それから街の商店街までソルに案内してもらったカイは、大きな布袋三つ分にも及ぶ買い物をして、店の前のベンチに座っていた。まだまだ買いたいものは山とあったが、今日はとりあえず最低限いるものだけにした。……といっても恐ろしい量になったが。
「……どこへ行ったんだろう」
カイはソルの姿が見えず、少し不安になっていた。カイが買い物をしなくてはいけないと言ったとき、ソルは何十枚もの紙幣をカイの手に握らせて、このベンチで待っててやるからさっさと行けと言ったのだ。そう……確かに言ったはず。
なのに買い物を終えて帰ってきたとき、にソルの姿はそこになかった。
「……置いていかれたのかな」
そう呟いて、カイは自分の手元に視線を落とした。一人になると不安が心を支配して、どうしても良くない方向へ考えがいってしまう。
カイの母親はカイが物心ついたときから病弱で、よく寝込んでいた。顔も知らない父親は蒸発したのか、すでに居らず、本来なら親からの庇護を受ける時期にカイは親の世話をしていた。だから余計になのか、関わった人すべてに愛情を求めてしまう傾向がある。
外見もさることながら雰囲気も恐ろしい印象を与えるソルだが、カイが今まで関わった人達と比べれば随分まともな分類に入る。見下した発言はするが、いきなり暴力を振うわけでもないし、わけのわからない理由で理不尽に怒鳴られるわけでもないので、それほど嫌な感じはしなかった。正直言うなら人を金で買うような人間にまともな奴はいないだろうと思っていただけに、少し拍子抜けしたくらいだ。実際奴隷を好んで買う人間の大半がろくでもない奴ばかりだが、ソルは少し違うような気がする。なにしろあのひどい荒れっぷりの邸宅のことを思えば、奴隷の一人や二人は買って掃除させたくなっても不思議ではない。
「ホントにどこ行ったんだろ……旦那様」
荒れ果てた哀れな豪邸を思い出して、カイは困ったように呟く。部屋の掃除は普通に終わった(といっても全部で30部屋あったので死にそうだった)が、キッチンの方は汚れが酷すぎて洗剤なしにはとても綺麗になりそうになかったので後回しにしたのだ。それが急に気になりだしたカイは、少しそわそわしながらソルが現れるのをひたすら待った。
「意外に時間くっちまったな……」
ソルは買い物袋を一つ抱えたまま、足早にカイとの待ち合わせ場所へ向かっていた。大して時間が掛からないだろうと踏んで、カイが買い物をしている間に用事を済まそうと思っていたのが、どうやら甘かったらしい。
大股で街の中を歩きながら、ソルは自分が抱えている袋にちらっと視線を投げた。正直、らしくないことをしたなと思う。
程なくしてソルが待ち合わせのベンチに辿り着いたとき、そこにカイの姿はなかった。まだ買い物をしているのだろうかと思いながらソルが周囲を見渡すと、女のように体の細い青年が、不釣り合いなほどに大きな買い物袋を三つも提げたまま、店のショーウィンドーの前に立っているのが目に入った。糸のように細く、透けるように流れる金の髪を持つその青年は、見紛うことなくカイだ。
遠くからそのまま声を掛けようかと思ったソルだったが、あまりにも熱心にカイがガラスの向こう側を見ているものだから、なんとなく気になって無言のまま近付いた。
「……なんだ、ケーキか」
「……!」
色とりどりのお菓子に目を奪われていたカイは、突然背後から声を掛けられ、思わず飛び上がりそうになった。
「だだだ旦那様!」
カイは体ごと向き直ってソルを見上げた。しかしソルは綺麗に飾られているケーキの方を見ながら聞く。
「……ほしいのか?」
「え……!? そ、そういうわけじゃないですッ。ただ見てただけで……っ!」
顔を紅潮させて必死に否定するカイを見て、ソルはつくづく嘘のつけない坊やだなと思った。良くも悪くも真っ直ぐで正直だ。
ソルは徐にポケットから紙幣を二枚出して、カイに渡した。
「なんか二つ好きなの買ってこい。俺とお前の分だ」
「な、何を言ってるんですか……!? 旦那様の分はもちろん買ってきますが、私の分なんてそんなっ!」
本気で驚いて慌てふためいているカイを、面白い奴だなと思いながらソルはカイの背を押す。
「何度も言わせるな。さっさと行け」
「は、はい……っ」
困ったような嬉しいような、でもやっぱり後ろめたいような顔をして、カイは買い物袋を抱えたまま店の中に入っていった。その姿にソルは思わず笑みを零しそうになって、途端に顔をしかめる。
なにやってんだ、俺は……。甘やかしてどうする。
胸中でそう言ってはみるものの、嬉しそうにケーキを選んでいるカイを見ると、まあいいかという気になってしまう。
買い終えて、小さなケーキの箱を持って出てきたカイは、はにかんだ顔でソルに頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
そんな大袈裟なと思うくらい大喜びする様に驚きながら、ソルはカイから受け取った釣銭を無造作にポケットへ突っ込み、ゆっくりと歩き出す。
重い荷物を提げたまま後ろからえっちらおっちらついてきているカイをちらっと見て、ソルは突然カイに持っていた袋を投げてよこした。
「え……わっ!?」
驚いたカイは飛んできたそれをなんとか受け止めて、わけがわからず首を傾げる。
「あのっ、これはなんですか?」
「……お前の服だ。適当に買ったから気に入らんかもしれんが、とりあえず着てろ」
ぶっきらぼうにそう言うと、ソルは歩く速度を速めた。慣れないことを言ってしまって、なんとなく居心地が悪くなったのだ。
さっさと歩いていくソルの後ろ姿と腕に収まっている袋を交互に見つめて、カイは不意に笑みを漏らした。それが、春の花を思わせる優しく華やかな笑みであったことを、本人でさえ気付かなかったが――。
買ってきた洗剤や雑巾でキッチンを一通り綺麗にしたカイは、食料や調味料を袋から取り出して貯蔵庫や棚に収めていた。フライパンや鍋も磨いたので使える状態にはなったが、元々古いものだったらしく、買い替えた方が良さそうだった。
作業を終えたカイは、仁王立ちになってキッチンを見回してみる。埃まみれで生活感の一切なかった空間が、随分蘇ったような気がした。
「さて……じゃあ、料理に取り掛かろうかな」
そう言いながらカイは袖を捲ろうとして……自分がとてつもなく汚れていることに気付く。色々な部屋を掃除していたのだから当然と言えば当然だが、これはちょっと酷すぎる気がする。
いくらなんでもこのまま料理するのは不衛生だろうと思ったカイは、ソルからもらった服が入っている袋を持って、風呂場へ急いだ。場所は各部屋を掃除していたときに知っていたので、迷わず辿り着く。無断で借りていいものかどうか迷ったが、了承を得ている時間さえ惜しかったので、事後承諾ということにしてもらおうと思いながら、カイは脱衣所で服を脱ぎ始めた。
――が、姿見に蜘蛛の巣が張っているのを見て、悪い予感が脳裏をよぎる。
「まさか……!」
どうかこの悪い予感が当たりませんようにと切に願いながらシャワー室のドアを開けたカイは、目の前に広がった現実に打ちのめされて、その場にしゃがみこんでしまった。
「あの人、どんな生活してるんだ……」
かなり嫌な具合にカビがはびこったシャワー室を見ながら、カイは絶望的な声を漏らす。
今まで見た限りまともな状態だったのは書斎と寝室だけだったので、ソルはほとんど外出して過ごしているのだろうとは思っていた。しかしそれにも限度がある。
カイは大きく溜め息をついてから、萎えそうになった気力を奮い立たせるようにがばっと立ち上がった。
「負けるもんか……!」
何に対してなのか分からない叫びを発し、カイはたわしと洗剤を持って果敢に中へと踏み込んでいった。