ずる…っ…
その音が私の耳に届いたとき、私はゾッとして自分の足元を見下ろしました。
目を向けた先にあったものは、血に濡れた一本の手でした。その可愛らしいとも言える小さな手は、放すまいとしているかのように私の足首をしっかと掴んでいました。
戦いた私が少し視線をずらすと、そこには子供の顔がありました。そうして彼は言うのです。
『 た す け て 』――と。
私は自分の体が震えていることに気が付きました。しかしそれを止めようにも、なぜか止められないのです。体が引きつって、全く言うことを聞かないのです。
自分の体を抱いて震えを止めようとした私は、遂に笑い出してしまいました。もちろん楽しいことなど全くありません。それでも私はなぜか笑い続けたのです。
今に比べれば随分幼かった私の体を侵食していたものは、単純な恐怖でした。
暗くぽっかりと空いた闇があることを、幼い私にも――いえ、幼かった私だからこそはっきりと悟ったのでしょう。私の目の前にいるその子供が、すぐに闇に飲まれてしまうのだということを、私は子供ながらに分かっていたのです。
私が喉の奥でしゃっくりをしながら、やっとの思いで笑いを収めたとき、子供は既に息をしていませんでした。それもそうでしょう。彼は誰がどう見ても助かる状態には見えませんでした。
その子供には下半身がなかったのです。全く、なかったのです。……ええ、おそらくは先程の爆撃で吹き飛んでしまったのでしょう。
私が何気なく辺りを見ましてみると、その辺り一帯は屍の山でした。しかしこれは私にとってはすでに承知の事実でありましたし、あまり驚きはありませんでした。もちろん焦りもありません。私はただやるべきことをやるだけだと信じていただけにすぎなかったのです。
そんな傍らで、あの男は私に向かってこう言いました。
『いちいち泣いてたら、きりねぇぞ』と。
私にはその言葉の意味が分かりませんでした。なぜなら私はついさっきまで笑っていたからです。死んでいくものの呆気なさに笑いが堪えきれなかったからです。
……ですが、どうでしょう。私が何気なく――本当に何気なく自分の頬に指を這わしてみると、そこは涙で濡れていたのです。
私があまりの驚きに自分の手をじっと見つめていると、あの男は珍しく、こうも言ったのです。
『そいつを哀れに思うなら、そいつの分も生きろ』
……なんということでしょう。私は自分の耳を疑いました。あの男がまともなことを言ったという事実が、俄かに信じ難かったのです。
しかしその言葉を受け取った私は、何か解放された気がしました。……いえ、もう少し言うなら、私が私であるための言葉を彼は言い当ててくれた――そんなところでしょうか。
そのときから私の生き様は、揺るぎないものへと変わりました。
自分も生きながら多くのひとを生かし、そしてすべてが幸せであるように。私はそう願って走り続けました。
走って走って、転んでもまた起き上がって走り続けました。
そうしてがむしゃらに生きた私は、平和を勝ち取りました。
毎日のように破壊が行われる戦場で、何度夢にみてきたか分からない――平和。
ただ本を読むだけで一日を過ごしたり、じっくりと凝った料理を作ってみたりと、穏やかに過ぎる日常。
まさに憧れで、夢のような時間。
ところが現実はどうでしょう。皮肉にも戦乱を駆け抜けた私には、平和をただの退屈としか感ぜられなかったのです。多いに皮肉なことだと思います。
朝早くに起きて仕事に行き、何の問題もなく仕事をこなして家へ帰り、そのまま眠りに就く。毎日それを繰り返すだけなのです。
もちろんそれを不満に思うからといって、波瀾を望むわけではありません。しかしそうしているうちに、私は次第に存在理由を失っていきました。
戦場で英雄と呼ばれたのは、昔のこと。今はもう誰かのために死を覚悟して体を張る必要はどこにもないのです。
しかしながら、それが私を不安にさせているのです。
私はもういらない人間なのでしょうか。かつてのように誰かから必要とされることは、もう一切ないのでしょうか。
私にはそれが分からないのです。