聞こえるのはギアの唸り声。
湿った草地を足の裏に感じながら、自分は封雷剣を携えて身構えた。
ギアの声は複数だった。音は幾重にも重なり合い、互いが互いの声を消し去ろうとするかのように、より地に響く声を上げる。
途切れることのないその声は徐々に自分の方へと近づいているようだった。
しかしなぜだろう。自分はゆっくりと剣先を下ろしてしまった。
ギアは草を踏み分けて、なおも自分の方へと向かってくる。その気配に、もちろん恐怖を感じた。だが、戦う気力が湧かなかった。

なんと悲しい声だろう。
そう思った。
巨人が声を上げて泣いているかのようだ。
自らの運命に嘆き悲しみ、これから犯すであろう大罪に恐怖し……そして見えない終わりに絶望する声。

草木の間からギアの赤い瞳がちらちらと見え始めた。まるで血の涙を流しているかのような鮮やかな紅の瞳が、自分を見つめる。ギアは目の前の木を異形の腕で薙ぎ倒し、自分の方へと迫ってきた。
裂けんばかりに開かれた目がギョロッと動き、自分を見定める。そして唸り声を上げながら、ギアは徐に腕を振りかぶった。

ああ、殺されるのか。

やけに冷めた気持ちで、振り下ろされる腕を見つめていた。
今までギアを悪と考え、ギアを倒すことは正義に他ならないと信じて疑わなかった愚かな自分。あの時代は確かに剣を振り回さなければ生きてはいられなかった。常に死と隣り合わせだったのだから。
でも、剣を持つ意味を自分は取り違えていた。
ギアに生きる価値がないと思っていたのだ。無理矢理人間の都合のためだけに作られた存在だということを忘れて…。
あまりに大きな誤解をしていた自分が許せない。正義の使徒だと信じていた自分の傲りがあまりに恥ずかしい。
殺すなら殺してください。さげずまれたあなた達のその手で。
しかし、ギアの鋭い爪が自分の胸に吸い込まれることはなかった。

一陣の風が目の前を 駆け抜ける。

突然大量の血が飛び散り、ギアの悲鳴が響き渡った。目にも止まらぬ速さで飛び込んできたものは、人だった。
いや、少なくともそれは人の形をしていた。
痛みで暴れ狂うギア達の懐に、その人影は躊躇なく飛び込む。そして空を撫でるような仕種でギアの首を斬り飛ばした。
明らかな攻撃の色を見せるその人物に、ギア達は標的を切り替える。
そうして両者は雄叫びを上げながら、殺し合いを始めた。

……どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
辺り一面が血の海になっていた。むっとするくらいに生々しい匂いが、澱んだ空気中に漂う。ぱちぱちと火を散らす草木の間で、その男だけが佇んでいた。
足元に転がるギアの残骸に目もくれず空を仰いでいた男は、ゆっくりとこちらに振り返った。

――あ……。

男は全身に返り血を浴びていた。ギアを斬り殺した剣からは、どす黒い血がボタボタと滴り落ちている。
半分以上に血を被った顔は、おそらく万人をもおののかせる悪鬼の表情だったろう。
しかしそれを見て、自分は胸が痛くなった。恐れでも嫌悪でもない。
悲しみで心が裂かれそうだった。息が詰まり、不覚にも涙が流れそうになる。
それほどまでに、男の瞳は悲痛の色を帯びていた。無表情の奥に絶望が見え隠れする。すべてを諦めようとして、なおもまだ希望を捨て切れずに揺れ続ける心の迷い。殺し合いを望んでいるわけではないのに、剣を握らざるを得ないという現実への葛藤。
それらが痛いほど体に染み込んできて……思わず叫ぶ。

もう止めてくれ…!

「――ソルッ!」
カイは叫び声とともに飛び起きた。
荒い息をなんとか整えながら、カイは静かに目を閉じる。瞼の裏に焼き付いた男の姿を反芻するように、目頭を押さえてゆっくりと息を吐いた。
「ソル…」
カイはもう一度男の名を呼んだ。できることならこちら側の世界に引き戻してやりたいという気持ちで。
でも、自分の力では何もできない。限りなく無力だ。



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