「すみません。手は尽くしたのですが……」
「……あ?」

何故か先に家の中にいた紙袋の医者が、俺を見つけて突然そう言った。俺は1ヶ月振りに訪れたカイの邸宅で、荷物を肩にぶら下げたまま、間抜けな声で聞き返した。
あまりに唐突過ぎて、意味が分からなかった。
カイの家に医者がいる理由も、その医者がしなびた花束を持っていた理由も、当たり前のようにいつも通りにカイのもとへ来た俺には、何一つ察せられなかった。

「……何の、話だ」
薄暗く、明かりもない白い配色のリビングルームを眼だけで見渡し、俺は打ちひしがれたように背を丸める医者に問う。日が傾き始めているとはいえ、まだ昼といえる時刻のはずなのに、部屋は薄暗く重い雰囲気をまとっていた。
ひどく澱んだその空気に、違和感を覚える。相変わらず整理整頓の行き届いた小綺麗な部屋だが、何かがいつもと違うと明確に感じさせられた。
もう一度ぐるりと周囲を見渡した俺は、窓際に飾られた小さな花瓶に眼を止めて、眉をひそめる。そこには、既に枯れて散った、何かの花の束が差してあった。
あの生真面目で、綺麗好きに坊やが――あんな状態になるまで花を放置するはずがない。
「アイツはどうした」
紙袋の医者へと向き直り、俺は聞いた。嫌な予感に、ぞわりと悪寒が背筋を駆け上がる。
カイの身に、何かがあった。
部屋に置かれたローテーブルをよく見ると、うっすらと埃がまとっているのが分かる。空気がいつもより澱んでいるのも、締め切ったまま換気をしていないからだ。……それらだけで、カイがしばらくこの家に帰ってきていないのだと、確信してしまった。
俺の言葉に、背を丸めた医者がゆっくりとこちらに視線を向ける。黒い穴の奥で光る一つの眼が、横目で俺を射抜いた。
カサカサと音を立てる紙袋の奥で、男の口が徐に開く。
「死にました」
端的な言葉が、発せられた。
くぐもったそれを、残酷なまでに鋭い俺の聴覚が拾う。
死にました。……思わず、胸中でもう一度言葉を反芻する。
シニマシタ。医者は、そう言った。
俺は、急に鈍くなった自分の頭の回転に、眉をひそめた。
意味が、分からない。
死にました。……どういうことだ?
何を言ってる……?
「……なんだって?」
今更感じる、赤い鉢金の重さに不快感を強めながら、俺は意味を問い返した。何故かドクドクとこめかみが脈打ち、心臓に圧迫を感じ始める。
「だから、死んでしまいました」
「……誰が」
「カイさんです。決まってるでしょう」
俺の絞り出した声に、医者はぐるんと首を捻って答える。
――カイが、死んだ――。
言葉を認識した瞬間、俺は意識がかすんだような錯覚を受けた。
一層暗くなった視界に、顔を歪める。
「なに…言ってやがる……?」
じわりと滲んだ汗で張り付く鉢金を居心地悪く押さえ、俺は視線を泳がせる。伸びっぱなしの前髪が鬱陶しい。
らしくもなく、俺は思わずブツブツと言葉を溢した。なにしろ、あまりに唐突すぎる。
しかし、医者の言葉を冗談と取るには無理があった。過去に重いトラウマがあるだけに、この医者はその手の冗談は絶対口にしない。
それが分かっていながら、俺の頭は医者の言葉を拒否していた。
「そんな噂、聞いてねぇ……」
「表向きはまだ、生きていることになってますからね……。亡くなって一週間しか経っていませんし」
一週間? ……そんな前なのか?
医者の予想外な返答に、俺は茫然とする。
だが、それだけの間が空いていれば、何かしら裏で噂されているはずだと思い、俺は医者を睨んだ。
「……オカシイだろ。裏でも全く耳にしなかった。大体、坊やが関わるような事件は、ここンところねぇ――」
「事件に巻き込まれたわけじゃ、ありませんよ」
俺の言葉を、医者は淡々とした口調で遮った。はっきりとした否定に、俺は思わず怪訝な眼差しを向ける。
すると、医者は発光する1つ眼で俺をじっと見つめてきた。憂いを含んだような、嫌な感触の視線に、俺はざわっと肌が粟立つ感触を味わう。
……なんだ……?
医者はこちらを見つめたまま、しばらく押し黙っていた。だが、こちらが険しい眼差しで見つめ返すと、長い沈黙の後に医者は重い口を開く。
「死因は、肺ガンです」
「……!」
「もちろん、カイさんは重度の喫煙者ではありませんでした。けれど、この様な結果になってしまった。……言いたい意味は、分かりますか?」
抑揚のない声が、鋭く俺を抉った。
あまりに意外というべきか、全く想定していなかった返答だった。
咄嗟に、言葉が出ない。俺は喉に張り付く唾液を咽下するだけだった。
確かに、カイは以前に知った通り、多少は煙草をたしなむ。だがそれも、どちらかというと好んでのことではなかった。
いつも注意を受けながら、それでも傍で吸っていたのは――。
「――ッ」
俺は声も無く、喉を引き攣らせた。思わず口元を片手で覆い、視線を床にさ迷わせる。跳ね上がった脈が耳の後ろを叩いていた。
原因は――俺……?
足もとから冷たい空気が絡んでくるような錯覚を受けて、身震いした。
「……っ……」
顔が奇妙に歪むのを自覚する。一週間歩き続けても疲れを覚えないはずの足が、言い知れぬ重圧に膝を折りそうになった。
医者が咎めるようにこちらを見る視線に、恐怖を感じた。
「……俺が」
カイを、殺した……?
恐ろしい現実に、言葉は途中で掠れる。
間接的とはいえ、病の原因を作ったのは疑いようもなく、自分だ。
職場は公務員ということもあって、分煙されていると以前言っていたのを聞いたことがある。上層部との会議では稀に吸っている者がいるが、最近はそれほど会議自体があまりないと洩らしていた。
常習で、カイの近くで喫煙するのは自分だけだ――。
「…、…っ……!」
俺は崩れるように、その場で膝を折った。喉からは、無様なうめき声しか漏れない。
思わずジャケットに鋭い爪を立て、掻きむしった。できることならこの心臓を抉り出して、与えてやりたいと思ってしまう。……できないことなど、分かりきっていたが。
「これで……よく分かったでしょう。あなたは紛れ込んだつもりかもしれませんが、決して人間とは相入れない」
「……ッ」
そんなこと、分かってる。俺が化け物だってことくらい、最初から……!
大声で叫び返したつもりの言葉は形にならず、俺の喉を震わせるだけに終わった。
嫌な汗の滲む強張った体を奮い、俺は衝動で顔を上げてもう一度叫ぼうとした。
だが、いつのまにか目の前にまで近付いていた医者が、こちらを見下ろしていた。至近距離でその暗く冷たい目とかち合い、体が一瞬で凍った。
底の見えない闇に灯る、爛々とした光がこちらを凝視していた。
「もう彼は、冷たい土の中です。今更言い逃れはやめなさい、あなたのせいです」
「……め、ろ……」
「あなたが傍にいたばかりに、彼は死んだ。あなたがいなければ、こんなことにならなかった」
「……やめ…ろ」
「そうです。あなたが、彼を――」
「や、めろ……!」
「殺した」
「――やめてくれェェッ!」













「カイ=キスクは、世界の『柱』だ。それは君も分かっているだろう?
 僕と君が消えても、彼が未来を担ってくれる。
 途中で死なれては困るんだ――世界にとって」











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