Exist
いつもの如く訪れたパリの街並みは、三週間前と変わらず美しかった。今は人通りのなくなった大通りも、闇にひっそりと沈み、平和を脅かすものは何もない。
頭上から降り注ぐ柔らかい月明かりを頼りに、ソルはある家を目指して歩を進めていた。これも、いつもの如く、である。
この短期間で随分見慣れた、こじんまりとした家に着いたソルは、当たり前のように中へ入った。もちろん玄関には鍵が掛かっていたのだが、窓を外せば問題ない。完全に壊したわけではないのでたぶん大丈夫だろうと安直に考えながら、ソルは窓枠を跨いで床に足を付けた。
ソルが入ったところは、書斎だった。家の構造は大体把握しているが、あまりこういうところには足を踏み入れないので、どう行けばダイニングルームに出られるのかしばし悩む。しかし、まあ大して広くもないから適当に歩いたら辿り着くだろうと気軽に考え、音もなく部屋から出た。そして、気の向くままに歩いていると、すぐに見覚えのある廊下に出られたので、そのままダイニングルームへ直行する。
いつもは真夜中近くにソルはここへ訪れるのだが、今日は若干早い時間に来ていたので、おそらく家主は夕食時だろうと考えていた。アクセルから教えられたというのが少々癪に障るが、カイはどうも一人で食事をする時は随分質素らしいので、あまり豪華な夕食は期待はしていない。どちらにせよ食べなかったくらいで死ぬような体ではないので、別に困らなかった。
しかし……なぜか料理の匂いが一切しない。キッチンを通り抜けてダイニングルームに出ようと思っていたソルは、目的地との距離を縮めながら確信した。カイは料理を作っていない。
カイが仕事から帰る時間帯は日によって多少違うが、それほど大きく違ったことは今までになかった。ソルが若干早く来たことを考えても、夕食がとっくに済んでいても何等おかしくない時間だ。出来合のものでも買ってきて食べたのだろうか。しかしその割にはソルの嗅覚に全く引っ掛からない。
優れた五感で様子を探っていたソルは、新たに別のおかしな点に気付いた。なぜかカイの気配が非常に捉えにくくなっている。初めからカイが家の中にいることは分かっていたが、なぜかその気配が微かにしか感じられない。まるで……意図的に気配を殺しているようだ。
訝しみながらキッチンに出たソルは、どの部屋にも明かりが点けられていないことに驚いた。どこからも光が漏れていないところをみると、どうやら家中が真っ暗らしい。カイはダイニングルームにいるようなのに、なぜか明かりを点けていなかった。
何かおかしいと思ったソルは、何気なく法力で明かりを点けた。
「……!」
煌々と照らされて闇から浮かび上がったキッチンを見て、ソルは思わず絶句する。いつもきちんと片付けられていたキッチンが、荒らされていた。
食器棚から落ちて割れたらしい皿と、カウンターに置かれてあったであろう食材がすべて床にぶちまけられており、足の踏み場がなくなっていた。そしてまな板の上には包丁が放り出されている。
「カイ……!」
そのただならぬ惨状に驚いたソルは、弾かれたようにダイニングルームへ急いだ。その際、床に散らばったものを踏み付けたが、気に止めない。
同じく真っ暗になっている部屋へと入ったソルは、すぐに明かりを点けた。明るくなった部屋の隅で、膝を抱えて俯いているカイをすぐさま発見する。
「おい、坊や……!?」
蹲ったまま微動だにしないカイに近付いて、ソルはその金の髪に触れようと手を伸ばした。
だが、それを勢い良く払われる。
「誰だ……っ!」
顔を上げたカイは鋭い声を発して、こちらを睨付けた。その鬼気迫った表情に、ソルは一瞬言葉を失う。
思わず唖然として見つめていると、カイは険しい顔つきでーーだが、どこか焦点の合わない目で見上げてきた。その顔は前と特に変わりはなく、病気のようにも見えなかったが、なぜかカイはこちらを見つめていても、それがソルだと認識していないような表情で、警戒心を剥き出しにしていた。
黙ったまま立っているソルをカイは暫く見つめ、不意に視線をさ迷わせながら不安げに眉を寄せた。
「誰……?」
「俺だ」
ソルは極端的に答える。本来ならそれで充分なはずだ。いや、それよりも見ただけで既に分かっていて当然の事実だ。
しかしカイはまだ何か疑っているようだった。
「本当にソルか?」
「それ以外、何に見えるってんだ?」
虚ろな目で問うカイに心底呆れながら、ソルはカイの頬に触れる。一瞬びくっと身を竦ませたカイだったが、ソルが優しく撫でてやると、緊張で強張っていた体から力が抜けた。
「ああ……ごめん、ソル。馬鹿なことを言ったな」
どこか安心したように、カイは苦笑する。しかし、やはりその目はどこを見ているのか分からなかった。
ソルはそのカイの様子に、目を細める。
「お前、目が見えてねぇんだろ?」
「え……」
カイはぎくっと体を強張せた。その反応に、ソルは確信を強める。
「……まさか、失明したのか?」
不安を覚えたソルがカイの前にしゃがみ込んで目の具合を診ながら聞くと、カイはその言葉に驚いたように目を見開いた。
「い、いや……そこまでひどくないっ」
「なんだ、緑内障か。もう年だな」
「ちょ…っ!? そんなわけあるか! それに年ってなんだ、年ってッ!」
「んじゃ、網膜剥離か」
「私は近視じゃないからならない!」
いつの間にやら、肩を怒らせて反論しているカイを見つめて、ソルは少し安堵する。それだけ叫ぶ力があるなら、たぶん精神的にまだまだ大丈夫だろうと思った。
どこを睨付けていいのかいまいち分からないらしいカイが、それでも怒りを表そうと険しい表情を作っているのを見ながら、ソルは金の髪を優しく梳いた。
「じゃあ、どうしたんだ。坊や」
穏やかにソルが聞くと、カイはフッと暗い顔に戻って、項垂れる。
「……つい先日テロがありまして、その現場に私はたまたま居合わせていたんですが……そのときに犯人が使った目眩ましの魔法を不覚にもくらってしまいまして……一時的に目が見えなくなったんです」
悔しげに下唇を噛み締めて、カイは言った。
自分に厳しいのは多いに結構だとは思うが、カイはいつも自分を責めすぎているな…とソルは思う。そのテロについてなら新聞にも大きく取り上げられていたので、ソルも詳細を知っていたからだ。
「どうせお前のことだから、他の連中庇って、自分の身ィ守るの忘れてたんだろ」
「な、なんでそれを……」
図星だったらしく、カイは狼狽えた。その様を呆れた目で見ながらも、ソルは安堵も覚える。カイの美点は、昔から何も変わっていないのだと……。
「ったく、難儀な坊やだ」
「わ、悪かったなっ」
苦笑しながら言うと、カイはむぅっと頬を膨らませて抗議した。その子供じみた動作にそれほど違和感を覚えないのは、カイが童顔なせいか。
「……ま、何にせよ、その目は直るんだな?」
ソルは徐にカイの腕を引っ張り上げながら聞いた。カイは幾分よろめいたものの、ソルが受け止めたので問題なく立ち上がれた。
「ああ。二、三日で自然回復するって、ファウストさんが言ってた」
「あの人外魔境の医者か」
「そ、それはちょっと言いすぎだと思うけど……」
慌ててカイがフォローを入れたが、本人も少なからずそう思っているのか、どうにも覇気がない。だがあのキテレツ極まりない医者は、腕だけは確かなので、診察してもらった結果にそう言われたのなら、おそらく大丈夫なのだろう。
「んじゃ、とりあえず……危なっかしいからお前は寝てろ」
「わッ!?」
ソルが細い体を難なく抱え上げると、カイは声をあげて体を強張らせた。びくつきながらジャケットの襟を掴んできたカイだったが、それでも転げ落ちるのではないかと不安げな顔をしている。目が見えてないせいで、余計に怖いのかもしれない。
「坊や、俺の首に手ェ回せ。そうすりゃ落っこちねぇから」
「あ、ああ……分かった」
しどろもどろに返事をしながら、カイは手を伸ばしてきた。探るように白い手がソルの胸を伝い、浮き上がった鎖骨を撫で、首筋を滑って絡み付いてくる。一種、官能的とも言えるその動きに、ソルはよからぬことを考えそうになる自分を抑え付けた。
「ソル……これで、いいのか?」
縋り付くように両手を首に回しているカイが、視線をさ迷わせながら聞いてきたので、ソルはカイを抱え直して頷く。
「このままベッドまで運んでやるから、大人しくしてろ。どうせ二、三日で済むんだからよ」
「え。でもどこか体が悪いわけでもないのに、ずっと寝てるなんて……」
「目が悪くなってるじゃねぇか」
「あ、揚げ足を取るなっ。ともかく目を除けば他は至って健康なんだから、じっとしてるわけにはいかない……!」
目は虚ろだが、はっきりとした口調でカイは叫んだ。しかしそれでも暴れることはなく、逆に怒らせやしないかと怖がっていようで、ぎゅうっとしがみついてくる。その矛盾を含んだ行動が面白くて、ソルは僅かに苦笑した。
そして不意に、思い出したように言ってやる。
「なんだ、また皿割ったり食料ぶちまけたりする気か?」
「う……なんでそれを」
「あの大惨事を見りゃあなぁ……」
目が見えないと知ってすぐに分かったことだが、あのキッチンを荒らしたのは他ならぬカイ自身だったのだ。おそらく何も見えない状態で料理でもしようとしたのだろう。
決まり悪げな顔をしたカイは、何か窺うようにこちらを見つめてきた。
「そ……そんなにひどいことになってたのか? キッチン……」
「ん。お前が前に自慢してた皿が、何枚か木端微塵だったぜ」
「うそっ!」
さらりとソルが言葉を返すと、カイはひどくショックを受けた様子で叫んだ。そして見えもしないのに、降りようと暴れ出す。ソルは思わずカイを取り落としそうになった。
「坊や、暴れんな」
がっちりと細い体を抱え直したソルが注意したが、構わずカイは焦点の合わない目で必死に訴えてくる。
「ソルっ、降ろしてくれ! あの皿の中には大事なもの混じって……んぅっ!」
言うことを聞かないカイを大人しくさせるために、ソルは唐突にカイの唇を奪った。言葉の途中で遮られたカイは不満げに喉の奥で唸ったが、ソルが口腔内に舌を差し入れると、目尻に涙を溜めて体を強張らさせた。
「んふ…っ…んん」
柔らかなカイの舌に自分の舌を絡めてキツク吸い上げると、首に回された細い腕に力がこもり、拒絶とは正反対の悩ましい吐息が合間から零れた。しばらくカイの舌を乱暴にねぶっていたソルは、カイが顔を紅潮させて抵抗しなくなったのを確認してから、静かに唇を離す。
「どうせ見えてねぇんだから、行ったって意味ねぇだろーが」
「はっ…ぁ。だからって……こんなことしなくても……」
首に回した腕はそのままに、カイはぐったりと体を預けて非難がましく呟いた。
それを見たソルはついいつもの調子で、
「男は数のうちに入りゃしねぇんだから、別に気にする必要ねぇだろ」
――と言ってしまった。
言ってから、しまったと後悔したのは言うまでもなく……。
「……そうだな。お前の言う通りだ。だからどうってわけでもない。騒いだ私の方がおかしかったな」
カイはソルの腕の中で投げやりに言った。虚ろな目は冷めた色をたたえていて、微笑すらしていない。
カイがどうでもよさそうに解いた腕をだらりと下げるのを見て、ソルは何か言わなければと焦ったが、やはり何も言うべきでないと思い直し、口を噤んだ。
誤解するなら、すればいい。その方が自分にとって都合が良いのだから一向に構わない。
伝えたところでどうにもならないこの感情は眠らしておこうと初めから決めていたのだから……何も困らない。
「……」
黙ったまま、ソルはカイを寝室へ運んだ。カイは人形のように体を投げ出して、ぼんやりと流れていく天井を眺めているようだった。力の抜けたカイの体は何かひどく重く感じられて、ソルはまるで死体でも抱えているかのような錯覚に陥る。
死体。
カイの。
「……坊や」
「なんだ」
ソルの囁くような呼び掛けに、カイはすぐさま反応し、不機嫌そうな声を出した。その青い瞳にはさっきと打って変わって強い光が見える。
そのことに安堵を覚えたソルは、寝室のドアを足で押し開けながら、苦笑いを零した。
「なんでもねぇ」
言われたカイは意味が分からず眉をひそめたようだったが、その仕種にすらソルは安心させられる。
「……なんでもねぇよ。呼んでみただけだ」
「なんだそれ」
カイが変な顔つきでこちらを見つめてきたが、ソルは気にしなかった。
この腕の中にある存在が、温かいという事実は変わらない。今はそれで充分だった。
カイを抱えて部屋に入ったソルは、シーツを除けてそのベッドの上にカイを横たえた。
「夕食は俺が何か作って持ってきてやる」
「えっ。ソルが作るのか?」
シーツを引き寄せていたカイが、思い切り疑わしそうな目でこちらを見る。ソルはその視線に気付き、少しムッとした。
「なんだよ。何かおかしいか?」
「ああ。当然だろ」
「……おい」
ソルは思わず呻いたが、カイはそれを全く意に介さず、思ったことそのまま口にする。
「そもそもお前が作ったものって食べられるのか?」
「当たり前だろ。お前は俺をなんだと思ってんだ」
ソルが腹立たしげにカイを睨付けると、カイは半分瞼を閉じてくすくす笑ってから、こちらを覗き込んできた。
「ん? 言ってほしいのか? 10分くらいはしゃべり続けることになるけど、それで構わないなら言うぞ?」
「いや、いらん」
溜め息混じりにソルがそう言うと、カイはまた笑った。
楽しそうに笑うカイを、やれやれと思いながら見つめていたソルは、徐にカイの上半身をベッドに沈めて、上からシーツを被せた。
「いいから坊やは寝てろ」
「ん……」
ソルが優しく髪を撫でてやると、カイは気持ち良さそうに目を閉じる。柔らかく絡み付く金糸の髪をもう少し撫でていたい気もしたがそういうわけにもいかないので、ソルは手を放して立ち上がった。
「ソル……」
今まさに部屋を出ようとドアを開けたところでカイの声が聞こえたので、ソルは肩越しに振り返った。額に手の甲を当てて目許に陰りを作っていたカイが、僅かに口端を上げる。
「ありがとう」
「……」
どこか気の強い微笑が、ソルの目に止まった。戦いになるごとに、お前は私の好敵手だと言って挑んでくるあの時の目に似ているのは気のせいか。
ソルは不意にハッと笑った。
「こりゃぁ明日は雨が降るな」
「どういう意味だ」
ソルが茶化すと、カイは少し怒ったような声を出して眉をひそめる。
しかしそんな戯れすら楽しいと思う自分がいるのも、また事実だった。
「ともかくそこで待ってな、坊や」
ソルが不敵に笑ってドアを閉める向こうで、カイが微笑する気配がした。