧いてきた怒りにつき動かされて、無意識に再びソルの足に手を伸ばしていた。
「次元が……違う、だって……?」
なんだその、最低の言い訳は。
元は高い声を唸るように低めて、カイは吐き捨てた。自分のうちで暴れる憤りをそのままに鋭く睨み上げると、ソルが一瞬戸惑ったように視線を動かす。
ソルが何であるか分かって尚、噛みつくような言動に自分でも理解できないまま、カイは表しきれない怒りを言葉にしようと口を開いた。
「皆と同じように寝て、食べて、戦って……。礼拝はサボる、無断外出も常習、ああいえばこういうで全然言うこと聞かない不良騎士で……! でも、強くて。
唯一背後を任せられるし、指示も的確で……ずっと、ずっと……私なんかよりも……っ!」
伸ばした手はソルの足には届かず、舞っていたマントの裾を掴む。自分でも何を言っているのか分からなくなりながら、でも何か言わなければいけないという思いから、白い裾を握りしめた。
「何が…何が、違う……!? 私達とお前とで、一体何が違うっていうんだッ!」
「……坊や」
「次元が違う、住んでる世界が違うだなんて……ただの言い逃れだっ!」
本当に、ただの子供のように不満をぶつけて叫ぶ。
理不尽だと、そう思った。何故、この男に寄せる好意さえ根本から否定されなければいけないのか。必要だと思うことが、人間としていけないだなんて……。
どうして神はこの男を、そして私を見捨てた?
人間と意思が何も変わらないが故に孤独を強いられる男と、望まれ頼られる立場が故に孤立する私はこんなにも似ているのに。
彼の正体が人類の天敵であることが、このすがる手を許してくれない。
炎が回りきり、白い法衣にさえ触手を伸ばし始めるなか、カイは溢れ出た涙を振り払い、握りしめていた手を解いた。あっけなく離れたそれは途端に燃え上がり、炎が這い上がる前にソルはマントを自ら剥ぎ、紅の海に投げ込む。
「忘れろ……。それが、一番いい」
静かに告げるソルは、もう何の表情も浮かべていない。照り返しに赤く染まる精悍な顔はカイを見ず、背を向ける。カイは空いた手を握り、石畳に強く押し当てた。
誰にとって、忘れたことにするのが一番良かったかなど、聞くまでもなかった。
罵りの言葉を呑み込み、歯を食いしばったカイは、炎の熱に乾く瞳を伏せる。消えていく背を見続けることが出来るほどに強くはなかった。
「――……ッ!!」
地に拳を叩きつけて叫んだ男の名は、結局、音にならなかった。





緩慢に開いたまぶたの裏には、涙の気配があった。
しかしそれは開くと同時に乾き、消え失せた。何に向けての涙であったか、カイはもう覚えていない。
急速に覚醒する意識の中、現状把握のために視界からの情報が次々と取り込まれる。鈍っていた聴覚はヴェールを取り去ったようにクリアになっていく。
そうして自身が宿で眠っていたことを思い出し、視線を動かした時だった。カイは直感的に違和感を感じ、上半身を跳ね起こした。
「おおっと、大人しくしてなッ」
「…ぐ…っ!?」
突然視界に現れた太い腕に首を押さえつけられ、カイは呻く。安物のベッドに逆戻りさせられてしまってから、初めて自分以外の存在に気付いたカイは、驚愕に目を見開いて周囲を見渡した。
カイを抑え込んでいるのは大柄な、いかにも腕に覚えのありそうな輩だった。他にも屈強な男が5人いて、周囲を取り囲んでいる。それらの後ろで観察するように一歩退いて見ているのは脆弱そうな細い体の、一人の男だ。
カイは状況を把握し、秀麗な顔を歪めた。眠りについていた僅かの間に、部屋に侵入されていたらしい。いくら弱っていたとはいえ、これほどの人数の気配に気付かなかったとは、全く我ながら不甲斐ない。
胸中で舌打ちしたカイだったか、ふと違和感に気付いて近くの窓を見た。そこから男達が侵入してきたのか、窓ガラスは派手に割られている。
いくら眠っていようとも、ガラスの割れる音に自分が気付かないだろうか? ――否。
そう思ったカイは、自分は眠っていたのではなく、眠らされたのだと確信した。
「何が…、目的ですか…っ!?」
首を押さえつける男を睨み上げ、カイは声を絞り出した。自分への害意は明確だ、相手の持つ情報を出来るだけ引き出してこの不利な状況を打破しなければならない。
緊急時でも冷静に分析し決断する力が鈍らない自身に有難さを感じつつ、カイは突然現れた男達の意図を探ろうと青い瞳を鋭く細めた。
「ふーん……。なかなか肝が据わってる。俺好みだ」
四肢を押さえつけられながらも冷ややかな視線を投げるカイに、他の男達より一回り大きい巨漢は軽く目を瞠って呟く。その言葉にカイが眉を顰めると同時に、痩身の男が半眼で巨漢を睨んだ。
「おいおい、お前のものじゃあないんだからなぁ? 大事な商品だぜぇ……変な気は起こすなよ?」
「分ぁってるって」
カイの体を押さえつけながら、巨漢は器用に肩をすくめる。
……商品? 人身売買か。
二人の会話に、カイは自分がどういう理由で襲われたかを推察した。行方不明になっているカイ=キスクを裏で探す者でも、抹殺する者でもなく、警察機構の長官であるカイの顔さえ知らない街の小悪党の仕業のようだ。
……また、この外見で狙われるのか。
うんざりしたような、吐き気に似たものが胃からせり上がってくる。皮一枚のことに、どうしてこうも人間は振り回されるのだろうか。時間と共に確実に劣化していくものだというのに。
カイは顔を歪め、男達を侮蔑の眼差しで見つめた。
「こんな馬鹿なことはやめなさい。私を誰だと……ッ!?」
警察の長官である以上、売り物にはなり得ないと言おうとしたところで、有無を言わさず男達はカイの服に手を掛けてきた。咄嗟に振り払おうとしたが、ジョニーから借りていた服の片袖が力任せに引き裂かれる。
カイは青い瞳に怒りを宿し、男達を睨みつけた。
「痛い目をみなければ、分からないようですね……!?」
鋭い目差しとともに、カイは一瞬で編み上げた法力を巨漢に向けて放つ。発生した青白い雷の矢が、バチン!と音を立てて男の顔面で爆ぜ、カイの倍はある巨体を後方へとふっ飛ばした。
「ッ!? 法力使いだ!」
狭い部屋の壁に衝突する巨漢を見やり、男達の顔に緊張が走る。一瞬の動揺で、押さえつける力が緩まった男の手を即座に振り払い、カイは上半身を跳ね起こした。
流石に丸腰では多勢に無勢だ。一度ここから離脱しよう。
そう思い、カイが軋むベッドから飛び降りた瞬間だった。
「……ッ!?」
着地しようとした足に力が入らず、膝がガクリと折れてしまった。咄嗟にもう一方の足で体を支えようと踏み込むが、その足も力が入らず、カイは驚愕に目を見開いたままへたりと尻もちをついた。
なんだ……!?
一瞬、何かされたのだろうかとカイは自分の足を見たのだが、別段変わったところはなかった。……いや、別の意味での変化に遅れて気付き、カイは顔を歪めた。
もともとあまり脂肪のないカイの足が、更に若干痩せていたのだ。
ソルから逃げるためにドイツまで来ていたカイは、ここ3日間ベッドに横たわったままずっと水のみで生きていた。筋肉を使うこともなく、栄養も摂取していない体は、いつの間にか衰弱し始めていたようだ。
原因に気付いたカイは、情けない自分自身への苛立ちが込み上げるままに、四肢に力を入れて無理矢理体を奮い立たせようとした。だが、起き上がりかけた瞬間に男二人に頭と肩を掴まれ、床に引き倒される。
埃の舞う、砂利まじりの床に後頭部を押し付けられて、カイは顔を歪めながら振り解こうと暴れた。
「放せ……ッ!」
「ダメだよぉ。これから調教するんだからさぁー」
もう一度魔法でふっ飛ばしてやろうとカイが手に力を込める前に、男達の後ろから痩身の男が身を乗り出して、慣れた手つきでカイの腕に注射針を刺した。
「!」
驚く間もなく、無防備に晒された腕にピストンが押し込まれて、中の透明な液体が体内に送り込まれる。それを見たカイは、刺される痛みと体内に広がる冷たい液体の感触に、ざわりと総毛立った。
「な、にを……っ!」
「大丈夫。軽く意識が混乱するくらいだから」
にぃっと笑い、痩身の男がヤニのついた黄色い歯を見せる。その下卑た笑みに、音を立てて血の気が引いた。
一瞬、顔を引きつらせて硬直したカイだったが、薬の効果が即効だとしてもまだ時間はあるはずと思い直し、握りしめた拳に渾身の力を込めて痩身の男の腹を殴りつけた。あまり力が入らないとはいえ、常人よりも強い攻撃を繰り出す戦士の体ゆえに、みぞ落ちに衝撃を受けた男が驚愕の表情で容易くくず折れる。
だが、同時に体を掴んでいた男達が本格的に体を抑え込んできたので、カイは途端に圧迫された首と胸に息を詰まらせた。
「ぐ、ぅ…ッ!」
「チッ。さっさとヤッちまって、おとなしくさせっぞ!」
両腕を捻り上げられ、首を抑えられたうえに、カイは態勢を立て直した他の男達に足を掴まれた。最初に退けた巨漢も頭を軽く振り、のそりとこちらに近付く。
「うーん……流石にシビれた。やられた分は、お返ししねぇとなぁ」
「くっ、そ…! 放……っ」
がむしゃらに法力を放出しようとした瞬間、カイの視界がぐるりと回った。頭を振り回されたような不快な浮遊感に、吐き気が込み上げる。早くも、薬の効果が表れ始めたようだ。
思わずそれに歯を食いしばって耐えるが、そうしている間に男達によって、残りの衣服を力任せに引き剥がされてしまった。
「……! なんだ、他の奴ともお楽しみだったのか?」
服を取り払った男が、晒されたカイの白い胸部を見て軽く目を瞠り、低く笑った。最初は言われた意味の分からなかったカイだったが、3日前にソルに犯された時の鬱血の痕を指しているのだと気付き、顔を強張らせる。
怒ったソルに、殴られながら犯された、あの時の……。
「――ッ」
反射的に思い出したカイは、込み上げる嫌悪感に吐き気を覚えた。胃からせり上がるものを、口を引き結んで押し留めて、固く目をつぶる。目尻にうっすら涙をにじませて、カイは気持ち悪さを抑え込んだ。
ソルが、嫌いなわけではないのに。
思い通りにならないカイを痛めつけるように犯した、本当なら愛しいはずのあの腕が、怖い。誰を見ているのか分からない赤い瞳が、綺麗なのに気持ち悪い。いつもなら黙ってキスで語る唇が、執拗に名前を呼んでくるのが恐ろしい。
触れたくて、抱きしめたい愛しいはずの存在が、近付けば近づくほど、胸を締め付けるように痛みを与えてくる。
あの時の生々しい息遣いと、燃えるような息苦しい熱さがフラッシュバックし、カイは喉の奥で悲鳴をあげた。
「…? どうしたよ、美人さん」
顔を引きつらせて唇を震わせるカイの様子に異変を感じて、近付いた巨漢が手を差し伸べる。大きなその手に訳もなく恐怖を感じたカイは後ずさろうとするが、他の男達に体を抑えられていて動けなかった。
逃げようもなくて、巨漢に頬を撫でられるその感触に、カイは薬で頭をグラつかせながらも嫌がるように顔を背ける。この意識の混濁は、決して薬のせいだけでないだろう。
自分の中で多くを占めるあの男との記憶が、条件反射のように体を竦ませる。
「い…っ、ぁ…ぁ…ッ」
ひくひくと喉を震わせ、カイは不明瞭な悲鳴をあげた。薬の効力にしても様子がおかしいと感じたのか、巨漢は一度手を退いて不思議そうに見、しばし黙ったままカイの鬱血の痕を眺めた。
「……もしかしてそれを付けたの、赤い男か?」
「――っ!?」
赤い男、と聞いてカイの体がビクンと跳ねる。大袈裟なほどに反応したその様子に、巨漢は確信を強め、伸ばした手で緩やかにカイの胸を撫でた。
「忘れな。可哀想に。……まあ俺らも、大して変わんねぇけど」
あらゆる思考が浮かんでは消え、定まらない視界の中で、嫌悪するべき巨漢の声がひどく物悲しげに聞こえる。カイは眼を泳がせながらも、男の手の行方を見ようと視線を向けた。既に力が入らなくなりつつある四肢に、大きな手が緩やかに愛撫を施していく。
一方的な性行為は、ただの暴力でしかない。しかし、赤い男を求めて求めて……けれど本当の意味では得られないと分かっている、その心の空虚がぬくもりを欲してしまう。
ただの同情、しかも利己的な目的を持つ者の、そんな愛撫でさえ今の自分には心が揺さぶられる。今さえ、優しくしてもらえるなら、と……。
薬による意識の混乱は、もともと崩れかけていたカイの理性を、着実に壊し始めていた。
「ぁ、……あ…っ」
「今は、気持ち良くしてやる。安心しな」
巨漢は胸から腹へ、腹から腰骨へと手を滑らせながら、反対の手でカイの頭を撫でる。優しく金髪をすきながら、目配せでカイを抑える他の男達を退け、巨漢は強姦にしては緩い愛撫を加えていく。無骨で大きな手が見た目とは裏腹に、器用な動きでマッサージを施すかのように快感を徐々に引きずり出していった。
「っひ…ぁ…!」
局部へと当てがい、剥き出しのそれをなぞるように指で弄ばれ、カイは背をのけ反らす。身の内に擦り込まれた性行為への嫌悪が消えることはないが、それでも感じる快楽の度合いは大きく、カイの抗う気持ちは弱くなっていく。
そこへ、意識を取り戻した痩身の男がゆらりと近付いた。
「ああ……赤い男ねぇ…。あんたを探してたよ。ペットみたいなもんだから、もし見つけたら渡すようにってさ。……今度は馬鹿な真似しないように、ちゃんとしつけなきゃいけない、ってね」
「ッ……!?」
殴られた腹を抑えながら、痩身の男が笑ってそう告げる。その言葉に反応したカイは、ゆっくりと顔を歪めた。
ペット……?
思考が鈍ったままに言葉を反芻し、意味を咀嚼したカイは鈍器で殴られたような衝撃を受けた。まともな判断力をなくしたカイにはそれが真実のように聞こえ、じわりと脳を支配していく。
巨漢は物言いたげに痩身の男を見たが、結局は何も言わず、茫然とするカイに視線を戻した。
「ちゃんと可愛がってやるから……。あんたは気持ちいいとこだけ感じてな」
耳元でそう囁き、巨漢はカイの足をやんわり開かせて、前を弄りながら後ろの窄まりを解かしていく。進む行為が緩やかであまり痛みを伴わないだけに、カイの意志は強い抵抗を持てなくなっていた。
なんだろう……。どうでも良くなってきた……。
聞かされた偽りのソルの言葉は、理性の淵に引っ掛かっていた手を引き剥がすに十分だった。カイはくすんだ瞳で天井を見上げ、体の力を抜いていく。
意識が快楽の奈落へ落ちていくなか、カイは目を見開いたまま涙を一筋零した。








ソルが知らせを受けたのは随分前だった。
探し人らしき人物を発見したとの連絡が、ドイツの情報屋から入った。しかもその容姿に目をつけて、人身売買を生業とする輩が近付いているらしいと報告を受けた。カイである確証はないがもし本当に狙われているならば危険だと感じ、ソルは急いで向かったのだが、移動に思いのほか時間を取られた。
ただの直線距離ならばギアの身体能力を利用して疾走すればいいが、街をいくつも挟むのでそういうわけにもいかない。飛空艇を利用することにしたが、タイミングが悪く、なかなか捕まえることが出来ずにいた。
やっとのことで飛空艇へ搭乗したもののジェリーフィッシュ団のような私用とは違い、安全運転により速度の出ない船に、ソルがイライラと奥歯を噛み締める間、情報屋からは随時中継が送られていた。
『――…スラム街ですが、停泊所から馬車で10分くらいの宿です。裏通りに面している方の壁にピックとロープが張られているので……これを使ったんだと……。ッ!』
情報屋の声が急に途切れ、カメラを壁に当てたような音が響き、画面が暗くなる。しばし沈黙してから、カメラが明るさを取り戻し、宿の2階辺りを映し出した。
『見張りも何人かいるようですね…。たぶん、窓をこじ開けてるようです…』
ひそめた声で、情報屋が映しきれない映像を補うように説明した。映像では半分以上が壁で、動く人影が屋根にうつっている程度だ。
「あんま音がしねぇな…。慎重に忍びこんでるってことは、宿屋とつながってねぇってことか」
不審な動きを見せる影と音を拾い、ソルは送られる映像を観察する。裏の犯罪は色々とやり方はあるが、どうやらこれは宿屋と結託しての襲撃ではなく、単独グループの犯行のようだった。
宿屋が犯罪者の味方でないなら、こちらにつけるまで。
ソルは緋色の瞳を鋭く細めた。
「ヤツらの動向は後回しだ。まず宿の主人と話をつけろ」
『え……?』
ソルの突然の指示に、情報屋が驚きの声をあげる。しかし、構わずソルは続けた。
「まず、宿泊してる客の情報を吐かせろ。これから送る顔写真と同じ奴がいるなら、そいつの部屋番号と部屋カギを出すように言え」
『ちょ…っ、ちょっと待ってくださいよっ! 脅迫はマズイですって! ていうか、僕の専門分野ではありませんから、勘弁してくださいよッ』
矢継ぎ早にそう命令するソルに、情報屋は悲鳴をあげる。いくら情報屋として危ない橋を渡って来たと言っても、流石にソルのように腕っ節が強いわけでははないのだから拒絶も当然だ。
だが、ソルの意図はそうではなかった。
「俺の持ってる銀行口座の一つを教える。2,000,000,000,000W$くらいは入ってるはずだ。そこから好きなだけ引き出して構わん、金で懐柔しろ」
『……ッ!? それ、下手すれば国家予算っ……ああ、いや…分かりました! 分かりましたよ、やりますって……!』
金に物を言わせるにしても、あまりの豪胆振りに情報屋は度肝を抜かれ、即行で白旗をあげる。ソルが様々な意味で謎な顧客であることは百も承知であったが、まさかここまでとは情報屋も思っていなかったようだ。
とはいえ、ここで依頼を受けぬほど情報屋も愚かではない。
『そういうことなら、交渉の余地はあります。……まあ仕方ない、あなたの頼みなら全力を尽くしますよ』
「頼むぜ。……成功すりゃあ、報酬は言い値で払う」
苦笑を漏らしつつ承諾する情報屋に、薄く笑いながらもソルは真剣な声でそう答えた。今まで腐るほど貯め込んできた金を、今更出し惜しみする気など毛頭ない。
……いや、それどころか。国さえ買えるような莫大な金をすべて手放すことでカイが戻ってくるのなら、喜んでそうしたことだろう。
「無事でいてくれ……」
目的地に近付く船の窓から眼下を見下ろし、ソルは祈るように呟いた。











「……あ〜ら、随分楽しそうなことしてるじゃない」
艶やかな赤い唇を妖しくつり上げ、女はふと笑った。
弱々しい、だが覚えのある心の叫びが悲痛に響き渡るのが、空間を制する彼女には感じられたのだ。しかも目を瞑って発信源を辿れば、それは意外な人物で……。
そして、それを救わんと追うのが目触りな男だった。
「ボウヤの気持ちは……と〜っても分かるのよぉ?」
胸を切なく締め付けるクレッシェンドな波動に目を細め、女は愛用のギターに指を這わせる。
好きなのに、求めているのに。追っても追いつかず。叫んでも、振り向いてはもらえない。
そんな絶望のシャウトを、彼女は知っている。……だが、それを向ける相手が気に入らない。
「……テメェも絶望しな、××××野郎。叶わない夢に抱かれて、果てちまえばイイのさ! キャハハハハッ!」
彼女は高らかに嘲笑うと、弦を掻き鳴らして、その姿を闇に溶かした。












飛空艇から飛び出すように降りたソルは、検問の制止の声も聞かずパスポートを投げつけるように渡し、返却も待たぬまま他の乗客を突き飛ばすように走って停泊所を出た。
長い生で世界を歩き回ってきたソルだったが、たまたまその街はほとんど立ち寄ったことのないところだった。見知らぬ街をぐるりと見渡し、ソルは方角と頭に叩き込んだ地図を照らし合わせ、目的地の方へ足を向けた。
カイらしき人物の居場所がここだと聞いたときに思ったことだが、カイはもしかすると意図してここに身を潜めていたのかもしれない。ヨーロッパの中でも偶然ソルが、近年全く狩りをしていない地域だった。故に伝もなければ地理感もない。
腐っても鯛と言うべきか、カイの聡明な頭は弱っていても衰えないらしい。しかしそのおかげで発見が遅れたのだが、それはソルに会いたくがないためかと思うと未だにどこか迷う心がある。
カイを求めて止まない思いは確かにある。だがそれを行動に表すことが、本当にカイにとって幸せであるだろうか。人でない身がもたらす差異が彼を悩ませるのは言わずもがな、ソルの宿敵との戦いにも巻き込まれる危険もある。また、時々の逢瀬はあれども、性格も趣味も生活リズムも違う。身体的な危険をはらむ諸問題を除いても、普通に考えて付き合っていくには難しい者同士だと今更感じていた。
だがギアの身で長い年月を生き、心が摩耗しかけていたあの時に封炎剣を求めて聖騎士団に入った偶然があったからこそ、カイに出会えてその存在に触れられたのだと思うと、自分の身に起きた悲劇と背負う罪は、なくてはならぬものだったのだと思い知らされる。
150年以上前の、平和な時を過ごす自分がカイと出会ったとしても、恐らくは何も感じなかっただろう。綺麗な男だとは思っても、それ以上の印象は残らない。その芯に抱える輝きに気付くこともなく、通り過ぎるだけだっただろう。
出会う運命をくれたのなら、せめて生を全うするまで共に居られる運命をくれ。
とっくの昔に見えなくなった神に、ソルは都合良くそう願う。
「辛気臭い顔ねぇ、どうかしたのかしら? 背徳の炎ちゃん」
「――!?」
妖艶な、だが毒を含む女の声が響き、ソルは驚愕に目を見開いた。そして前方に干渉する法力を感じて、はっきりと顔を歪める。
どうやら身のほど知らずな願いを望む罪人に、神様はさっそく罰を与えたらしい。
目的地まであと300mほどの地点で足を止めざるを得なくなったソルは、本当の神の代わりとばかりに、前方の何もない空間から現れた赤い魔女を見やった。
「なぁに、そんな恐い顔で睨んじゃって」
「テメェ……」
ぽってりとした赤い唇をつり上げて笑うイノに、ソルは低く唸る。何故こんな最悪のタイミングで、この女は現れるのか。
いまいましさは募るが、今は相手などしていられない。
「テメェと遊んでる暇は無ぇ。さっさと退け」
「あら、意外。いつもなら、悦んで飛びかかってくるのにねぇ?」
惚けたように小首を傾げてみせるイノだが、その目は嘲りを含んでいる。ソルが焦っていることを知っていてわざわざ邪魔しに来たのだと、言わんばかりの眼差しだった。
それに気付いて盛大に舌打ちしたソルは、早々に封炎剣を構えた。
「退かねぇってんなら、退かすッ!」
この女の魂胆は分かっている。カイの救出に間に合わせないよう、ソルを足止めする気だ。最初からそうだと分かっていて、戯言に付き合ってやる理由はない。
だがそうした妨害は逆に、この先にいるのが本当にカイだと知らしめているようなものでもあった。戦闘態勢に入ったソルを見て、イノが愛用のギターを構えたことで、その推測は確信へと変わる。
ソルは躊躇いなく、ヘッドギアを緩めてGEARの力を解放した。逆立った髪が熱に踊るかのようにうねり、金色に変わった眼の瞳孔が縦に細長く変形する。爬虫類を思わせるその眼をすがめ、ソルは獣のような咆哮を上げた。
幸いここは表通りから外れる細道で、人の気配はない。騒ぎに気付かれるまでには、幾らか猶予があるはずだ。
「――ハッ! 随分トバすじゃねぇか! じゃあ、こっちもそれなりのエモノで相手しなきゃなぁ……!?」
ソルが全力を出す構えを見せると、イノが高らかに笑い、ギターを掻き鳴らした。身の内に響く激しいエレキの音とともに、その背には純白の羽根が現れ、大きく羽ばたく。
……あっちも、マジってわけか。
ソルは鋭く伸びた歯を噛み合わせ、口端を歪める。イノに本気を出されれば戦いが長引くことが目に見えているだけに、ソルの焦りは高まった。だが、四の五の言っている暇さえない。
先手必勝とばかりに駆け出そうとしたソルの耳に、不意に情報屋からの音声が届いた。
『…――見つかりました! 2階の205号室ですッ。カギも借りたので突入できますが……そ、そちらはいつ到着出来そうですか!?』
早口に報告し、そう問う情報屋の声にソルは動きかけた体を止めて、通信機に向かって叫ぶ。
「10分…いや5分でそっちに着く! 先に突入しててくれッ」
『え、ぇぇぇ!? いやあの、俺はケンカは専門外で……っ』
ソルの命令に、情報屋は途端に慌てた。だが無理もない、見た限りでは襲撃者は6、7人でいずれも腕に覚えのありそうな屈強な輩ばかりだ。万が一のために戦える者を2人連れているそうだが、情報屋の方が不利なのは分かりきっている。
「うるっせぇッ、とにかく行け!! どうにかしろとは言わねぇ。引っ掻きまわして時間稼ぎしてくれりゃあ、それでいい!」
『は、はいィッッ!!』
通信機を取り出すな否や、怒鳴りつけるようにそう叫んだソルに、情報屋が悲鳴に近い返事を返した。あまりの剣幕に、無理矢理YESと言わされたようなものだが、情報屋は『善処はしますのでっ、は、早く来てくださいよッ!?』と意を決したように叫び、気配が遠のく。
しかし、それに一瞬ホッと息を吐きかけたソルの目の前に、いつの間にか接近していたイノが立っていた。目尻を歪ませ、暗く残虐な笑みを向ける。
「隙・だ・ら・け」
「――ッ!」
赤い爪の指がソルの胸にひたりと当てられた途端、肺の真上から叩き込まれた衝撃に、ソルは軽く50m後方へ吹き飛んだ。持っていた通信機も飛ばされ、体が空中を舞う。いきおい全身を地に強打したソルは息を詰めるが、目は見開いたまま痛みに耐えた。痛みを自覚しない内にと、ソルはすぐさま飛び起きて、空中を滑るように飛んで近付いてきたイノの追撃を剣で受け止めた。
硬質な音が響き、法力の火花が散る。
「早くオネンネしちまいなよッ」
「テメェこそ…、さっさと消えろ!」
鋭いかまいたちのような衝撃波を弾いたソルは、怒鳴り返しながらイノに拳を叩き込む。しかし、素早く身を退いたイノには当たらず空振った。背後に従えたイノの白い羽根が、大きく広がり唸りをあげる。
瞬間、至近距離で音の塊が弾けた。
「ガ……ッ!」
視界がブレるほどの衝撃に、ソルは苦悶の声をあげて体を折り曲げる。無防備なところへまともに喰らい、よろめきかけたところへ今度は頭部めがけてギターが振り上げられた。固いギターのボディが、ソルのこめかみに直撃する。
「ッ!」
「ヒャハハ! そのままイッちまいなァッ!」
甲高い耳触りな声と痛みにソルは眉間に皺を寄せながらも、その瞬間は慣性に任せて身を投げるしかなかった。地に付く瞬間には腕で衝撃を和らげたが、それでも容赦のない攻撃に受けたダメージは確実に蓄積されている。
くそ…っ、力任せでなんとかなる相手じゃねぇ……!
ソルは積もる焦燥に歯噛みした。ただの人間やギアなら全力を出したソルに適いはしないが、相手はあの男の側近であり、力で強引に押し切れるような輩ではない。
早く、と急くほどに攻撃の手は荒くなり、大きな隙を作る。だが、隙を窺っての戦いは時間がかかり過ぎる。
GEARの力で回復は早いものの、焦りでイノに確実にダメージを与えられないソルは、動きの切れさえ悪くなり、防戦一方へと変じ始めていた。
「あっははははッ! 随分ヘタクソになったじゃねぇーの、××××野郎! そんなんじゃ愛しの姫さまも早漏過ぎてガッガリだろうさッ」
「…っるせぇッ!!」
投げられる卑猥な言葉に怒鳴り返し、ソルは衝動のままに拳に溜めた炎の塊を叩きつける。圧倒的な熱量は周囲の植物を発火させ、石造りの道を真っ赤に燃え上がらせた。
だがその灼熱の焔が解き放たれる瞬間、イノが金色に発光する眼で嘲笑ったのが見えた。
「――ッ!?」
標的の姿が掻き消えたと思った瞬間、ソルの喉に鋭い痛みが走る。気がつけば、攻撃をすんなりかわしたイノが背後からソルの首を締め上げていた。
巻きついたギターの弦が一気に引き絞られ、喉の皮膚をズプリと突き破って食い込んだ。
「―…か…ッ!」
「ヨ過ぎて声も出ないってかァ!?」
耳触りな笑いとともに、イノが弦を引きながらソルの耳に噛みついた。そしてそのまま、力任せに引きちぎられる。
肉の裂ける音と走った激痛に、ソルは声もなく悲鳴をあげた。だがその叫びさえも、潰れた喉では発することが出来ずに、紅い血だけが大量に噴き出す。
血しぶきで真っ赤に染まる視界の中、不意にイノが何かに気付いたように吐き捨てるような笑いを漏らした。そして唐突に、肉に食い込み骨に当たって止まっているギターの弦を引き、強引にソルの首を捻らせる。
「ちょっとォ、見てみなよアレ! 3P…いや5Pかしらね!? こっちより先に盛り上がってんじゃない!」
「――!!」
視線の先のものを認識した瞬間、ソルの脳裏は深紅に染まった。
そこにあったのは、最初の衝撃で飛ばされた通信機だった。声だけでなく映像も送ることのできるそれは、小型の携帯用テレビに近い形の物で、情報屋が随時状況を映していたのもである。たまたま表向きに地面へ転がっていたそれは、鮮明に向こう側の映像を映し出していた。
見知らぬ男達の背と、その合間から揺れ動いて見える2本の白い足を。
映像を撮るカメラは地面に放り出されたのか、下からのアングルで尚且つ横向きに映されていた。だが、そこから垣間見る宿屋の現状は、簡単に分かってしまう。
倒れている情報屋の腕。既に薄汚れたベッドの上へと向けられている、屈強な男達の向ける視線の先。一際大きな体躯の男の腰が揺れるのと同じリズムで揺れる、合間から覗く白い足。
――そして、声が聴こえた。
『…ッヒ、……ア…ァ…』
「――……ぁぁああああああッッ!!」
ソルは目を限界まで見開いて、叫んだ。裂けた喉から新たな血が噴き出すのも構わず、悲痛の声をあげた。
そこから聴こえた喘ぎ声が、紛れもなくカイ=キスクのものだったから。
「キャハハハッ! 最高の展開じゃなぁい? あっちも楽しんでることだし、こっちもフィニッシュしちゃいましょうよ!」
弦を引き結んだまま、イノが高らかに笑う。その魔女の叫びも何もかも、その瞬間のソルには届かなかった。
ただ全身を凍えさせる絶望と怒りが綯い交ぜに、ソルの体を支配した。それはカイを組み敷く男達への怒りであり、背後の女への怒りであり……自分自身への怒りだった。
「さぁさぁ! こっちもさっさと盛り上がっ…――」
余裕の態で楽しげに笑うイノだったが、その声は突然途切れた。あまりに一瞬のことで、イノにも事態が認識できず、近くの塀に背中から衝突して初めて、自分がソルに吹き飛ばされたのだと知る。
轟音とともに家の塀を突き破り、瓦礫に埋もれたイノは驚愕に目を瞠ってから、目元を歪めて舌打ちした。
「なんだ、いきなりキレちまったか。メソメソ泣く姿が見れるかと思……」
「…ぁぁあああAAAAAAAAAッッ!!」
獣のような咆哮が迫ったかと思うと、悪態をつく暇さえなくイノは腹に拳を叩き込まれた。一瞬であらゆるものを炭に変える法力の炎が腹をえぐり、内臓を炭化させる。イノが常にまとう防壁も突き破ってねじ込まれたそれは、周囲も破壊する爆発となって余波をまき散らした。
「――ガ、ァッッ!?」
初めて感じる致命的な痛みに、イノは顔を引きつらせる。一瞬自分の背筋を凍りつかせたのは、紛れもなく死の恐怖。
まさか、この自分が死に怯えるなど。しかも、あの背徳の炎に対して……!
腹部に大穴を空けられたイノは、瞠目したまま忘我の域で拳を振り上げるソルを憎しみの目で睨みつけた。しかしソルもまた、憤怒のままにイノ目掛けて渾身の一撃を叩き込む。
――その瞬間、互いに限界以上の法力が引き出され、衝突した。
『!』
一点に集中した高エネルギーはその瞬間、空間に干渉していた。バランスを崩したように景色が歪む光景に気付いたソルとイノは、我に返って総毛立つ。
空間とは生き物のようなものだ。宇宙が果てしなく拡大し続けるように増殖することも、また消滅することもある。空間は決して不変なものではない。
そこにいる生き物を消すどころか、存在する次元ごと消し去るなど、容易なことだ。空間を渡れるといえどもイノとて万能ではない。その性質に作用し、便乗できる力は持つが、空間そのものをどうこうできるわけではない。
それこそ、この世を創造した神でもない限り、動き出したものを止めることは不可能だった。
加速して崩れていく空間を肌で感じるソルは、広がっていくワームホールをただ見つめることしかできなかった。









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