お望みのままに


背後にいる男に見張られながら、カイが初めて見たその家は豪邸というに相応しかった。
堂々と大きく構えた門は一人で開けるにはつらそうなほどどっしりとした造りで、そこから玄関までがまた遠い。いくつ部屋があるのか想像もつかない広さを誇る白壁の屋敷は、要所要所に施された繊細な細工に古い歴史を感じる。まさに誰もが溜め息を漏らして称賛したくなるような邸宅だ。
しかしどういうわけか、こういう豪邸につきものである美しい草花がどこにも見当たらなかった。植え込みにはただ土があるだけで何も植わっておらず、所々に見かける木はいかにも肥料をもらっていないやせ細り方をしていた。ただでさえ尋常でなく広い庭は、何の植え込みもないばかりに殺風景さを際立たせている。
建物も敷地の広さも申し分ないというのに、これではまるで――幽霊屋敷だ。
「ほら、さっさと歩け」
呆然と屋敷を見つめていたカイを、男が前に進むよう促す。我に返ったカイは重い門をなんとか押し開いて中に入った。後から男もついてくる。
外から見たときもすごかったが、中から見るのもまたすごかった。威圧的でさえある建物は素晴らしいの一言につきる。だが、その分庭に何もないことが悔やまれてならない。なぜここに住んでいる人は庭師を雇わなかったのか。
周りを見回しながら歩いていたカイは、いつの間にか玄関まで来ていた。一緒についてきた男が徐にベルを鳴らす。
しかし、しばらく待ってみても一向に誰かが現れる気配はなかった。痺れを切らせた男は、声をあげる。
「すみません、バッドガイ様は居られませんか!?」
「……うるせぇ。でけー声出すな」
「……!」
背後から聞こえた声に、カイと男は驚いて振り返った。いつの間に現れたのか、そこには一人の男が立っている。
その男は白のデニムパンツに黒のTシャツという随分ラフな格好だった。アクセントのように腰から下がっている銀の鎖には幾つもの鍵が通してあり、風に揺れるたびに澄んだ金属を鳴らしていて、音も立てずに背後から現れたことが信じられなかった。
「……俺に何か用か」
その男がゆっくりと近付きながらそう聞くと、カイの隣に立っていた男が低姿勢で挨拶した。
「あなたがソル=バッドガイ様ですか?」
「ああ、そうだ。……で、てめぇはなんだ?」
その男――ソルはだるそうに茶色の髪を掻き上げる。腰まで伸びた長い髪が風に舞った。
服の上からでも分かるほどの筋肉質な体を持つソルを見て、カイは今更ながら覚悟を決める。この人に一生仕えなければならないのだと……。
手錠で戒められているカイの両腕を男は力任せに引っ張って、カイをソルの前に突き出す。
「私は頼まれた商品を持ってきた者でして……」
男がそう言うと、ソルは目の前に立っているカイの方に視線を向けた。そして無言のまま上から下まで舐めるように見つめる。
ソルは不意に顔をしかめた。
「……俺は確か一番値の張る奴を頼んだはずだが?」
「え、ええ。ですからこいつがそれでして……」
不穏な空気に動揺しながら男がそう言うと、ソルは徐に近寄って、カイの顎をぐいっと掴んだ。
「これのどこがだ? まるでモヤシじゃねぇか。こんなので力仕事なんてできるわけねぇだろ」
「しかし値が張るヤツは皆、鑑賞用でして……。どうしても嫌とおっしゃるならもう少し実用的なヤツと替えましょうか? 見目は悪くなりますが」
どうも気に入らないらしいソルに、男が提案する。カイの顎を強く掴んだままのソルは、そうしてくれとあっさり言った。
「女だってんならまだいいが、こんなひ弱な坊やじゃなんの使い道もありゃしねぇ」
「……そこまで言わなくたっていいでしょう」
堪り兼ねたカイがキッとソルを見上げて言った。確かにソルはカイより逞しい体付きだったが、そこまで卑下される謂れはない。
しかしそれを聞いたソルは恐ろしく残忍な笑みを浮かべて、鼻が触れ合うほどに顔を近づけた。
「ぁあ? てめぇ何様のつもりだ? 奴隷の分際でエラそうな口聞いてんじゃねぇよ」
「……」
明らかに見下した物言いに、カイは言い返す言葉が見つからず、唇を噛む。奴隷の身分に落ちたのは事実なので迂闊に言い返せなかった。しかしソルを睨付ける眼光の鋭さは失われていない。
「私は掃除も料理も得意な方です。役立たずじゃありません」
馬鹿にしたソルの態度に腹が立って、カイは挑むようにそう言った。実は生来からの負けず嫌いである。言われっ放しでいられようはずもない。
だが、ソルはその反抗をせせら笑った。
「自分で自分を売り込んでりゃ世話ねぇな」
「私は低く見られるのが嫌なだけです」
また人を馬鹿にした態度で言うので、カイはすぐに言い返す。しかし言った途端、男に両腕を戒めている鎖を引っ張られた。
「すみません、まだコイツは自分の立場というものが分かっていないようでして……。すぐに別のヤツと替えますのでしばしお待ちを」
そう言って男はソルに平謝りして、有無を言わさずカイを敷地内から引き摺り出そうとした。
――が、ソルはそれを引き止めた。
「いや、やっぱそいつでいい」
「え…?」
突然の発言に男は驚いてソルを見る。カイもまさかそんなことを言い出すとは思わなかったので、信じられないという顔でソルを見た。しかし二人の驚きなど気にも止めていないソルは玄関の扉を開けて中に入り、近くの棚から小切手と万年筆を取り出した。そしてそこにさらさらとサインをして、切り離した小切手を男の目の前に突き出す。
「金はこんなもんでいいだろ」
言われて小切手に書かれた金額を見た男は思わず驚きに目を丸くした。そこに書かれた数字は相場よりもゼロが二桁は多かったのだ。一瞬で打算の働いた男は、にたぁと下卑た笑みを浮かべて小切手を懐にしまう。
「いやぁ、すみませんねぇ。それじゃあこいつはもうあなたのものということで……。ああ、これは手錠の鍵ですので渡しておきますね」
男はポケットから取り出した小さな鍵をソルに渡し、カイの鎖から手を放した。とりあえず引っ張られなくなってほっとしたカイは、ちらりとソルの顔を伺う。
しかしソルはその視線に気付いた風もなく、男が去るのを適当に見送っていた。
「それでは私はこれで。また何か商品をお求めになるときはうちまでどうぞご連絡下さい」
「ああ。この坊やが役に立たなかったらまた世話になるだろうさ」
冗談混じりにそう言ったソルは、男が上機嫌で姿を消すと、カイの方に向き直った。
「あんだけでかい口叩いといて何もできなかった日にゃ、また売り飛ばしてやるからな。せいぜい覚悟しとけよ、坊や」
「私は坊やではありません。カイ=キスクという名前があります」
威圧的なソルの目に逆らいながら、カイは言った。
その態度が気にくわなかったソルは、手錠の鎖をぐいっとカイのうなじ辺りまで引っ張り、カイを仰向かせる。
「生意気な口聞いてんじゃねぇ。てめぇなんざ『坊や』で充分だ」
言い様、ソルは嘲笑いながらカイを突き飛ばした。体の細いカイは転びそうになる。
「裏にまわって薪割りしてろ。それが終わったら全部の部屋を掃除しな。……おっと、晩飯もちゃんと用意しろよ。忘れたら殴り飛ばすからな」
手錠の鍵をカイに投げてよこしながら一方的にそう命令して、ソルはさっさと屋敷の中に入って行ってしまった。取り残されたカイは、はぁと軽く溜め息をつく。他にももっと言いたいことがあったが、あんまりしつこいと本当に殴られそうな気がしたので、しぶしぶ薪割りをすべくだだっ広い庭を歩き始めた。


こうなってみると意外に奴隷は楽だな、と思いながらカイはテンポ良く薪割りをしていた。元々生活が苦しい中で育ったので、これくらいの労働には慣れてしまっている。
「ふぅ……こんなものかな」
あった分だけすべて割り終わったカイは一息ついて、鉈を下ろした。細かくなった薪を綺麗に積み直してから、カイはきょろっと辺りを見回し、勝手口を探す。
すぐ目に付いた扉があったので開けてみると、思った通り勝手口だった。
お邪魔しますと律儀に言いながらカイが入ったそこは、キッチンだった。しかしカイの予想に反して、そこには誰もいない。思わずカイは首を傾げた。
「鍵とか掛けなくていいのかな。……不用心だと思うんだけど」
キッチンを任されている人は何をしているのだろうと思いながらカイは呟く。無人であることが不思議で仕方がなかったが、今から部屋を掃除しなければいけない自分には関係ないことだと思い直してカイはキッチンを横切ろうとした。しかし違和感を感じて足を止める。
「……もしかして埃かぶってる……?」
カイは思わず近寄って、まじまじとキッチンを見つめた。長年触れられてもいないのか、金属はくすんでおよそ衛生的とは言い難い状態になっている。オーブンなど所々蜘蛛の巣が張っていて、全く使われていないことが嫌でも分かった。
「まさか……ここの召し使いって、私だけ……?」
すでに召使いが何人かいれば、キッチンがこんなことになっているなど、まず有りえない。そしてこの状態は、ソル自身も一切料理を作っていないということも示している。
その考えに至って、カイは慌てて周りを調べ始めた。もしかして…と悪い予感に駆られながら次々と色んな棚や引き出しを開けまくったカイは、全部確認し終わった後、がっくりと肩を落とした。
「食料どころか調味料さえ、ない……!」
そのうえ包丁や鍋まで錆びていて、そのままではとても使える状態ではなかった。
キッチンを使えるように綺麗にして、包丁や鍋を磨き、食器を洗って、食料の買い出しに行って、それから初めて調理に取り掛かり……。
「――って、とてもじゃないけど間に合わない!」
カイは思わず頭を抱えて悲鳴を上げた。こんなにもひどい状態から料理を作ることになるなど思いもよらなかった。しかし夕食の時間に間に合わせなかったら、怒られる(あるいは拳が飛んでくる)ことは必至だろう。
不機嫌な表情のソルを想像して、カイは思わず忘れそうになっていたもう一つの命令を思い出した。
全部の部屋を掃除しろという命令である。
「うわあ! 本気で間に合わない!!」
カイは今度こそ絶叫して、掃除道具を探すべく走り出した。


いくらするのか分からないほどの豪邸を極限まで放置した張本人は、書斎で仕事をしていた。
といってもそれは形だけなので、時々ぼーっとしながらたばこを吹かしている。実際、ソルには親が残した莫大な財産があったので働く必要がなかった。
「……」
時々思い出したように、ソルは原稿を書く。何もしないのもどうかと思って始めた翻訳の仕事だが、さして面白いわけではなかったので、自然進む速度は遅かった。しかしそれはただソルにやる気がないだけであり、仕事の腕が悪いわけではない。むしろソルの翻訳能力は世間一般から高く評価されており、本人が望んでもいないのに仕事が勝手に舞い込んでくる始末である。だが、言語に関しては何不自由なく扱えるソルは、ほとんどの依頼を「んなくらい自力で読め」の一言で一蹴してしまっていた。
「……めんどくせぇ」
一言そう漏らして、ソルは万年筆を放り出す。短くなったたばこを灰皿に押し付け、新しいものを一本取り出して火を着けた。
しばらくソルが紫煙を吐いて一服していると、廊下からなにやらばたばたと騒がしい足音が聞こえてくる。
「すみません、旦那様! お願いがあるのですけれど!」
ノックも忙しなく、カイは扉を思い切り開けて叫んだ。突然静寂を破って現れた金髪の青年に視線を送ったソルは、ひどく切羽詰まった形相にぶつかって少し驚く。
「……一体なんだ」
それでも表面上にほとんど変化が現れないソルは、いつも通りの平坦な声音で聞いた。
落ち着いた様子のソルを見て、カイは自分が慌ただしく入ってきてしまったことに気付き、なんとか息を整えようと深呼吸をする。三度ほど繰り返してみっともないくらいには落ち着いたので、カイはソルの方へ歩み寄った。
「あ、あの……街に買い出しに行きたいんですけど……」
「勝手に行きゃいいだろ」
即行でソルに言われてしまい、カイは勢いを削がれる。
「で、でも……」
「一体なんだ。言いたいことがあるならさっさと言え」
はっきりしない態度を取るカイを、ソルはギロッと睨みつけた。すでに不機嫌なソルがこれ以上機嫌を損ねませんようにと祈りながら、カイはおずおずと切り出す。
「食料とかを買うのにお金がいるので……その分をもらえませんか?」
「ん。……ああ、そうか」
眉間の皺を解いて、なるほどとソルは納得する。
「そこまで気が回らなくて悪かったな」
「え……いえ、そんな」
まさか逆に謝られるとは思っていなかったので、カイは慌てた。威圧的な人だとばかり思っていたのに……。
驚いているカイを尻目に、ソルは机の引き出しを開けて中を覗いた。
「あー……今、現金がない。銀行から下ろさなきゃならねぇから、俺も一緒に行こう」
小銭くらいしか入っていなかった引き出しを閉めながら、ソルは言う。ついてきてもらえると分かって、カイは内心ほっとした。この邸宅の近くにある街は、カイが育った街とは違ったので、道に迷うのではと密かに心配していたのだ。別に方向オンチではないが、初めての街で行きたい店にすんなり行けるとは思えない。そしてなりより道に迷うことで時間をロスすることを懸念していたので、ソルの同行は有難かった。
「この近くは初めてなので、どこに何の店があるか教えてくださいませんか?」
カイがソルを上目遣いで見ながら頼むと、ソルは僅かに怪訝そうな顔をした。
「なんだ。お前、ここら辺の人間じゃねぇのか」
「はい…。奴隷は普通、知らない土地に連れていかれるものですから……」
カイは少し寂しそうに微笑む。
奴隷は逃走防止を兼ねて、思いもよらないほど遠いところへ連れていかれることが多い。下手をすれば言葉さえ通じない土地に送られてしまうこともある。それを思うと、カイは幸運な方だったのかもしれない。
不意にソルは立ち上がり、カイの方に近寄った。
「今日は街を案内してやる。……ただし一回で覚えろ。二度も案内はしてやらんからな」
「あ……はいっ」
やはりソルは命令口調だったが、頼みを聞いてもらえてカイは嬉しかった。
ひどく幼い笑みを浮かべて返事をするカイに、ソルはふと手を伸ばす。
「?」
突然無言で肩や腕をぺたぺたと触り始めたソルを、カイは不思議そうに見上げた。
「えーっと…私、何か変ですか?」
ソルの理解不能な行動に戸惑いながらカイがそう聞くと、
「マジでモヤシだな、お前」
の一言が返ってきたので、カイはピクッと眉を吊り上げる。
「放っておいてください! これでも仕事はちゃんとできますッ!」
体格のことで見くびられるのが嫌なカイは、精一杯言い返した。しかしソルはその様子にククッと笑いを漏らす。
「ま、せいぜい頑張れや。坊や」
「だから坊やじゃないですってば!」
細い体を怒らして食ってかかるカイを適当にあしらいながら、ソルは出かける準備をした。




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