それは、一瞬の出来事だった。


私は遠くの本を取ろうとして、手前のカップを倒してしまっていた。


あ、と思う間もなく、カップは中身の紅茶をテーブルの上にぶちまける。




「………………」

「………………」




長い沈黙が振り降りた。


常の私ならば、即座に謝りながら布巾で零れた紅茶を拭いていただろう。

しかし、私はその時全く動けなかった。




硬直したままの私の視界には、紅茶によって鮮やかな染みを作った

ソルお気に入りのレコードの歌詞カードが……あった。




…………。




……こ……、


……殺される……。





私はかつてないほどの戦慄に、全身を強張らせた。


部屋は暖かいはずなのに頭から冷水を浴びたように体の温度が下がる。

なのに、皮膚からは汗が次から次へと噴き出していくのが分かった。

喉は何かを押し込められたように塞がり、急速に渇いていく。



意識さえ遠のきかけ、視界が白んでいきそうのなる。




「……おい、坊や」



「ひッッッ!!!」




大げさでなく、私は体が浮くほど飛び上がった。


途端にガタガタと震え出した体を持て余しながら

私は声のした方へと、ゆっくり首を巡らせる。





かなり、どす黒いオーラを纏ったソルが、金に輝く眼で鋭くこちらを射抜いていた。



「坊や……」

「あ、…ぅ」

「まーさーかーなぁぁぁー、こんな典型的な嫌がらせをするとは思わなかったぜェ……?」

「ち、違う…ッ、そんなつもりじゃ…! じ、事故なんですッッ!!」

「ほぉー、ふーん? で、この落とし前をテメェはどう着けてくれるんだァ?」

「え、…え? 落とし前……って」

「謝って済む問題だと思ってんのかテメェ? ごめんで済んだら警察いらねぇだろうがオイ」

「そ、それはそうだけど…っ…。あ! じゃ、じゃあ弁償する! 弁償するから!」

「てめぇの頭は飾りかゴラァ。これがどんだけ古いもんで、手に入らねぇ代物か分かってんのかぁ?」

「え、え…っと、あの…。ご、ごめん! 本当にごめんなさいッ!! すみません、私が悪かったです!!」

「おいコラァ。謝って済む問題じゃねぇっつっただろうがよぉ。俺をこれ以上怒らせたいのか? 坊や」

「う、ぅぅ…ッ…! じゃ…あ、どう…すれば……?」



恐る恐る聞く私に、ソルは獰猛な眼を向けた。

口端が凶悪に釣り上がる。




「もちろん、体で払ってもらうぜェ。坊やァ?」


「や、やっぱり……っ」




喉の奥で笑うソルを、私は情けなくも半泣きで見つめた。


恐らくセックスを要求されるだろうとは思っていたが、

はっきり言ってこの怒り狂ったソルに素直に体を差し出せば

最低でも3日間くらいはぶっ通しで犯されることだろう。


本気で腹上死しかねない。



「……ソル」


「なんだァ、坊や?」


捕食者の目で、ソルはこちらを見る。

私は決心を固め、顔を上げた。


「ごめん」


「……あ?」



一言謝り、私はくるりと体の向きを変えて逃げ出した。



「……! おいコラてめぇ待ちやがれッ!!」



一瞬遅れて咆哮をあげたソルを尻目に

私はひたすらに逃げることだけに専念してリビングから飛び出した。

相手はソルだ、全力で逃げても追いつかれかねない。



しかし絶対に逃げなくては!


私は廊下に出たところで周りに視線を走らせた。




>>>> 二階の寝室へ避難

>>>> 玄関から出て外へ逃げる