「――…、……!」
意識の遠く向こう側で叫ぶ何かの声に、ソルは覚醒を促された。だが鈍い全身の痛みと混濁した意識は、足を引っ張るように浮上しようとする気持ちを挫く。
さ迷う意識が再び闇に埋もれかけた瞬間、傍らの気配が鋭い声を発した。
「――ル、…ソル!」
必至で呼び掛ける、凛とした声。体を揺する、温かい手。
覚えがあり過ぎるその気配に気付いたソルは、一気に覚醒へと至った。
「ソルッ」
「――!」
こちらを覗き込み、必死に呼び掛けるその秀麗な顔を認めた瞬間、ソルは驚愕で目を瞠った。
澄んだ空気をまとう気配に、まさかとは思った。だが本当に、思い描いたその人とは思わなかったのだ。
蜂蜜色の金髪に、透明度の高い碧眼。長い金のまつげを瞬かせて、薄いが形の良い唇をめいいっぱい開けてソルを呼ぶのは――カイだった。
その衝撃の事実を認識するや否や、ソルは覚醒と同時に跳ね起きた。
「カイ…ッ!」
「え、ぅわっ!?」
ソルは衝動のまま、半身を起こして目の前の体を抱きしめた。それに驚いたカイが、ソルの胸板に顔を埋めたままくぐもった声をあげる。
抱き込んだ体は温かった。とりあえず幻ではなかったようだ。屈強な両腕から逃れようともがくカイを抱き寄せながら、ソルは思った。
ずっと求めていた存在が、今は腕の中にある。そんなことが、これほどまでに安堵させられるとは。ソルは、柔らかな金髪に頬を寄せた。
だが、ぬいぐるみの如く抱きしめられたカイは顔を真っ赤にしながらも柳眉をつり上げていた。
「ちょっと! いきなり何のつもりですかっ。だ、大体! あなたが何故ここにいるんです!?」
「なにって……」
どもりながらも早口で巻くし立てるカイの剣幕に驚き、ソルは僅かに腕を緩めて覗き込む。カイは目元を赤く染めながらも、真剣に怒っていた。
それに何か違和感を感じたソルは、顔を上げ――周囲の景色を見て絶句する。
二人のいるそこは、陽光も暖かな森の中だった。天気がいいのか、瑞々しく覆い茂る木々の合間から、こもれ日が差している。先程までイノと死闘を繰り広げていたスラム街の細道などはどこにも見当たらなかった。
どういうことだ……?
小鳥のさえずりさえ聴こえてくるのどかな風景に唖然としていたソルは、こちらを怪訝そうに窺うカイへと視線を転じた。
「ここは……どこだ?」
眉間に皺を寄せてソルがそう問うと、途端にカイは目を丸くして「呆れた!」と叫ぶ。
「ここはチェコのイィチーンです。イタリアへの遠征命令を無視してこんなところに倒れていたくせに……。分かっていてわざと聞いているんですか」
「……は? チェコ…、イタリア?」
大仰にため息をつきながら言うカイの言葉を聞いて、ソルは意味が分からず、さらに眉を寄せた。とりあえずここがドイツの街ではないのは分かったが、カイが呆れたように物を言う理由が分からない。
何かがおかしい。違和感が強くなり、ソルは改めてカイを見つめた。
艶やかに輝く、光を紡いだような金髪。長めの前髪の合間から覗く、大きな青い瞳。透明感のある、滑らかな白磁の肌。
カイの美しい造作は何ら違わない……が。
ぱっちりと開いた眼は、顔の小ささで尚更大きく見え、その顔のラインは丸みを帯びて幼さが表れている。体は戦士としてのしなやかさはあるものの、線の細さが目立った。
それは二十歳を過ぎた青年ではなく、十代半ばの少年のいで立ちだった。
「お前、まさか……」
ソルは自分が意識を失う前に見たワームホールを思い出し、目の前のカイを見て謎が符合するのを感じた。イノの空間を渡る力が高密度の法力によって暴走したことを考えれば、あり得ない事態ではない。
時空跳躍。
カイが言う『遠征』やソルを知っている点から、聖戦時代の、しかもソルが聖騎士団に属していた3年にも満たない期間へ跳んできたのだと推察できる。理論上は可能と言われながらも実際には成功したことのない分野ではあるが、アクセルやイノの例があるので、無いとは言いきれない。
――だが、何故このタイミングなのか。
ソルは奥歯を噛みしめて、顔を歪めた。カイが……男達に犯されて悲鳴をあげているというのに、助けに行くどころか時代さえ違う地へ飛ばされ、ますます遠のくだなんて。
自分の運の無さが、恨めしい。
「……ソル? どうしました?」
「あ……?」
俯いて黙り込んでいたソルは、不思議そうに覗き込むカイの声で我に返り、顔を上げた。求めている人物は目の前の少年と同一のはずなのに、抱きしめたい対象とは違うことを皮肉に思いながら、ソルは何でもないと首を振る。
しかしカイは眉を寄せ、ソルを気遣うような目で見た。
「でも……その傷はどう見ても、軽いものではないでしょう。任務放棄はさておき、とりあえず治さないと……」
既に痛みに慣れて、ソル自身忘れていた傷に手を伸ばし、カイが生真面目にそう言う。イノの弦で裂かれた喉は切り口が鮮やかであったため、逆に細胞の再生が早く、血糊で赤い線を首に残す程度だったが、噛みちぎられかけた耳は皮一枚でぶら下がっている状態だ。他にも全身にあざや裂傷を負うソルは、さぞかしボロボロのなりに見えたことだろう。
カイがちぎれかけた耳を、正しい位置に押し当てて法力を込めると、傷口が熱を持ったようにうずき出して、ざわざわと皮膚が張っていく感触がした。
そろりと耳に手をやったソルは、綺麗にそれが引っ付いているのを確認して、目の前の少年を見つめた。
「すまんな。助かった」
「え……いえ、そんな……」
ソルが礼を言うと、カイは驚いたように目を瞠り、次いで顔を赤らめて俯く。どうしたとソルが目で問うと、カイは上目遣いでこちらをちらっと見てから目を逸らした。
「……なんだか……今日のソルは、オカシイですよ。素直に礼を言ったり、さっきは……私の名前を呼んだり……」
ソルの気安い態度に慣れないとばかりに、カイは居心地悪げに身じろぐ。言われて初めて、確かに聖騎士団に属していた頃の自分はカイなど眼中になく、ろくでもない態度ばかり取っていたことを思い出した。
時空を超えた時点でソルはこの時代においてイレギュラーであり、存在すること自体が歴史の変革に繋がる。カイと接触したことで既に既存の歴史から逸れていると考えるべきだが、無用な接触は避けた方が良いのは分かりきっていた。
いくら目の前の存在が愛しい人に変わりないとはいえ、ここで可愛らしく恥ずかしがるカイを抱きしめるような真似は絶対にできない。思わず動きそうになった手を握りしめて押し留め、ソルはカイを避けるように身を引いてから立ち上がった。
「別に……いつもと変わらねぇよ」
「……ソル?」
想いを押し殺すように努めて平坦な声でそう言うと、態度が硬化したことに気付いたらしいカイが、僅かに不安げな声で名を呼んでくる。まだ声変わり前の高い声は幼さが滲み、後ろ髪を引かれる思いだったが、ソルは敢えて無視を決め込んで周囲を見渡した。
「目標のギアは……もう少し先、か」
同族ゆえに感じ取れる気配により距離を測ったソルは、穏やかな森の向こうを見透かすように目をやる。
カイがわざわざチェコに来ているということは、もちろんギアがいるからだ。そしてこの時代にいる本来の自分は、今頃イタリアでギアと闘っていることだろう。
「さて……坊やはさっさと任務に戻りな。俺も……やるべきを、やらなきゃならん」
赤い眼を眇めて、ソルは自分に言い聞かせるようにそう告げた。敏感なカイはソルの眼差しに何かを感じたのか、肩を揺らしてこちらを見る。
「……分かっているなら、最初から任務を放棄しないでいただきたのですが……いえ、やる気になっているのだからそれで十分ですね」
しっかりと小言を言いながらも、カイは苦笑してあっさり流す。記憶の中では、きゃんきゃんと説教ばかり口にする姿が残っているが、こちらがまともに向き合えばそれなりの態度で応じるのだと気付かされる。
……そうだ。もしかしたら自分は、そうした素直な言葉が足りなかったのかもしれない。
カイが、好きだと。何もかも捨てても、ただ一人だけは自分の傍にあってほしいと。そう願いながらも、それを口にすることは自分の生きてきた180年以上の年月が許さないと思い、煙に巻くような曖昧な言動しか示さなかった。
さよならと告げるカイを、自分はどうして是が非にも止めなかったのか。カイは自分のものだと思う傲慢な心が半分、もし離れたとしてもそれはそれまでだと思う諦念の心が半分。本当は、手放すことなど絶対に出来ないくせに。
もしもカイが自ら誰かを選び、体を許すのだとしたら、その相手を殺してカイを一生監禁するくらいはやってのけそうな、自分の危うい心が怖い。カイが嫌がっても無理矢理閉じ込めてしまいかねない、獣の自分が心の奥底にこびり付いている。
もう、カイを彼女と同一には見ていない。しかしだからなのか、彼女には決して抱かなかった強い独占欲を持ってしまっている。
――今も、男達に犯されるカイの声と揺れる白い足を思い出すだけで、理性が吹っ飛びそうになる。
「ソル……?」
不安げな声が、再びソルの意識を現実に戻した。無言で殺気を放つソルを恐れるように、カイはこちらを窺がっている。ソルが怒っているのだと、察せられるほどではないようだ。
おそらく青年であるカイならば、ソルの鋭い眼差しだけですぐに気付いただろう。
やはり、自分にはカイが必要だとソルは思う。人は皆、必ず誰かに分かってもらいたい、理解してもらいたいという願望を持っているものだ。既に人の枠から外れて生きるソルとて、人の意思を保っている限り例外ではない。
しかしそうして、誰かに受け入れてもらうこと自体が罪だと思ってソルは近しい存在を作ることを拒んできた。それが自分への戒めであり、贖罪だと思っていたから。
だが、カイはソルの払いのける手まで引いて、追い縋ってきた。それが一体、何だと。体が人でないからと言って、心までそうだというわけではあるまいと。
その強さにこそ、自分は惹かれているのだと改めて思い知る。『フレデリック』としての自分は彼女を必要としていたが、『ソル=バッドガイ』としての自分はカイでなければならない。
――だから、取り戻す。
「行くか……」
ソルはそう呟き、巴里のある方角へ顔を向けた。とりあえず今は聖騎士団本部へ行くことが、元の時代に戻るための手堅い手段だろうと思ったからだった。
体もそちらへ向けようとしたところで、険しい気配に不安の色を浮かべるカイの表情に気付いたソルは、徐にカイへと手を伸ばし――少し迷って、金色の頭に触れた。
「ま、坊やも頑張ってこい」
「…ぅわっ! 引っ掻き回さないでください!」
突然乱暴に撫で回すソルの手にカイは悲鳴をあげ、飛び退く様に離れる。既に十分乱れてしまった髪を慌てて撫でつけながら、カイはこちらを警戒するように毛を逆立てた。
「もう! さっさと仕事してきてくださいっ、し・ご・と!!」
「はいはい」
上司命令とばかりに叫ぶカイに、ソルは気のない適当な返事を寄越して身を翻す。雷から逃げるかのように素早く立ち去るソルの背に、負けじと「『はい』は一回です!」などと子供のような注意が飛ぶのを聞いて、ソルは思わず苦笑した。
しかし、これらがすべて過去の出来事だと改めて思い出し、走る胸の痛みをソルは目を伏せることで無理矢理やり過ごした。





人目も障害物も気にせず、ソルはひたすら全速力で走った。
そうして辿り着いた聖騎士団本部への侵入は、容易かった。いや、そもそもソルは団員として存在するので当然入ることは簡単だ。
ただ、本来は遠征中であることや服装が聖騎士団のものでないことから、周囲の奇異の目は集めることになっていたが、それも目的の部屋へ辿り着くまでのことならばソルにとって瑣末なことだった。
早3時間ほどぶりにやっと足を止めたソルは、重厚で装飾の施された戸を、殴りつけるように叩いた。
「開いておるぞい」
まるで待ち構えたかのように入室を促す声が、部屋の中から聞こえてくる。反応の良さに有り難いと思いつつ、ソルは遠慮なく扉を開けて中へと入った。
どっしりと構えた大きな机で、書類に何事か書き込んでいた老兵――クリフ=アンダーソンが顔を上げ、後ろ手に扉を閉めたソルを白い眉毛の合間からちらりと見た。
「……どうしたんじゃ? おぬしが自主的にここへ来るのは、初めてじゃな」
日頃問題を起こしては説教のために呼び出されているソルを皮肉るように、クリフはそんな言い回しをする。しかしソルは挑発に乗ることなく、時間がないとばかりに本題を切り出した。
「2、3質問がある。答えろ」
「……ふむ?」
ヘッドギアの影から光る紅い双眸の鋭さに、いつもと様子が違うと感じたのか、クリフが器用に片眉を上げる。書類の上を走らせていた羽ペンを止めて、クリフは睨みつけるような厳しい眼差しのソルをしばらく見つめた。
「……まあ、そう焦るでない。お茶でもどうじゃ」
突然破顔したかと思うと、クリフは書類一式を横に押しやってそんなことを言い出した。その反応に、元々長くない堪忍袋の緒が軋んだのを感じたソルは、口端を歪めてその申し出を即座に断る。
「いらねぇよ」
「玉露じゃぞ? 珍しい日本のお茶じゃ」
「いらねぇっつってんだろ」
しつこく勧めてくるクリフに苛立ちながら、ソルはいらないの1点張りで拒み続けた。しかし「濡れ煎餅という湿った煎餅も付けよう」や「イチゴ大福は食べたことがあるか?」等と際限なくオプションをつけ始めたので、ソルは堪らず「いい加減にしろ!」と怒鳴りつけた。
きょとんとして一瞬押し黙ったクリフは、大きく溜息をついて残念そうに肩を落とした――が、こちらを見る見る目は、探るような油断のならないものだった。
「せっかく珍しい客人が来たというのにな。少しは持て成させてくれても良いじゃろうて。……のう、ソルではないソル?」
「……!」
奇妙な言い回しではあるが、実に的を射たクリフの言葉にソルは思わず眼を瞠った。まさか、何も言っていないうちからイレギュラーな存在であることを見抜かれると思ってもみなかった。
意表を突かれて咄嗟に何も言葉が出てこないソルを見、不意にクリフは朗らかに笑う。
「お前さんのそんな顔を見るのは初めてじゃなぁ。……なに、警戒せんでもタネは簡単じゃ。お前さんの周辺の法力が、僅かに歪んでおるから分かっただけのことじゃて。しかし、それ以外にソルとの見分けは全くつかんの。本当に偽者か?」
明日の天気はどうだろうと問うかのような穏やかな口調で、クリフはソルに話しかける。だが、にこやかに細められた両目が、そうそう簡単には逃がしてくれなさそうな、危険な色を孕んでいることに気付かないソルではない。
下手な言い訳や逃げを打てば、覚醒技のソウルサヴァイヴァーが襲い掛かってくることは必至だと肌で感じ、ソルは諦めたように詰めていた息を吐き出した。
「俺は……この時代より未来から来た、ソル=バッドガイ本人だ。事故で、時空を超えてこっちに飛ばされてきちまった」
「……未来、じゃと?」
流石に思いもよらぬ答えだったか、ソルが素直に事実を述べるとクリフは驚いた顔をした。ソルとて当事者でなければ、そんなことを突然言われても到底信じられないだろう。アクセルのように各時代で出会えば、嫌が応にも信じざるを得ないが。
しかしクリフは黙って顎鬚を弄っていたかと思うと、不意になるほどと大きく頷いた。
「詳しい事情は分からんが、お主がそう言うのならそうなんじゃろうな」
「おい……そんな簡単に納得するのかよ」
フォッフォッと笑ってそんな簡単に言ってのけるクリフが信じ難く、ソルは呆れた眼差しを送る。だが、クリフは至って穏やかに――しかし真顔で、ソルの持つ剣を指差した。
「その神器・封炎剣、内包する法力を鑑みても偽物ではあるまい? こちらにある封炎剣は、ちょうど今し方メンテナンスをしてきたばかりでの、在ることは確認済みじゃ。……そうなると、二つ本物が存在すると考えるのが妥当というもの」
「……」
流石、人類代表の長だけあって、クリフの洞察力は高い。昔はその鋭さに恐れを抱くこともあったが、今回は余計な説得をする必要がないので助かった。
どうせ下手な嘘をついたところで見破られるのがオチだろうと思い、ソルはありのままのことを話すことに決めた。
「……俺は、今すぐにでも元の時代に戻らなきゃんらねぇ。だが、俺自身は時空跳躍を起こすことはできない。空間歪曲の理論は一応確立化されてるが、時空跳躍となると絵空事でしかねぇ。意図して起こせるのは一握りの奴だけだ」
「……そうじゃの、今のところ時空を渡ることは出来ん。だが、お前さんは戻る必要があると?」
「ああ」
クリフの確認に、ソルははっきりと頷く。不可能だろうが何だろうが、そうしなければならないことに変わりはない。
明確な答えに安堵したようにクリフは柔らかく笑み、次の問いを投げかけてきた。
「して、何の策もなくこんな場所に顔を出すお前さんじゃあるまい。……何が必要じゃ?」
呑み込みが早いうえに、一歩先を見通したクリフの質問にソルは内心驚く。だが同時に、こうした理解を得らることが如何に有り難いかを思い知る。行く先々で悲惨な目に合されているらしいアクセルは、誰にも信じてもらえなくて悔しい思いをしたことは、決して1度や2度ではあるまい。
先人の知恵と言うべきか、奇しくもアクセルから苦労話を聞かされていたソルは、この事態に陥っても取り乱さずに済んだ。
「この事象によく関わる知り合いの話だと、同じ時間軸、同じ場所で2人の同一人物は存在できないらしい。本来とは違う世界の……イレギュラーの存在の方が弾きだされるようだ。……だから、俺はこの時代の俺自身を探してる」
「なるほど……お主が自身に接触することで、自動的に時空跳躍が起こるというわけじゃな?」
「そうだ。だから、イタリア遠征に行ってる俺がいつ頃こっちに戻るか教えてくれ」
ソルが明確に希望を出すと、クリフは迷いなく了承を示した。そして徐に懐中時計に似たメダルを取り出し、蓋を開ける。
「あー、あー。応答せよ、応答せよ、ソル初号機。緊急連絡じゃ」
『……おいコラくそジジイ。変な呼び出し方するんじゃねぇ!』
クリフがおどけたようにふざけた呼び方をすると、即座にメダルの向こう側から野太い怒号が響いた。声質や口調から、その相手がこの時代のソルだと気付かされる。
一体何をやらかす気だろうと不安に駆られながら見守るしかないソルの前で、クリフは通信相手の反応にからからと楽しげに笑っていた。
「なんじゃ、零号機がよかったのか? わがままじゃの」
『そういう問題じゃねぇ!』
クリフの空とぼけた冗談に、メダルの向こうのソルが憤慨した。
そういえばこの頃は、このタヌキジジイに弄ばれることが多かったんだったなと、ソルは遠い目で思い出す。
そんなソルを蚊帳の外に、老兵と不良騎士の不毛な言葉のキャッチボールは続いた。
「ま、そんなことはさておき。お主、こっちにはあとどれくらいで帰れそうじゃ?」
『馬の足だ、最低でも2時間はかかる』
「よし。じゃあお前さんだけ馬から降りて、全速力で走って帰って来い」
『はぁ!? ッざけんな、ジジイ!』
満面の笑みで無茶な上司命令を下すクリフに、ソルが非難の声をあげた。ソルの正体が分かっているからこその要求なのは分かるが、討伐後にそれを命じる酷さは如何がなものか。
しかしあのクリフが、そう簡単に退くわけもなく。
「一刻も早く、会わせたい客人がおるんじゃ。というわけで、これから1時間後に着かなければ、5分オーバーごとにお主の部屋にある酒瓶とCDを叩き割っていくぞい」
『はあぁぁ!!? ふざけんのも大概にしやがれジジイ! そんなの認め……』
「というわけで、ヨロシク☆じゃ」
向こうで喚き立てるのを、クリフはにっこり笑ったままブツリと通信を切った。そして念のいったことに主電源まで落とし、通信不能にする。
途端にシン…とした部屋で、ソルは一連のやり取りに顔を引きつらせていた。しかしその反応に気付いていないかのように華麗にスルーして、クリフはソルに顔を向ける。
「まあこれで、早めに何とかなるじゃろう。良かったの」
「……一応、そっちの奴も俺自身なんだがな……」
「さて、じゃあ玉露でも淹れるかの」
文句を口にしてみるものの、それもまた鮮やかに無視されて、クリフはニコニコと笑ったまま隣の部屋へと消えた。思わずソルは、疲れた顔でため息をつく。クリフの無茶振りは相変わらずのようだ。頑張れ昔の俺、などと一応胸中で声援を送っておく。
……だが、そこでふと気付いた。ソルには、聖戦時代にイタリア遠征へ行った記憶はあるが、今のクリフとのやり取りは記憶にない。やはりソルの存在で、歴史が改変されてしまっているのだろうか。
いや、もしかすると。むしろ、歴史が変わってしまった方が良いのではないだろうか……? 不意にそんな考えが、ソルの脳裏をよぎった。
根本からすべて変われば、そもそもこんな事態にはならなかったのではあるまいか。もしもカイがソルを好きにならなければ、あるいはソルがカイを好きにならなければ、こんなすれ違いは最初から存在しなかったのではないか。そして、カイが傷付くこともなかったのではないだろうか……。
もうこの時代のカイはソルと知り合ってしまっているが、お互いに意識するようになったきっかけは、恐らくまだだ。同室で過ごしていたときの諍いで体の関係を持つまで、そういう意味での意識は互いにしていなかったのだから、今なら深入りする前に止められるだろう。
カイはソルを仲間の一人として見、ソルはカイを次期団長と見、封炎剣の強奪によってカイには裏切り者として記憶され、それから会うことはない。第二次聖騎士団選抜大会において再び会うが、ジャスティスを仕留めることが目的のソルには、カイの存在など瑣末なことでしかない。
もともと直接的な接点はあまりない二人だ。意識するどころか互いに忘れてしまっても、なんら不思議はない。
今なら、変えられる。無かったことに、出来る。
実際に歴史の書き換えが何を引き起こすかは分からない。そもそも歴史の推移さえもイノくらいにしか分かり得ないだろう。どういう反動が表れるか予測できないが、それでも悲劇を変えることができるという誘惑は強かった。
「どうしたんじゃ? 元から凶悪じゃが、さらに恐い顔になってるぞい」
「……」
お茶を淹れてきたクリフが黙り込むソルに目敏く気付いて、茶化すように声をかける。だがその眼差しは、決して言葉通りの軽いものではなかった。
鮮やかな緑色のお茶が入った荒削りの湯呑をソルに手渡し、クリフは自分のお茶に口を付けて、一息ついた。
「何か悩みがあるんなら、ワシで良ければ聞くぞ?」
至って朗らかにそう言い、ソルを促す。しかしソルは黙ったまま、渡されたお茶を見つめていた。
ただでさえ罪深いこの身で、さらに罪を重ねようというのか。GEARを作り、聖戦を招き……そのうえ、私情で歴史を覆そうなどと。どれだけ身勝手なことを続ければ気が済むのか。
クリフはソルを気遣っているようだが、ソルの考え付いた歴史の変革には確実にクリフを巻き込むことになる。業を背負うのは自分だけではない。
だが、ソルの迷いを見透かすようにクリフは細い目で笑った。
「今更、何を遠慮することがある。どうせ、お主の時代でワシは生きてはおるまい?」
「……ッ!」
不意に言われた言葉に、ソルは驚愕する。確かにクリフは、第二次聖騎士団選抜大会でジャスティスとの戦いの際に命を落としている。だが、その事実をどうしてこの時代のクリフが察することができたのか。
思わず目を瞠るソルに、クリフはふっと笑った。
「やはり、そうか。未来から来たというお主が、まっ先にワシのところへ来たのは、ワシならば話したところで影響が少ないと思ったからじゃろう。法力理論は小難しゅうてよう分からんが、戦前のSF映画はよく見たからのう〜、フォッフォ」
「……映画かよ……」
実は心でも読めるのかと慄いたのだが、クリフの暢気な答えにソルはガクリと頭を垂れる。ハリウッド映画などは貴重な戦前の文化財として聖騎士団本部や各国政府に保管されているので、クリフほどの立場の人間ならば自由に閲覧可能だろう。しかしそれらのフィクションと、12階法から成る整然とした理論の存在する法力による事象とを同一視されては、元科学者としてのソルとしては不本意極まりないが、過程はともかく行き着いた結論は合っている。
人を食った暢気な笑いを浮かべるクリフをソルは少し恨みがましく見、試すように口にした。
「じゃあ……俺が、テメェに歴史の書き換えを持ちかけたら、どうする?」
「……歴史を、変えるということか?」
不思議そうにクリフは眉を上げ、確認する。ソルが首肯すると、クリフは鬚を弄りながらしばし考える様子を見せた。だが、その黙考は長くなかった。
「内容によるのぅ。何をお前さんは変えたいんじゃ?」
「……坊やの、カイの未来だ。……俺を、アイツに近付けさせるな」
思わず、ソルの願いは口をついて出てしまった。すぐさまソルはハッと我に返るが、音となった言葉はもう戻らない。勢いのままに滑り出た言葉は、既に歴史の根本に触れた。
禁忌に、踏み込んだ。それを自覚し、ソルは冷たいものが背を這う感覚を味わう。
しかしクリフはそれを聞き、怪訝そうに片眉を上げた。そして唐突に――意外にも、大笑いし始めた。
「それは、ワシにどうこうできるものではなかろうて! ……すでにワシはお主らを引き合わせてしまったが、それ以上のことをワシが何かすると思うのかのぉ? 一生共に居ろと、誓いを立てるよう強要したとでも? ……ありえんじゃろう!」
ワハハと盛大に笑い飛ばし、叫ぶクリフの様に、ソルは唖然とする。言われてみればそうかもしれないと、クリフの反論に頷けるところもあるが、人の決死の願いをこうも笑い飛ばされると憮然としたものを感じてしまう。
ソルは紅い双眸を眇めて、腹を抱えて笑う目の前の老人を睨みつけた。
「だが……実際、テメェの処罰が引き金になったんだ。近付けたことは確かだ」
「……ほぉ?」
恨むような暗い眼差しで告げるソルに、クリフはふと笑いを納める。真顔になり、クリフは下から見上げてくるが、その老獪の目の奥にはからかうような色があった。
「では問おう。その処罰とやらがなかったとて、お主はカイを完全に無視できたかの? 全く、気になる人間ではなかったかの?」
「……っ」
その問いに、ソルは咄嗟に反論が出来なかった。カイを犯したとき、自分が何故今までこんな子供を気にかけ、苛立っていたのかを思い知った記憶がある。理由を自覚したのは確かにあの時だが、以前からカイには他とは違う思いを抱いていた。
カイに触れる前から、想いは芽吹いていたのだ。たまたま、自覚したきっかけがその時だったに過ぎない。
「もう、今更無理じゃて。お主らがGEARと戦うことを決めている限り、必ず道は交わる。出会い、それが気になる存在だというなら、遅かれ早かれ行き着く先は変わらんよ。人の心は他人がどうこうできるものではあるまい。……例えそれが、お主自身だとしてもな」
クリフの言葉はあまりにもっともで、ソルは頷くことしかできなかった。そんなソルに、クリフは実際には逆だが――我が子を見るような慈しみの眼差しを向ける。
「だから……お主は、これからのことを考えるんじゃな。過去は今更変わるもんでもないわい」
後ろを振り返って嘆いたところで、何が変わろうか。それよりは、これから出来ることに目を向けてはどうか。そう言う、クリフの言葉は至極真っ当なことだった。
まさか、昔助けた子供にこうして説教される日が来ようとは。ソルは苦笑を浮かべて自分の情けない体たらくを嘲笑うが、不思議と腹は立たなかった。戦が終わっても後に英雄として語り継がれるだけの偉人になった彼ならば、容易く納得もいく。
「そうだな……」と呟き、ソルは素直に受け入れた。過去の歴史を変えて危険は回避したとしても、それまで得られた喜びもまた消滅する。場合によっては、全く別の危険が生じることもあるだろう。そうなれば、結局納得のいく結果になるまで歴史を変え続ける羽目になってしまう。
やり直せないから、変えられないから、人は人生を精一杯謳歌する。だから、かの魔女はその改変が可能であるが故に、いつも暇を持て余してつまらなさそうにしているのだろう。
重苦しかった胸が少し軽くなったように感じ、ソルは息をついて、渡されたまま手を付けていなかったお茶を口元に運んだ。それは想像していたよりも遙かに甘く、しかし奥に仄かな苦みがあり、ソルの舌を喜ばせた。
だが寛ぐソルとは裏腹に、クリフは少し難しい顔をして唸る。
「しかしまあ……あの子と深く付き合うのは、骨が折れるじゃろう。あの子は自分自身の存在に価値を見出しておらんからの、どうしても自分を粗末にするところがある」
我が子同然に育ててきただけあって、クリフはカイの良い面も悪い面も知り尽くしている。クリフの呟きに、ソルも内心同意した。
ソルに言葉が足りないことも大きな要因だが、カイもまた自分が誰かに想われる対象ではないと思ってしまうところがある。傍から見れば謙虚な態度と取れるかもしれないが、近しい者からすればカイの態度は余所余所しく、一線引いて付き合っているように見える。
それは全て、自分を蔑むが故。
「次期団長の座をと言っても、わしの代替え品くらいにしか思っておらんしのぉ……」
「代替え品……」
我が子の将来を嘆く様に言葉を零すクリフを見て、ソルは反芻する。数日前に投げかけられたカイの言葉が、脳裏に蘇った。
――……私になんか構わないで、本当に好きな人の所へでも行けばいいだろう?
――無理しなくていいよ。……今まで私の我儘に付き合ってくれてありがとう。
自分の感情を捨てて、仮面を被ろうとするその姿は、悲しく寂しい。そうすることを望まれ続け、務めてきたカイにはもはや染みついてしまった性なのかもしれない。
だがそれでは、報われない。カイ自身も、カイの幸せを願う者も――。
「……昔、聖戦勃発以前に一人の女がいた」
「?」
突然のソルの独白に、クリフが怪訝な眼差しを向ける。脈略のない口切に疑問の目が向けられていることを感じながらも、ソルは続けた。自分でも何故、そんなことを唐突に思い出したのか分からないが、ふと錆かけた記憶の中でカイの献身的な姿が何かに似ていると感じた。
かつて、全世界の母と言われた女性に。
「国も身分も人種も超えて、そいつのことを知らない人はいなかった。生涯、病や貧しさに苦しむ者に希望を与え続けていた女だ」
「希望……」
淡々と語るソルの意図に気付いたように、クリフは鸚鵡返しに呟く。その理解の色に内心安堵しながら、ソルは続きを口にした。
会いたいと願う人を、思い描きながら。






無駄に白く長い法衣をばさばさとはためかせ、ソルは速度を緩めることなく全力疾走で聖騎士団内部をひた走っていた。
90°の角を曲がる時も速度を落とさず通行人もお構いなしだったため、他の団員が時々巻き添えを喰っていたが、ソルには些細なことでしかない。
突風のように目の前を通り過ぎる赤い影を見て、廊下の照明器具を修理中だったベルナルドは首を傾げた。
「ソル殿……? 確かさっきも通り過ぎたと思ったのだが……」
気のせいだろうか。ベルナルドはしばらく悩んでみたが記憶にあまり自信が持てなかったので、結局気のせいということにして作業に戻った。
そんな不思議そうな視線や、突き飛ばされて悲鳴をあげる団員の声など聞こえぬかのように、ソルは驀進して一つの部屋の前で急ブレーキをかけた。そして、乱暴に扉を殴りつけて叫ぶ。
「オラァ、ジジイ! 約束通り一時間以内だ! 文句ねぇだろッ」
まるで取り立て屋の如く性急に叩いて怒鳴るソルに臆することなく、中からクリフの声が聞こえた。
「おう、空いておるぞ。さっさと入って来い」
存外にのんびりした口調でクリフに言われ、ソルはとりあえず忙しないドアのノックを控える。別段、怒った雰囲気もないことから、自分のコレクションを叩き割られる事態は回避できたと感じたからだ。
だがあのクリフが相手だ、また別のトラップが用意されていることも有り得る。ソルは油断なく身構えて、ゆっくりと扉を開いた。
地位を表すかように、無駄に広く作られた団長室へ足を踏み込んだソルは、目尻に皺を寄せて柔和に笑うクリフに出迎えられた。
「うむ、時間通りじゃの。御苦労さん」
「……」
存外、穏やかだった。そのことに内心驚きながらも無表情のまま、クリフに近付く。長い法衣を捌きながらソルが近付くと、子供が大の字で寝られそうなくらいのワークデスクの上には緑色のお茶が二つと、何やらよく分からない菓子類が皿に盛られているのが目に入った。
「疲れたじゃろう。お茶でも飲んで休むといい。珍しい、日本のお茶じゃよ」
ソルの視線の先を見透かしたクリフが、機嫌良く笑ったまま湯呑を差し出す。日本のお茶だと聞いて興味を引かれたソルはそれを一旦受取るが、クリフに怪訝な眼差しを向けた。
「確か、俺に会わせたい客がどうとかって言ってなかったか……?」
聞きながら辺りを見渡すが、いくら気配を探ってもこの部屋にはクリフとソルしかいない。誰とも分からない相手と会うためだけに、遠征先から徒歩で帰らされる羽目になったというのに、会わせたい客とやらの姿が見えなかった。
さては、担がれたか? ソルがそう思って剣呑な目で睨むと、クリフは緩く首を横に振った。
「わしは会わせたかったんじゃがの、大事な用事があると言って先に帰ってしまったんじゃ。急かしたのに、無駄になってしもうて悪かった」
頭を下げ、拍子抜けする程あっさり謝るクリフの態度に、思わずソルの方が面喰らう。結果的に入れ違いになったことが腹立たしくはあったが、噛みつく気が殺がれたソルは、痒くもない頭を掻いて溜め息をつくだけに留まった。
「……別にいいけどよ。こんなお茶会をやる暇があるんなら、もうちょっと待ちゃあいいだろ」
お茶に菓子と、如何にものんびりティータイムを楽しみました言わんばかりの痕跡がありありと残っているのに、時間がないから帰る、はないだろう。仮にも、こちらはイタリアまでギアを狩りに行っていたというのに。
そう言ってソルがぶつぶつと文句を漏らしていると、クリフが微笑んで菓子類を指差した。
「何を言うておる。これはみんな『最初から』、お主のために用意したものじゃぞ。それを証拠に、何も手を付けておらんじゃろ」
「……?」
今、何か引っかかる言い方をされたような。ソルの鋭い聴覚はクリフの言に違和感を感じ取ったが、その理由までは分からなかった。
不審げに目を細めながらもソルが皿に視線を落としてみると、確かにそこへ盛られた珍しい形状の菓子はどれも手をつけられた痕跡がない。つまりはソルが戻ってくるのを見越して用意されたものだということになるが、ソルの直感は違うだろうと告げていた。だがそれを嘘と決めつける明確な理由がないため、追及は呑み込む。
その代りに、気になる『会わせたい相手』についてソルは聞いた。
「……で、そいつは誰なんだ? どっかの役人とかなら、ごめんだぜ」
面倒事は勘弁してほしいとばかりに、ソルは肩を竦める。だが、クリフは意味深な笑みを浮かべて曖昧な答えを返すだけだった。
「お主のよーく知っている、カイと仲の深い人物じゃよ。……まあいずれ必ず会うことになるからの、気にすることはないわい」
「……なんなんだ、そりゃ」
謎かけのような回答に、ソルは眉間に皺を寄せる。自分が知っていて、カイと仲がいいとなると、クリフや側近のベルナルドくらいしか思い浮かばないが、それは今更わざわざ会わせる対象ではあるまい。
あの坊やと深い仲、か……。
ソルは胸中で言葉を反芻してみて、何か面白くないものを感じる自分に気付く。うるさく説教ばかりしてついて回ってくるカイの姿ばかり見ているので、他の人間と一緒にいる様子があまり想像できなかった。実力は間違いなく人間の中では一番であるにも関わらず、その年齢やクリフとの関係で微妙な立場にいるだけに、他の団員と談笑する姿はほとんど見かけられないからだ。
だが、自分が知らないだけで本当は親友がいるのかもしれない。そう思うと、無意識にソルの眉間の皺が増えた。
「さて、と。ぼうっと突っ立ってないで、さっさとそこに座らんかい」
「……あ?」
「折角用意したんじゃ、食べてしまうぞい。他の団員が帰ってこぬうちにな」
「おいおい……」
近くの来客用の椅子を指示して着席を促し、クリフがソルに菓子を押しやる。相変わらずマイペースで強引なクリフにソルはため息をつきながらも、仕方なく勧められるままに椅子へ腰を下ろした。
酒の代わりに日本茶を掲げ、クリフは乗り気でないソルに満面の笑みで祝杯の言葉を向けた。
「では、お前さんと客人の無事な帰還を祝って!」
「……ぁあ?」
何かオカシな言い回しにソルが怪訝な顔をしている間に、勝手にクリフに手を取られて湯呑をカツンと合わせられてしまう。一方的な乾杯を済ませたクリフは、あおるようにお茶を飲み干して早速菓子に手を伸ばした。一人残された感じで釈然としないまま、ソルは仕方なくお茶に口をつける。
それは甘いが、奥に苦みを隠した極上の味わいだった。










               通りゃんせ 通りゃんせ


               行きはよいよい 帰りはこわい
               こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ













眠りに落ちるように薄れ、拡散した意識が再び集束する感覚。自身の存在を構築する情報の羅列が肉体を構成し、命を吹き込む瞬間。
緩やかに意識が覚醒していくその中に気だるいまどろみはなく、暗転から幕が開けるような鮮やかさがあった。
だが、そうして拓けた視界の先に見た光景に、ソルの思考は一瞬で沸点に達した。
鼻孔を突き抜ける生臭い血の匂い。湿り気を帯びた重く淫らな空気。人目を阻むような薄暗い部屋。苦悶の呻きと下卑た笑い。
時空を超えて五感を取り戻したソルは、安宿の一室に立っていた。暗く狭いその部屋で、目の前には屈強な男達が数人と、足元には情報屋のその仲間らしき男が血を流しながら転がっていた。
そしてその薄笑いを浮かべる男達の前にあるベッドには、四肢を抑えつけられたカイの姿があった。
「――――!!」
それを認識すると同時に、ソルは声にならない咆哮をあげ、突進していた。一糸纏わぬ姿にされたカイの秘孔に、一人の巨漢の凶器が今まさにねじ込まれようとしている瞬間だった。
情報屋達を伸して愉悦に浸っていた男達へ一足飛びに近付いたソルは、衝動のままに炎を纏った拳で殴りつけた。突然現れたソルの姿を捉えられぬまま、男達は弾丸のような殴打を受けて一斉に吹き飛ぶ。
「うごぁッ!?」
「ぎゃ…!?」
無様に悲鳴をあげて6人の男達は空中に舞い、それぞれ壁や家具に衝突して崩れ落ちた。地震のような振動を伴って大の男が床に転がる轟音に、意識を取り戻した情報屋がゆるりと顔を上げる。
「ソルさ、ん……!」
こめかみから血を流しながらも、ソルの姿を認めて安堵の表情を浮かべた。横に倒れている彼の仲間もひどい暴行を受けたのか腹部を抑えて蹲っていたが、ソルに気付いて横目で仰ぎ見、苦悶の表情に苦笑を貼りつかせる。役に立てなくてすみませんと言いたげな様子だが、もともと戦闘には不向きだと言っていたので、見事玉砕したとてそれは仕方のないことだった。
むしろその決死の覚悟で、少しでも時間を稼いでくれたことにこそ感謝せねばなるまい。
「……助かったぜ。あとは、俺がやる」
だから、しばらくそこで休んでな。
そう言い、ソルは封炎剣を逆手で握りしめた。一度蹴散らした男達に視線を向け、紅い双眸に殺意を宿す。
本当に、どういった奇跡なのかは分からない。だが、ソルは幸運にもカイが犯される前の時間軸に『跳ばされて』きていた。
ソルがソル自身と近付くことで時空跳躍が起こることは分かっていたが、正直、跳んだ先が元の時代である保証はどこにもなかった。未だに元の時代へ帰れないでいるアクセルを知っているだけに、一度の跳躍では帰ってこられないだろうと思っていた。
それがまさか、カイを救える場面に跳んでくるとは。
あの、通信機越しに見たカイが蹂躙される様は、実際にはなかったことになったのだ。ソルの出現で、歴史が変わった。
歴史の改変の罪を、どんな形で背負わされても構わない。ソルは、この奇跡に感謝した。
「くっそ……、なんなんだッ?」
突然の衝撃に何が起こったのか分からない様子で、男達は強打した箇所を押さえながら立ち上がる。いずれも確かに体が大きく、腕力のありそうな体付きをしているが、所詮人間などソルの敵ではない。
ソルはカイを犯そうとしていた巨漢に標的を定め、剣を構えた。
「……俺のものに手ェ出したこと、死んで後悔しな」
「! お前は……っ」
ソルの存在に気づいた巨漢が、目を見張って叫ぶ。その声さえ聞くに耐えず、ソルは喉元をかっ捌こうと足を踏み出した。
だが巨漢はその殺気に怯えるでもなく、苛立ちのこもった眼差しでソルを睨みつけてきた。
「そいつは、テメェのもんなんかじゃねぇだろッ! ……強姦しといて、よく言うぜ!」
「……な」
思わず振り抜こうとした剣を止め、ソルは顔を強張らせる。
何故、そんなことをこんな奴が知っている……!?
まるで心臓に冷たいナイフを滑り込まされたように、凍るような思いが体を支配した。カイと別れたのは、無理矢理犯した時が最後だったことを、嫌でも鮮明に思い出してしまう。何の反応も返さず、人形のように抱かれるだけのカイの姿を……。
顔を歪めて止まったソルに、巨漢はやっぱりなと吐き捨てるように言った。
「お前も、俺達と同じ穴のムジナだってことだ。……白馬の王子を気取るには、お角違いだとは思わねぇのか!?」
「テ……テメェらなんぞと一緒にされてたまるかッ!」
焦りながらも怒鳴り返し、ソルは再び走り出す。一瞬で巨漢の懐に潜り込み、驚愕している間に鳩尾へ渾身の力で拳を打ち込んだ。胃液を吐き出しながら体を浮かした巨漢に、ついでとばかりの回し蹴りを見舞い、窓から外へ吹き飛ばす。派手にガラスの割れる音が響き渡り、破片が散った。
巨漢が2階から転落するのを見届けぬうちに、態勢を立て直した他の男達が一斉にソルに襲い掛かる。多少は実戦経験があるとはいえ、ソルにとっては素人同然だった。
返り打ちにしてやろうとソルが身構えた瞬間、不意に必死に声を絞り出す情報屋の叫びが耳に届く。
「待っ……! ソルさん、カイ=キスクさんが…ッ」
「……!」
何かを知らせようと声をあげる情報屋に視線を移し、次いで素早くカイの方へと視線を移した。――が、さっきまでいたはずのベッドの上に、姿はなく。
慌てて部屋中に視線を走らせたソルの目に、よろめきながら部屋を出ようと扉を開けるカイの後ろ姿が映った。
「おいッ、どこに行……!?」
思わず叫びかけたところで、ソルの側頭部に男の拳が襲い掛かる。視界が揺れ、反射的に片目を瞑ったソルは、傾いだ体を立て直しながら攻撃してきた相手を睨みつけるが、その半瞬後には背中を別の男に殴られる。岩を叩きつけられたような圧迫が、背中から伸しかかった。
だが、ダメージ自体はソルにとって大したことではない。それよりも……
「ざってェッッ! 邪魔だ、どけぇぇッッ!!」
ソルは怒りのままに、法力を爆発させた。男達は一瞬で火達磨にされ、悲鳴をあげながら吹き飛ぶ。障害のなくなったソルは、カイを追いかけようと視線を戻すが、カイは既に扉を開け放って廊下に出ていた。
「坊やっ、何してやがる……!」
痩せ細った体で歩くカイに走り寄ろうと、ソルは駈け出す。しかしベッドを乗り越えて着地したところで、カイが怯えたようにこちらを見て、走り出した。
「私は……『もの』じゃない……っ!」
「!」
その言葉に、ソルは目を瞠る。自分の身勝手な言葉が彼を傷つけたのだと、気付く。だからカイは、逃げだそうとしているのだ。
だがその瞬間、不安定なカイの体は走ることもままならず、バランスを崩して足を滑らせた。情報屋の悲鳴が後ろ手であがる。
「そっちは階段が……!」
その声に重なるように、階段をずた袋が滑るような音が響き、カイの姿は視界から消えていた。ソルは思わず、息を呑む。
「カイッ!」
叫び、一気に部屋を走り出て、階段を一足飛びに下まで飛び降りた。ズダンッと音を立てて着地したソルは、階段の下で倒れている裸のままのカイを素早く抱き起こす。
「おいッ、……坊や!」
ソルは大声で呼びかけたが、ぐったりと目を閉じたまま、カイは動く気配を見せなかった。




>No.3へ