騎士と王子






「あ? なんだって?」
愛用の大剣の金具部分を締めて緩みを直していたソルは、手を止めて顔を上げた。目の前で仁王立ちで佇むその女は、ソルが纏う不機嫌な空気に気付いていながら、それすら楽しむように見下した笑みを浮かべて見せる。
「聞こえなかったかしら? 隣国の王子、ちょっと殺っちゃってきてほしいって言ったんだけどぉ?」
開けた服から覗く豊満な胸を高く組んだ腕で押し上げた姿勢で、女は甘ったるい声音でそう言った。小首を傾げる仕種はおねだりしているように見て取れるが、それが実は傲慢な命令であることを、ソルは分かっている。男を惑わす色香を持つこの女が如何に残虐で狂った神経の持ち主か、身を持って知っていたからだ。媚びる裏で、男が弄ばれる姿をせせら笑っているような女だ、こちらが思い通りに動くことを見抜いている。
腹立たしいながらも、ソルは基本的にこの女に逆らえない。なぜなら、彼女は一国の女王であり、自分はそれに仕える騎士だからだ。生来気ままにやってきたソルには今のこの状況は非常に不本位なのだが、この国の王に弱みを握られており、とりあえず今のところは耐えるしかない。
とはいえ向こうの思惑通り動いてやるのは不愉快窮まりない。仏頂面のまま大剣を脇に立て掛けたソルは鷹揚に足を組んで背もたれに体重を預ける。椅子が軋んだ音を立てた。
「おい、イノ。てめぇみたいな腐れ女のアソビに付き合ってやる義理なんぞ俺にはねぇんだよ」
その女――イノは、ソルの反抗的な視線を嘲笑うように目を細める。
「あらどうしてぇ? あの坊や、可愛いんだけど、あの人にとって邪魔なのよねぇ」
「だから、なんで俺にんなことやらせんだ。暗殺ならそのスジの奴にやらせりゃいいだろ」
女王の護衛が騎士の仕事、それ以上のことをするつもりはさらさらない。肩をほぐしながらだるそうに、ソルは言い返す。その態度に、イノは落ち着いた色合いだった瞳を闇夜に輝く獣の眼に変じさせて口端を吊り上げた。
「いいからテメェがヤッてこいっつってんだよ。テクニックはテメェの方が上なんだからよ、簡単だろーが? ……ま、なんつっても、ヘマやった時にこっちが痛くも痒くもねぇってぇのが一番イイトコだがな!」
耳障りな高笑いをあげ、イノが肩を揺らす。言葉遣いも態度も豹変したその様子に、ソルは動じることもなくただ眉をひそめて、変わらず女王を睨みつける。悪女が正体を晒す姿は別に珍しくもなく、特にソルはその悪意に当てられることが多いため、もはや慣れてしまっていた。
「一応俺はてめぇの騎士として顔を出してんだがな……。俺が失敗したら、困るんじゃねぇのかよ」
護衛として、ソルは女王とともに公の場に姿を現すことが多い。暗殺の際に面が割れれば隣国から糾弾されることは必至だろう。嫌々ながら騎士としてこの場にいるソルとしてはイノや王が困ろうが、国が滅ぼうがそれこそどうでもいいことだが、面倒事を押し付けられるのも嫌なのでその点を指摘する。
しかしイノは反論を受けるであろうことは予想済みだったのか、一笑に伏した。
「そんなこと、わざわざ言われなくても分かってるよ。だから上手くやろうが失敗しようが、テメェはこの国と何の関係もない平民に戻してやるのさ。つまり、ヘマやって役人の野郎どもに追っ掛けられんのはテメェの責任ってことだ」
「……おい。ってことは、その仕事が済めば俺は自由の身か?」
隣国の王子を殺すにはソルくらいの力量が必要だが、女王の騎士であるソルが暗殺したという事実は国にとって不利益。しかしソルが一個人として行えば、例え失敗しても国には何の関係もないこと。
確かにこの方法ならば、国としてもリスクは少なくて済む。だがそれと同時に、優秀な騎士として確保していたソルを手放すことになるのも事実である。
弱みを握ってまで強引に味方につけていたというのに、それをみすみす逃すなどとはどういうことだろうか。疑いの眼差しを向けるソルに、イノは尊大な態度で頷いてみせた。
「ああ、そうだぜ。事が済めば、こっちが預かってるテメェの神器も返してやるってよ。あの人からの大サービスだぜ」
「……マジか? なんか俺にとって都合良すぎて薄気味悪ィが……それともその王子の暗殺がそれだけ重要ってことか?」
ソルが持っていた神器を人質代わりに国王はソルを騎士の任に就かせていた。その切り札を返してソルを自由の身に戻してでも暗殺を図ろうとするなど尋常ではない。
「向こうの第二王子とディズィーの婚約の話は聞いてんだろ?」
「ああ、ディズィー王女の噂は聞いてるが、それがなんだ?」
「上手い具合に話がまとまりそうなのはいいんだが、第二王子ってのはシケてるからな、いっそ第一王子に繰り上がってもらおうってんでな。そのために何が邪魔か、それくらいテメェでも分かんだろ?」
赤い紅を引いた口を釣り上げ、イノはソルの顔を覗き込むように見下ろす。存分な女王様振りに辟易しながらも、ソルは淡々と頭の中で話の内容を順序立てて整理していた。
噂で聞いた王女の婚約話は隣国との友好関係の促進に非常に役立つだろうし、イノの話振りからでは現実になるのもそう遠くはなさそうである。そして確かにイノの言い分通り、第二王子よりも将来王の位置に着く第一王子の方がこちらにとって遥かに有益だろう。しかし……。
「それならなんで最初から婚約の話を第一王子に持って行かなかった? それに、いくら第二王子に王位継承権を渡す為だからっつったって第一王子を暗殺なんざしたら、平和的解決になんねぇだろ」
懐から煙管を取り出し、ランプから火を移しながら冷静な指摘をするソルに、イノは片眉を器用に上げて驚きを表し、次いで口元を笑みで歪めた。
「いいとこに目ェつけんじゃねぇか。実は第一王子の暗殺は、向こうの国王も了承してることなのさ」
「! 国王が……!? 一体どういうことだ」
隣国の王が第一王子の存在を快く思っていないなど、普通はまずありえない事態だ。しかも暗殺まで黙認しようとしているのだから余程のことなのだろう。だが……一つの可能性を除けば、の話だ。
「不倫か赤ん坊の取り違えかは知らねぇが、実は第一王子は王族の血を引いていませんでした、ってか?」
煙管を口端にくわえ、ソルは皮肉な笑みを浮かべて冗談交じりに呟く。しかしそれを肯定するように、イノの眼が細まり、鋭い光を燈した。
「ああ、女王の不倫だとよ。どこで遊んでたんだか知らねぇが、王のガキじゃない。皮肉なもんだよなぁ、そのおかげで第一王子は才色兼備で国民の憧れの的さ。……殺しにくいったらありゃしねぇ」
隣国のその事態を、イノは鼻で笑う。それは、体裁ばかりを気にする特に何の取りえもない国王に対する嘲りをたぶんに含んでいた。彼の血を正式に引いていたならば、第一王子は国民に寵愛されるような人物ではなかったかもしれない。女王の不倫相手がどんな男かは知れないが、容姿にも才能にも恵まれた人間であったことは、第一王子の人となりを見れば確かだ。
しかしそれ故に、暗殺は気が咎めたのだろう。王子の死で国民の意気が消沈するであろうことも想像に容易い。尚且つ、王子自身に非はないという事実も二の足を踏ませていたのだろう。
だが部外者が都合上、殺そうとすることは構わないらしい。むしろ自分の手を汚さずに済むのだから歓迎さえしていることだろう。
「……なるほどな。まあそれなら引き受けてもいい。……つーか、これでようやくお役御免になるなら、何だろうとやるがな」
ひとつ鼻を鳴らし、ソルは口端をあげる。どんな相手の暗殺だろうが、こちらの知ったことではない。自由の身になれるなら、安いものだ。
「交渉成立ってェ、わけだな。……まァ、引き受けるだろうとは思ってたがよ。ったく、あの人はテメェにゃ甘いな」
話はまとまったが、如何にも気に食わないといった態でイノは顔を背け、近くにあるクイーンサイズのベッドに腰を下ろす。それを一瞥し、ソルはうまそうに煙管を燻らせた。
この国の王とソルは、友人同士だった。とはいえ常日頃からベタベタしているような関係ではなく、学問や理論を通しての理解者であり、たまにしか会わなくても妙に意気投合する、そんな関係だった。しかし彼が正式に国王となってからは、傭兵くずれのソルとは話す機会もなくなり、長い間疎遠になっていた。それはそれで、ソルは特に気にしなかったのだが、王の方はソルに執着していたらしく、状勢が落ち着いてからコンタクトを取ってくるようになり、是非騎士として傍に居てくれないかと申し出てきた。だが、公の場に出るのを好まないソルは即座に断った。それでもしつこく国王は頼み、またそれをソルは突っぱね……と幾度も繰り返しているうちに、国王は強行手段に出て、ソルが持つ神器・封炎剣を盗んで脅迫してきたのがちょうど二年前のことのだった。強引な方法に腹は立つが、王が切実に願うあまりに行ったことなので、ソルも仕方なく大人しくしていたのである。
しかしそんな脅迫まがいが長く続くわけもなく、何より王の方が良心を咎められたのか、今回の仕事で終わりにするといってきたわけだ。これが全くの赤の他人ならば、神器を取り戻したあとにソルは王に復讐でもしに行こうと考えたかもしれないが、一応は古い友人なのでそういう気は起きない。逆もまた然りで、王も暗殺が遂行された後に約束を反故にしてソルを始末する、ということはないだろう。その辺りの信頼はしている。
「……ま、ドジらねぇようにやるさ」
ソルは煙を吐き出しながら、そう呟いた。生憎と第一王子の顔は覚えていなかったので、意気込みとは別に、些か力の入らない言葉となってしまっていた。
どんな奴かは知らないが、大人しく成仏してくれ。
実際に手を下すのは自分だが、人を斬ることに慣れてしまったソルには他人事のような、そんな思いしか浮かばなかった。








決行の日取りは事前に決められていた。しかも用心のために国王同士だけの密談によるものだった。他の者にその事実が漏れることは両国間の関係悪化に直結するためである。
決行日の夜、ソルは軽装に身を包み、隣国の城内へ侵入した。間取りや隠し通路など、特に第一王子の寝室周辺は事細かく情報が提供されていたので、ソルはそれを事前に丸暗記し、ほとんど警備兵に見つかることなく奥へと入り込む。
一応、提供された情報がガセで罠を仕掛けられることも想定して気を付けていたが、どうやら本当に素直な協力をしてくれていたらしく、第一王子の寝室へ直結する隠し通路も本物だった。流石に軍隊国家の異名を持つこちらを、隣国の王は敵に回したくはないらしい。ソルにとっては古い友人である国王だが、それでも考えていることがよく分からず、怒った時には何をしでかすかわからない恐ろしいところがあった。誰にとっても敵に回したくはない存在だろう。
とにかく事前にシミュレートした通り、ソルは裏庭から調理場へ入り、使用人専用の通路を使って二階のベランダへと飛び移って書庫へ侵入し、本棚の後ろの隠し扉から第一王子の部屋へと向かった。
狭い通路を通るのは体躯が大きめなソルにとって容易ではなかったが、目立った音を立てることもなく、広い一室に出ることができた。柱にある見事な彫りが施された木製の装飾部分が外れるようになっており、ソルはそこから這い出ると素早く辺りを見回した。
寝室ではあるが、王子ともなると流石に一部屋では済まず、幾つかの部屋が繋がって一つになっていた。ベッドは近くに見当たらないので、奥にあるようだ。
巻き付けていた布を外し、抜き身の剣を片手に持ってソルは無造作に歩を進めた。所作は普段と変わらなく見えるが、気配も足音もなく、空気を乱さない滑らかで自然な動きである。まず普通の人では隣に立たれても気が付かないだろう。
そんな、一見粗野に見えつつも流れるような動作で部屋を幾つか渡り歩くと、突き当たりの一際広い部屋へと行き着いた。そこには大袈裟な程に豪華な装飾が施された大きなベッドが据えられており、上等そうな真っ白のシーツは人型に膨らんでいる。明らかにそこで誰かが眠っていた。
警備兵の類は遠くに気配を感じるが、ここ周辺からは離れている。大きな音でも立てたりしない限り、こちらに気付くことはないはずだ。
ソルは鋼の大剣を構え、ゆっくりとベッドに近付いた。シーツを深く被っているために零れる金髪以外分からず、顔が確認できないが十中八九、そこに眠るのは第一王子だろう。
本当ならソルとしては、このまま上から叩き斬っても構わない。だが、殺してきたと報告するにはやはり本人である確証がなければならないだろう。一応確認は取っておくべきか、とソルは全身の神経を張り詰めさせてシーツの端を掴んだ。
声をあげてうるさいようなら肺を一刺ししてやろう。そう思いながら、ソルはシーツを剥いだのだが。
「――!」
その膨らみはもぬけの空だった。
いや正確には、中身の人物は瞬時に天井近くまで身を踊らせていた。項をチリリと刺激する危険信号に、ソルはシーツを手放して後ろへと飛び退く。
半瞬後、空気を裂く唸りとともに目の前に白銀の刃が打ち下ろされた。途端に舞い上がる、無残に裂かれた絹生地や羽毛が視界を埋め、一拍遅れて真っ二つに崩れたベッドは施された見事な彫りや装飾が悲鳴をあげるが如く、耳障りな軋みをあげて真ん中から床に崩れ落ちた。
力によって捩伏せたのではなく、技による瞬間的な力を利用した一撃だった。使いようによって水は鋼さえ打ち砕くというが、まさにそんな濃度の高い太刀筋はソルの心臓を僅かに震わせた。
それは恐怖ではなく、昂揚だ。紅い瞳を細め、ソルは笑みを浮かべた。
窓から差し込む月明かりを受け、暗闇に光る長剣をすらりと構えて目の前に降り立ったのは、一人の若い男だった。ベッドで眠った振りをしてこちらに反撃を仕掛けてきたのは間違いなくこいつだ。真ん中で折れたベッドの上に危なげもなく乗り、湖面のように重心を安定させたその男の背丈は決して低くはなかったが、体の線の細さはおよそ剣を扱える者には見えない。
女に見紛う清廉さは顔の造作の端麗さと合間って精巧な人形を思わせるというのに、纏う雰囲気のなんと猛々しいことか。触れれば切れそうな鋭い気迫は、先程の一撃がいかに洗練されたものであったかを証明している。ソルの記憶の中でもこれ程の手練はそういない。
裁きを下す天使が如く出で立ちでありながら、黄泉を支配する魔王の冷徹さを見せるその不思議なバランスを巧妙に成り立たせた男は、切っ先を向けて鋭い視線でこちらを射抜いたまま薄い唇を開いた。
「刺客…、か?」
澄んで張り詰めた空気を乱さぬようにひそやかに響いた声は、その容姿から想像するものより若干低めではあった。しかし、凄んでいながらも吐息の交じるその声は人を引き付ける蠱惑さも兼ね備えている。
不思議と鼓膜を刺激する、イイ声だ。ソルはそんな感想を抱きながら、薄笑いと供に目の前の男を舐めるように見つめた。
「まあ、そんなところだ。第一王子を殺すように頼まれた。……で、テメェなんだろう? その王子ってのは」
一応イノの騎士としてお供はしていたが興味のない人間の顔など覚えてはいないので、たとえ会見等で会っていたとしても第一王子の顔はソルの記憶にない。しかしこの男が目的の人物であると、ソルには妙な確信があった。才色兼備という言葉を十二分に表したその容姿と隙の無さだけで、噂やイノから教えられた王子の特徴を充分に満たしている。
だが、なぜか男はソルの言葉に眉をひそめてしばし沈黙した。
「……そうか、暗殺を頼まれたか。だが、生憎と私は第一王子ではない」
「なんだと……?」
静かに男がそう答えたことに、ソルは眉を寄せた。
提示された部屋に間違うことなく来たはずであるし、なによりこれ程豪勢な部屋に陣取る人物が階級の低い者には見えない。男の容姿も、金髪碧眼で造作の整った美青年という条件を満たしている。
鋼の大剣を構えたまま、ソルは男を睨み付けた。
「しらばっくれてんじゃねぇよ。どう見てもてめぇだろうが」
「影武者……という可能性は考えなかったのか?」
「……!」
男はこちらを平静に見つめたまま、意外なことを口にした。確かにその警戒を怠っていたことは確かだ、しかし隣国の王が暗殺に協力する意思があるならば根回しして本物をこの部屋に置いておくはずだろう。……ということは、初めから罠にかける気だったのか?
いや待て、早合点はよくない。この男の言い分を鵜呑みには出来ない。……ただ、緊急時は素早く退却することも選択肢に入れておかなければならない可能性が出てきたことは確かだ。
真実を見極めようと、ソルは血色の瞳を細め、冷たい光沢を纏わせた。
「何の戯言か知らねぇが、そんなハッタリが通じるかよ」
「頭からそう決め付けるか。……愚かな男だ」
呆れに似た吐息を漏らし、男はゆるりと目を伏せる。その仕種には焦りも悲壮もなく、ただ諦めが滲み出ていた。
まさか本当に影武者か……?
逃げ出す様子も見られない目の前の男に、ソルは内心困惑した。もしもこれが影武者だとしたら、この男を殺したところで本物は無事なままだ。任務の達成にはならない。
窓から覗く満月を背に剣を構える男を見つめ、ソルは柄を握る手に力を込めた。
「仮にそうだとしても……てめぇをぶっ倒すことに変わりはねぇ。足腰立たねぇようにしてから、本物の居場所を吐かせてやる」
言い終わるか否かというところで、ソルは重量級の剣で横薙ぎに斬撃を浴びせる。唸りをあげて迫るそれは足元を狙ったものだったので、男は慌てもせずに軽く跳躍して避けた。
だがその動きを予測していたソルは重力に従って落下する男の胴を狙って、切り返す刃で追撃した。避けられまいと思われたが、男は避けることなく剣の腹で刃を受け、その斬撃を横へと逸らせて弾く。なるほど、慌てもせずに対処する様は場数を踏んでいると見える。
とはいえ当たらないことは承知の一撃である。ソルは弾かれて逸れた剣を素早く引き戻し、床に着地したところを狙って叩き付けた。それにも男は最速で反応し、着いたばかりの足で地を蹴り、こちらの懐へと飛び込んでくる。
ほとんど密着状態となって焦らないわけではない。だが、同時にこの至近距離で剣を振るうことが難しい事実もソルは知っていた。
鋭い衝突音とともに床に亀裂を加えた大剣を、ソルは一瞬の判断で手放す。密着状態で闇雲に剣を振りまわすよりは肉弾戦に切り替えた方が有利だと踏んだからだ。
「……!」
が、鳩尾へと打ち込んだはずの拳は、破裂音をあげて寸でで阻まれた。なんと、男の方もこちらの動きを予測して武器を手放し、全力で防御に回っていたのだ。
こちらが得物を手放すという思い切った行動をした分だけ、向こうも素早い決断をしなければ防御は不可能であったはず。
それをやってのけた男に、ソルは称賛の意味も込めて短く口笛を吹いてニヤリと笑い、次の攻撃を繰り出した。突き出した拳を引くと同時に反対の拳で胸を狙う。と見せ掛けて足払いも仕掛け、その半瞬後についてくる二段蹴りが本命だ。
さて、どこまでついてこれる?
「……ふ…っ!」
息を吐いて、男はソルの拳を流すように腕で受けた。円を描くように動かし、力を逸らせて尚ソルの拳は重く、華奢な体つきの男には荷が勝ちすぎるのか胸部に当たる寸前で身を捻りながらなんとか避ける。更にその不安定な足元を狙う足払いには、最初から気付いてはいたのか、上半身を逃がす動作に次いで難なくかわしていった。
影武者と名乗るだけのことはある。はやる気持ちを抑えながらソルは笑みを深くした。
本来身代わりを務める者は決して正体を明かさないはずなのだが、目の前の男は敢えて手の内を見せてきた。これは己の力を自負していることに相違ない。そしてそれに足る実力は確かに持ち合わせているとソルは感じた。
しかし王子の代理が成り立つ程に華奢な体はやはりソルのような力のずば抜けた相手は辛いのか、二撃を避けた時点で既に随分と構えが乱れ、重心が浮ついていた。半瞬後の蹴りに対処できる状態には程遠い。
暗闇の中でさえ浮き立つ白い肌は金の髪とともに玉の汗を散らし、相手の焦りを知らせてくる。悪いがこのまま沈めるか、とソルが放った蹴りに全力を注ぎ込もうとした瞬間、月光に照らされて男の表情が刹那垣間見え、思わず目を瞠った。
月光を半身に浴びた男は蒼玉の瞳を翡翠の色に輝かせ、こちらを真っ直ぐに射抜いて笑っていた。濡れた光を帯びる金糸の髪の間から、睫毛を伴ってくっきりと映えるビー玉のような丸い瞳を向け、微かに上げた口端から乳白色の歯と湿った紅い舌を覗かせるその様はあまりに凄艶で、一瞬でソルの脳裏に焼き付く。
そして、ぞくりと背筋を這い上がるその快感とも嫌悪ともつかない、貫かれるような衝撃に気を取られた瞬間を突いて、何かが目の端で閃いた。
「――!」
項をちりりと焦がす直感的なシグナルに促されるまま、ソルは上半身を反らせた。空気の合間を縫うように迫った鋭い刃が、喉元を掠める。切っ先が当たったのか、皮一枚を裂かれ、少量の血がはねた。
蹴りを収めてう後ろへ飛び退いたソルは、男の手元をちらと確認した。少し力を入れれば容易く折れてしまいそうな白い手には、何時の間にか抜き身のナイフが握られている。果物ナイフ程度の、暗器とも呼べない代物だったが、反応が後一瞬でも遅れていたなら、首への致命傷は避けられなかっただろう。
攻撃は最大の防御とは、よく言ったものだ。先に刃を突きつけることで、男はこちらを退かせることに成功したのだから。
首に付けられた紅い一筋の線をなぞり、ソルはうっそりと笑った。そうだ、こうでなくては面白くない。
放り出していた剣を流れるような動作で拾い上げて、男は弾む息と共に刃を構える。ソルも同じく大剣を片手に取り、体勢を整えた。
その一瞬の空白は向こうにとって付け入る恰好の隙だったはずだが、男は正眼の構えを取ったままこちらが立て直すまでじっと待っていた。まさか正々堂々勝負をしようということだろうか? 別に隙を突かれても切り返せる自信はあったのだが……、まあそういうのも悪くはない。ソル相手に接近戦でこれだけ立ち回れる奴だ、普通の雑魚と違って楽しめそうだ。
それなりに音は立てていたはずだが、衛兵が駆けつけてくる気配はなく、二人が互いの距離をはかって動きを膠着させると、針の落ちる音さえ躊躇われる静寂が辺りを包んだ。
しかし睨み合いながら、ソルは傍らにある崩れたベッドを一瞥し、徐にそれを蹴り飛ばした。静寂をけたたましく破ったそれは男に向けてではなく、遠くに押しやっただけで、相手はそのことに虚を突かれたような顔をした。だが、ソルはただ単に無駄に大きいベッドは障害以外の何物でもないと判断しただけだ。
こっそりと侵入してきて轟音を立てるなど愚の骨頂と嘲笑われそうだが、たとえ騒ぎを聞きつけて何人の邪魔が入ろうと、今ここでこの男と思う存分闘う方が遥かに有意義だと、ソルは感じていた。それほどまでに、目の前の男と対峙することは重要な意味を持っているように思える。
再び辺りが静けさを取り戻すと、仕切り直しとばかりに今度は男の方が動きを見せた。大理石の床を滑るように移動し、一足飛びに距離を詰めてくる。
月光を受けて煌く金髪が残像を残して迫り来るのを、ソルは逆手に持った大剣で迎え撃った。細身の剣で加えられる斬撃は、まるで数コマをすっ飛ばしたようにしか目に留まらず、そのいずれも確実に急所を狙っている。人間の眼はその構造上、あまりにも速い物体は脳内で映像として処理できないのだが、その超高速の刃をソルは次々とかわし、時折弾いて上手く避けていく。太刀筋がみえているわけではもちろんない、代わりに体の五感を駆使してその斬撃を読んでいた。
空気を裂く一瞬の唸り声、肌で悟る風の流れ、床の上を滑る微かな靴音、軋む剣の金属音、繰り出される瞬間に直感で受ける殺気、そして体を捻る度に漏らされる男の熱い息遣い。
「!」
かまいたちのような無数の刃の間を擦り抜け、ソルは唐突に男の間合いへと踏み込んだ。一瞬の隙を突かれたことに男の碧眼が瞠られ、それに笑いかけたソルの口端からは牙にも似た鋭い犬歯が覗く。
瞬間、闇の中で火花が散った。全力で打ち込まれた双方の刃が、互いの容赦ない衝突に悲鳴をあげたのだ。早くもハードな戦闘に緩み始めた剣の柄が、刃を交差させたまま押し合う二人の間で、鍔鳴りを奏でた。
男は放ったばかりの剣を引き戻し、ぎりぎりながらもこちらの攻撃を阻んでいた。その反応の良さに、ソルは再び全身に喜悦を感じる。普通ならばあの瞬間に男の体は真っ二つになっていたはずなのだが、目の前の男はそれを阻んだうえに、その刃の向こうから竦み上がるほど凄絶な視線でこちらを見据えていた。
その深海の瞳は見つめていると捕らわれそうな錯覚を起こさせる。
しかし、途端その甘い誘惑を断ち切るように互いが刃を弾かせ、距離を取った。たった一度の噛み合わせに欠けた刃片が空中に散る。月光に輝くそれらに気を取られることはなく、飛び退った二人の視線は交わったままだった。
そしてまるで時間を惜しむかのように、構え直すのもそこそこに男が再び踏み出す。ソルも同じく弾丸の如く低姿勢で走り出し、大剣を振りかぶった。
だだっ広い部屋の隅々まで、刃が交わる重厚な音が幾重にも響く。それは気高く澄んだ、鐘の音にも似ていた。
体の三分の二にも及ぶ大きさの得物にも関わらず、ソルはそれを巧みに操り、切り結んでいく。対する相手は細腕の非力さを補うように、まさに目にも留まらぬ速さで攻撃を弾き、隙を突いてくる。
薙ぎ払い、絡め取り、弾き返し、突く。一度でもまともに食らえば死は免れない、容赦ない攻撃の嵐を互いに浴びせ合い、二人は舞う。一見優雅にも見えるそれが死の舞踏であることは、爛々と光る猛々しい両者の瞳で如実に語られていた。命の削り合いに魅せられたかのように、何にも勝る高揚を足の先まで感じながら、剣を振るう。
どちらかが少しでも判断を誤れば一瞬で決着のつく闘いは、極度の緊張を強いられた。並外れた強靭な体力を持つソルですら、徐々に息があがるのを嫌でも自覚する。相手も同様に荒く息を乱し、とめどなく流れる汗を散らしていたが、それでも攻撃の手が鈍ることはない。男の鋭い視線は未だにソルから離れることはなく、寒さを覚えるほどの清廉な蒼玉は真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
たまんねぇなぁ……。ゾクゾクする。
剣の重みを感じ始めた手が痺れを走らせるのも構わずに大剣を振るい、ソルは乾いた唇を舌で潤す。恐れも迷いもなく向けられる視線が、強烈に心地良かった。
久し振りに熱くなれる死合いに興奮を隠せず、ソルは更に全身の筋肉を引き絞って重い攻撃を立て続けに繰り出した。肩口を狙って打ち下ろした初撃に続き、足元、胸部、首、腕を次々襲い、最後に突きで心臓を狙う。
「……ッ!」
肌や服に傷をつけながらも、男は弾む息を抑えつつ紙一重でかわしていたのだが、最後の突きを避けるために身を捩った際に大きくふらついてバランスを崩した。男の端正な顔が驚愕に歪み、息を呑む気配がする。極度の消耗が足にきてしまったらしい。
それを好機と取ったソルは、踏み込んでいた足を滑らせ、男の不安定な足を払った。決定的に態勢をくずした男は膝を折りかけるのだが、闘志を失わないその手はこちらの首を狙って刃を閃かせた。
それを咄嗟に手の甲で打ち払い、反撃の報復とばかりにソルは酷薄な笑みを張り付かせて、膝をついた男の鳩尾に蹴りを叩き込む。相当な圧迫に耐えられず、か細い喉が震え、男の唇から声なき悲鳴が吐き出された。ドッと鈍い音を立てて床に倒れた男は蹴られた箇所を庇いながらも剣を手放さず、トドメを刺そうと接近したソルに切っ先を向けようとする。
その闘争心には敬服ものだが、ソルが男の剣を踏み付け、大剣の刃を細く白い首に押し当てると、流石に動きを止めた。
「……動くんじゃねぇ。もう終いだ」
乱れた息を整えながらソルがそう言うと、標本に縫い付けられた蝶の如く床に押し付けられたまま動けなくなった男は、秀麗な顔を悔しげに歪めた。
負けは認めたのか、男は眉を寄せたまま押し黙る。しばしの間、二人は息が整うまで言葉を発する事なく見つめ合っていたが、突然男の方がふっと力を抜いて完全に体を床に横たえた。
「勝負は着いた。……さあ、殺してくれ」
微苦笑をのせ、男は空いたか細い手をこちらに伸ばしてはっきりとそう言った。
それが耳に届いた途端、ソルは眉間に皺を寄せる。なぜだかそうしてあっさり命を投げ出す様が腹立たしく思えた。普段は意地汚く命乞いをする連中に吐き気を覚えるというのに、なぜかこの時は命乞いをしない男に苛立った。
不機嫌をそのままに、ソルは男の華奢な首に冷たい鋼を押し当てる。
「第一王子の居場所を吐け。そうしたら、命だけは勘弁してやる」
冷徹で剣呑だが、どこか不貞腐れたような物言いに、男は目を見開いて不思議そうに瞬きを繰り返した。
「そんな気休めの嘘は無用だぞ? 私がなんであれ、お前が生かしておくはずがない」
こちらの心など見通しそうな真っ直ぐな瞳に、ソルはあー…と意味不明な呻きを漏らし、頭をがしがしと乱暴に掻いた。この綺麗な瞳に睨まれるのは心地良いが、そうしたあどけない眼差しはどう反応していいか分からなくて苦手だ。
紅い鉢金と額の間に溜まった汗を拭いながら、ソルは溜息とともにらしくない言葉を吐き出した。
「……面倒臭ぇんだよ、俺が。それに、関係ない奴を殺して喜ぶ趣味もねぇし。……なにより、正直惜しい。そんだけの腕をみすみす捨てんのはな」
「……!」
今度は男がはっきりと瞠目する。信じられない、という眼差しを返す男に、ソルは何とも言えない笑みを浮かべた。強面のソルは見た目通りぶっきらぼうで普段からあまり人を褒めた事などない。だがなぜかこの時ばかりは素直に称賛が口から出ており、そのことに自分自身が若干戸惑っていた。
同じくこの無口で無骨なソルが褒めたのが意外だったのだろう。男は宝石のように輝く大粒の瞳を見開いてまじまじとこちらを見る。真意をはかるような様子も一瞬見せたが、こちらが心からそう言ったのだが分かったのか、程なくして男は人形のように整った麗しい顔を綻ばせ、微笑んだ。
「そうか……。あなたほどの腕前の人にそう言ってもらえるなら悔いはありません。お褒めの言葉、ありがとうございます」
笑いかけるその表情は、闇の中でさえ浮き立つほど華やかで凛としていた。何の警戒も持たない素のままのそれに、ソルは不本意にも見惚れてしまう。
さっきまでの殺るか殺られるかの緊迫した空気はもうそこになかった。ソルは何か諦めたような重い溜息を吐き、男に向けていた剣を退けた。
「おら、逃がしてやるって言ってんだ。王子の居場所をさっさと言え」
凄みはあまりなく、悪友か何かに投げ掛けるような砕けた態度で、ソルは顎をしゃくった。促され、男が澄んだ眼差しをこちらに向ける。だがそれが一瞬揺らめいて見えたのは錯覚だったか。
「気遣い、ありがとう。だが……私が、その『王子』なんだ」
少し寂しそうに、男は笑う。その形良い唇から零れた事実に、ソルは目を見開いた。
「……おい、この期に及んでまで庇うこたーないだろ」
虚を突かれ、思わず不自然な程に間を空けてしまってから、ソルは殊更冗談口調でそう呟く。しかしそれが耳に届いているであろうはずの男は、ただ静かな表情でこちらを見つめていた。
その真剣な表情に、ソルは皮肉げに笑ったはずの口許が微かに引き攣るのを自覚した。冗談や狂言を言っている目ではない。
だが、どこか信じたくなった。
「そう言って、本物を隠すつもりか? お前がわざわざ身代わりになる価値なんざないだろう?」
「だから、隠してなどいません。……なぜ、これだけ騒いで誰も来ないと思っているんです?」
男の指摘に、ソルは言葉が出なかった。確かに、頭の片隅で不審に思っていたことだ。かなりの音を立てていたはずなのに、なぜ誰も現れないのか。
胸の奥にけぶる嫌な予感は確実にあったが、ソルは推論を口に出さず、視線で続きを促した。心得たように一度瞼を伏せ、男はあくまで平淡な調子で言葉を紡ぐ。
「今この城は半分以上が、もぬけの殻です。親睦を深めるという目的で、王も女王もそして私の弟も、遠い東の国へと出払っています。最低限の兵と侍女しかここには残されていないのですよ。……これがどういう意味か、頭のいいあなたには分かるでしょう?」
なぞなぞを出す子供のように、男は小首を傾げてみせる。だがそこに張り付いた笑みが上辺だけのものだということは、眇めて見ずとも痛いほどに分かった。
こいつ……自分が殺されることを知ってて……。
事態を理解したソルは自分の悪い予感が当たったことに舌打ちし、徐に男から視線を逸らせた。痛々しい表情で笑みを保とうとする男の姿が、見ていられなかった。
この目の前の男――第一王子であるカイ=キスクは、王の思惑も隣国との取引もすべて最初から知っていたのだろう。自分の子でないと気付いてから王の態度は傍から見てもひどい豹変振りだった聞くので、ぶつけられる当の本人がその負の感情に気付かないはずがない。それに加えて、正統な血を引く弟が隣国の王女と婚姻する話が持ち上がったのだ。尚更自身が疎ましく思われていることは自覚させられるだろう。それで城をほぼ完全に空けていく不自然な出払いに一人取り残されれば、よっぽどおめでたくない限りはその可能性を考える。
自分は消されるのではないか、と。
それはどれだけ考えたくない推測だろう。自分の死を周りが今か今かと待ち望んでいる。そんな悪夢が現実になろうとするなど。そうじゃない、考えすぎだと思っても、現実に突きつけられる冷たい眼差しは何よりも深く心を抉る。
床に横たわる男――カイの細い肩が震えているのではないかと錯覚を起こしそうになったが、やはりよく見るとカイは静かに笑うだけで泣いてもいなければ怯えてもいなかった。それに目を細め、何かを振り払うようにソルは頭をゆるりと振る。その動きの後を追って揺れる長い後ろ髪が、いつもより重く感じた。
「……じゃあなんで、お前はここにいる。殺されると分かってて」
あくまでも淡々と、ソルは疑問を口にする。その返答に少しでも高ぶった感情が加わっていればと密かに願った。感情が削げ落ちたカイの様子を目の辺りにするのが、今は何より苦痛で仕方がない。
余程こちらが苦い顔をしていたのだろう、カイは労るような笑みを向け、剣の柄から指を解いた。そうして武器を手放し、緩慢な動きで上半身を起こす。フランス人形のように足を投げ出した状態で、改めてカイはこちらに視線を向けた。
「私の存在がなければすべて上手くいくのだと分かったから……もういいか、と思ったんです。私は十分に幸せに生きてきました。思い残すことなどありません」
そんな台詞とともに向けられる柔らかい笑みに、ソルは反射的に吐き気を覚えた。そんなキレイゴトなど、聞きたくない。
「……馬鹿言ってんじゃねぇ。どう考えても、てめぇに非なんかねぇだろうが」
悪いのは不倫をした女王の方だ。
我が事のように憎しみを膨れ上がらせたソルに、カイは些か驚き、慌てて制してくる。
「母上は悪くありません。父上とは政略結婚だったから……前の恋人が断ち切れないままだっただけです。今はもちろん貞淑ですが、あれほど愛した人はいなかったと語ってくれました。そのことに、私は誇りを持っています。父上には疎ましいだけかもしれませんが……確かに私は望まれた存在なのだと、母上を見ていると感じるんです」
嬉しそうに、カイは語る。それはひどく年不相応な幼い表情に思ったが、それ故に彼が本当に心の底からそう思っているのだと思わされた。
しかしふと顔を曇らせ、カイは冷たい床に視線を落とす。
「……父上の怒りも、分からなくはないんです。あの人は本当に母上を愛しているから……余計に許せなかったのだと思います。それに母上は……少し頭の弱い人ですから、聞かれれば無邪気に何でも楽しそうに語ってしまいますし……。怒りの持って行きようがなかったのだろうと思います」
それぞれの愛する気持ちが違うベクトルに向いてしまったがためだと、カイは巻き込まれた当事者でありながら、他が事のように落ち着いた声音で告げた。その様にソルは苛立ちが沸き上がるのを抑えきれず、汗で湿った髪を乱暴に掻き乱す。
胸クソ悪ィにも程がある。
その全てのツケを払っているのは結局、この哀れな王子だた一人ではないか。よくお伽話で悪い魔女が倒されてめでたしめでたしと最後を締め括るが、それと酷似しているようにソルには思えた。大きく違うのは、目の前の王子は何も悪いことなどしていないということだが、一人を葬れば周りはハッピーエンドになるというくだりはそっくりだ。
荒れる胸中を落ち着かせるように、ソルは額にある紅い鉢金をごつっ、ごつっと拳で叩き、重苦しい溜め息を吐いた。
「……お前は、それでいいのか」
ここで死ぬことに、納得しているというのか。
睨み付けるような鋭い眼光で、ソルは男を見下ろす。それを受けて、カイは投げ出していた足を引き寄せ、薄っすらと笑いながらこちらを見た。
「ああ、これでいいんだ。……あなたには影武者だと偽ってしまって悪かったよ。王子だと知られれば問答無用で殺されそうだったから……思わず嘘をついてしまった。でもそのおかげで、最後に実りある勝負が出来て本当に良かった。ありがとう」
ともすれば整いすぎた顔は冷たさを帯びるのだが、カイは飾らない笑顔を見せ、暖かな空気を纏った。本当に感謝していることが、その親しげで華やかな表情で窺える。
重い空気を孕むソルの胸中など知らず、徐にカイはそのまま静かに目を閉じた。
「さあ、一思いに殺してください。あなたもこんなところでいつまでも油を売っているわけにはいかないでしょう」
男の割りに華奢な首を晒し、カイは決意のこもった、澄んだ響きを持つ声で促す。
覚悟はとっくに出来ているということか。
目を細め、ソルはゆっくりと重い大剣を振りかぶった。グローブと柄が擦れ、軋んだ音を立てる。振り上げた腕がいやに重かった。
「終いだ……」
無機質な声がソルの唇から零れた。同時に打ち下ろした刃は、唸りをあげる。空気の裂かれる悲鳴が耳に届いた。
……そして、鮮血が散った。
衝撃に容易く飛ばされた体は、鈍い音を立てて大理石の床に転がる。月光を紡いだような金髪が散らばり、透き通るほど白い四肢が投げ出された。彼岸花の如く映えた紅い血が静かに滲んでいく。
静寂に包まれた闇の中でソルは剣を軽く振るい、こびり付いた血を払った。もとから鞘を持たないそれを無造作に肩へ担ぎ直し、ソルは早々に背を向ける。余韻も未練もなくその場から離れる足元はあくまで静かであった。
だが、それを咎めるかのように衣擦れの音がした。
「どういう…ことだ……」
絞り出すような固い声が響く。いつもならば凛としているであろう声音は、戸惑いに染まっていた。震え、縋り付いて来るようなそれに、ソルの足が止まる。
間を置き、ソルは肩越しに後ろを振り返った。
そこには、左腕を血に染めたまま体を起こすカイがいた。
「これは……一体、どういうことだ?」
不安を伴いながら不思議そうにこちらを見るカイの表情からは、苦痛の色はほとんど見て取れない。どちらかというと、取り残されて、なんでと叫ぶ子供のそれに似ていた。
それもそのはず。カイは左腕から確かに血を流しているが、量の割りには致命傷に程遠く、若干深い切り傷程度のものでしかなかったからだ。
それを施した張本人はその場に足を止めたまま、横目でその様子を見ながら静かな口調で告げた。
「お前はここで一度死んだ。……後は好きにしろ」
「……!?」
カイの骨張った細い肩が揺れる。瑠璃の瞳が限界まで見開かれた。
分からない、というように忙しなく瞬きを繰り返し、カイがふらりと立ち上がる。
「好きにしろって、それはどういう……」
「言葉通りだ。今後この国に姿を現さないなら、好きにすりゃいいって言ってんだよ。……血痕も残ってるし、部屋はこの様だ。姿をくらませば暗殺されたって事で丸く収まる」
万々歳だろう?
おどけた調子で肩を竦め、ソルはニヤリと笑ってみせた。
それにカイは呆気に取られたのか、ぽかんとした表情をする。元々大粒な瞳を零れんばかりに見開き、こちらを見るカイの柔らかそうな唇が息を詰めて震えた。
「そ、そんないい加減ことで済む筈が……」
「なんとかなるだろ。策略好きのアイツに事の次第を説明すりゃ、喜んで偽装の手伝いをするだろうしな」
「……アイツ?」
「こっちの王のことだ。これでも旧知の仲なんでな、融通が利く」
ソルが軽く言ってのけると、カイは困惑した様子で目を瞬く。
「え、あ、あなたは……ただの暗殺者じゃなくて身分の高い方だったのですか?」
ソルの気安い言い草に驚き、カイは急に居住まいを正して畏まった態度で尋ねてきたので、ソルは驚きを通り越して呆れ、溜息を吐きながらカイへと視線を投げた。
「昔からの知り合いってだけで、俺はただの騎士だ。お前に比べりゃ身分なんてずっと低い。そうだろう、王子様?」
揶揄るようにそう言ってやると、怒りか羞恥か分からないが、カイは顔を赤くして押し黙る。だが程なくして、さ迷わせていた視線をこちらに向け、ソルの顔を凝視した。
「そういえば……見覚えがあります。あなた、イノ女王の近衛ではありませんでしたか? あの時はその紅い鉢金もなく礼服を纏っていましたけれど……」
ソルの方は欠片も記憶にないが、確かに護衛として何度か畏まった食事会に参加していた。そのことをカイが覚えていたのは幸いだったかもしれない。
問いかけにソルは無言の肯定を返すと、カイは微かに笑顔を浮かべてみせ、こちらの言葉を信じたようだった。
「そうですか……。それならば可能かもしれませんね。元々こちらは国力の関係上、あなた方に強くは言えませんし、例え怪しんだとしても追求することはないでしょう」
蜜色の髪を揺らし、カイは柔らかい眼差しで冷静にそう分析する。それが非常に落ち着いた様子だったので、やっと納得したかとソルは引き結んでいた口元を緩めた。
……が、次の平然と出た言葉には驚愕にあまり瞠目した。
「でも、やはり私の存在は厄介でしかありません。後腐れなくここで断ち切るのが得策でしょう」
「!」
カイの声音は、いやに静かだった。悲壮や絶望の色はそこに全く見出せず、湖面のようにどこまでも透き通っている。だがそれが余計に彼が本気だということを窺わせていた。
何故だ、冗談じゃない。
不可解な罵倒が、ソルの胸中に沸き起こる。実際それは思いの外激しく、咄嗟に歯を噛み締めなければ声に出して怒鳴り付けていたかもしれない。何故ここまで腹立たしく思うのかは甚だ疑問だが、カイの決断とその態度がソルを不愉快な気分にさせた。
折角逃がしてやると言ったのに、まるきり無視されたからだろうか。人の好意を踏み躙りやがって……ということかもしれない。だが結局はカイ自身が決めたことだ、一体どこに口を挟む余地があるというのか。不機嫌が余程ひどく顔に表れていたのだろう。カイはその不機嫌の理由を勝手に解釈し、慌てて付け足した。
「安心してください。それであなたの手を煩わせたりはしません。お帰りになった後で、こちらで処理しますので……」
笑いながら、カイはそう言う。自害を「処理」と言い切り、あまつさえこちらに気遣いの笑みを向けていた。
それを認めた瞬間、ソルの脳裏は怒りで真紅に染まっていた。
「――ッ!」
それは完全に無意識の行動だった。ソルはカイが言い終わるか否かのところで取って返し、カイの細い首を締め上げていた。鼻先が触れ合うほど間近にある蒼玉が、驚愕に見開かれる。
「…ァ…ッ」
カイの唇から、吐息と共に不明瞭な声が漏れた。ソルの節張った指が喰い込み、息が詰まるほど喉を圧迫されている現実に遅ればせながら気付いたカイの表情が、苦痛に彩られる。覗き込むように顔を突き合わせていたソルは、その様を舐めるように見つめ、暗い笑みを浮かべた。
「そんなに死にたいなら、俺が殺してやる」
「……!?」
地を這い、肌に纏わりつくような生暖かい息のまじった一言に、カイの体がびくりと震える。投げつけられたその言葉に瑠璃の瞳が怯えを走らせたのを見て取って、ソルは改めて自分の放った言葉を訝しんだ。
この王子が生きようが死のうが、そんなことは自分にとって関係ないはずだった。暗殺は頼まれたが、社会的抹殺ができれば問題はない。ただ、生きている場合はその事実が明るみに出ると厄介だ。できれば、死んでくれた方が楽でいい。
そして有り難い事に本人が勝手に死ぬと言い出した。だというのに、なぜわざわざ「俺が殺す」などと? 手間が省けて有り難い筈なのにどうして首を突っ込む? 喜ぶべきはずの事態だろう?
頭の中にずらずらと並べ立てられた理屈は、自分の言動を間違ったものだと言及する。合理的な観点から言えば、今の自分を肯定する材料は何一つない。こんなことをして得られる利益は全くないのだ。
なのに……、なんでだ。この状況に、自分の心は躍っている。目の前の王子の命を握っている事実が、体中を歓喜に満ち溢れさせる。
そこに理屈などはなかった。ただ本能で、そう強く感じている。もしも定義付けるならばこの感情は独占欲や支配欲と呼ぶのだろうが、それは今までにないほど強烈で激しすぎた。思い返しても過去に例がないだけに、何に基づいたものなのか計りかねる。
……それとも、ただ自分は殺人鬼のように血に飢えているだけなのだろうか?
「…っ…、…!」
更に力を込められ、カイが腕の中で暴れる。己の首を戒める手を退けようと爪を立てる華奢な腕は次第に蒼白になり、震え始めた。それとは対照的に頬は酸欠のために赤みを増し、焦点が合わなくなった瞳が潤み始める。それは苦しみ悶える姿でありながら、ひどく艶を帯びているように思えた。
イイ顔だ……。
その表情に、ソルの残虐な笑みは深くなった。暗くドロドロとした愉悦が胸中を支配する。
だが、見開かれたままの蒼い瞳から溜まった涙がツ…と零れ落ちるのを見て、まるで神経を直接冷水に晒されたような、鋭利な凍えを感じた。
「っは…ッ…ァ!」
途端にソルの手が緩み、カイの唇から喘ぎが漏れた。完全に力が抜けていた体は、ソルが手を退けたことで支えを失い、後ろへとゆっくり倒れていく。
それを咄嗟に抱えて支えてやったソルは、ぐったりとしたまま荒い息をつくカイを凝視して、自分が先程感じた恐怖を反芻した。
殺したいと、確かにほんの数秒前までは思っていた。なのにカイの体から力が抜け落ち、本当に死が迫りつつあるのだと認識した瞬間、途端に恐ろしくなった。不意に強く、カイの死ぬ姿を見たくない、と思ったのだ。自分はただ血を求めて殺したいわけではなく、そして同じくカイの死を望んでいるわけでもなかった。
ただ、無為に命を投げ出す様が見ていられなかった。闘いの最中ならまだしも、同情か慈愛か分からないが他人の幸せのために命を捨てようとするなど、馬鹿げている。
他の誰かのために死ぬというのならば、いっそこの手で……。
そう思った自分の感情が、カイへの執着によるものだと、ソルは今更ながら自覚した。
「……おい」
「え……?」
不意なソルの呼び掛けに、カイはまだ完全には整わない呼吸の合間に、掠れた声で問い返す。ソルの腕に頼るように背を反らせて身を預けるカイに、ソルは自然と劣情が湧くのを感じ、その思いのままに華奢な彼を床に押し倒した。カイが驚愕に目を見開く。
認めてしまえば、なんのことはない。自分は、この王子を欲していたのだ。
「な、何を……っ」
四肢を押さえ付けて全身でのしかかるソルに、カイは力の入らない腕を突っ張って拒絶しながら怯えた目をした。今度こそ本当に殺されると思ったのだろう、押し退けようとソルの外套に食い込ませる指が震えている。
顔を背け、視線を合わせようとしないカイの無防備に晒された首筋に、ソルは顔を寄せた。
「どうせ捨てるんなら、お前の命、俺に寄越せ」
「っ……!」
有無を言わさぬ強さを持った言葉に、カイの体が跳ねた。ハッとこちらを見る瑠璃の瞳が月光に濡れてたゆたう。
拘束を優しいものに変え、ソルは顔を上げてカイの手を取り、その甲に唇を寄せた。
「やっぱ殺すには勿体ねぇ。……俺と一緒に来ないか? カイ=キスク」
「え…――」
放たれた言葉に、カイは茫然とした様子でこちらを見上げる。吐息が交じり合うほど顔を近付け、上に伸し掛かったまま傲慢な言葉を放ったにも関わらず、ソルの口付けはまるで忠誠を誓う騎士のような敬謙さがあった。
朱金の瞳を細め、いっそ艶かしくも思える微笑みを浮かべて形の良い唇の合間から犬歯を覗かせたソルは、じっとカイを見つめる。その表情に息を呑んだカイは、唐突に言葉の意味を理解し、頬を紅潮させた。
「な、何を言って……!」
「あん? ダメか?」
叫び返しながらも目のやり所に困るとばかりに視線を泳がせて、大袈裟なほど狼狽えるカイが面白く、ソルはその滑らかな肌に包まれた顎を妖しげな手つきで撫で上げる。剣の腕は立ってもこういうことには免疫がないのか、カイは一層顔を赤く染め上げて硬直した。
抵抗が止んだのをいいことに、ソルはカイの首筋に顔を埋め、自分の手の跡がくっきりと残ったそこを労るように舐め上げる。
「俺はお前が欲しい……」
「あ…ッ…」
耳の裏で囁いた言葉に、カイは濡れた声をあげて過剰反応した。そのイイ声にソルは思わず笑みを零す。どうやらカイも満更ではないようだ。
だが自覚はないのか、戸惑った様子で潤んだ眼をこちらに向けた。
「突然何をするんですか、あなたは……っ! そ、それに…あなたは向こうの騎士なのだから一緒にいることなど……」
「あー、そのことなら心配ねぇ。今回であの国とは縁切ることになってっからな。また気ままな旅に出られる」
「え……」
素っ気なく事実を告げてやると、カイは目を丸くして言葉をなくした。そのあどけない表情にソルは喉を鳴らして笑い、カイの顔を覗き込む。それに顎を引き、カイは戸惑った眼差しを向けたが、ソルの言葉をじっと待っている様だった。
「……一緒に来い。俺のものになれ、カイ」
視線を絡み合わせたまま、低い声音でそう告げてやる。自分としてはかつてないほど真剣に口説いていた。それだけ自分はカイを欲しているのだろう。
空の青にも草木の緑にも見えるカイの瞳が月光を取り込んで淡く煌めき、柔らかく細められたかと思うと、カイは口端を上げて微笑み、薄く色付いた唇から歌うように澄んだ声を発した。
「私もこれでお別れするのは少し寂しく思っていました。忘れようにも、あなたは鮮やか過ぎる。……もし迷惑でなければ、私を連れて行ってください。あなたのことを、もっと知りたい……」
白磁の肌を桜色に染め上げてこちらを見るカイの、蜜色の髪に指を差し込み、ソルは了承の意味を込めて柔らかな唇に口付けた。











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