存在認識 (前編)
人類にとって、ギアは史上初めての天敵と言えた。
そして、聖騎士団内でカイ=キスクの天敵がソル=バッドガイであることは、彼が入団してから一週間経たずして周辺に認知されたことだった。
……真実がどうであるか、当人達がどう思っているかは分からないが、少なくとも周囲にそう思わせるだけの態度を、『天の遣い』とまで呼ばれたカイがさらけ出していたのは事実だった。
目上の者を蔑ろに扱うような礼儀知らずではないが、カイはかの紅い男に対してだけ豹変してしまう自分の態度に戸惑いを隠せなかった。
自分のペースを乱されるというか、自分の知る常識外で動くというか、とにかく掴めない。ただの粗暴な輩なら、聖騎士団内には他に幾らでもいる。長く続く戦争に精神をすり減らし、気が触れた者もいる。だが、そういうことではない。
最初は、よくいる『死にたがり屋』だと思った。作戦も命令も無視し、あまつさえ自身の防御も無頓着に敵陣へ突っ込む様は、死に場所を求めて自暴自棄になっているように思えた。
正義を口にしながらもその実、冷めた思考も持ち合わせていたカイは、意外にもそういう『死にたがり屋』を止めることはなかった。残酷ではあるが、命を投げ出す者を引き留める余裕は、聖騎士団にも人類にもなかった。
どうせ捨てる命ならば、未来に繋ぐ。それがカイの秘めた信条だった。
今は一個人が生き残ることに、意味のない時代。人間という種が繁栄するか滅亡するかの、大きな分岐点。聖戦は人間の過ちによるものであるが、ギアとの戦いは間違いなく生存競争とも言えた。
ギアと人間、どちらが強いかではない。どちらが生に執着しているかだと、カイは考えている。
だから、『死にたがり屋』を重要な場面で然り気無く、駒として扱っていた。それが良いことだとは決して思わないが、そうすることが上に立つ者として、最善である場面の方が多いのは事実だった。
それ故に、さほど経たずしてカイの中でソル=バッドガイは『捨て駒』として位置付けられていた。
だが先日の戦闘において、カイはその認識が間違いであったと、すぐに思い知らされることになった。
明らかな劣勢状況下での重要拠点防衛戦で、押し寄せるギアの勢いを少しでも削ぐために、カイは先駆けにソルを投入した。ソルがクリフ団長から異例の抜擢を受けたVIPだと分かっていたが、規律を守ることもなく勝手気ままに行動する様は、とても今後必要な人材とは思えなかったのだ。
規律を意味なく厳守することが正しいと、カイは思っていない。だが、『人類』としてまとまるために必要なこともあると思っている。
最もたるルールを挙げるとすれば、殺人をしないことだろう。人が生き残らねばならぬときに、同士打ちによる人口の減少など言語道断だ。
だが無法者故か、ソルは早々に無断外泊をし、酒場で喧嘩の果てに相手を病院送りにした。ソルから仕掛けたことではないと分かっていたが、売られるままに喧嘩を買うのは軽率すぎる。実力があれば何をしてもいいと思われるのは危険だと、カイはこのとき思った。
だから、恐らくは戦死、良くても重症は免れないと思われた先発隊にいたソルが、掠り傷程度で拠点へ戻ってきた時は心底驚いた。
流石にギアを殲滅することは出来なかったが、逃げてきたわけではなく、ソルは相手の数を着実に減らしながら後退してきたのだ。
「なんで生きてんだって面だな?」
瞠目するカイに、ソルは剣を構えたまま冷笑を浮かべた。それがあまりに図星過ぎて、そのときカイは何も言い返すことが出来なかった。
死人が自分の罪を咎めて舞い戻ってきたような、そんな気分を初めて味わった。
それが顔に出ていたのだろう、ソルはカイの様子に鼻を鳴らすと、「まあどうでもいい。さっさと片付けるぞ」と言ってギアに視線を移してしまった。
わざと死地に追いやったことを咎めることもなく、簡単に流されてしまったことに、安堵と罪悪感と羞恥がない交ぜになる。
……そしてそれは、とてつもない屈辱でもあった。
「まあ、ガキのやることだしな」とでも言いたげに嘲笑う紅い瞳が、カイのプライドをへし折っていった。
その時から、カイのなかでソル=バッドガイは苦手な対象になった。
それからしばらく。
異質なソルの存在に、周囲が慣れ始めた頃だった。
「少し、手合わせをお願いできますか?」
警鐘がまだ鳴ることなく、比較的穏やかな日に、突然ソルの前に立ちはだかる影があった。
おもては麗らかな陽光で草木は輝き、小鳥の囀りまで聴こえてくる。凄惨な日々ばかりの聖戦中において、稀に思えるほどの平和な日だった。
なのに、何故目の前の少年は、わざわざ平和なひとときを割いてまで、血生臭い戦いを挑んでくるのか。
整いすぎて人形めいて見えるカイ=キスクを見やり、ソルは内心呆れ果てる。
道を阻まれてとりあえず足を止めはしたものの、少年のことなど端から気に掛けてもいなかったソルは、うろんげな眼で首の関節をごきりと鳴らした。
「そんな気分じゃねぇ」
断る良い理由が思い浮かばず、ソルはそう言う。口に出してしまってから、こんな返答では逆に突っ掛かられるだけなのではと思い至り、マズったと内心舌打ちするが、意外にもカイは表情を変えることはなかった。
「そうですか」
カイは呟くようにそう言うと、くるりと背を向ける。
食い下がることもなく、あっさり去っていくピンと伸びた背に、ソルは思わず茫然と視線を向けた。
……なんだったんだ?
廊下を曲がり、完全に見えなくなるまでたっぷりと固まっていたソルは、僅かに首を傾げた。
団員の前では華のように笑うくせに、ギアには氷のような無表情で剣を振るう少年。その浮かべた笑顔の下でさえ、簡単に人を見捨てることがあることも、ソルは知っている。勝つための策としてそれが一概に悪いとは言えないが、慣れた様子が気にかかった。
自分のように、長い刻を経て感覚が磨耗したわけではなかろうに。何の罪悪感もなく当然だという顔をしているのが、幼いだけに余計に薄ら寒く感じさせた。
……そして同時に、そういう子供を産み出したのが他ならぬ自分達、旧時代の人間の罪なのだと、現実を突きつけられる。
炎に呑まれる民家、耳をつん裂く人々の悲鳴、ギアが腕を振るう度に噴き出す生暖かい血飛沫、すでに炭化して転がる無数の死体。
何度膝を折り、地に額を擦り付けて、終わりない懺悔をしたことだろう。もはや声も枯れ果て、天に叫ぶことが無意味だと知った今でも、胸の内で謝る言葉は絶えない。
「…っ…」
痛みの走った額を、ソルはヘッドギアの上から抑えた。感情が昂ると時折、制御が緩くなる。
詰めた息を吐き、ソルは止めていた足を再び踏み出した。今更何をどう言ったところで、現状は変わらない。
ギアを一匹残らず狩るまで――自分に安息の死はないのだ。
「少し、手合わせをお願いできませんか?」
「……」
欠片の愛想もなく無表情でそう言う少年を、ソルは引きつりそうになる顔で見つめた。
実は、道を阻まれてこの言葉を聞くのは、本日五度目となる。いやにあっさり引き下がったなと思えば、まさかこういうオチとは。
カイはあれから、二時間置きにソルの前へ現れた。そしてまるでそれしか言葉を知らないかのように、同じ問いを繰り返すのだ。
戦え、と。
ソルは肩を大きく落とし、溜め息をついた。カイの行動の真意が、さっぱり読めない。
何度も同じ言葉で試合を申し込むカイだが、ソルが断るとすんなり引き下がるのだ。文句を言うこともなく、『そうか』と頷くだけ。
この子供は暇なのか? 俺をからかってるのか?
流石にそんな疑問を抱き始めたソルだったが、その細い手に抱えられた書類の束を見るに、仕事の合間に来ているのだろうと思われた。いつでも出撃できるようにか、実戦で使う刀身の細い剣を帯刀したままでもあった。
思わず苛々と頭を掻きむしり、ソルは頭ひとつ分下にある少年を見下ろした。
「小僧、一体なんのつもりだ」
「少し手合わせを……」
「それは何度も聞いた」
再び繰り返す言葉を遮り、ソルは顔をしかめる。まるで壊れた人形みてぇだな…と内心呟き、こちらを見つめる青いガラス玉を見やった。
「何度来たって無駄だ。俺はそういう、面倒なことはしねぇ」
びらびらと体にまとわりつく法衣を後ろに払いながら、ソルはそうきっぱりと言ってやる。はっきり言わなければこの子供はいつまでも訪ねて来そうな気がしたからだ。
そしてソルの直感は正しかったと言うべき、目の前の少年はそれを聞いてきょとんと目を丸めた。
「そうなんですか?」
「……ああ、そうだよ。なんでそこで聞くんだよ。察しろよ……この阿呆がッ!」
苛立ちが頂点に達して、思わずソルは吼えた。
どこかネジが一本、いや二・三本飛んでいるのではなかろうかと思わされるカイの反応に、頭を抱えたくなる。五回も同じやり取りをしているというのに、指摘されなければ気付かないとは。
自然と凶悪なった目付きでギロリと睨み、ソルが一喝して追い払おうと口を開いた。
「ふざけ――」
「気分が乗らないとおっしゃっていたので、気が変わるまで待っていたのですが」
「ん……ぁあ?」
しかし同時に言葉が重なり、ソルは出鼻を挫かれる形になる。
一拍空白をあけ、ソルはカイの言ったことを胸中で反芻し、顔をしかめた。依然として変わらない無表情の少年を睨み、苦虫を噛み潰した顔で確認を取る。
「……待ってた?」
「ええ。『そんな気分じゃない』とおっしゃっていたので、気分が変わるまで待とうと思いました」
すらすらと、こちらを真っ直ぐ見ながら言うカイの弁に、ソルは絶句した。
まさかこの自分が言った言葉を、そのまま鵜呑みにするとは。
自分で言うのもなんだが、賞金稼ぎからの異例の抜擢で団内では浮いた存在だし、言動が無法者である自覚はある(だが直す気はない)。そんな相手の適当な返答を真に受けるなど、団長クリフ以来の天才だと持て囃される少年にしては迂濶すぎる行動だ。
正直、バカじゃないのかと思ったが、まだ経験は浅いものの隊を率いて輝く戦歴を残しているカイが、決してそうであるはずがない。
何か裏でもあるのだろうかと警戒しつつ、ソルは端正だが能面のように表情のないカイを睨んだ。
「悪いが、二時間おきに来たって気は変わらねぇよ。さっさと失せろ」
「……」
吐き捨てるように言うソルに、カイは眉ひとつ動かさず、沈黙で返す。
しばらく会話の空白が続き、人の話を聞いていなかったのだろうかとソルが疑い始めたとき、やっとカイがその桃色の唇を開いた。
「……分かりました。保留にします」
碧眼を金色の睫毛の奥に隠し、違和感のある承諾をこぼす。思わずその引っ掛かりに、ソルは片眉を跳ね上げた。
「は……? いや待て。保留も何も、俺はそんな気さらさらねぇ……」
妙な納得のされ方をしたら、この手のタイプはややこしいと思い、ソルが言い募ろうとした時だった。
敷地内全土に響き渡る、大きな鐘の音にかき消された。
「! ギアですね」
ソルが少し空を仰ぎ見ると、カイもまた虚空を見上げる。カイの言う通り、それは出撃を知らせる鐘だった。どこかでまたギアが現れたのだろう。
自分ではギアの気配が感知できなかったので、恐らくはそれなりに離れた場所なのだろうと考えていたソルの視界の端に、少年の後姿が映った。瞬き一つ程度の間に、少年はさっさと身を翻して行ってしまっていた。
カーン、カーンと頭に響く鐘の音を聴きながら、ソルは誰もいなくなった廊下をしばし眺める。あの少年は、他に優先すべきことがあると、すぐさまそちらに意識がいってしまうらしい。できれば不穏な『保留』という言葉を撤回してから話を終わらせたかったのだが……ギアの襲撃となれば仕方あるまい。
痒くもない頭を掻きながら、ソルは集合場である門の方へと向かった。
ギアとの戦いに、人間側が優位であったことはほとんどない。今回もまた、苦戦を強いられた。
団長であるクリフが幾らか部隊を率いて遠征で不在であったこともあり、多勢で来られては総数で圧倒的に劣った。幸い、カイとソルが居合わせた為になんとか防衛ラインを保っているが、いつ綻びが出来て決壊するか分からない危うさを孕んでいた。
次々と若い兵士が倒れていく。法力は枯渇し、防壁も弱くなる。逸脱した力を発揮するソルとカイでも、体中に裂傷が刻まれ、息が上がっていく。
他の人間がいなければ制御を弛めて一気に巻き返すことも可能だが、簡単にギア化するわけにもいかない。一度離脱して別方向から全力で討伐に向かう手もあるが、防戦一方の今、2本柱のうち1本のソルが抜ければ、確実に総崩れが起こるだろう。
じりじりと焦りが募る。消耗戦は気力も体力もに削られるので、好かない。
迫るギアを薙ぎ払い、怪我をした兵士を後ろへと押しやる。防壁を張って吹きつけられる炎を防ぐ。どう見積もっても、攻め手よりも守りに手数を割き過ぎていた。
「くっそ…! 守んのは性に合うわねぇ、なあッ!」
襲いかかるギアを拳で殴り飛ばし、ソルは思わず叫ぶ。すると、騒がしいはずの戦場の中でそれだけが別次元に存在しているかのような、凛とした声が響いた。
「では申し訳ないですが、守りをお願いします」
不意に掛けられた言葉に、ソルは瞠目する。視線を走らせると、声を発した少年は法衣を割かれながらも空中に飛んだり群れの合間をぬって走ったりと、止まることなく動いていた。
全く視線がかち合わなかったにも関わらず、少年が自分に向けている声を発したのだと分かる。
「全部、ふっ飛ばします。あなたまで焦げないでくださいね」
ふと振り返った少年は、額から血を流しながら、にっこりと笑ってとんでもないことをのたまった。思わずソルは一瞬、絶句する。
何を言っているんだ、このガキは。
思い切り顔をしかめたソルだったが、カイが手近のギアを斬り上げて空中に投げ出した瞬間、膨大な法力が発現し、言葉通りであることを瞬時に察した。
群れの上空に投げ上げられたギアの体が、カイの魔法を受けてみるみる膨張していく。皮が破れ、弾けて飛散する血飛沫を見ながら、ソルは顔を歪めて防壁を広範囲に編み上げた。
防壁が味方部隊を包み込んだ瞬間、ギアの血を媒介に法陣が空中に浮かびあがり、網膜を焼きそうな鋭い光が走った。カイの雷だと認識すると同時に、防壁を無理やり引き剥かれる暴力的な衝撃に、ソルは歯を食いしばる。
……団長のクリフといい、このガキといい、たまに人間とは思えん化け物が出てくるな。
余波の収まりを感じてから崩壊しかけの防壁を解いたソルは、思わず胸中で吐き捨てた。こうした突然変異こそが、あの男の求めていたことだとするなら、人間は最低な方向へと進化しているのではないだろうか。
――目の前にはギアの姿はなく、抉られた血濡れの大地と肉塊、そして蹲って息をつく一人の少年だけが映っていた。
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