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種族のイドラ



森に息衝く動物達が息を潜めながらも、爛々と光る目で獲物を探し始める真夜中は、魔物が人を求めて徘徊する時刻でもある。
故にそれらを狩るために動く「夜の狩人」も、自然とこの時間帯に活動することが多かった。
「そっちに逃げたぞ! 逃がすな!!」
完全な闇の中でこだまする男の声に、幾らか離れたところにいる数人の仲間が、瞬時に標的を囲むような陣形を取った。そして、それぞれが武器を取って構え、同時に呪文を紡ぎ始める。
周囲から圧迫を掛けてくる「夜の狩人」に、追い詰められた魔物は低い唸り声を歯の間から漏らした。魔物特有の金色の瞳が、獰猛に光る。
「夜の狩人」は魔物を狩るエキスパートで、そこにいる男達の誰もが腕利きの者だった。完全に包囲されれば、いかな魔物であろうと容易く逃れることはできな い。
だが、こんな状況下でも、その魔物は冷静だった。
「! ヘンリ、危ないッ!」
「え――うわぁぁぁッ!!」
刹那、ヘンリと呼ばれた男が悲鳴を上げ、空中に紅い尾を引きながらその場に倒れ伏した。そして、その上を大きく飛び越えて黒い影が駆けていく。
周りの男達は思わず呻いた。どうやら相手の魔物は一筋縄ではいかないものらしい。追い詰めたはずが、易々と逃げられてしまった。
「今日はここで引き上げる! だが、準備が整い次第、再度ヤツを追う。いいな 」
リーダー格の男は早々に退却命令を出して、仲間達に各々の武器を収めさせる。
仲間を一人欠いた状態では十分な力が発揮できず、更なる犠牲者を出すかもしれないという配慮からだ。なにより、獲物は確実に仕留めたい。
「……しかし、難しい相手だ」
周りを警戒しながら街道に出ようとする男達の中で、リーダー格の男は呟いた。
先程の魔物は迷いもせずに、よりにもよって昨日仲間に入ったばかりのヘンリを狙った。おそらく統制の取れた中で、一人だけ微妙に遅れを取っていることに気付いたのだろう。
そこから崩せる。――そう判断したのだ。
ただ強いだけの魔物というものは意外に御しやすいものだが、頭の良い魔物はなかなか面倒である。純粋な力関係ではなくなってしまうのだ。
「まあ、それなりに傷は負わせたからな。人の生気を吸わねば、あの傷は治りきらんだろう」
そして、のこのこ街中へ現れたところを仕留めればいい。
ふん、と軽く鼻を鳴らして男達は、森から引き上げていった。


――それとほぼ同時刻。
小さな街の外れにある教会で牧師を務めるカイ=キスクは、その日にあったことを日記に書き終わったところだった。
結構な年数が経っている古い教会だったが、不思議とここを訪れる人の足は絶えず、それなりにやらなければならないことが沢山ある。おかげでカイはあまり私的な時間が持てなかった。
「これで……終わりだな」
ふうと息をついて日記を棚に戻し、カイは少し伸びをしながら立ち上がった。
すべての仕事が終わるころには、いつも「明日」になってしまっている。なので自然と、就寝前にお茶を入れて飲むことが唯一の私的な時間の過ごし方になっていた。カイはいそいそと薄暗い書斎を出て、キッチンの方へと向かった。そして、礼拝をしに来た街の人から貰ったお茶の葉を取り出す。
あまり耳にしたことのない産地のものだったので、どんな味か楽しみで仕方がない。逸る気持ちを抑えながら、カイはケトルを火にかけた。
そうだ。折角だから月でも見ながらお茶を飲んでみようか。
あまり行儀は良くないかもしれないが、たまには夜風に当たりながらお茶を味わうのも悪くないだろう。
なんとなくそんなことを思い付いて、寝室に外套を取りに行く。今夜は少し肌寒い。
黒い厚手のものを選んで袖を通しながらキッチンに戻ろうとした時、カイはふと違和感を覚えて暗い窓の向こうを凝視した。
どうやら近くの森から、法術による磁場が発生しているようだ。おそらく「夜の狩人」が魔物を狩るためにしていることだろう。
しかし今の自分には関係ないことだ。目の前で人が魔物に襲われているというなら助けないわけにはいかないが、森の奥深くに住む魔物をわざわざ狩りに行く気はない。
そう心の中で切り捨ててみるものの、なんとなく気になって遠くで衝突を繰り返す複数の気配をしばらく読み取っていると、ケトルが騒がしい音をたてて主を呼び始めた。
「あ……忘れてた」
森の方に意識を素っ飛ばしていたカイは、我に返ってキッチンへと急ぐ。
素早く火を止めてティーポットに湯を注ぐと、ふわぁっと葉が開いて香りが部屋の中を満たした。それだけで、体の疲れが少し和らいだ気がする。
カイはそのティーポットと予め出しておいたお気に入りのカップを盆にのせ、鐘塔へ向かった。
鐘を撞くところなので余分なスペースはないが、見晴らしはどこよりも良い。なにより月に最も近い場所だ。
頂上に続く階段は完全に真っ暗で、せいぜい手元くらいしか見えなかったが、感覚の鋭いカイには関係のないことだった。常人ならば躊躇するような石段を淀みなく上がっていく。
大きな鐘の下にひょっこり頭を出したカイは、眼下に広がる寝静まった街の風景に、思わずほうっと息を吐く。少し天を仰げば綺麗な真ん丸のお月様が顔を出していた。……やはりここに来て良かった。
そうしていつもと違うティータイムに心を踊らせていたカイは、すぐそばに別の気配が潜んでいることに気付かなかった。
「――痛ッ!」
突然喉を支点に全身を壁に叩きつけられ、思わずカイは苦悶の声を上げる。抗う暇も与えない、強力な力だった。
――と、ティーポットとカップが派手な音をたてて割れた。衝撃で取り落としてしまったらしい。
ああっ、まだ飲んでないのに……!
心の中で少し緊張感のない叫びを上げる。暗闇から生えた太い腕が未だにカイの細い首を締め上げているのに、本人は自分の身の危険より、お茶とカップが駄目になってしまったことの方がショックだった。
……誰だか知らんが、許すまじ。
堅くそう決意し、カイは思い切り怒りを込めて、腕が生えている暗闇を殴りつけた。
「が…っ!?」
もろに右ストレートがヒットしたらしく、結構いい音がした。
予想外の反撃に動揺したのか、気配が少し後退るのがわかる。カイは相手の腕を軽く払いのけた。
そして、その場にしゃがみこんで足元に散っているティーポットとカップの破片を拾い集め始める。
「あーあ。結構気に入ってたのに……。同じものを買ってこいとは言わないけど、代わりのものくらい用意してほしい……」
「……おい」
いきなり襲われたというのに、平然かつマイペースに行動するカイに、態勢を立て直した相手が思わず呻く。
「お前、俺が何者か全然分かってねぇだろ……」
闇の中で呆れたように呟く気配に、カイは眉をひそめた。
「お前が誰かなんて知るわけないだろう。名前、聞いてないんだから」
「そういう意味じゃなくて、だな……」
どこかピントの外れたカイの言葉にしびれを切らせて、気配がゆっくりと動いた 。
音もなく闇から現れたのは、一人の男。ぱっと見は極普通の人間だった。カイより少し背が高い程度で、特に何か際立って目立つものはない。
だが、浅黒い肌に赤を基調とした服を身に付けているその下には、隠し切れないほど盛り上がった筋肉が男の呼吸に合わせて収縮を繰り返していた。この肉付き具合なら、か弱い女性を抱き殺すくらい、いとも容易くやってのけるに違いない。
一番最初に相手の戦闘能力を計ろうとしてしまう癖が抜けないカイは、男の立ち振舞いや予測される歩幅を頭の端に留めつつ、男の顔に視線を移した。
腰まで無造作に伸ばした髪と、月明かりの影になっていることでよく分からないが、それなりに整った顔立ちをしているようだった。綺麗という形容には程遠いが、恐らく格好良いという分類だろう。
そして一番目を引くのは、切れ長の――輝く金色の目。
見紛うことなき、魔物の目だ。
「やっと気付いたか?」
男は不敵な笑みを浮かべて、しゃがみこんだまま手を止めて凝視しているカイの顔を覗き込む。男が本能的な優越に口の端から牙を覗かせると、カイはきょとんとした表情で見つめ返した。
「…何が?」
問われた意味がさっぱり分かっていないらしい。
男は仕方なくカイの目の前に、手の平を突き出して見せる。
瞬間、その五本の指からまがまがしく鋭い爪が生えた。明らかに人間ではない異常な身体能力。
「これで、俺が何者か分かっただろ?」
「だから名前を聞いてないから分からないって……」
「そういう意味じゃねぇっつってんだろ!」
尚もボケた発言をするカイに、男は声を荒げた。なにかひどく馬鹿にされている気分だ。
「……俺が人間じゃないことくらいは分かるだろ、坊や」
「悪いが坊やと呼ばれる年じゃない」
ちょっとムッとしながらカイはそう言い返して、あらかた拾い集めた破片を盆にのせ、それを持って立ち上がる。
そしてそのまま背を向けて階段を降り始めた。
「おい、ちょっと待て」
思い切り無視される形になって、男は咄嗟にカイの二の腕を掴んだ。
両手が塞がっているカイは、特に抵抗もせずに後ろを振り返る。
「一体なんだ。私はもう一度お茶を入れ直して、満月を見ながらゆっくりティータイムを過ごしたいんだ。魔物のお前に付き合っている暇はない」
「…優先順位が狂ってるぞ…」
至極真面目に語るカイを、男は半眼で見る。
――が、そこで明らかに引っ掛かる言葉があったことに気付いた。
「お前……俺が魔物だって分かってるんじゃねぇか……!」
「? 何を当たり前のこと言ってるんだ」
カイは奇妙なものでも見るように男の方を見ながら言う。男は目眩でも感じるのか、額に手を当てて項垂れた。
「……はなっから分かってたんだな」
「当然だ。気配が人間じゃない」
カイは体ごと男の方に向き直って告げる。
月明かりでも十分映える蒼玉にはっきり射ぬかれ、男は戸惑った。
「分かってて……なぜ逃げない」
「逃げる理由があるのか? お前は私を殺さないのに」
確信に満ちたカイの言葉に、男は瞠目する。
「最初の一撃も、別に殺すつもりでやったものじゃない。違うか?」
「……」
ちょっと小首を傾げて、階段の上方に立っている男を見上げるカイ。
魔物であるが故に夜目の利く男は、カイの上等な見た目に少なからず惑わされていたことに失笑する。どうやらあなどるべき相手ではなかったようだ。
無防備なようで、隙のない目をしている。
「……クックックッ……」
「?」
男が低く笑い出したことに、カイは怪訝な顔をした。
「本当は少し生気を頂こうかと思っただけなんだがなぁ……」
ねっとりとした口調で男はそう言いながら、カイの顔を覗き込む。
鼻が触れ合うほどに近付いた男の目は、ぎらぎらと危険な色を孕んでいた。
何か危ういものを感じてカイは咄嗟に身を退こうとしたが、素早く伸びた男の手に、両腕を捩り上げられてしまう。
持っていた盆が音をたてて落ちた。
陶器が今度こそ木端微塵に砕ける。
「……手を放せ」
しばらく間を置いて、カイは静かに声を発した。
一瞬動揺を見せたはずなのに、すぐにまた元の冷静さを取り戻している。
それが男の癇に障った。
「……気に入らねぇ。その生意気な口が二度と聞けねぇように、根こそぎ奪ってやる」
獰猛な笑みを浮かべて、男は力任せにカイを壁に押し付けた。衝撃と痛みに、カイが短く息を吐く。
「別に体を喰らうわけじゃねぇから、痛くはないぜ。安心しな。……ま、代わりに昏睡状態になっちまうがな」
そしてそのまま衰弱して死に至る。男の言葉には、暗にそういう意味が含まれていたが、カイは別に脅えなかった。まあそうだろうな、と胸中で肯定するだけだ 。
抵抗どころか表情さえ変えないカイに、男は苛立った。
この澄ました顔をなんとかして崩してやりたい。
そんな、本来の目的とは少し外れた願望を抱き始める。
不意に男は酷薄な笑みを浮かべて、カイの首筋に舌を這わせた。
「……!」
カイが驚いたように目を見開く。
その表情が面白くて、男はそのままゆっくりと耳元まで舐め上げた。
「……っ」
妙な刺激に、カイは上げそうになった声を咄嗟に殺す。両腕を縫い止められたまま、顔を背けて避けようとするカイの耳元に、男は口を近づけた。
「なんだ、感じてんのかぁ?」
せせら笑うような、毒のある囁きが耳を掠める。
カイはギロッと睨付けて、無言のまま頭突きを繰り出した。
「ぐぁ…っ!?」
流石に予測していなかった思わぬ反撃に、一瞬男が手を緩めると、カイは腕を振り払い様に全力で男のみぞおちに拳を叩き込んだ。
「う…っ!」
いくら細身といえど、カイは男であることに変わりはない。かなり効いたらしく 、男は手をついてその場に蹲った。
男が立ち直る前に、カイは指先に法力を発生させ、男の額にひたと当てる。
「――!」
ばちっと音を立てて、白い光が体の表面を走った。
呪縛の魔法だ。
「てめぇ…ッ!」
法力で動きを封じられてしまい、男は上目遣いで睨付けたが、闇の中で月の光を背に立つカイが、ぞくっとするほど美しく、なにやら言い知れぬ恐怖に支配され る。
完全に形勢が逆転してしまったことに、知らず男は額に冷汗を浮かべた。
しかし優位に立ったはずのカイは、どこか憂いを含む表情だった。
「そんな弱った状態で、私に勝てる訳がないだろう……」
カイは身を屈めて、男の背にそっと触れる。
手にはぬるりと温かい血が付着した。
カイが思った通り、男の背は傷だらけで、未だに血が流れ続けている。
「可愛そうに……翼を千切られたんだな」
男の背から、血にまみれた骨が二本突き出しているのを見て取って、カイは僅かに顔をしかめた。両翼とも根元から折られたらしく、骨からは血と混じって髄液が溢れ出ている。もはやどんな形状の翼が生えていたのか想像もつかない。
そしてよく見ると、男は腕や胸にも少なからず傷を負っていた。暗くて分からなかったが、近付いてみるとよく分かる。
鋭い刃物に切り刻まれた肌。汗で張り付く髪。闘いで乱れた息。そして、未だ闘争心を失わない瞳。
カイは、やれやれと息をついた。
「汝の敵を愛せよ、か……」
「……?」
困ったような、それでいて楽しそうな笑みを浮かべるカイに、男は不審げに眉を寄せる。
が、次の瞬間には驚愕に目を見開いていた。
カイが覆い被さるように、男の口を自分の口で塞いでいたのだ。
「なにしやが…っ!」
叫ぼうとした男の言葉を封じるように、カイは唇に喰らいついた。そして、 口移しするように密着したまま口を開いて、息と一緒に自らの生気を送り込む。
「!」
体の隅々まで行き渡る強い気に驚きを隠せず、男は唇を奪われたまま間近にある端正な顔をまじまじと見つめた。
しかしカイは至って真剣な顔で、何度も気を送り込んでくる。冗談というにはほど遠い一生懸命といった様子だ。
傷付いた体を満たす充分な気を受けて、男は傷が癒えていくのをまざまざと感じた。切断された筋肉が結合し、崩れた細胞組織が巻き戻しのように再生される。
だが、背中の翼は損失が激しすぎて、なかなか元に戻らない。
もっと気を取り込もうと、男はカイの柔らかい舌に自分の舌を絡ませた。
「……ん」
弾力のある舌に強く吸われ、カイは僅かに顔をしかめる。しかし、男を突き放そうとはしなかった。まだ、翼が再生していない。
――とはいうものの、求めるというよりは奪うような舌の動きについていけず、カイの息が乱れ始める。
「ふ、ん…ぅ…っ」
翻弄されそうになっていることに気付いて、カイは負けじと深く唇を重ね、自分の意識がぎりぎり保てる程度の気力を残して、すべてを一気に吹き込んだ。そして、ぱっと男から身を離す。
軽い目眩が起こっている頭を押さえながら、カイは男の変化を見守った。
背から突き出た痛々しい骨が音をたてて再生し、その後を追うように神経と筋肉が包み込んでいく。そして、見る間に羽毛が全体を覆った。
急激に復活した翼の全貌を見つめて、カイは純粋に感動した。大きく広がった翼は大の大人を包み込んでしまえるほどに大きく、その羽も一枚一枚が月の光を受けてつやつやと輝いていて美しい。
男の背から生えた翼は――雪のように真っ白な翼だった。
凶悪な雰囲気と荒っぽい見た目を持つこの男とは、あまりに懸け離れた清潔な純白に、カイはくすりと笑みを漏らす。
「……どんな恐ろしい翼が生えてくるのかと思ってたけれど、まさかよりによって天使の羽が生えてくるとはな」
「うるせェ。似合ってねぇことくらい分かってる」
男自身も気にしているのか、忌ま忌ましそうに言った。
しかしその言葉に、カイはゆっくりと首を横に振る。
「いいや。優しいお前に、よく似合ってる」
「……なんだと?」
一瞬からかわれているのかと思って、男はカイの顔を見たが、カイは装いのない無邪気な笑みを浮かべていた。
疑うことも憚られるような、やわらかい愛惜の笑顔。
男は、子供のように微笑むカイに戸惑いを隠せず視線を逸らせると、カイが徐に近付いて、何やら呪文を唱えた。
法力が収束し、一瞬で散ったあと、男は呪縛が解けたことに気付く。
「今のうちにここからできるだけ離れた方がいい。『夜の狩人』は一度狙った獲物は逃がさないからな。必ずまた追いかけてくる」
先程の無防備な笑みを完全に消し去り、冷静な表情に戻ったカイは、静かに忠告した。
男は立ち上がり、自由になった体をほぐしながら、金色の瞳でカイを見つめる。
「なんで魔物の俺を助ける?」
「別に助けたつもりはない。生気を吸い付くされて死ぬよりは、自分から与えられた方がマシだと思っただけだ」
綺麗だが相変わらず淡々とした調子で話すカイ。
誰もが目を見張るような容姿を持っていながら、どんな事態にも驚かずに平然と構えているこの奇妙な青年に、男は少し興味を持った。
「……お前の名は?」
別になんでも良かったのだが、とりあえず何かこの青年について知りたいと思い、男はぶっきらぼうに聞いてみる。
突然の質問だったが、カイは特に気にせず、男を正面に捉えて答えた。
「私はカイ=キスク。……別に覚えておいてもらうことでもないがな」
歯に衣着せぬカイの物言いに、男は苦笑いを漏らす。
確かに魔物に名乗ったところで仕方がない。
――でも、
「俺はソルだ。……もちろん覚える必要なんざないがな」
くっと低い笑みを漏らし、ソルは縁から身を投げ出した。
ばさっと音をたてて大きな翼が広がり、月を背景にソルのシルエットが濃い夜空に浮かび上がる。
目を逸らすことなく静かにこちらを見据えるカイに、ソルはわざと見せ付けるように舌でゆっくりと自分の下唇を舐めた。
「お前の生気は美味かったぜ。……いずれ他の『せいき』も味わってみてぇもんだな」
「……」
カイの表情は何一つ変わらない。
挑発したつもりだったが、どうやら失敗したらしい。
「……まあ、どうせもう会うこともないから関係ねェか」
そう呟きながら、ソルは闇に身を翻した。

純白の翼が完全に見えなくなってから、カイは不思議そうに首を傾げる。
「最後に言ってたのは……一体どういう意味だったんだろう」
まともな青春時代を送ったことのないカイには、ソルの冗談とも本気ともつかない卑猥な発言の意味がさっぱり分からなかった。
しばらく色々と考えを巡らせていたが、どちらにしろ分からなかったので、カイは結局考えることを放棄し、暗い階段を下り始めた。



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