翌日、極端な生気の放出のせいで否応なしに重く感じる体に鞭打ちながら、カイが頼まれた古文書の解読をしていた時、突然予期せぬ来訪があった。
「少し邪魔するぞ、カイ」
扉を開けながら発せられた落ち着いた声音に、カイは久し振りの友人であることに気付き、少なからず驚く。
小走りで出迎えに行くと、そこには一人の男が立っていた。
輝きを放つストレートの黒髪を惜しみなく後ろに流し、その肌は不健康なほどに白いが、きめ細かく美しい。顔も体もすらっとした端正なつくりで、一見して女性に見紛う青年だ。
名をテスタメントという。
「久し振りですね、どうしたんですか」
玄関先に立つテスタメントを中に招き入れながら、カイは不思議そうに聞いた。
いや、不思議そうな顔を繕っているだけで、本当は神経を張りつめている。
テスタメントはカイにとって友人であると同時に紛れもなく「夜の狩人」のリーダーなのである。
別に悪いことをしたとは思っていないが、昨夜のソルと名乗る魔物とのやりとり
を思うと、自然と心の中で身構えてしまう。
「いや、なに……少し話さなければならんことがあってな」
慣れた様子で勧められた椅子に座るテスタメントは、少し深刻な顔でそう呟いた。
その様子を目の端に留めつつ、カイは湯を沸かし始める。
暗い陰りを含む表情が気になるのは確かなのだが、それ以上に別のことが気になってカイはテスタメントの全身を呆れたように見ながら口を開いた。
「テスタメント。その服は……いい加減どうにかならないのですか」
肩も腹も、あまつさえ女性にも引けを取らない妙に綺麗な足を全部さらけ出した黒い服。
テスタメントは全く気に止めていないようだが、椅子に座って足を組んでいるせいで、長いスカートのスリットから太股が剥き出しになっている。
テスタメントが女だというなら問題ない(別の意味で問題は生じるかもしれない)が、いくら綺麗な見た目とはいえ、男でこんな格好をしてほしいとは思わないし、はっきり言って見たくない。
思い切り嫌そうな顔をするカイに、テスタメントは少しムッとした。
「どういう意味だ、失敬な」
「失礼なのはあなたの見た目の方だと思いますが」
さらっとカイに言い返され、テスタメントは目を吊り上げる。
「この服が似合っていないとでもッ!?」
「似合いすぎて気味悪いから言ってるんです。今日限りで、その服はタンスの奥にしまっておいてください」
「貴様ッ、この服を作るのにどれほど苦労したか知らず……!」
「二度とそんなくだらないことに時間と労力を割かないで下さいね。あなたはともかく、周りが迷惑ですから」
笑顔でサクッと言われ、テスタメントは突っ伏したまま悔し涙でテーブルを濡らした。
その敗北姿にカイがくすくすと笑みを漏らしていると、テスタメントは溜め息をつきながら顔を上げる。
「……その性格の悪さは健在のようだな」
「失礼ですねぇ。これでも牧師なんですが」
不機嫌そうな声に反して、カイの表情はやわらかい。言葉で戯れ合うことを心底楽しんでいるといった感じだ。
タチの悪い奴だと思いながらも、なぜかテスタメントはこの青年を嫌いになれなかった。
だからこそ今日、わざわざこんな街外れの教会までやってきたのだ。
「……昨夜、魔物を一匹仕留め損なってな」
声のトーンを落としたまるで独り言のような告白を、カイはクッキーを皿に盛りながら静かに受け止める。
予想していたことだったので、さして驚かなかった。
平静なままでカイは悪戯な笑みを浮かべる。
「クリフ様に詰めが甘いって怒られたんじゃないですか?」
「う……思い出させるな」
テスタメントは唸りながら苦い顔をした。リーダーの座を引き継いで尚、テスタメントはクリフに頭が上がらないらしい。
クリフ=アンダーソンは「夜の狩人」の前リーダーで、息子のテスタメントに場所を譲って現在は引退している身だ。しかしその能力と戦略は、未だ衰えを見せない強者で、メンバーからも一目置かれる存在である。
頭を抱えていたテスタメントは、はっと我に返った。
「いや、それはともかくだ。その魔物なのだが……深手を負わせたことでこちらに来るかもしれない」
テスタメントは真剣な表情で言う。
カイは湧いた湯をティーポットに注ぎながら、首を傾げた。
「ここは教会ですよ。魔物にとって、これほど不利な場所はないと思いますが……」
「街の方は我々が厳戒体勢で警備しているからな。街外れのここを狙う可能性がないとは言い切れない」
相変わらず抜け目のない意見だ。
本来なら「大当たりですよ」とでも言っていただろうが、流石に今回は躊躇われた。
ソルはまだ本調子ではない。あんな状態で狙われたら、今度こそ命を落とすだろう。
そうなることを願っていないカイは、わざと冷徹な笑みを張り付けた。
「そうですね。ないとは言い切れない。でも……」
カイはそこで一度言葉を切った。
そして口端を上品に上げて、何か秘めことを話すかのようにささやかな、それでいて優越を滲ませた笑みをたたえた。
「私を本当に狙ったとしたら、それはあちらの運が悪かったとしか言い様がないですねぇ……」
まるで作ったような美しく完成された微笑み。
その艶かしくもゾッとするような恐ろしさを含んだ笑みに、テスタメントは本能的な恐怖を感じた。
「確かに気の毒だな……魔物の方が」
「でしょう?」
楽しそうに笑みを零して、カイは優雅な動作でカップに紅茶を入れる。
温かい湯気が香りとともにテスタメントの鼻を掠めたが、心の中は冷えたままだった。
魔物に関してカイに心配は無用。
そのことを忘れていたわけではないが、改めて底の知れないものを垣間見た気分だった。
「さ、温かいうちにどうぞ」
カイは音をたてずにカップをテスタメントの前に置く。そして、クッキーも中央に置いた。
「ああ……すまんな」
簡単に礼を言いつつ、テスタメントはカップに口をつける。カイも静かに着席してカップを手に取った。
しかし、それを飲もうとはせず、カイは正面のテスタメントを笑顔で見据える。
「ところで……最近の『夜の狩人』は魔物をむやみやたらに殺すようになったんですか?」
「……!」
テスタメントは驚きに体を強張らせた。
カイの顔は確かに笑っているが、目だけが笑っていない。
恐ろしいことこのうえないが、テスタメントは敢えて挑むような目をした。
「仕方がないだろう。いつ魔物に襲われるかと、街の人々が不安がっているんだ」
強い意志と使命を感じさせるテスタメントの瞳に、カイは軽く溜め息をつく。
「だからといって、根絶やしにしていいわけないでしょう」
「いつ襲われるか分からない恐怖に、いつも晒されていろというか!?」
「それが自然界の生き物として、当たり前のことだと思いますが」
「!」
澄ました顔でお茶を飲むカイを、テスタメントは信じられない思いで見つめた。
「貴様は……一体どっちの味方だ!?」
「もちろん人間ですよ。何言ってるんですか」
変なことを言いますね…と呟きながら、カイはカップをソーサーに戻す。
何と言って良いか分からず混乱しているテスタメントを一瞥してから、カイは窓の外に視線をやった。
「目の前で誰かが襲われたというなら、頼まれずとも助けますし、そのためには命も惜しみません。……しかし森の奥まで入って魔物を殺そうとするのは、人間の傲りだと思います」
外は夕焼けだった。
そろそろ日が沈む。
テスタメントは難しい顔で密やかに溜め息をついた。
「極力殺さないでおこうとするその考え方も、まだまだ健在のようだな」
「……そうですね」
外を見つめたままのカイは自嘲気味に笑う。
「だが……見切りをつけた時の残酷さは貴様が一番だった」
「……」
カイは静かに目を伏せた。そこは何の表情も浮かんでいない。
変化を見せないカイがどこか痛ましく、テスタメントは静かに席を立った。
ひどい言葉を言ったのに……。全部胸にしまい込んでしまうんだな。
見た目と裏腹に芯が強く、それ故に他人を頼ろうとしないこの青年に、テスタメントは背を向ける。
「妙な口論になってしまったが……今日はただ、気をつけろと言いに来ただけだ」
カイは椅子に座ったまま、その声を聞いた。
「唯でさえ貴様はよく狙われる。だから一応……心配したんだ」
照れ臭くて言いづらいのか、テスタメントの声は小さい。
けれど、カイの耳には充分届いた。
「ありがとう……テスタメント」
やわらかい微笑みがあることを背に感じながら、テスタメントはその場を後にした。



体がぎしぎし痛みやがる。しばらく治りそうにねぇな……。
すっかり日が落ちた森の中で、大樹に身を寄せながらソルは体を休めていた。
昨日出会った奇妙な牧師ーーカイに随分生気をもらって大方の傷は癒えたのだが、本来の力が発揮できるほどには回復していない。
ソルは腹立たしげに近くに生えている草を乱暴に千切って、口の中に放り込んだ。
苦い味が口に広がるが、それを我慢して飲み込む。しかし、ほんの少し体の奥が温かくなっただけで、体にほとんど変化は現れなかった。
植物から得られる生気は、どうしても微々たるものでしかない。
「くそ……。あいつが喰いてェ」
閉じた瞼の裏に、金髪の青年を思い出す。
今までソルが喰らってきたどの人間よりも上等で濃厚な気を、カイは持っていた。
もう一度あの生気にありつけたらな…と、嫌でも思ってしまう。
だが、その考えを即座に打ち払った。
似合っているよと言って見せてくれた、あのやわらかく美しい笑顔を失ってしまうのは何か勿体ない気がする。
けれど、あの青年は身も心も強かった。もしかしたらあと少しくらいは生気を奪っても……。
そこまで考えて、ソルは不意に自嘲の笑みを漏らした。
あまりに都合の良いことを考えている自分に気付いて、悲しくなる。
「また俺の身勝手で……殺すのかよ?」
あの女の時のように。
眠ったまま体が腐っていくのをただ見続ける気か?
「……ぞっとしねェな」
はっと笑い声をあげて、ソルは草の上に寝転んだ。
もういい。全部忘れて、じっとしていよう。
そうすればきっと、体の痛みも少しはマシになる。
完全に目を閉じて、ソルが深い眠りに落ちようとした時、背中の翼が何かの気配にピクッと震えた。
「……!?」
今までの緩慢な動きとは比べものにならない俊敏さで、ソルは大樹の頂上近くまで跳んで身を隠す。そして、息を潜めて気配を絶った。
近づいてくるのは強大な力の塊。
「まさか…ヤツか…?」
眉間にしわを寄せて、ソルは身構えた。しかし、今のこの弱った状態でどこまで太刀打ちできるか分からない。
ここにいることがばれなければそれでよし。もしばれれば……戦闘は避けられない。
「しかし……なぜヤツがこんなところにいる?」
普段はもっと森の奥の方にいるはずだ。それこそ日の光りさえ全く届かないような闇に……。
「一体何が始まるってんだ……」
嫌な予感に駆られて、思わず目を細める。
ソルの遥か頭上には、太陽に代わって夜を制する月が、昨日と同じ顔を覗かせていた。




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