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「カイちゃん、ごちそうさま♪」
「いえいえ、大したものでなくてすみませんでした」
にこにこと上機嫌で夕食をすっかり平らげたアクセルに、カイは満面の笑みを向けた。自分の作った料理を「おいしい、おいしい」と言って食べてくれるのはやはり気持ちのいいものだ。
しかしそれとは対照的に、何も言わずに黙々と食べている者がいる。言うまでもなく、勝手に上がり込んできて居座っているソル=バッドガイである。
遠慮もなしに食事を平らげていくソルを横目で見て、カイは密かに溜め息をついた。最近この男は、なぜか月に二、三回はカイの家へ勝手に上がり込むようになっていた。どう考えても不法侵入者でしかないのだが、ソルが訪れてくれるようになったことは……正直嬉しいと思っている。だが、毎度毎度やって来るのは真夜中で、人の家の食糧を大方減らしてはまたどこかへふらりと消えるのは流石にやめてもらいたい。アクセルのようにいつも食うに困る状態でもないくせに、こちらの三倍は軽く平らげていくので、思わず呆れてしまう。
そうやって何度も人の生活に乱入しておきながら、ソルは一度も料理について何も言いったことがない(正確に言えば初めてカイの家に来たときは美味かったと言ったが、それ以降はない)。実際は終始無言で食べる姿にもう慣れてしまっていたが、いい機会だと思って、ソルがスープに手を付けようとした瞬間、カイはその器をひょいと取り上げた。
「たまには料理の感想くらい言ったらどうなんですか?」
「……」
試しに聞いてみるが、やはりソルは何も答えない。あまつさえ、無言でスープを取り返そうとしてくる。それを上手く避けながら、カイは再度口を開いた。
「おいしいんですか? まずいんですか?」
ソルの顔を覗き込むように、カイはしつこく感想を求めた。しかし、ソルはヘッドギアの奥から睨み付けてくるだけで、何も答えなかった。その反応に軽く溜め息をついて、不意にカイはにっこりと微笑む。
「……じゃあこれはアクセルさんに食べてもらうことにしましょう」
「お☆ やったね♪」
「おいッ!!」
アクセルにスープを差し出そうとした手を、突然ソルに鷲掴みにされた。大きな骨張った手にがっちりと手首を掴まれて、カイは思わず困惑する。
「ちょ、ちょっとっ。何ですか、この手は」
「……別にまずいなんて言ってねぇだろ」
仏頂面で歯切れ悪く、ソルはぼそっと呟いた。その言葉にカイは少し頬を染めて一瞬言葉を失ったが、まだそれは自分が認められる範囲の言葉ではなかった。
カイは顔を引き締めて、わざと意地悪くソルを一瞥する。
「別に美味くもまずくもない料理を我慢してまで食べてもらおうとは思ってません。……この手を放してください」
カイが厳しく突っ撥ねると、ソルは僅かに眉根を寄せて逡巡したようだった。
だが、結局ソルは静かに手を放した。
軽い落胆がカイの胸を締め付けたが、こんな無愛想男に積極性を求めた自分の方が間違いだったと思い直し、優雅に微笑みながら手のつけられていないスープをアクセルに渡した。
「サラダもまだ残っていますので、おかわり自由ですよ」
「あ、ホント? んじゃおかわり頼んじゃおっかな」
アクセルはちらっとソルの方を見て様子を窺ったようだったが、カイに悪いと思ったのか、殊更明るい調子で話した。
「あと、何か飲み物持ってきましょうか?」
ボールからサラダを取って皿に盛り付けながらカイが聞くと――、
「コーヒー」
などと、ぶっきらぼうな声が聞こえてきた。それを鮮やかに無視して、カイはアクセルの方を見て再び聞く。
「何か飲み物いりますか?」
「え、あ…んーと。じゃ、じゃあカイちゃんオススメの紅茶で!」
正面からソルに睨まれて焦りながらアクセルがそう言うと、カイは満面の笑みを浮かべて「わかりました」と答えた。しかしその優雅な雰囲気に水を差すようにソルが不機嫌そうに言う。
「おい……コーヒー」
尚もそう言うソルを、カイは再び無視した。
「じゃあ、最近ダージリンで良いのが手に入ったので、それにしますね」
「……コーヒー」
「ソルには聞いてません。勝手に水でも飲んでてください」
三度目の訴えもむなしく突っ撥ねられ、ソルは不機嫌なオーラを纏ったまま押し黙る。カイはそれを気にも止めずに、サラダを盛った皿をアクセルに差し出して、紅茶を入れにキッチンの方へ引っ込んだ。
手触りが良さそうなさらさらの金髪が見えなくなってから、アクセルは黙々と残りの料理を食べているソルの方に視線を移す。
「旦那〜。ちゃんと言葉にして言ってあげなきゃダメじゃん」
「……」
困ったような笑みを浮かべてアクセルはソルに声をかけてみたが、ソルは初めから聞こえていないかのようにまるきり無視している。フォークが皿にあたる音が時折響くだけの気まずい雰囲気の中で、アクセルは自分の前に置かれているスープをソルの方に寄せた。
「ちゃんと食べて、おいしいって言ってやんなよ。カイちゃん、俺達のためにわざわざ腕をふるってくれたんだからさ」
「……別にわざわざってわけじゃねぇだろ」
食べ終わったソルが面倒臭そうな口調で言う。どうやらソルは本当にカイのことを注視して見ていないらしいことが分かり、アクセルはこれ見よがしに肩を落としてみせた。
「旦那、もしかしてなんにも知らないの? カイちゃん、晩ごんをパンケーキで済ませちゃうような人だよ? だから今日みたいなこんな豪華な料理、普通は作らないんだってば。そこんとこ、ちゃんと分かってる?」
諭すようにアクセルがそう言うと、ソルはたばこに伸ばしかけた手を一瞬止めた。
「……なんでてめぇが、んなこと知ってやがる?」
「え? ああ、だってほらっ。俺様こんな体質じゃん? だから行くあてなくて、この時代に来たら必ずカイちゃんの家に訪ねるんだよ。でも時間帯とかめちゃくちゃだからさ、食事時に間違えて乱入しちゃうことが多いんだ。だから知ってるんだけど……」
言ってから、アクセルはなんとなくソルの反応を窺う。ちょっとはカイのことが気になっただろうかと期待を込めて見ると、あからさまな敵意とぶつかった。不愉快そうにソルがこちらを睨んでいる。
ソルは剣呑な雰囲気を漂わせたまま、真っ直ぐアクセルを射抜いていた目線を外し、徐にアクセルが寄せたスープを手にとって口をつけた。
その行動を咎めることなどもちろんしないアクセルは、ソルがスープをすすっているのを面白そうに眺める。
「旦那、やっぱおいしいっしょ?」
「……まあな」
アクセルが陽気な声で聞くと、ソルは顔も上げずに呟いた。嫌々というよりは、そういう褒め言葉を言うのが照れ臭いからという口調だ。それでも一応認めたのだから進歩した方もしれない。
しかし、やっと本音を白状したかと思ってアクセルが安心した矢先、背後から声がした。
「アクセルさんになら普通に言うんですね……」
どこか苦しさの滲んだその声音に、アクセルは慌てて振り返る。途中から話を聞いていたらしいカイが、トレーにカップを三つ載せて立っていた。
カイの表情はさっき出ていったときと大して変わらなかったが、瞳が僅かに揺れ動くのを見て、アクセルは何か気の利いた言葉はないものかと頭を巡らせる。だが、アクセルが言葉を発する前に、カイがカップを目の前に置いた。
「ダージリンです。冷めないうちにどうぞ」
「あ、ありがと」
控え目だが完璧な微笑みを向けられ、アクセルはあえなく言いたい言葉を飲み込んでしまった。カイは傷ついたときに傷ついた顔をしないので、余計に声を掛けづらい。
アクセルがおろおろしている間に、カイはソルの前にどんっと音を立ててカップを置いた。中からコーヒーの香ばしい香りが漂う。
なんだ、結局持ってきたのか…と思いながらアクセルが見ていると、あろうことかソルはさも当然といった様子で、そのカップに手を伸ばした。すると案の定、カイのしたたかな平手が飛ぶ。
「……痛ぅ」
「私は飲んでいいなんて一言も言ってませんよ」
カイは冷めた目でソルを見下ろして言った。深い青の奥に静かな怒りが宿っている。
それを見てとったソルは、少し困ったような顔をしながら、空になったスープ皿をカイの前に突き出した。
「美味かった。……だからまた作ってくれ」
「え……」
意外な言葉を聞いて、カイは心底驚いたように目を丸くした。まさかソルがそんなことを言うなど思ってもみなかったのか、一瞬カイはからかっているのだろうかと不審そうに探る目をしたが、ソルが真剣に言っているたのだと分かると、ぱっと顔を赤らめた。カイが表情を和らげただけで、張りつめた雰囲気が一変する。
「ありがとう……ございます。こんな料理で良ければまたいつでも作りますから、遠慮なくいってくださいね」
はにかんだ笑みを浮かべて、カイは礼を言った。氷のように冷たかった表情はどこへやら、飾らない素のままの笑顔をカイは惜しげもなく見せる。カイに対して妙な感情を抱いているわけではないアクセルでも、思わず見惚れてしまいそうな笑みだった。
そんな可愛らしい顔を真っ直ぐに向けられたソルは、黙ったまま気まずそうに目を逸らす。柄でもない科白を吐いて感謝された日には、確かに決まりが悪いだろう。
なんだかんだで納まるところに納まっている二人を見て、アクセルは紅茶に口をつけながらにや〜っと笑った。
「なんだよ、結局ただの痴話喧嘩じゃん。俺様、わざわざ心配しちゃって損しちゃったな〜…って、うわあッ!」
にやにや笑うアクセルの横を、超高速で飛んできたフォークがかすめていった。
突然凶器を投げつけた張本人は、今までに見たこともないような朗らかな顔で、今度はナイフの切っ先をアクセルの方に向ける。
「次は目を潰してみるか」
やけに穏やかな口調で恐ろしいことを口にするソルに、アクセルは顔を引きつらせた。思わず助けを求めるようにカイの方を見ると、カイはにっこり笑ってソルの肩にぽんっと手を置く。
「ソル。あんまりいじめるとアクセルさんが可愛そうですから、とりあえず病院送りくらいで勘弁してあげなさい」
「了解」
「ちょ、ちょっと待った〜ッ!!」
極上の笑顔で思い切りソルの後押しをするカイを、アクセルは悲鳴のような声で制止した。天使のような慈愛に満ち溢れた顔で、とんでもなく恐ろしいことを言ってくれる。
「ごめんなさい〜ッ! 俺が悪かったです! だからお願い殺さないで〜ッッ!」
アクセルが合掌して必死で拝み倒すと、ソルは興味を失ったようにナイフを皿の上に戻した。優雅な笑顔をたたえていたカイも、冗談ですよと言って苦笑する。アクセルとしてはさっきのカイの目は本気だったような気がしてならなかったが、まあ本人がそう言うのならそうなんだろうと無理矢理納得することにした。
「おい、坊や。酒はないのか?」
コーヒーに口をつけたソルが、不意にそう言ってカイを仰ぎ見た。あれだけ色々飲み食いしたにも関わらず酒を要求するソルに、カイは嫌そうな顔を向ける。
「ソル、いい加減にしないと本気で追い出すぞ? 大体、私の家には酒の類いなどないと前から言ってるだろう。……ん?」
厳しい顔つきで嗜めていたカイが、何か別のものに気を取られたように、眉間の皺を解いた。なんだぁ?と顔を上げようとしたソルの頭を、カイはがっしと掴む。
「おい?」
「……白髪」
「あ……?」
「白髪がある」
カイはソルの頭にへばりつきながら、真剣な顔でそう言った。頭を固定されて動けなくなってしまったソルは、だからなんなんだ…と怪訝そうな顔をしたが、アクセルは興味をひかれてソルの方に身を乗り出した。
「あ、ホントだ。しかも二本あるじゃん」
「え? 二本? ……あ、これのことですか?」
「ありゃ? そっちにもあったの? 俺が言ったのはこっちのやつだったんだけど」
「……合計三本ですか」
「探したらまだまだいっぱいありそうだね〜」
二人が人の頭を眺めながらのんきに話し始めたので、ソルは鬱陶しそうにカイの手を払い除けた。
「別にそれくらいあんだろ。何が珍しいってんだ?」
ソルが振り返り様ぎろりと睨みつけると、二人は不思議そうに顔を見合わせる。
「え〜? だって、旦那って老化しないもんだと思ってたからさぁ」
「白髪なんかになるものなんだな、って感心したんだけど」
「感心するようなことじゃねぇだろ!」
妙な固定観念にとらわれている二人を、ソルは怒鳴りつける。しかし二人は納得がいかないのか、えー?と示し合わせたかのように首を傾げた。
後頭部なんぞ見つめられてていいもんじゃないなと思いながら、ソルは手のひらに顔を半分埋めて溜め息をつく。
「……大体白髪になる原因が老化だけとは限らねぇだろ。どっかの坊やがぎゃんぎゃんうっせぇから、そのストレスかもしれねぇし」
「……なんか今、思い切り聞き捨てならないことが聞こえた気がしましたが?」
いつの間に持っていたのか、皿の上に置かれていたナイフを手に、カイは青筋を浮かべながら微笑んでいた。気配もなく首筋にナイフが押し当てられ、ソルはすぐさま手を上げて降参の意を表す。
意外にもソルが下手に出たので、カイは溜め息をつきながらもナイフを引っ込めた。
「とりあえずこの白髪、切っておきましょうか」
そう言うと、カイは奥の部屋へ行き、散髪用のハサミを持ってすぐに現れた。
「じっとしててくださいね」
子供に話かけるような優しい声音でそう声をかけると、カイはソルのヘッドギアを外して長い髪をほどいた。ヘッドギアの下からはギアの刻印が覗いたが、カイもアクセルもすでに承知の事実なので、それを気に止める様子もない。
しかしそれよりも解かれた髪の方が、二人にとって余程気になることらしかった。
「改めて思うんだけど、旦那の髪の毛って長いよね。普段あれだけ逆立ってんのに、ほどいたらぺっしゃんこだし」
「そうですよねぇ。クセがあるのかと思ってたら実はストレートだったり、ごわごわしてるのかと思ったら結構指通りが良かったり……」
カイはアクセルの言葉に同意しながら、茶色の髪を指で弄ぶ。それを愛おしそうに手櫛で梳きながら、カイは滑らかな仕種で白髪を切り始めた。
アクセルは指通りがいいと聞いて、何気なくソルの髪に触れようとしたのだが、赤茶色の目に鋭く睨まれて思わず手を引っ込めた。どうやらソルはカイだからこそ触らせているらしい。それが分かって、アクセルは気分を害するどころかその行動が微笑ましくて、ひとり苦笑する。
黙認されているのだとは全く気付いていないカイは、発見した三本を切り終わったあと、無造作に髪を一房つまんでくんくんと匂いを嗅いだ。
「ソル…。ちゃんと髪の毛洗ってないでしょう。汗やら埃やら、なんか匂いが染み付いてますよ」
お世辞にもいいとは言い難いその匂いに、カイはちょっと嫌そうな顔をする。
「別にどうだっていいだろ、んなこと」
ソルは面倒臭くてそう言い捨てたが、真面目なカイはそれを許さない。
「駄目ですよ、ちゃんと洗わないと!」
親か何かのように叱るカイに少しうんざりしながらソルが眉をひそめると、なにやら名案を思い付いたらしいカイが気を取り直して明るい口調で言う。
「じゃあ、後で一緒にシャワー浴びましょか。私が頭洗ってあげます」
「「!?」」
その言葉に、ソルとアクセルは同時に噴き出した。
突然腹を抱えてひゃらひゃら笑い出したアクセルと、俯いたまま沈黙してしまっているソルを交互に見つめて、カイは訳が分からず小首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「どうって……ちょっとちょっとカイちゃ〜ん? 自分が言ったこと、ちゃんと分かってる?」
笑いがおさまりきらないアクセルは、目尻に涙を滲ませてカイの肩を軽く叩く。
何について言われているのかさっぱり分からないカイは困惑した顔でアクセルを見つめた。
「一緒にシャワー浴びようかって言っただけですけど……何か変ですか?」
「う〜ん。自覚がないってすごいよね〜…」
カイの疑問などほったらかしで、アクセルは腕を組んでしきりにひとりで感心している。
「……でも良かったじゃん、旦那♪ 直々に洗ってもらえるなんて、すっごいラッキー……」
「死ぬか?」
怒りを押し殺した声とともに、首にナイフを突き付けられて、アクセルは硬直した。それ以上何か言うと本気で殺されかねないので、慌てて口を噤む。
アクセルは頼りない笑みを浮かべて、ソルから逃げるように離れたところへ着席した。
「あー…でもさ、なんで旦那は髪の毛伸ばしてるの? 短い方が洗うの楽でしょ?」
取り繕うようにアクセルがそう聞くと、ソルはあっさり「切るのが面倒だ」と返してくる。
「そういうアクセルさんも髪を伸ばしてますよね」
やりとりを聞いていたカイが、ソルの髪に触れながら口を挟むと、アクセルはよくぞ聞いてくれましたと胸を張った。
「俺様みたいないい男にはロングが似合うんだよ♪」
「……いい男じゃなくて馬鹿の間違いだろ」
ソルに問答無用ですっぱり言い切られて、アクセルは思い切り肩を落とす。しかしそのくらいでめげないアクセルは、すぐに陽気な調子に戻ってカイの方に話題を振った。
「カイちゃんは髪の毛伸ばさないの?」
「え。私ですか?」
意外なことを聞かれて、カイは手元を動かしながら何て答えようか考える。
「いつも当たり前のように髪を切っていたので……考えたこともないんですが」
「えー? 勿体ないよ、カイちゃん綺麗なんだからさァ。このまま伸ばしてみたらどうよ?」
アクセルはカイの整った顔を見つめて言った。それはちょっと…とカイは困った顔しながら、ソルに気取られぬように花瓶から花を二輪手に取って、編み込んだ髪の間に差し込む。
「……坊やが髪なんて伸ばしたら、それこそ『お嬢ちゃん』になっちまうぜ」
ソルが人の悪い笑みを浮かべて口を挟んだので、カイはムッと頬を膨らませた。
「一体どういう意味だ」
「そのまんまの意味だよ、お嬢ちゃん。ただでさえ女に間違われるような面してんのに、髪なんか伸ばしたら問答無用で犯されちまうぜ」
「ソ、ソルッ! 言っていいことと悪いことがあるぞッ!!」
カイは顔を真っ赤にして怒ったが、ソルは軽く鼻で笑うだけだった。
その態度に腹が立ったカイは、棚に置いてあった手鏡を引っ掴んでソルに渡す。
訳が分からないままそれを受け取ったソルは、鏡の中に映っている自分の姿を見て、思わず顔を引きつらせた。
「お前だって十分女装できてるじゃないか!」
遠のきそうになる意識の中で聞いたカイの言葉に、これはできてるとは言わんだろ…とソルは胸中でツッコミを入れる。鏡に映し出されていた己の姿は、二十代後半の男が女装しようとして失敗した姿としか思えないものだった。明らかに成功とは程遠い。
いつの間にやら自分の長い髪は高い位置で二つくくりにされており、それぞれ三つ編みにされていた。だが髪があまりに長かったためか、それを二重の輪にして根元で止められている。それだけでもソルの凶悪な外見とはミスマッチしているというのに、あろうことかその根元に淡紅のコスモスが差されていた。可愛らしさを演出したつもりか知らないが、不気味さが増しただけだとしか思えない。
カイの悪戯に気付かなかった自分もどうかと思うが、こんなことをするカイの方もどうかと思う。
「おい坊や、これは一体なんのまねだ?」
「ちょっとした悪戯……のつもりだったんですが、結構上手くいってるでしょう?」
「どこがだ。紙袋の医者のところで目と頭の検査でもしてもらえ」
「えー? 私としてはかなり可愛くできたと思うんだけど」
さっきまでむくれていたはずのカイの顔は、いつの間にか無邪気な笑みに包まれていた。カイは悪戯が成功したことよりも、上手く三つ編みができたことの方が嬉しいらしい。
鏡越しに楽しげなカイを見てうんざりしたソルがふと手鏡を下ろすと、テーブルに突っ伏して肩を震わせながら必死に笑いを堪えるアクセルが視界に入った。とりあえず腹が立ったのでナイフを投げておく。
「ちょっッ、うわっ旦那!? なんで俺様に怒るのよ! やったのはカイちゃんでしょ!?」
「知ってて黙ってたんなら、てめぇも同罪だろ」
不機嫌にソルが言い放つと、やった当事者のカイが慌てた。
「あっ。すみません、ソル。いますぐ解きますから、そんなに怒らないでください」
本当にただの冗談のつもりだったのか、カイは素直に髪をほどき始める。だが急いだあまりか、どこかに引っ掛けたらしく髪を思い切り引っ張られた。
「痛…っ。何やってやがる!」
「す、すみませんっ。ちょっと絡まっちゃって……」
「あーもういい。面倒だから髪ごと切り落とす」
手際の悪さにイライラしたソルは、カイの手からハサミを奪い取って自分の髪を切ろうとした。
――が、力を入れた瞬間、肉の切れるような感触がして、慌てて手を引っ込めた 。
「なにやってんだ、坊や! 危うくお前の手を切り落とすとこだったろ!」
髪を切らせまいとするかのようにハサミの刃を握っていたカイの手を外して、ソルは思わず怒鳴りつける。切り落としはしなかったものの、カイの白い手の一部はすでにざっくり切られていた。
アクセルもいきなりの流血沙汰に腰を浮かせたのだが、カイが怒ったようにソルをぎろりと睨付けたので、その気迫に押されて口を挟む余地をなくす。
「ソル! なにも切ろうとすることないだろう!? ほどくって言ってるんだから大人しくしていろッ!!」
カイはソル以上に思い切り怒鳴りつけると、血に濡れたままの手で再び髪をほどき始めた。驚いたのはソルの方で、一瞬呆気にとられてしまっていたが、すぐに正気に戻ってカイの腕を取った。
「馬鹿か、お前は。こんな髪ごときに、なにやってやがる。手ェ、見せろ」
「ちょっとっ、ソル! 一体何を……!」
カイは焦って振り払おうとしたが、ソルはその細い腕を無理矢理押さえ付けて、傷の具合を診てから治癒の魔法を唱えた。瞬時に発生した淡い光がカイのきめ細かな肌を包み込み、傷を癒す。カイは瞬く間に塞がっていく傷口を、驚いたように見つめていた。
「こんな馬鹿な真似は二度とするなよ」
傷が完全に直ったのを確認してから、ソルは念を押すように言った。
そしてカイの返事も待たずに、白い肌を紅く染めている、余分な血を舐め取る。
「あ…っ」
カイは一瞬吐息まじりの声を漏らすしたが、すぐに顔を真っ赤にして乱暴にソルから腕を振りほどいた。
「なななにをするんだ、お前はッ!」
「綺麗にしてやろうと思っただけだろ」
「そ、そんな余計な世話はいりませんっ!」
逃げ腰になったカイは手を後ろに隠して離れようとしたが、ソルの髪を中途半端なまま放り出していたことに気付き、警戒しながらもソルの髪に触れてきた。その様子が面白くて、ソルは密かに苦笑する。
カイが今度こそ手際良くソルの髪をほどくと、アクセルが近づいてきた。
「カイちゃん、ホントに大丈夫?」
そう言って心配そうに、カイの手元を覗き込む。魔法の論理をあまりよく知らないアクセルには、ちゃんと傷が完治したのかどうか分からなかったのかもしれない。
心配そうに言われて、カイは安心させようと優雅に微笑んだ。
「ええ、大丈夫ですよ。もともと大した傷でもありませんし」
「あ、そうなの? なら、いいんだけど…。カイちゃんが手に怪我なんかしたら、おいしい御飯が食べられなくなっちゃうもんね」
アクセルはカイが気に病まないように気遣って冗談めかしに言う。しかしソルはその言葉を聞いて内心愉快でなかった。
「また、ただ飯食いに来る気かよ」
「……お前が人に言えたことか?」
すぐさまカイに睨まれたが、ソルは聞こえないふりをした。
しかし半分茶化すつもりで言ったその言葉に、アクセルはすまなさそうな顔をした。
「あのさァ……カイちゃん。俺、こっち来たばっかで無一文なんだよねぇ。だから悪いんだけど……今晩泊めてくんない?」
「なんだと?」
家主のカイよりも先に、ソルは眉をひそめて不機嫌を露にする。別に、カイに手を出すつもりはないが、二人きりでないのはなんだか面白くない。
鈍感なカイと違って察しのいいアクセルは、ソルが不満に思う理由が分かって慌てた。
「えーっと、別に床でもいいんだよっ。屋根さえ貸してくれれば、それで構わないからさ……!」
「ダメですよ、そんな床だなんて! でも困りましたね。私の家にはベッドとソファしかないですし……」
口許に手を当てて考え込んだカイが、ちらっとソルの方を見る。
「でも……一番かさ張る人が今すぐ出ていってくれると言うなら別なんですけど?」
「……」
ソルは黙ったまま、突然カイを背後から抱き締めた。
「ソ、ソルッ!?」
「……元聖騎士団団長サマは意外に冷てぇなぁ。こんな時間に客を外に放り出すのかよ」
ソルはカイの耳元に唇を近付けて、吐息を吹きかける。それに過剰反応したカイは、腕の中でビクッと体を震わせた。
「そ、そんなこと言ったって…お前は招かざる客なんだから…っ…」
「あン? なんだって?」
ソルは動揺するカイにわざとらしく聞き返し、薄く桜色に染まった耳朶に噛みついた。
「ひっ、あ! やめっ…放せ、ソル!」
「悪いが、居ていいっつーまで放せねぇなぁ…」
「…ッ…! わ、わかった、居ていい! 居ていいから、今すぐ放してくれッ!」
ソルがにたにたと笑いながら可愛らしい耳の中に舌を差し入れると、驚いたカイは身を捩って叫ぶ。
その言葉を聞いて、ソルはあっさりカイを解放した。
「んじゃ、団長サマの許可ももらったことだし、今晩は泊めてもらうか」
してやったりとソルがほくそ笑むと、カイはさっき以上に警戒してソルを遠巻きしながら、また問題が増えたと頭を抱える。
「でも…正直、どうしましょう。ソファに一人、ベッドに二人、ですか?」
「あ、いや、俺はホントに床で構わないよ? いきなりお邪魔しちゃった俺が悪いんだし」
「そういうわけにはいきません! ……かと言って、お客様にソファで寝てもらうっていうのも失礼ですし……。あ、じゃあこうしましょう! アクセルさんとソルの二人にベッドを使ってもらって、私はソファで……」
「「却下」」
アクセルとソルは、同時にその案をすっぱり切り捨てた。男と寝る(しかもよりによって相手がひどすぎる)など、いくらなんでも冗談ではない。
「あのさァ、カイちゃん。俺がソファ使わせてもらうから、旦那とベッド使いなよ。ね?」
最良の選択が分かっているアクセルは朗らかに微笑みながら、カイに提案した。
しかし律儀なカイは、自分のもとを訪ねてきてくれた客に対して失礼なことはできないと首を横に振る。
「そんな! アクセルさんはソルと違ってちゃんとしたお客様なんですよ! ソファだなんて、使わせるわけにはいきません」
そこまで言って、カイは何か思い付いたように手を打った。
「そうだっ、アクセルさん! 私と一緒に寝ませんか?」
「ぶッッ!!」
カイの無邪気な発言に、アクセルは思い切り噴き出した。しかしそれと同時に背後から殺気が膨れ上がる。
「わ〜ッ! ちょ、ちょっと待ったぁっ、旦那! 殺すにはまだ早いよ! 俺様、全然承諾してないってば!」
恐ろしい力でソルに首根っこを掴まれたアクセルは、必死で宥めようと泣きそうになりながら叫ぶ。あまりの圧迫に首の骨がぎしぎし音をたてた。
「ちょっ、ちょっと、ソル! なにしてるんですか!」
いきなりアクセルを締め上げたソルを、カイは訳が分からないまま止めに入る。カイの方をちらっと見たソルは、溜め息を一つついてアクセルから手を放した。
「坊やは大人しく俺と寝てればいいんだよ」
「え? …って、うわぁッ!?」
突然ソルの逞しい腕に担ぎ上げられ、カイは驚く。
「ちょ、ちょっとソル!?」
「確か洗ってくれるっつってたよなぁ、坊や? んじゃシャワー浴びるか」
「え…え? あっ、ちょっと待てソル! まだ話は終わって……」
「ヤツがソファで、俺と坊やがベッド。それで話は決まったろ」
「な、なんで私がお前なんかと…! …って、ちょっとッ! 止まりなさいっ、ソルーッッ!!」
ばたばたと暴れているカイを問答無用で連れ去るソルの背を見ながら、アクセルは静かに合掌した。